悔しい,これほどの悔しさがあったのかとあきれるほど,悔しい。

難聴が徐々に進み,補聴器,さらにその補助具,仕舞には音声文字変換ソフトの力を借りなければならない場面が増えてきた。
「言葉」が語られるときの「内容」はもちろんのこと,そのトーン,声色に表れる感情,発せられるときのタイミング,表情や姿勢と態度,それらを全てひっくるめて取り計らうのが,いみじくも精神療法家を名乗る者の基本である。

診察後,悔しさのあまり,骨折れ流血しようとも,診察机を壊れるまで叩きたい衝動に駆られる。
この「聴こえなさ」が「相手への申しわけ無さ」に通じ,「悪いことをした」と自己侮蔑してしまう。それが最も良く無いことである,と今日気づいた。
これが最も「反治療的」なことなのだ。

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有名作家の足引っ張りをするのが,今を生きる評論家や作家の一部のお約束となっている。
しかし私は敢えて「No!」と言う。今でも読まれ続ける作品を残し,さらなる感動を引き起こす書き手は,いかにミーハーに見えてもいるのだよ,と思っている。
芥川龍之介氏も然り。プライベートを暴かれたり,イロニーが得意,気取り屋,等と評されたりする場合が多々ある。最期は自殺した理由まで物知り顔で論じられる。

だが,日本文学の中で私を震撼させた作品マイベスト10冊は?ともし問われたら,戸惑うことなく同氏の「戯作三昧」を挙げるであろう。

滝沢馬琴(だったよね?)が銭湯で自分の肉体を見て,老いを自覚する。馬琴と知ってか知らずしてか,彼の作品をつまらなくなったと評する声がする。自宅に寂しく帰るのだがその先!(ネタばれするのでここで寸止め)。

真に「戯作三昧」を味わうようになったのは,そして涙腺を緩ませるようになったのは,学生時代ではなかった。もはや誰も新人扱いしなくなった頃,精神科医を生業と決めてしばらく経った頃だったと記憶している。

さすが芥川龍之介大先生,最後の数行にお得意の毒を数行,かませているのだが(確信犯,なぁに,男と女の違いじゃ)。

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身体の疾患がどうなるのか,どう治療していくのか,いつまで生きていつ頃死ぬのか,それは母校に任せよう。
そう腹をくくっている。
「母」校とはよく言ったものだ。運命のとも連れ、水先案内人として,私を癒して力づけてくれる。
「いくところまで,いこう」―と。
「母」校に甘える,マザコンだから。
そして,あり得ないことなのだが,自ら「最後の主治医」を買って出て下さる先生に恵まれることが出来た。

死ぬ直前まで診察して,最後はカルテの紙に,つーっとおかだCEOから頂戴した万年筆で一本線を引いて死ぬのがよかろう,と思っていた。が,これは単なるカッコつけの自己満足であり,単に患者さんのトラウマになるだけなので,やめとく。

しかしだからこそ,診察にはこだわりたい。

あれもこれも断念した挙句,好きなのか嫌いなのかよく分からないまま人生の半分を投入した,もはやただそれしか出来ない一介の精神科医,であればこそ。

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であればこそ,難聴に陥った位で自己卑下することは,誰のためにもならぬ。
しかし,医療関係者もどきを標榜して「良い人」を演じているものの,表裏腹に,関係者には非力の裏返しとして横柄な態度をとる者との電話において,普段ならとうに一喝しているはずなのに,大人しく会話をしている自分がいた。
これには我ながら驚いた。
ウツの再燃の匂いさえした。
「すみません」と連発せざるを得ない「障がい」を持つ人々が,必要以上に卑屈になる理由に久しぶりに思いを馳せた。

味気なく夕食を済ませた。就活であちこち飛び回っている長女が,ちょうど実家に戻って来ていた。これから東京だのなんだのに行くということである。私は岡山県の企業を勧めたが,完全にシカトされた。

就活というのは面白いものだ,自分の身内の話でなければ。
昨日行ったさる会社は,30分ほど講和があったかと思うといきなり!
原稿用紙を配られ「はい,では30分で『感動したこと』について書きなさい,1枚で」ときたという。
その後,赤ペンを入れつつ評価して頂いたそうである。何気に優しい,最初はどこでも。

それを持ったまま帰宅したので,ちょいと拝借して読んだ。
フジコ・ヘミング氏のコンサートに行く機会があったという。長女はピアノの師に恵まれ続け,かれこれ私の給料を使って15年もの間習っていた。一応ライセンスみたいなものを持っているらしいが,途中で止めている。秋田のピアノの先生は,「教」えるだけではなく「育」てることをして下さった。長女が罹患したときも,そしてピアノに向かえないときも,たーだ優しいレコードを時間の許す限りかけて,慰めて下さった。発表会では何故かいつもドビュッシーの課題曲があてがわれていた。まあ,彼女自身,確かに三拍だか四拍だかが並行しているようなキャラクターなので,ちょうど良いと言えばいえる。
それなりにピアノの上手い下手は分かるつもりでいたらしい。そして生意気盛りに,他の楽し事に夢中になれる最後のモラトリアムの一つとして,友人と物見遊山よろしく,半分冷やかしのつもりでのこのこ出かけて行ったらしい。
が,同氏の奏でる第一音から涙が止まらなかったという。
同氏について,色々と先入観を持ち,肩書や半生についての知識はあったのだが。
問題なのはそんなものでは無かった。
ただただ,同氏の奏でる一音一音が,聞いたことのない音として,己に響いた,という。
そのコンサートが終わり,長女は自分を恥じた。
「感動」の何たるか。
「半生,ハンディ」を透かして見ていた自分がいかに愚かであったか。

私は,長女の作文を見るまで,フジコ・ヘミング氏が難聴に罹患されておられるとは,存じ上げなかったー。

いかに我慢しても,涙を止めることが出来なかった。
そして,心の何かが,割れた。

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生と死については,母校と心中ということにした。まだ生きそうだ。それはともあれー
ともあれ,難聴という強敵を前にどうするか。
喩えるなら,両手を奪われた空手家のようなもの。頭突きと低い蹴りぐらいしかできない。
実践で,何が出来る?

先ほど,フジコ・ヘミングウェイ氏を教わり,何かがまた動き出したところだったが,こういう時に限って,
「はいはい,順番があるから!」
と家人に促され,このブロ愚書きかけたまま入浴した。

そこではっと気づいた。またしてもプロレスの話題で恐縮だが,リソースが少ない人間なので仕方ない。
伝説の「アリvs猪木」戦において,猪木氏側は不利なルールに雁字搦めにされたという逸話が残っている。直前になって延髄切りを封印させられた,との説もある。
しかしだからこそ,意表をついた形の作戦に打ってでた。猪木氏はなんと,寝っ転がった状態のまま,延々と下からアリ氏の脚(ヒットするのが同じ部分だけ,そこが凄い!)を蹴っていく。ラウンドあらた,ゴングとともに横になる猪木氏に「お前は女かっ!」と突っ込むアリ氏,上手いことを言う。だが,徐々にアリ氏の動きが怪しくなっていき,よろめき、いつ倒れても不思議ではない状態になった。結果はドローで,マスコミにはさんざん「つまらん」と酷評された試合なのであったが,私はDVDを手に入れるほどこの試合に想いを寄せた時期があった。ただの殴り合いとなったらボクサーに勝つわけが無い。極論すれば,同じ力があったとしても,手の長い方が有利である。であればこそ,ボクシングに無い「寝技」に持ち込むのが良い。裏の裏の戦法だった。KOで終るボクシングには、倒れた者への攻撃の定石は、無い。

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それでは,難聴に対してどう向かうように自分の臨床スタイルを変えるのか,現在知らぬ間に変わっているのか,変わっているとすればどのあたりがどういう方向に変わっていて,それが良いか悪いか,考えれば良い話だ。
自覚出来る「効」の一つは,それまで「つい」聞き逃してしまっていた部分を,知ったかぶりしないようになった,という点である。
また,「なんだ,こんなんでも医者つとまるのか」とあきれられても結構。
それにしても,「診察時間に待たされた,これでは予約の意味が無い」と仰られた方も多々おられる(ごもっとも。単に『救急対応・不完全予約制』という独自の線でやっておりました,すみません)のだが,不思議と「耳遠くて困った!」とのクレームが無い。
そのほかにも,色々思い浮かぶが寝ないといけないので割愛。

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付記
偶然ながら,精神科と耳鼻科は,フロイトとフリースの時代から,仲がいい。
「患者さんの訴える感覚頼り」と「何だか理論通り上手くいかないモヤモヤ」を相手にしているせいだろうか。
もう十年以上も前になってしまうが―。
私のウツの当面のきっかけになったのは,子どもとプレイセラピーをしていた頃にさかのぼる。元気いっぱいの子の手が,私の耳に偶然当たった。以後,聞こえが悪くなったような気がして,さらにキーンと耳鳴が続く。早々に耳鼻科を受診したら,診断は鼓膜の外傷ではなく,「突発性難聴」と「メニエール症候群」であった。即,ステロイド療法が開始され,「治る」と言われたのだが,「精神療法が出来なくなる」という思いから離れられなくなった。折しも年の瀬,頭の中を難聴に見舞われたベートーヴェンの第九が何度も何度も浮かんでは消えた。しまいにはピアノに歯を立てて骨伝導だけを頼りにし,発表した観衆の喝采をもって「成功した」と知ったと言う。我々日本人の琴線に触れる,あの曲である。天才ではなく,鬼才である。私は「鬼」になれるか?
現在は開業なされたその耳鼻科の先生に,初めて,うつ病を疑われた。その後,精神科の諸先生のお陰+かみさんの尽力もあり,以後,「うつと生」に続く,となる訳だが。しかし,「もう戻れない」という悲観的な思いは忘れられない。強迫的に沸き起こる悲観的思考としか記載できないが,限りなく妄想に近かったと思う。
そして,新生した後,私が最後に日本精神神経学会で発表したネタは,お得意の「精神療法」でも「思春期」でもなく「メニエール症候群と精神医学」であった。



無断引用を禁じます。某先生,親父も難聴だった。冷たくした自分を悔いるだよ。ちなみに母は耳鼻科開業医に勤務していた時代があるだよ。縁かねぇ。