真理の追求を私たちの活動の目標とすべきだ。それが私たちの活動にふさわしい唯一の目標である…。しかし、ときに真理は私たちを怖じ気づかせる…。私たちは真理が、しばし残酷であることを知っているし、思い違いが自信の源になることから、思い違いのほうが慰めになるし、人を元気づける効果があるのではないかと思うことすらある…。だから真理を恐れるものが多いのだ。それは真理を弱さの原因だと見なすからである。しかし、真理を恐れてはいけない。真理のみが美なのだから…。ここで私が言っている真理は、もちろん、まず科学的真理である。しかし、道徳的真理という意味もある。私たちが正義と呼ぶものは、道徳的真理のひとつの側面にしかすぎない。そう書くと、私が言葉の使い方を間違っているように見えるかもしれない。同じ名前のもとにまったく共通要素のない二つのものを結び付けているように見えるかもしれない。立証されるものである科学的真理には、心で感じるものである道徳的真理と共通する要素など何もないように見えるかもしれない。しかし、私はこの二つを分離することができない。一方を愛する者は誰もが、もう一方を愛さずにはいられない。どちらの真理を発見するためにも、魂を偏見と熱情から完全に開放する必要がある。完全な誠実を貫く必要がある。この二種類の真実からは、発見すれば同じ喜びが得られる。二つの真理は感じ取れば同じ輝きを放つのだから、目を見開くか、つぶるか、二つにひとつしかない。真理はじっとしていない。真理に到達したと思った瞬間に、まだ道が遠いことがわかる。真理を追求する者には、休息を知ることがない運命が待ち受けている。一方の真理を恐れる者は、やがてもう一方の真理も恐れるようになることを付け加えておこう。なぜなら、真理を恐れる者は、あらゆる物事について、何よりも結果を気にするからだ。一言で言えば、私が二つの真理を同類と見なすのは、どちらも私たちがそれを愛するときの理由が同じで、それを恐れるときの理由が同じだからだ。

引用p207〜

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