2025年05月05日
井上 亘!
5・2は毎年後楽園ホール。
今年は新日本プロレスからエル・デスペラード選手が参戦。
私は未だに彼のリングネームを覚えられない。
彼がまだヤングライオンな時、確かJ-CUPの時「三上恭祐と申します」と挨拶してくれた。なんとMIKAMIの本名・三上恭平とほぼ同じなのでうれしくなり「(MIKAMIのこと)知ってる??」と聞いたら「ええ…」と苦笑い。何回か聞かれてたのかね。多分。だから私にとっては「三上くん」。
で、三上くんの御付きとしてあの井上亘さんのお姿もあった。「ゲンタロウさん!」「亘さん!」と笑顔とハグで再会できた。
一昨年くらいの横浜武道館大会の時も三上君高橋君参戦で御付きでいらっしゃった。 頭ヤってから会ってなかったからその時も嬉しかった。だが笑顔より心配そうな「今大丈夫ですか?」が勝っていたような感じ。
しかし今回の笑顔は破顔だった。そしてなぜかすぐに私の試合について喋って下さる。いや亘さんの評価など滅多に聴けるもんじゃない。なんかたくさん褒めてもらったような。たくさん嬉しい。
98年7月、新日本道場でなぜかG1前の合同練習に放り込まれた私。亘さんはまだ練習生で先輩だらけだからそりゃガチガチの表情。その時は彼が誰だとか分かるわけ無かったが、のち2006年くらいに新日本参戦してた時に「アレ、もしかしてあん時のガチガチ表情の男…」と思い出した。そう、ガチガチ表情のままだった。試合もガチガチのストロングスタイルだった。
現在2025年。27年の時を経、既に引退もされガチガチも去りゆき、今こんな晴れやかな笑顔破顔になってるのだ。
写真撮っとけばよかった。ガラケーで。
ああ、このブログ、亘さんが「ブログあんまり書いてないじゃないですか! たまには書いてくださいよ!」と破顔でおっしゃるので書きました!!破顔一笑。
2024年12月31日
大みそかだよドラえもん
それは1980年から始まった。
翌年からハットリくんや怪物くんやパーマンやオバQや猿で1987年まで続く。エスパー魔美まで入ってかは覚えてない。と思って調べたら入ってた。ウルトラBもあったか。
「ドラ・ハッ・パー」とかもありました。ブームだった。懐かしい。
てかもう大みそかか。ブログの存在を思い出したので書きます。
中三時代、新日本プロレスの『ブロンド・アウトローズ』が素晴らしかった憶え。
後藤達俊!
ヒロ斉藤!
保永昇男!
全員四文字! も良かったですが。とにかく「プロレス」だったのです。
巧くてたまらないヒールの集団。一番好きな軍団です。いまだに。
大好きなブロンド・アウトローズに全て接することも出来た。プロレスラーになって良かったです。もしかしてこれが一番嬉しかったことではないか。もしかして。
後藤さん、ヒロさんとは試合でき、保永さんはもう引退されていたがレフェリーとして裁いて戴いた。越中さんとのシングルの時、とにかくガンガン来るのでちょっと疲れてたら、保永さんが裁きながら「GENちゃんがんばれー!」と言って下さったのが一生の思い出です。
なんでこれを書くというと、まあまた思い出しでしかなく、更に年月が経つとどんどんどんどん、だから。半世紀生きちゃってるし。
来年になると半世紀を超えてしまう。
が、まだ衰えぽいものは無い。まだ。
今年こそシューティングスター・プレスをやんなきゃ。と思う。また。さらば今年。
2024年10月28日
2024年04月26日
ベストバウト以上
記者会見で「今まで印象に残っている試合は」とか聞かれたが、30年やってると、ありすぎて決めかねる。試合自体なのかごく一部場面なのかセコンドにいただけとか乱入だけとかもあるし。試合よりそっちの印象が深いことも多々あるし。
「ありすぎてね。でも過去は過去。次の試合が今度のベストバウトだよ」と答えといた。
だが、過去の記憶はある。
一生忘れないモノが。
ベストバウトどころではないのだ。
2004年か2005年か2006年か覚えてないが、地方の会場で、アパッチ軍と長州さんの抗争のさ中。メインの試合後の乱闘だったか、背中にスプレーで落書きするアパッチ軍に長州さんが怒り心頭で大暴れ、だったような。試合に入ってたのかセコンドだったのかも覚えてない。コスチューム着てたような気はする。
そんで、みんな(金ちゃん黒田さん非道さん新宿鮫アニキ貴とか)長州さんから逃げたが、逃げ遅れた私だけボコボコになったような。
てかね。
確かリング上で石井選手(か宇和野選手)が私を羽交い絞めして、長州さんが物凄い形相で椅子を振り上げなさる。
これがまたね。
まっすぐ振り下ろすんじゃないよ。
長州さんは私の額目がけて「斜め下に向けて」椅子を思い切りぶつけようとされる。斜め、です。斜め。
やばい、死ぬ、生流血だわ、と思い咄嗟に首を引き、椅子は額ではなく脳天に思い切りぶつけられた。バキッ…(だったか、擬音的に)
これで安心。
なわけはない。気が遠くなる。
リング下に転がり落ちた。ヤバい、と思いエスケープしたのかも。
だが長州さんは、さらに椅子をブン!と思い切り私の後頭部目がけて投げ付けられました。後頭部。
ガッシン!
もう動けん。体力的にも精神的にも。
なんかそこに貴とかがやっと介抱に来たような。
そっからの記憶は無い。
私の人生、「修羅場」てのはたくさんあったと思うが。
これ以上の修羅場は無かったね。命的にも精神的にも。
デスマッチ?
失礼だが比べ物にもならん。
あの長州力が私自身を殺そうとしてくれたのだ。
これ以上印象に残るプロレス場面があるか。
2024年04月21日
プロレス生活30周年&プロデビュー25周年
5年前にもこんなブログ書いてた。
早い。時間の進み方はコロナ騒動で加速。やれやれ。
30年前は我がUWFでのデビュー。「学プロ」ではあるが我がUは「甲子園」であった、と未だに思う。ハードバンプ取って30年か。まだ取れるな。まだ衰えは無い。
「学プロなんかキャリアになんねえよ!」と思う者もそりゃいる。確実に。レスラーにもファンにも。
気持ちはわかる。否定はしない。人間の生き方はそれぞれ。
だが私には確実なキャリアでしかなかった。バンプ取ってスパーやって120試合くらいして身体たくさん痛めつけてたまにコミックもやって。「練習生」ほぼやらずに華☆激と夢ファクのデビューを出来たのも「Uでのキャリア」があったからだけの話。
その後プロとしてDDTアジアンK-DOJOバトラーツWEWWMFアパッチ大日本WJリキプロ全日本ハッスル新日本とかは「Uのストロング下地」、666とかマッスルとか佐野くん興行とかは「Uのコミック下地」で25年やってこれました。
新日本などは当初レベルの違いと凄味を味わったが、Uの「基礎」で交わることができた。ハッスルは両方必要だったから実に高レベルだった。今思えばU様様だ。
だが新日本イズムは経験できてよかった。これだけはUイズムだけではできなかった。
初めて新日本イズムを味わったのはゼロワンで高岩さんと当たった時だった。大谷さんにも。その後にWJで長州さんと。異次元だった。
ん、PWCで栗栖さんと試合後にちょっとゴタゴタあったが、それも新日イズムだったのかね。
てか何度か書いた気もするが、我々のUWF(University Wrestling Federation)は昭和53年創立。こっちの方が古い。パクリではない。
さて、書くネタも無いので手抜きの年表でも。
1994年 初練習で思い切りバンプ。翌日首痛くて起きれなかった。うっかり八兵衛誕生。シューティングスター・プレス歴30年。
1995年 10月にヤブサメ誕生。去年からパンチさんとこでリング屋バイトもやるようになる。
1996年 フェニックス・スプラッシュもやる。何故か夢ファクのレフェリーもやる。
1997年 死神・加藤茂郎さんとこで車磨き仕事開始。つらい社会経験。UWFは憩いでしかなかった。
1998年 何故か新日道場で合同練習に混じる。もちろん高岩さんもいらっしゃる。
1999年 華☆激(ブラックパンサ―)と夢ファク(FM-TARO)でプロデビュー戦やる。初めてのギャラ。
2000年 ピンクなGENTARO誕生。みちのくで修行。
2001年 K-DOJOプエルトリコ道場でコーチ。帰国して相棒とゲンヨシやる。
2002年 KはクビになりDDTに入る。アカレンジャーズもやる。WEWも出るようになる。
2003年 Dもクビになりフリーでいろいろ。WMFも出るようになる。金ちゃん雁ちゃんそろい踏み。
2004年 「アパッチプロレス軍」という名称はこの頃か。新日本出身のレスラーも体験するように。
2005年 ずっとゼロワンとハッスル出てた感じ。
2006年 アパッチ対CTUで新日本に出始める。スーパージュニアにも出る。HG、RGとの戦いも。
2007年 新日本の別ブランド「ロックアップ」は継続する。長州さんとの戦いも継続。RGは面白い。
2008年 金ちゃんがどっか行った。プロレスリング60分をよくやるようになったような。
2009年 「FREEDOMS」はこっから。スーパーJカップ出て雁ちゃん興行でさーくんと61分やる。
2010年 DDTでの佐藤(ディック東郷)さんとのユニットが一番最強だった気がする。スギまだド新人。
2011年 FREEDOMSとは小鹿軍団であった。
2012年 8月に脳やる。9月にエイドやって頂いた。
2013年 年がら年中リハビリ。
2014年 5月後楽園で復帰できました。ありがとう。7月に大仁田さんとストロングスタイル。
2015〜 脳やってると全部「最近」でしかない。竹やんとデストロングとかもう9年なんだがな。百田さんと試合したのも最近。もうできないのかな。あと脳やる前と後で「プロレス」が変わってしまった感もある。私がお手本と思ってたプロレスと現代のプロレス。全然違う。違わない選手もいるが。まあいい。
2024年 ラジオでも言ったが、プロレス30年25年やってても未だに青春だね。よく言う「二度目の青春」ではなくずっと同じ青春。ずっと継続中。コト切れるまで青春なのだ。それでいいのだ。多分。
2023年09月25日
天才てれびくんMAX
野毛フェスでプロレスした試合後、ファンの仲良し夫婦からビールとおつまみをごちそうになる。ごきげん。アルコールは疲れも吹っ飛ぶ。素晴らしい。
そこへ、懐かしのNHK教育『天才てれびくんMAX』プロデューサー・ミスターМが突如現れる。
久しぶり過ぎて最初わからなかった。てか昔と変わらな過ぎて年齢不詳。すみませんでした。
『天才てれびくんMAX』はDDT在籍時代に出させて戴いてたが、2005年1月にも直にオファーを戴いた。大物レスラーが出れないので私に、と。おおそりゃミスターМしかできない。
天才てれびくんMAXはいつもスタジオだが、今回は公開舞台収録。タレントはゴルゴ松本さんレッド吉田さんとか加藤夏希?さんとか。キッズたちはそん時は全然わからなく今もよくわからんが色々やってる人々もいるとか。ゆーちゅーばのてんちむ?とか? ハーフの子もいたような。てか20年近く経てばみなさん大人。
そういえば確かNHKホールで練習してた時、ハーフの子に「今おいくつですか?」と聞かれ正直に「30だよ」と答えたらショッキングな顔された記憶。その子も今は30くらいだろう。ショッキングだろうか。知らんが。
私は海賊役でした。
なんだっけ、キッズやTIMとか船に乗ってるがそこに襲撃するんだったか。
海賊の親分が当時Jdの秋山恵選手。恵ちゃんが本番でセリフ飛ばす事件があったが本番前収録で「サルベージ」されたいい想い出。ずっとポージングする半裸な海賊「ターボ君」はボディビルダーの簗瀬さん。世界大会にもたくさん出場された方で偶然当時のご近所さんであった。
で、私の台詞も結構あったがそれでよかったのでしょうか。ミスターM。
本番直前に少し練習して、ホテル宿泊して翌日午前に本番式練習、午後にお客さん入れて本番。て感じ。舞台はどこだったか。台本まだ持ってるかな。あ、ブログに写真がある。「ハーモニーホール座間」か。小金井から結構遠い。車で行ったか。簗瀬さんをお乗せして帰った記憶。
だが前日練習途中から急激に具合が悪くなり、ひどく高熱が出てきた。やっと練習終了で安堵してとにかく治さなきゃいかんのでホテルで寝て寝て寝まくった。翌朝、汗びっしょりだが体調は爽快。こんなにすぐ治るもんなんか、とビックリもした。まあおかげで本番に挑めたが、練習後のゴルゴ松本さんのお誘い「飲みましょう!」を断ってしまったのが痛恨の極めであった。まあ飲んでたら多分死んでただろう。
こんな感じでいろんなことを思い出しました。ミスターM。また。「飲みましょう!」。
2023年03月15日
石坂鉄平について
12日、新木場で石坂鉄平に会う。
夜FREEDOMSあるので会場入りしたのだが、昼はUDONプロレスをやっていたと。
佐々木貴と葛西純は昼から試合やってたと。
今のプロレス界のことはよくわからないので、貴にいろいろ聞いた。
UDONプロレスはどこの団体なのかとか。誰がエースなのかとか。
香川の団体で、選手じゃないけど石坂鉄平がコーチしてるよ、と。
えええ??
そういえば引退して香川に引っ越してた。もう15年前くらいか。
そうか、平ちゃんいたのか。もういないのか、残念だな。とボヤいてたら平ちゃんが現れた。にこやかに。そうか、貴がすぐ見つけてくれたのか。ありがとう!
彼と初めて会ったのは2001年3月くらいプエルトリコにて。彼はK-DOJOの二期生だった。
空港から迎えに来てくれたのも彼(と房総ボーイ雷斗)だったような。
プエルトリコ時代から千葉DOJO時代はもう語り尽くせないので割愛するが、彼はとにかくプロレスが巧い。最初から巧かった。
プエルトリコでの練習試合から、日本での熱血。熱尻。引退試合の再熱血。
全てが全力投球。
新日本プロレスのエンタメ路線『レッスルランド』でも全力投球。
当然評価された。
K-DOJOでは(TAKAみちのくを別格としても)彼が一番巧い選手だった。それは誰もがわかってたと思う。
もちろん料理のウマさも全力投球であった。
「プエルトリコでのちゃんこさあ、手抜きの柏大五郎とすげえウマい平ちゃん。これって既に柏組だったよなあ」
とか相棒YOSHIYAとガハハと笑ってた記憶。
温厚な平ちゃんだったが、2003年くらいか。DOJOでイサミたち三期生に物凄い雷を落としてた。鬼コーチだったのかな? それ一回しか見てないが。
今のUDONでは果たして鬼か仏か。
またどっかで会えれば。飲もう。平ちゃん。
2023年02月09日
60分とか61分とか
2月5日、アラケンさんとチャンピオンシップした。ベルトではなくチャンピオンフラッグ『覇王』だ。
61分三本勝負。いい形式。
プロレスリングができた。が、取れなかった。61分フルタイムとなってしまった。
しかしそれはそれで、長時間フルタイムはいい想い出ではある。
いにしえのNWAなどの世界ヘビー級王者たちは、各地で強豪たちと防衛戦を行い、60分フルタイムもしばしば行われいた。
王者たちと比べ物にはならないが、私も一時間マッチは今回も含め、5回やったことになる。
2008年初夏にクルーザーゲームにてMIKAMIと60分アイアンマンマッチ 。
2008年夏、VKF選手権王者として政宗と61分三本勝負。最終的に60分半くらいで勝ったので一時間マッチは達成された(笑
2009年年末、ミスター雁之助興行にてインディージュニア選手権王者として澤宗紀と61分三本勝負。雁さんに「絶対61分でお願いします」とお願いしたのかな?
2011年秋くらい、イーグルプロレスにて、日本インディー&アメリカス選手権王者として近藤博之と60分一本勝負。この場合はイーグルに則った。
で、今回か。
通常のメインイベントでは制限時間60分。だがシングルのチャンピオンシップだと、相手がどうくるかまったくわからない。間合いやコンタクトに時間がかかる。そのために60分ではなく61分となる。
とかどっかで読んだ記憶。昔々。
これはいい! と思いVKFのベルト取った時に川村オーナーに言ってその時間設定にした、と思う。「なんか61分の方がカッコイイ感じじゃん、権威っぽいしさあ!」とか言ったかもしれない。多分。
あと、リッキー・フジ対Men'sテイオーにも影響されたような。「リッキーさんと大塚さんのアイアンマンマッチは61分やった!」と聞いたからなのかもしれない。
全てに共通していたのは、思いきり「プロレスリング」をしたことだ。
ずっとこの基礎を何十年もやっててよかった。
相手を倒す。押さえ込む。参ったさせる。そのために戦う。
プロ、として。
この「基礎」を本気になってやらなければ「プロレスラー」とは言えない。
今回の試合は、その集大成だったと思える。
対戦相手がアラケンさんだったからこそ、だし。
まあ、たまには過去の想い出もいい。
プロレス生活もこれからも続く。多分。
アラケンさん、現在進行形として、また戦いましょう。
夢名塾いや今は夢党派のビデオ吉野くんや長谷川さん、「夢」をありがとうございました。
2023年01月01日
明けました
2023年になった。
おめでとう、なのか。祝いなのか。まあそうなんだろう。おめでとうございます。
2022年のプロレス的思い出はまず7月FREEDOMS後楽園の高岩さん戦。
試合後の、お客さんほぼ全員からの拍手が嬉しかったなあ。「オベーション」だった。
あと6月DDT横浜で、秋山さんからアップマン・コネスールNo.2を戴いてしまった。5月にキューバ葉巻現状の話を教えて戴いただけなのに。
選手名鑑に「葉巻(コイーバ、アップマン)」と記載した甲斐があったのだろうか。秋山さんがそれを見て下さったのかどうかは知りませんが。
いろんなご訃報も。
猪木さんも鶴見さんもお亡くなりに。
ですが、
今年は2023年。いつも通り、がんばってみます。
ああ、シューティングスター・プレス忘れずに。
明日、2AWへ赴き、リッキーさん復帰戦に臨みます。
生きるための試合へ。
あと、アラケンさんとの61分3本勝負は楽しみです。
プロレス的に言えば2・5です。
2012年8月に頭やってしまいました。2022年は丁度10年でした。
私は生きれました。みなさんありがとうございました。
10年越えましたが、まだ、生きてみます。
2022年05月13日
映画『シン・ウルトラマン』
えー。
今回の長文はほぼ私文です。
書くところないので。
待ちに待った、ではなかった。
どうなんだろう。現代の映画ってのはあまり受け付けないし。
始まった。
『ウルトラマン』のタイトルバック曲。
『ウルトラQ』的曲から『シン・ゴジラ』のタイトル。おお。
そして爆発音から『シン・ウルトラマン』へ。
観たこと無かったら何言ってるのかわからないだろうなあ。
だがまずこのインパクトで掴まなければいかんもの。
なに、まず現世では怪獣がたくさん登場してくるという説明。
ゴメス… なんだとゴメスだと!
ぺギラだと! マンモスフラワーだと! え、ラルゲユウス!「鳥を見た」の夕日が! パゴスも! ん、てことは発表済みのネロンガとガボラとは仲間と言いたいのかな。
でもこの着ぐるみが全て同じだということも知らない人がたーくさんいるんだろうな。ドマニア心をくすぐりまくる庵野さん。
ネロンガの前に初登場したウルトラマンがAタイプだ!
そうだ、一番最初に発表されてた写真はAタイプだった。
その後Cタイプになったというか成田亨先生のデザイン通りに。
そうか。人間と合体したからなのか。
作曲家・宮内國男先生の戦闘テーマが色々かかる。
緊迫するネロンガ戦、「進め!ウルトラマン」にせウルトラマン戦、ザラブ星人戦は空中戦テーマ。
狂喜乱舞だ。
てかここまでドマニアを喜ばせる映画など無い。あってたまるか。
ザラブ星人「遊星から来た兄弟」編とメフィラス星人「禁じられた言葉」編、ゼットン「さらばウルトラマン」編でセリフの隅々で我々ははしゃぐ。回想できる。
「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」と言うのはゾフィしかいないだろう、と誰もが思った。
甘かった。
当時(昭和40年代)、ビデオもDVDも無いので、雑誌のウルトラマン的記事の編集者は写真とか伝聞とか想像とかで補うしかなかった。
ウルトラマンのラスボス・ゼットンを操る真ボス。それは宇宙人ゾーフィ。
ウルトラマンそっくりだが悪い奴。そんなイラスト。笑えるが皆さん大真面目だった。提供者も読者も。
後年、そんなこともあったねと懐かし記事扱いしてたものだが。
2022年、ゾーフィは庵野さんによって生を与えられた。ゾーフィはドマニアに受けてたが、この映画で一躍メジャーキャラに。なる予定。
ゾーフィを捏造した方はどうか名乗り下さい。表彰されます。
てか庵野さんは宇宙警備隊員ゾフィと宇宙人ゾーフィをミックス設定されていた。
ゾーフィはウルトラマンと「光の星」の同郷だが、ゼットンを操り地球人皆殺しを目論んだ。だがウルトラマンが人間が好きになってしまった為に抵抗し、ゼットンと相打ち。
ゾーフィはウルトラマンを救おうと対話する。ああゾフィになってる。
だが「私は命を二つ持ってきた」が無かったと思う。
それがあれば完璧だったのだが。私の中では。
でも。この『シン・ウルトラマン』はメジャー映画なのだが実はドマニア映画でもあった。
初代ウルトラマンの庵野さん版リメイクであった。
最近の俳優さんはよく知らない。知ってる人もいるけど。
だからドラマ部についてはノーコメント。
巨大フジアキコ隊員が巨大長澤まさみだったのは素晴らしかった。
須山さん、私当たってましたよ。ええ。
おおそうだ、666のK666選手、にせウルトラマンの中身!
もう公開されたからいいですよねケーロクさん。
背高いから、そりゃ古谷敏サマにもなりますよ!
映画館行ったのはいつだろう。
息子と一緒に『仮面ライダー1号』行った以来か。
最近な感覚だが息子はもう大学行ってるし。
時は経つ。
2021年12月16日
初代ウルトラマン
もう年末だ。ライブドアのブログはまだ出来る。息子のたくさんの写真が無くならなくてよかった。持ってないから。HGの「フォー!」とか。時は経つ。早い。光陰矢の如し。
誕生日はとっくに過ぎたが。アラフォー〜アラフィフなどそれこそ光陰。瞬きしたらトシも食いました。そんなもんだ。
2009年初頭、アパッチ末期。私はリッキーさん、中川浩二さん、岡野さんと「アラウンド・フォースメン」のユニットを組んだ。フレアー様のユニット「フォー・ホースメン」のパロディでしかないが、ベテラン&試合巧者のみのユニットには変わらない。その時はリッキーさん43歳、中川さん39歳、岡野さん35歳、私34歳。岡野さんは四捨五入したらアラフォー。私は… 数え年なら35。だからもうアラフォー。まあなんかトシ食いたかったんですよ。
で、現在。みんなアラフィフ。リッキーさんは56。今は何て言うんだろう。アラシックスティ? ああアラ還(暦)か。岡野さんはどこにいるのだろう。行方知れずから5年経つ。その時はまだアラフォーだった。
でも「岡野さんいなくなってから5年」と言っても「最近」な感覚。しかし平田智也が岡野さんに会ってないというのはショックだったというか。え、今はキャリア丸4年なのか。ああ、そりゃ岡野さん見てない。仕方ない。で私が智也のデビュー戦の相手したのは先月くらいだったかな。
頭やって来年で10周年。すなわちそっから全て「最近」な感覚。ずーっと同じ調子でプロレス生活は続く。車椅子おむつ言語障害の病院生活が三、四年前のよう。アラウンド・フォースメンは一昔前なんだが。
だがプロレス界はどんどん変わっていく。全く知らない他団体の選手なんかたくさん。顔は覚えてるけど名前まで覚えてないとか。花鳥風月のハットリくんは覚えてる。そりゃそうだ。
百田さんの息子、力は忘れない。ずっと一緒にいるし、何といっても日本プロレス界創始者の血筋である。
力道山先生の法要が毎年12月15日に行われ、毎年いろいろなレスラー関係者が呼ばれる。
ここ数年私も呼んで下さるようになった。貴と一緒に。
今年百田さんが癌を公表されていた。余命一ヶ月と言われたが元気に回復された。プロレスラーである。
ご法要でも、しっかりと立っていらした。
私は「百田さんとまた試合したいです」と言った。
プロレスの神髄を知ってる方との試合。それが私のライフワーク。だと思う。
ご法要の後、大体会談タイムになるが、力が「ウルトラマンの方がいらしてますよ」とかしきりに言っていた。何だろう? 前どっかでウルトラマンネオスに変身する隊員が来た時があった気がする。アパッチの新木場で新宿鮫アニキと伊藤豪さんがウルトラマンメビウスのスーツアクター和田三四郎さんを呼んでた時もあった。あの時は興奮した。
またそんな感じなのかな、と思ったが。
私は神にお会いできた。
初代ウルトラマンの古谷敏さん。バルタン星人やレッドキングやゴモラやゼットンと戦った方。
スーツアクター? そんな呼び方など当時は無い。中身、である。
『ウルトラセブン』でもアマギ隊員として。セブン最終回。もう瀕死のダンだがゴース星人に囚われたアマギ隊員を救うべく、必死に止めるアンヌに「アマギ隊員がピンチなんだよ!!」と叫びセブンに変身する。私はセブンがウルトラマンを救うんだ、と最近の解釈。
閑話休題。古谷様の長身、スラっとした美しい体型。それが初代ウルトラマン。昭和41年の初放映から55年経っても全く同じ。78歳ですよ? それが『シン・ウルトラマン』でまた公開される。現人神です。
古谷様とお話でき、一緒にスペシウム光線でお写真を。撮影して下さったHASEGAWA選手ありがとうございます。家宝です。
感無量でリッキーさんに「ウルトラマンですよおおお!」と騒いだら、「ロビンか?」
いろんな人々、いろんな事情、いろんな感情、いろんな歴史、様々なことで現状がある。
昨日の出来事も。
力道山先生、百田光雄さん、奥様、力選手その他大勢さんのおかげなのです。
そういうものです。
いい日、忘れられない日であった。
2021年08月07日
2021年03月19日
ザ・シロート・サスケ 完
1996年。ヤブサメな私が三年生になり、高橋さんは就職。
私はもうプロレス生活しかやらなくなった。
UWF活動とパンチ田原親分のリング屋だけ。
大学の講義はロクに、いや全く出なくなった。教科書も全く買ってないし。
高橋さんはヤクルトに就職。ちゃんとしたサラリーマンへ。
11月3日、高橋さんは城西大の学園祭、高麗祭でOBとして出場。
城西2年の直属後輩・ロバート(後にライト王者へ)とシングルマッチ。
ザ・シロート・サスケは全く変わってなかった。ラ・ケブラーダ
最後はクイックだったが、それもらしかった。相手を光らせるという当たり前のことが当たり前にできるレスラーはなかなかいないものだ。過去も現在も。
1997年、四年次だがダブって三年生な私。まあ大学など行かない生活は同じ。
死神と加藤茂郎さんとこで働き始める。夢ファクへの足掛かりとか思ってたような気も。これが私の就活だったか。もしかして。
高橋さんはこの年は試合やってなかったかな。
1998年、私は五年次。一応四年生になってたのかね。よく知らない。
11月の高麗祭でザ・シロート・サスケとヤブサメがタッグを組み、直属四年生ロバートと専修四年小沢むけんじ(彼はウマい)と対戦。ロバートの地元引退試合でもあったが。まあとにかく高橋さんとタッグを組むことが出来たのがうれしかった。三年時にはもうマスクやめてたのだが、ロバートのリクエストもあったし、飛べる強いマスクマンコンビ!だったらやるしかないと思えた。二人で飛んだ。考えたら組むのって初めてだったような。
さて、ちょっと飛んで2001年。
私は今は無き喫茶店新宿RANZANへ。高橋さんから呼び出され、相談されたのだ。
KAIENTAI-DOJOに入りたいと…
私は仰天。
九州でデビュー前の旭志織に相談されたばかりだった後だったし。
私はプエルトリコでコーチやった後に帰国。半ばあそこはもういいやね位に思ってたんだが、ファン側にはまだ幻想はあったらしい。ヒロキとウラノがプロレス界自体にちょっと痛い目に合ってた時でもあったが。
私も諸手を挙げて歓迎など出来ない。ちゃんと仕事持ってる高橋さんがプロレス入りってのはやっぱり。昔も今もそういうのは変わらない。
んー、あんまり薦めませんよ、くらい言ったかな。長いことRANZANにいた気がするし、高橋さんは言葉は柔らかいが頑固なとこもあったから色んな反論があったような(笑
2002年。K-DOJO旗揚げ。結局、高橋さんは志織やKAZMAなどともに四期生として入門する…
私はすでに旗揚げ前に、たかみち代表と意見が合わない為クビになり、DDTへ。別れ別れ。
高橋さんはX No.5としてデビュー。
マスクマンユニット、X'sメンバーとしてだったが。シロート・サスケとは随分…
「お前もっと太れ。デブで飛べるルチャドールいるから、そんな感じになれ」とたかみち代表に言われたらしいが…
高橋さんはハンサム。今で言うイケメン。X No.3、後の円華も抜群のイケメン。たかみち代表はイケメンほどマスクを被らせるクセがあったような。
2003年、私はDDT当時社長と衝突した為にクビになり、フリーに。
逆に仕事も増え、いろんな団体から声がかかる。K-DOJOにも。
K-DOJO控室ではプエルトリコの雰囲気がまだあり、楽しかった。
その中に高橋さんは普通にいた。高橋秀彰さんは「秀ちゃん」と呼ばれていた。それはいいのだが、「いじめられ」ではないが「いじられ」役だった。どっちかというと。
俺の先輩が、俺の後輩たちにいじられてるだと?? おいおいテメーらふざけんなよ。
半ば笑いながらではあるが、Kの後輩たち、特にヒロキに言った記憶がある。まあヒロキも笑ってたが。
2004,2005年あたりに、高橋さんはK-DOJOを辞めた。
まあ、やり甲斐は無かったろう。見てたらわかる。
夜どっかで車運転してたら高橋さんから電話が来た。俺、カイエンタイやめたよ、と。
突然ではなかったし、長いこといなかったし。やっぱりか、とは思った。
いろんな話をした。でもいつか、後楽園ホールでまたシングルマッチしましょう! と言った覚え。
高橋さんはプロデビューして、何かを残せてたはずだと思った。
X No.5はみちのくプロレスにシリーズ参戦した記録がある。対戦カードか熱戦譜か何かをどっかで見たような。
その中に、ザ・グレート・サスケ対X No.5があったはず。
これは!
ザ・グレート・サスケvsザ・シロート・サスケがここに!!
高橋さんは学プロのトップレベル。ウマいことはみんな知ってるはず。ザ・シロート・サスケのことも誰からか聞いてるだろう。ザ・グレート・サスケvsX No.5=ザ・シロート・サスケ。このマッチメーク、テッド田辺さんやサスケ会長など頭柔らかいみちのくならやってるはずだ。
このカードを目にした時はもう高橋さんはKを辞めていたと思うが。
2020年1月。FREEDOMS東京ドーム大会(笑 まだコロナ騒動の前。
試合前か後か忘れたが高橋さんがいた。いらっしゃった。随分久しぶりでうれしい。
ガラケーだった。同志だ。今もそうだったらいい。
「元太郎のブログに俺のこと書いてないの? 書いてよ」
滅多に書きませんがやっと書き終えました。一年以上経ちましたが。
そして一番聞きたかった、ザ・グレート・サスケvsザ・シロート・サスケ! について。
「ああ、カードは決まったんだ。みんなこれは面白い!ってね」
やっぱり! で、どうでしたか!?
「でも直前にヤマいっちゃってね。できなかったんだ。残念だけど」
…ザ・シロート・サスケvsヤブサメ、またどっかでやりましょう。また。
2020年12月31日
大晦日だよ
2020年が終わる。
ケムール人の時代はもう無い。
人々は暗闇の一年だったろう。
私もいろいろあったが、どっちかというと筋肉が向上したからよかったと思う。
人間のインナーマッスルは凄いものだ。
首、肩、腰、膝などの関節部を動きやすくする。
この一年、試行錯誤を続け通した。
結果、私はまた若返った。
股割りが三十年前より柔らかくなった。
鼻をつけるブリッジは三十年前以来か。
小学生の時は胸をつけれたからさらなる精進が必要である。
葉巻は人間の心を豊かにする。
この二年で短気が無くなった。
後輩に怒鳴り散らしてビンタをふるってた自分はもういない。と思う。多分。
こんないいものがあるとは、嗜むまでわからなかった。
キューバは絶対に滅びてはいけない国。
来年はいい年にしなければ。
さっきコイーバを嗜んだから多分大丈夫だ。
いいアラフィフはまだこれから当分続く。
2020年12月01日
続 ザ・シロート・サスケ
よくわからんがlivedoorが終わるってことなのかね。
1995年、私は二年生。
ザ・シロート・サスケの高橋秀彰さんは四年になり、就職活動スタート。
会長ぷよぷよの為貝政巳さんも三年からマクドナルドに入り浸り。結局マックに就職したんだっけか?
実践部員の三年生はもう一人しかいない。しょっぱすぎるパット・パット・ナム。
当初は彼が会長となり、どうなることやらと部員全員が暗い気持ちになったが、ナムは当時流行りの自己啓発サークルに入り洗脳され、さらに後輩部員から二十万くらい取って次々勧誘。それが新歓飲み会で明るみに出、練習後に全員での会長追放劇となった。その時は高橋さんもいたはず。ナムの最後の捨て台詞「今にわかりますよ」は今も語り継がれている。
入ったばかりの一年、リングネームどろぼうの生城山は自己啓発に染まりきってたと思われたが、なんとか我々が洗脳を解き、その後もプロレス活動を続け、UWFタッグチャンピオンとなる。よかったよかった。
そんなわけで一応私が会長になったが、プロレス自体はまだダメダメが続く。春を過ぎ、夏を過ぎても自分のスタイルがよくわからなかった。
俺は何をやりたいんだっけか?
黒ショートとか黒ロングで赤い帯とか青い忍者コスチュームとか変えても仕方なし。わからんだけ。
ルチャやりたいとかはもう無くなったが、飛ぶマスクマンになりたい欲はあった。ザ・シロート・サスケの存在もあった。越えたい!とも思った。
10月、城西の昼休み興行で「ヤブサメ」は誕生した。
江崎英治はハヤブサとなった。ハヤブサは獣神サンダーライガーにシューティングスター・プレスをやった。俺もできる。飛べるマスクマン。最高じゃん。俺がやりたかったのはこれなんだ。多分。
ハヤブサをモジんなきゃな。確かヤブサメって言葉があったような。
こうしてヤブサメは誕生したが、流鏑馬という歴史用語は詳しくは知らなかった。
マスクは水道橋のプロレスショップで買った。メヒコ製のよくわからないパチモンマスクだった。コスチュームもあるモノであり合わせてゴマかした(なんか、それから25年経っても私は高いコスチュームを買い求めることがあまり無い気がする)。
メインイベント・JWF選手権試合。王者ザ・シロート・サスケ対挑戦者ヤブサメ。
まあとにかく無我夢中だった。
いろんなことをやってみた。これまでやったことないこともやった。ルチャ、もやってみた。
高橋さんは私の可能性をたくさん引き出してくれた。
試合後はもうボロボロになったが、私はうれしかった。
高橋さんとシングルが出来たんだ。たくさんの技を受け、やれたんだ。
観客からたくさん大歓声が来た。今までほぼ無かったのに。
俺はレスラーになったんだ! レスラーになれたんだ! と思えた。
ほぼ高橋さんが私を光らせたということもまだ理解できなかったが。
11月3日、城西大の文化祭・高麗祭。UWFの本興行。
私はメインイベントで法政3年生のまん小地沢さんとシングルマッチ。
こっちーさんはUWFタッグチャンピオンだが、タッグもシングルも素晴らしい。中心となる3年生の中では一番である、と思えたからこの試合を志望した。
結果は… ダメだった。
技はたくさん出した。だがプロレスリングになってなかった。戦ってなかった。その後こっちーさんは「俺も悪かったよ。とにかくガンガンやんなきゃと思っちゃってさ」と語るが、全くついていけてなかった自分が悪かったのです。
地元の引退試合を終わらせた高橋さんも褒めてなかったと思う。複雑な表情だったような。
加藤茂郎さんたちレジェンドOBの方々は慰めてくれたが、こんにゃく男爵さんが「もっと相手を焦らせなきゃ!」と言って下さったことは忘れられない。
11月半ば。専修大学の鳳祭。毎年たくさんお客さんが来る体育館でのUWF本興行。実にプロレスな空間だ。気分も乗る。
夜が差し掛かった第二部の真ん中くらいの試合だった。JWF選手権試合、王者ザ・シロート・サスケ対挑戦者ヤブサメ。ここで再び組まれた。他大なのに。高橋さんが専修会長・桂のみ助に言ってくれたのかな? 高橋さんが、私が元太郎をこの本興行で輝かせなければいかん、と思ったか…
試合前、当時UWFライトチャンピオン(伝統の!)だった東海3年のパーマン2号がニヤニヤしながら私に対し「お前の(城西での)試合、全く評価されてねえらしいなあ。ヒヒヒ」と言った。私は「ええ、知ってますよ!」と言い返した。
このイヤミにも燃えた。
目いっぱい戦えた。
いろんなことに対しても。不甲斐なかったヤブサメにも。
飛んだ。サスケスペシャル2を初めてやった。
ヤブサメ勝つか?
そういう場面を作れるか作れないか。それがプロレスの力量である。
勝てなかった。
だがこの場で、こういう試合が出来た。技術と気持ちの試合を。
そう、試合は気持ちを出すもの。
高橋さんは試合後、リング上で私に囁いた。
「勝ち負けじゃないぞ!」
涙声だった。
へべく。
2020年11月11日
2020年10月08日
ザ・シロート・サスケ
私の師匠の話。
1994年4月。私は一浪後に城西大学に入学。
現役で入学した友人が、我が城西大学プロレス研究会(J.W.F)に先に入っていたので、私は入りやすかった。4月下旬の新歓興行の時はもう普通にいた感じだ。
学生プロレス。80年代後半から90年代前半は学プロ全盛期。TVでよくやっていた。
プロレスファンは「ケッ、素人のクセに何やってんだ」と貶してたもんだが、それは嫉妬でもあった。「素人」といってもプロレスのやり方など普通誰も知らない。学生プロレスはギャグもあるがストロングもある。ストロングスタイルを学生がやってる。そんなバカな! どっかで楽してるんだ、そうに決まった!!
私も最初はそうだった。だがそのうち、実践する学生たちがうらやましくてしょーがなくなった。
大学行くならもうこれしかない。もうプロレスできないなら学生プロレスやればいい。と、そう思った。この時点では。UWFが学プロメジャーとも知らなかった。
高橋秀彰さん。ザ・シロート・サスケ。城西大学三年生。三年はもちろん主力。
新歓興行は生で見る初めての学プロであった。
高橋さんの試合を観て、何がシロート⁇ と思った。
動きもスピードも空中技もズバ抜けすぎ。
あこがれの存在になるのはすぐだった。
先輩は四人いたが、二人は二年(ヘタクソ)と四年(就活中)で、三年の為貝会長もあんまり練習に来ない。結局教えてくれるのは高橋さんしかいない。
やるのは受身からプロレスリングのグラウンド基礎をみっちり。
柔道やってたから大丈夫だろう、とか思ってたがそうでもなかった。
細かい技術がたくさんある。
高橋さんは色々教えて下さったが、自分としては最初は面倒くさかった。
一年生は試合では大技など御法度。とにかく基礎をやれ!
秋までは、私はダメ組だった。大技やりたがり。
なんで大技ダメなんだよ。上級生やってるじゃねえか。
先輩たちは基礎があるから大技が映える。そんなことも理解できなかった。ガキだ。
5月からまた試合が続く。
UWFは4月から11月まで全て合わせて30興行はあった。
私が出場できた興行なら、ザ・シロート・サスケの試合は穴が開くほど見れた。セコンド付くのが義務だから、サスケを間近で観戦できることは喜びであった。
今でも言える。ザ・シロート・サスケは素人ではなかった。
他とは全て段違いであった。
これはウチワの話だが、ザ・シロート・サスケを上回ってたと思えるのはリッキー・スキンボートだけではなかったか。
8月。青森でのみちのくツアー。選ばれた選手しか出られないので私は当然不参加。9月にザ・シロート・サスケ特集ビデオを部員たちと鑑賞。
ザ・グレート・サスケ自身が実にホットな時代、少年少女たちが例え別人でもザ・シロート・サスケにも熱い視線を送る。大コールを送る。試合後は何十人もの子供たちが群がる。一人の少女が涙ぐんでいる光景。感涙か。
子供たちも大人たちもザ・シロート・サスケの動きに感嘆しているのだ。本物サスケに近い人物がそこにいる。本物と思っている子供老人がいたとしても、それほどのプロレスを魅せたのだ。
十年後、ザ・シロート・サスケはリアルなザ・グレート・サスケと闘うこととなる。
これはまた・・・
みちのくツアーのこんな凄いビデオ観てしまうと、そりゃ「自分もこんな試合をやってみたい!」と思ってしまうものだ。
私も試合をけっこうやってきたし… そろそろいいんじゃない?
「で、次の試合ではルチャやりたいんですよお」
「・・・君はちゃんとやりなさい!」
真面目な高橋さんに一括された。
ルチャはメヒコ流レスリングのことだが、飛び技たくさんできるスタイルくらいに思ってなかった。ホントに愚かだった。
10月中旬、城西の昼休み興行。三試合だけの小規模な興行だから、今日はいいだろうと思い、高橋さんにも許可をもらい、シューティングスター・プレス。
ルチャやるわけじゃないし、、地元ならいいんじゃない、と高橋さん。寛大な先輩でよかった。
悪い噂は早い。うっかり八兵衛が一年生の分際でシューティングスターをやっただと? ふざけるな。面と向かって怒る東海明治法政など他大学の先輩はいなかったが、その代わり雰囲気でヒート買ってるのは大体わかる。
高橋さんがやっていいと言ったんですよ! と懸命に弁解したが、元々やりたがりの奴が何を言おうが元の木阿弥。ガキ。
高橋さんも実は一年生の時、ムーンサルト・プレスを使っていた。
だが寡黙で真面目でちょっと弱気な高橋さんが先輩に嫌われることもなく、新人賞候補にもなった。私とは違う人格だ(笑。
26年前のシューティングスター・プレスに思いを馳せてつづく。
2020年07月04日
黒アゲハ
マンションの廊下に黒アゲハが横たわっている。
ピクピクわずかに動いている。
40年前、小田原の中島保育園でよく黒アゲハを見た。普通のアゲハやキアゲハよりたくさん見た気がする。カラスアゲハもいた。まだ自然はたくさんあった。
最近、死にそうな昆虫をちょくちょく見る。かわいそうだが寿命は仕方ない。が、私の寿命も近いということか。それはそれでいいかな、と思った。
数時間後、黒アゲハはもう動かなくなっていた。
死に場所がこんなとこなのはかわいそうだと思い、黒アゲハをつまんだ。
すると、黒アゲハは突然暴れだした。
私は驚いて黒アゲハを離した。
黒アゲハは羽をバタバタさせ、懸命に逃げようとしている。
もう跳べないのに、地べたで這いつくばって懸命に跳んで逃げようとしている。
黒アゲハにとって私は巨大な敵だろう。敵に捕まって殺されようとしている。だから、殺されてたまるか、生きるぞ!と必死になっている。
死ぬ間際まで、最後の最後まで、生を捨てようとは思わないのだ。いや死ぬ間際など思いもしないだろう。最期の瞬間まで。
私は黒アゲハを尊敬した。
這いつくばる黒アゲハに合掌し、そのまま去った。
私も、最後の最後まで全力を尽くそう。
死ぬ間際はまだまだ遠い。