tacodayoのブログさんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/6859078.html
<転載開始>
以下は
円の支配者ー誰が日本経済を崩壊させたのか
からの引用です。

第7章 実験-日本の最初のバブル経済
□戦時経済の勝利
平時の戦時経済は大成功をおさめた。1950年代から60年代、日本は実際に二桁成長を続けた。
1959年、経済の実質成長率は17%で、インフレはそこそこに抑えられていた。1960年、指導的なエコノミストは、10年で日本の国民所得は倍になりうると驚くべき主張をおこなった。大蔵省出身のエコノミスト下村治は、同じ期間に日本の国内総生産は3倍まではいかなくても2.5倍に拡大できるだろうと言った。
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結局のところ、1960年から70年までに、日本の国内総生産は71兆6千億円から188兆3千億円へと2.6倍に成長した。1970年、日本はドイツを抜き、敗戦の廃墟のなかから出発して世界第二位の経済力を達成したのである。

日本はアメリカに対して勝利をおさめたかに見えた。戦争中は勝てなくても、戦後の総動員戦時経済が勝利したようだった。しかしこの勝利によって、世界は日本の戦時経済をいつまでも放置しておけないことがはっきりした。最初に大きな貿易摩擦が火を噴いたのは60年代、繊維産業をめぐってだった。
1961年、最初の貿易自由化かおこなわれたが、アメリカ側は満足せず、貿易不均衡を縮小するため、日本の輸入規制の撤廃を要求した。二国間交渉は個別の関税や輸入割り当てをめぐる議論で泥沼化した。
いっぽうで、アメリカの対日貿易赤字は67年には4億ドルだったものが68年には12億ドル、69年には16億ドルヘと増大した。アメリカは日本の化学繊維とウールの輸出を制限しようと試みた。しかし、繊維交渉は69年から70年まで行き詰まったままだった。日本側は、日本の繊維製品輸出を制限しようとするアメリカの提案は自由貿易の原則に反すると主張した。これは当たっていた。しかし、日本側は、自国の経済システム全体が製造業製品の輸入に対する防塁であり、輸出を最大化するための道具になっていることには触れなかった。
1970年代、日本の自動車産業と消費者用エレクトロニクス製品が力を伸ばしてきた。1970年、アメリカのテレビーメーカー、ゼニスは、日本がアメリカでテレビをダンピングしていると提訴した。
だが、これは証明するのが難しかった。日本企業の信じがたいほど強い競争力の真の原因は、個々の企業のあからさまなダンピングではなかったからだ。それはシステムそのものだった。日本経済は世界の市場で製品をダンピングするようにつくられており、国をあげてソーシヤルーダンピングをしていた。
1971年、OECD諸国の貿易黒字は74億ドルだったが、そのうち58億ドルが日本の黒字だった。

ほかの産業でも、アメリカとヨーロッパの市場の指導者は何か起こっているのか理解できなかった。
自分たちの製品は日本の「大量生産の安物」よりも良質だと信じていたから、ひたすら市場シェア拡大をめざす日本企業の決意が見えなかった。日本企業のやり方には、捕虜はありえなかった。海外の競争者の殲滅が目標だったからだ。

冷戦とアジアにおける共産主義の拡大のゆえに、アメリカは日本のやり方を認めた。代償は大きかった。戦時経済は利益率を顧みずに容赦なく市場シェア拡大をめざし、アメリカやヨーロッパの多くの企業を市場から駆逐せずにはいなかった。まず繊維産業、つぎが造船、鉄鋼と、つぎつぎに日本経済のマシンに打倒されていった。かつては誇り高い企業だったゼニスは1982年にラジオの生産を中止した。
同社は現在、韓国のLGエレクトロニクスの所有になっている。

□為替レートの変更
対策が議論された。大蔵省はひそかに円レートの変更を検討しはじめていた。だが、日本の国際派官僚や知識人は、戦時経済体制をいつまでも続けることはできないと気づいた。いずれは日本も自由市場を導入して、輸入品に対して市場を開放し、外国企業が日本で製品を売るのを認めなければならない。
だが、改革を主張する人々は少数派だった。戦争中につくられ、戦後何十年かの成功でますます堅固になったシステムは、そう簡単には解体できなかった。官僚制度のなかで既得権益が生じ、許認可システムをもとにした権力がはびこっていたし、産業界は閉鎖的な国内市場で独占的利益を享受し、政治家は既得権益者に支えられていた。日本は変わらなければならないという国民的コンセンサスをつくるには、どうすればいいのか?。

日本の経済構造に対して、はじめて広く世間に疑いの念がきざしたのは、1970年代半ばだった。
このエピソードは、いろいろな意味で
80年代、90年代のもっと大規模な、もっと徹底した出来事のテストケースだった。これが日本銀行幹部に重要な教訓と実験場を提供したことは確かである。


□ドル本位制の崩壊
戦争直後から1971年まで、世界の主要国の通貨価値はアメリカのドルと結びついていた。日本の円のレートは固定相場で1ドル360円だった(この数字は、マッカーサー将軍が日本の通貨単位は「円形」「丸」という意味であると知って選んだものだ、といわれる)。アメリカ・ドルは金価格と結びつき、アメリカの連邦準備制度理事会は、要求があればドルを金に交換する義務を公式に負っていた。
第3章で見たように、ドル本位制はアメリカにとって都合がよかった。どんどんドルを印刷しても、世界はそれを受け取るしかなかったからだ。1960年代、連邦準備制度理事会はアメリカの銀行が信用創造を増やすように仕向けた。さらに多くのドルが創造され、対外投資としてあふれ出ていった。このドルで、アメリカ企業は大々的にヨーロッパ企業を買収した。「アメリカの挑戦」だといわれた。

1971年、フランスは、アメリカがドルを印刷してヨーロッパを買い占めようとしていると気づき、アメリカの化けの皮をはいだ。フランスに流れ込んだドルを集めてアメリカに持ち込み、金と換えてもらいたいと要求したのだ。これが有名なフランスのフォート・ノックス襲撃である。
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(フォート・ノックスに大量のドルを積んで乗り込んだダグラスDC10の軍用機型C-47輸送機)

もちろん、充分な金準備はなかった。その結果、1971年、いわゆる「ニクソン・ショック」で、アメリカはドルと金の交換を停止した。固定為替レートーシステムは崩壊し、アメリカ・ドルは世界各地で急落した。

日本は仰天した。日銀と大蔵省は対ドル固定レートを廃止するまで、さらに10日待った。
その間に、日銀は必死で弱い円を維持しようと努力した。
そのために紙幣を大量に印刷し、この円を使って、外貨市場でアメリカ・ドルを買い込んだ。
外貨準備は8月のひと月で50億ドルも急増した。
それから円が上昇したので、1971年12月にはスミソニアン会議で1ドル308円と決められた。

日銀は引き続き、購買力の創造で円安に誘導しようと試みた。
債券などの国内資産を買い上げ、新たに創造した現金で支払ったのだ。
そのうえ、国内需要の急増を実現しなければならないと考えた。急な円高は輸出に打撃を与えるだろう。
そこで、窓口指導のコントロ
ール・メカニズムを使って、
銀行に多額の信用を創造させた。


こうして、記録的なリクイディティ(信用創造)が経済に注ぎ込まれた。

結局、輸出業者への打撃は心配したほどではなかった。

それまでの対ドル固定レートは、大幅に円を過小評価していたからだ。しかも日本の経済構造は、製品輸入に対して基本的に閉鎖されたままだった。
輸入の大半は加工に必要な原材料で、結局は再輸出された。円高で原材料の輸入価格は下がった。あれやこれやをあわせると、新しい為替レートは輸出業者にとって克服できない問題ではなかった。

□最初のバブル経済
日本銀行の金融刺激策は相当に行き過ぎていた。銀行は日銀の営業局に命じられた窓口指導の高い貸出割当枠を消化しようとして、文字どおりお金を借りてくれと企業に頭を下げてまわった。
(しかし、)すでにお金があふれていて、生産的なプロジェクトには充分に投資がおこなわれていたから、企業は新たな銀行融資を非生産的な活動に向けた。
投機的な土地購入を始めたのだ。

時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造計画」の時代で、彼が通産相のときに成立を働きかけた工業再配置法が建設ブームの後押しをした。
政策的インセンティブと銀行から流れ出す無制限にすら思えるお金のおかげで、多くの企業が土地購入に走った。土地の担保価値は上昇し、銀行はますます熱心に土地投機に資金を貸したがった。
土地価格は1972年から73年に急騰した。土地保有による多額のキャピタル・ゲインによって、企業は巨額の含み益を得た。そのために株式の魅力が増した。
過剰な信用創造は株式市場へも波及し、前例のない株式ブームが起こった。日経平均株価(225種)は1972年3月には3千円だったが、年末には5千円まで上げた。企業のキャピタル・ゲインは莫大だった。1972年、土地のキャピタル・ゲインは15兆円、株式利得は5兆円にのぼった。

日銀が引き起こした信用ブームがあまりにすさまじかったので、資産市場から実質経済へ波及した。
投資と消費需要が増大し、消費者物価と卸売価格は上昇を始めた。多額の通貨が土地と商品を追いかけはじめた。金あまりでほとんどの市場が過熱した。熱狂的な投機はゴルフ場の会員権から美術品、骨董品、宝石、珍しいコインにまで広がった。すべてオイル・ショック以前の出来事だった。
1973年11月、オイル・ショックが起こった。有名な「トイレット・ペーパー不足騒ぎ」に見られるように、事態はときには集団ヒステリーの域に達した。
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74年、消費者物価指数は年率26%、卸売物価は37%上昇した。
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狂乱物価
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(1974年11月8日、全国消費者大会の参加者約4千人が東京で物価値上げ反対のデモ行進。列島改造ブームによる地価高騰のインフレに加え、オイルショックが輪を掛けた。石油が高騰し物価も公共料金も軒並み上がり、消費者物価指数が23%も上昇する「狂乱物価」をもたらした。【共同通信】)

オイルーショック前の資産インフレは、田中元首相の積極財政の結果だとよく言われる。
だがこれまで見てきたように、

財政政策が経済に影響を及ぼすことができるのは、
その分のお金が生み出されたときだけだ。
言い換えれば、

鍵を握る変数は依然として
日銀の信用政策なのである。


この主張が正しいかどうかを検証するには、70年代はじめと90年代末を比較してみるのがいちばんいい。

どちらも、景気刺激のために積極的な財政政策がとられた。それどころか、90年代半ばから末にかけての財政による景気刺激策は、1970年代はじめよりもはるかに大がかりで、歴史的にも前例のないほどのものだった。さらに石油価格の高騰という類似点もあった。1999年以来、石油価格は3倍近くに上昇した。
日本の石油依存度は下がっていたとはいえ、この石油価格の高騰が物価上昇圧力になるのは明らかだった。伝統的な理論によれば、1990年代末の日本ではインフレが起こって景気が上向いて当然ということになる。


ところが90年代末には30年代以来というデフレを記録した。
これは肝心な変数が見過ごされている証拠だ。

では、この二つの時期をくらべたときの大きな違いは何か?
財政政策でもなければ
、石油価格でもない。

日銀の量的通貨政策が違っていたのである。


□最初のバブル崩壊
1973年、過剰な信用創造は、単に土地投機と資産取引に使われて資産価格を押し上げただけだということが明らかになった。都市部の地価は72年から74年までに50%以上上昇した。これらの融資は投機に使われたのだから、全体的にみれば銀行への返済は期待できなかった。
生産的な目的に使われる信用だけが、プロジェクトが生み出す所得で返済を可能にする。投機に使われた信用は、最後には不良債権化するしかない。銀行は打撃を受け、貸出を抑制した。その結果、経済活動は衰え、不況に突入した。銀行がつくりだす古典的な景気循環である。

ここでも、窓口指導という主要な政策手段を使って景気を転換させた触媒は日銀の行動だった。
1973年の第1四半期から、日銀の窓口指導による
貸出の上限が厳しくなった。

まず、融資の前年度比の伸びを12・7%という穏やかな水準にまで抑制した。第2四半期には、伸びはマイナスになり、前年度比16%の低下ということになった。引き締めは続き、窓口指導による上限は、第3四半期は前年度比マイナス24%、第4四半期は同マイナス41%、そして、1974年第1四半期はなんとマイナス65・4%になった(当時の窓口指導は、地方銀行、相互銀行、外国銀行の全てに拡大されていた)。

厳しい信用の抑制は1975年始めまで、まる二年続いた。銀行システムには不良債権が積み上がった。好況期に行き過ぎた不動産投機や住宅融資をおこなった中小企業は債務不履行に陥った。
事態が明らかになると、弱小の金融機関と信用組合は取り付けの危機に直面した。大蔵省と日本銀行は愛知県に職員を派遣して、地元の信用組合の預金者に預金は安全だと保証するはめになった。

不良債権で麻痺状態に陥ると、銀行は貸出を減らした。中小企業がまず打撃を受け、やがて信用創造の総額がマイナスになって、経済活動が収縮を余儀なくされ、経済全体に影響が及んだ。企業の利益は1975年には84%も下がった。工業生産高は73年終わりから75年はじめまでに19%減少した。在庫が増加し、資本支出は低下した。設備稼働率は75年には73年はじめにくらべて25%も下がり、生産プラントや設備の三分の一が遊んでいた。
失業率が上がり、70年代末には失業者数は戦後としては記録的な数字になった。60年代には15%前後だった実質国内総生産の伸びは急減し、1974年には戦後はじめてマイナス成長を記録した。

高いインフレのあと、今度はデフレが問題になった。1975年、物価は下落しだした。日本銀行は、ローラーコースターのような窓口指導政策によって起こった戦後最悪の不況を観察していた。この不況は、日本のいわゆる「高度成長時代」の終わりを告げた。20年間にわたって二桁成長という世界一の高度成長を享受してきた日本だったが、1975年にはゼロ成長と急ブレーキがかかっていた。

□三重野康登場
不況は予想よりも長引き、深刻だった。1975年2月、3月、6月に景気刺激型の総合経済対策が実施され、金利が繰り返し引き下げられたにもかかわらず、経済は回復の兆しを見せなかった。76年の公共事業投資の増加と住宅金融公庫の貸出増加は、財政赤字を増やしただけだった。失業給付の増加によって、77年には民間だけでなく公的部門まで危うくなったかに見えた。

景気低迷が始まってから5年目の1978年、ほとんどの識者が希望を捨てたちょうどそのとき、工業生産がついに回復し、直前のピークだった73年10月の水準に達した。戦後最悪の不況は終わった。
なぜか?
経済回復の必要十分条件は、信用創造の増大
である。

1977年、日本銀行はついに窓口指導による貸出の伸びの上限を引き上げたのだ。
経済をコントロールしていたのは誰か? 
日本銀行の副総裁は
前川春雄という人物だった。
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(前川春雄)
そして1975年4月から78年2月まで窓口指導を担当する営業局長を務めていたのは、三重野康である。
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(三重野康)
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(歴代日銀総裁、赤字がプリンス)
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(前のプリンス・福井俊彦前日銀総裁。現在はキヤノン・グローバル戦略研究所の理事長)
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(次のプリンス、現リコー経済社会研究所所長・稲葉延雄)
□危機は反省をうながす
ほとんど20年も二桁成長が続いたのち、実質国内総生産の伸びが急低下すれば、あれこれと自己分析をしないわけにはいかなかった。多くの人々は、なぜ不況が長期化したのだろうと首をひねり、日本の経済構造が主犯ではないかと考えはじめた。深刻な危機のときには、どんなシステムでも危機の原因として非難され、大規模な改革を望む声があがるものだ。不況によって、通産省を含めたシンクタンクでさまざまな研究がおこなわれ、日本はそれまでのような輸出主導型の高度経済成長を維持することはできないという結論を出した。これからは、経済構造を改革する必要がある。
とつぜん構造問題が焦眉の急になった。製造業には多くの不況業種があって、それらの時代は終わったかに見えた。造船、石油化学、電炉、ソーダ、段ボール、製糖などである。通産省はこれらの工場をアジアに移転すべきだと助言した。日本には本社を置いて、アジアやアメリカなど多くの国の工場を監督すべきだというのだった。国内経済はもっと付加価値の高い部門にシフトする必要がある。さらに、財政も危機的状況になりかけていた。日本の人口動態問題が指摘された。未来は暗そうだった。急激な高齢化が進んでいるというのに、賦課方式の年金システムの基金は経済を刺激しようという空しい試みに浪費されていた。

多くのエコノミストが、輸出主導型の経済から国内需要拡大へと移行すべきだと叫びだした。だが消費を押し上げるためには、貯蓄奨励、消費抑制型の環境を強制してきた構造的障害をなんとかする必要があった。日本の総動員型戦時経済は、輸出部門を主とする戦略的産業の規模の拡大に重点を置き、国民の暮らしの質や生活水準は無視されてきた。居住面積の拡大、住宅、医療施設増設などを実現しなければならない。日本人は「ウサギ小屋に住むワーカホリックだ」という批判が海外で聞かれたのはこのころである。

□不況で日本のシステムが悪者に
日本型経済システムにつきものの種々の問題がとつぜん明らかになったかに見えた。危機のおかげである。このころ、つぎのような文章が書かれた。
「非効率的で往々にして独善的な公営事業の存在、過保護政策による農業補助の拡充、非効率な国民保健システム、民間部門への行き過ぎた行政の介入、おびただしい数の政府関連機関、官民の責任分担のあいまいさ、そして中央政府と地方自治体の役割の定義の不明確さ、これらがあいまって、財政赤字がふくらみ、官僚制度が肥大している」

1970年代の終わり、指導的なエコノミストや著名人は、「日本は重要な岐路に立って」おり、「国家的選択を基本的に見直すべき時期に来た」と感じていた。いわゆる日米賢人会議は1981年に、日本は商品、サービス、資本に対してアメリカなみに国内市場を開放する努力をすべきだと報告した。

□榊原英資登場
危機のおかげで、それまでは権力をほしいままにし、ほとんど無敵かと見えた大蔵省を含む官僚への批判が、戦後はじめておおっぴらに聞こえるようになった。日本の伝統である「国家主義的な強力な官僚」はいまや障害であると主張する識者が増えていった。元官僚までが、規制緩和、行政改革、官僚の規模縮小を主張するようになった。

前途を嘱望される出世コースに乗った少数のエリートーグループに属する二人の若手大蔵官僚が、論争に積極的に加わり、日本の経済システムの未来について批判的な議論を展開した。二人とも大蔵省を一時離れて学者の仲間入りをしていた。
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(野口悠紀雄)
一人はそのまま学者の世界に留まった野口悠紀雄で、もう一人はその後に大蔵省に復帰して1997年に財務官にまでのぼりつめた榊原英資である。
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(「ミスター円」と呼ばれた榊原英資)
それより20年前の1977年、質の高さで定評があった雑誌「中央公論」8月号の記事(「大蔵省・日銀王朝の分析」)のなかで、日本の経済システムの真の性格をはっきりと指摘した最初の、そして唯一の著名人が野口と榊原だった。彼らは「戦時総力戦経済体制」であると言い切った。

彼らにとって、1970年代半ばの不況は戦時体制が「崩壊しつつある」証拠だった。「われわれの観点に立てば、いままさに戦時総力戦体制が終焉しつつあるのであり、真の戦後処理が今後の課題でなければならない」。彼らは日本の経済、社会、政治システムの根本的な改革を呼びかけた。

□信用統制は世論もあやつる
日本銀行の指導者たちは注目した。彼らは経済を回復させられるのは日本銀行だけであることを知っていた。
大蔵省の景気回復策は、公定歩合の引き下げ財政支出による刺激をめざしていた。
だが、どちらも日銀が信用創造を拡大しなければ効果はあがらない。

銀行が貸出を再開するには不良債権を償却して、バランスシートをきれいにするための資金が必要だった。
いっぽう、日銀は国の銀行としての役割を果たして、紙幣を印刷して景気を浮揚させることができた
日銀がお金を印刷しないかぎり、不況は続く。日銀はヨーヨーのように景気をあやつれるのだ。

1970年代になると、信用統制をごまかそうという日銀の煙幕がはりめぐらされて10年もたっていたから、窓口指導の実態とその重要な役割に気づいている者は大蔵省にさえほとんどいなかった。
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新古典派経済学が日本に入りはじめると、
日銀の調査部門では金利こそ鍵だという論文をつぎつぎに発表した。
最後には、日銀はなかば公式にマネタリズムを奉じた。
日銀の役割は隠されたままだった。
世論は大蔵省と経済構造が危機の原因だと非難した。


□最初の勝ち戦-決戦は次回
エリートが権力の座にとどまれるのは、国家運営が順調なあいだだけだ。日本経済が二桁成長を遂げていたときは、国民は官僚とりわけ大蔵省が強大な権力を握っていることも意に介さなかった。しかし、戦後最初の最大の不況で状況は変わった。

偶然かどうかはともかく、日銀の意志決定者は大蔵省との最初の闘いに勝った。1978年、日銀がついに経済を回復させたとき、大蔵省はまだ受けた傷を舐めていた。しかし70年代の出来事は実験にすぎなかった。日銀は、信用拡大による不動産ブームの発生と拡大、そして不可避的な崩壊のメカニズムについて、計り知れないほど貴重な体験を得た。決戦はまだ先だった。

第8章 マネーのミステリー - 円の潮流
□ホットマネー
時は1980年代。先進国における金融の規制緩和と、資本市場の自由化の時代である。銀行と証券業に対する規制は緩められ、金融部門のカルテルは崩れ、金融機関は厳しい競争にさらされた。ほとんどの先進国は資本の移動に対する制約を撤廃した。資本の国際的な移動が激しくなるにつれて、一瞬のうちに莫大な資金が国と国、そして種々の金融資産のあいだを移動した。

1980年代はまた国際貿易が盛んになった時代でもあったが、急激に拡大する資本の流れは商品とサービスの流れを上回った。この10年、国境を超えた金融取引の額は、貿易量の20倍にまで達した。外国為替取引の額は日に5千億ドルにのぼった。

規制の届かないオフショア金融市場の利用が進み、高利回りを追って地球を縦横に動きまわる「ホットマネー」の規模はますます大きくなった。大規模な機関投資家の重要性が増した。市場の崩壊から利益をあげようというヘッジファンドの規模は幾何級数的に増加し、外国為替取引を支配するようになった。キーボードとモニターを前にしたディーラーたちは指先ひとつで、世界の遠い国々にまで影響を及ばす莫大な国際投資資金を動かした。ファンド・マネージヤーの考えが変わるたびに大量の資金が国から国へと移動し、全世界の為替レートや債券価格、株価を変動させたといわれた。

□ジャパン・マネーが世界にあふれる
大半の先進国が資本輸出を増加させたように見えるかもしれないが、じつは、資金が出てくる場所はそう多くなかった。1970年代以来、おもな純資本輸出国、つまりアメリカ、日本、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、カナダ、オランダ、デンマーク、スイス、サウジアラビアだけで、報告された国際資本の流れの85%を占めてきた。だが1987年には、日本だけでこれらの国々の純資本輸出の86.6%に達した。

1980年代半ばから末にかけて、日本の対外投資は国際投資の流れを圧倒せんばかりだった。太平洋戦争の敗北からわずか40年で、日本は国際的なマネーの流れをその手に握ったかに見えた。国際的な資本移動という「グローバル」な現象は、じつはなによりも日本の現象だった。

日本の長期資本の流れは、1980年には20億ドル以上の入超だったのに、81年には資本輸出額がほぼ100億ドルになった。ところがそれから4年間に日本の資本はなんとほぼ7倍も増加し、85年には650億ドルという歴史的な額に達した。しかも、つぎの2年で1320億ドルとさらに倍増する。87年には、この劇的な資本の潮流は1370億ドルと記録を更新し、翌年も1310億ドルの資本が流れ出ていった。
87年、長期資本の純輸出額は、記録的な経常収支黒字のさらに2倍近くになっていた。この金融の「津波」は、70年代のOPEC(石油輸出国機構)のそれさえ簡単に凌駕した。

このマネーは、世界を日本のイメージに塗り替えはじめた。競争相手を倒し呑み込んで、ジャパン・マネーは全世界の金融資産と不動産を買いあさった。日本の工場がスコットランドやウェールズ、北部イングランドの野原に建設された。日本の自動車はアメリカ中西部でつくられた。
アメリカ産業界の記念碑的な存在であるロックフェラー・センターやコロンビア映画、さらにはペブル・ビーチ・ゴルフ場まで日本人の手に落ちた。
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(ロックフェラー・センター)
日本レストランやホテルが世界の主要都市にぞくぞくと生まれて、日本の企業戦士に便宜を提供した。ハワイの不動産業界は日本の投資家に占拠された。
カリフォルニアやオーストラリアの魅力ある地域でも同じことが起こった。
アジアには日本の工場が林立して、日本の新しい低賃金長時間労働の工場と化したかに見えた。ゆっくりと着実に、いやそれほどゆっくりとでもなく、世界は日本人に所有されかかっているようだった。

不安と恨みが高まった。アメリカの労働組合は組合員を動員して日本の脅威に対抗しようとした。エコノミストは、アメリカが完全に日本に所有されるのを回避する戦略を考えた。日本は戦争には負けたが、経済的手段で勝利を獲得しようとしていると警告する人々もいた。経営学のグルたちは全世界の産業界の指導者に、「日本の挑戦」に立ち向かう最後の手段として日本流の経営テクニックを採用しろと説いた。

□直接投資はポートフォリオ投資の陰に隠れていた
ジャパン・マネーを分析する場合、ほとんどのアナリストは、たとえば国債のような「金融」投資であるポートフォリオ投資と、外国人が不動産や企業などの「実質」資産を買収する対外直接投資とに分類する。日本の純対外直接投資は1980年の20億ドルから、85年には60億ドルに増加した。その後、資本の輸出は加速し、翌年の対外直接投資は倍以上の140億ドルに、そして88年にはさらに倍以上に増加して、340億ドルに達した。1989年と1990年の日本の対外直接投資はそれぞれ450億ドルと460億ドルで、世界最大だった。88年には対外直接投資の半ば以上がアメリカとヨーロッパに向かっていた。

日本の対外直接投資は歴史的な額にのぼったが、80年代末までは長期資本の流れのなかではマイナーで、大半はポートフォリオ投資だった。ポートフォリオ投資の純輸出は1983年には19億ドルだったが、84年には236億ドルと12倍に増加し、さらにその後2年で4倍に増えて1014億ドルに達していた。

この驚くべき展開は、国際証券市場に大きな影響を及ぼさずにはいなかった。80年代、国際債券市場はどこにでもあらわれる日本の存在なしには考えられなくなった。ピークの86年には、純対外ポートフォリオ投資総額の77%が債券に、残りが外国の株式に注ぎ込まれた。外国証券への投資のほぼ90%は、米国債で占められていた。
86年には販売された米国債総額のなんと75%をジャパン・マネーが購入していた([『Business Today』1987 42p)。
ポートフォリオ投資の流れは86年に最高潮に達した(タコ注:今の中国と同じですね)が、対外直接投資は着実に重要性を増していった。1990年に、対外直接投資は480億ドルになってポートフォリオ投資を上回り、日本は世界最大の対外投資資金の提供者になった。

□実際の日本資本の輸出はさらに大きかった
これだけでも驚くべき数字だが、1980年代、日本の外国資産獲得の実態は、じつは公式数字にあらわれているよりもさらに大きかった。真の数字が明らかになることはたぶんないだろう。
データと現実のギャップは、たまたま開いたわけではなかった。貿易黒字と大々的な資産購入に対する批判を浴びて、大蔵省の国際金融局は、両方の数字を引き下げる巧妙な方法を考え出した。こつは資本輸出を商品輸入に算入することだった。こうして、たちまち両方の数字が奇跡的に「改善」された。この創造性豊かな計算方法は、オフショア金口座や航空機のリースなどで用いられた。

80年代半ば、日本にゴールドラッシュが起こったかと思われた。80年代前半、日本はすでに世界最大の金塊輸入国だった。84年、192トンの金が日本に送られた。86年には、これが600トン近くに達した。共産主義国をのぞく全世界の金産出量のほぽ半分だった。これが輸入を押し上げ、貿易黒字削減に役立った。つぎに、当時としては意外ではなかったが、昭和天皇の在位60周年を祝って金貨を鋳造するために、ニューヨークを通じて300トン分の金の輸入が予約された(たまたま、大蔵省にとっては非常に利益の大きな取引だった。大蔵省は金貨を原価の2倍以上の価格で売り出し、35億ドルの利益を上げた)。

購入された金のほとんどは、じつは輸入されていなかった。商社は輸送コストを節約するために、「輸入された」金をロンドンに保管することを提案した。日本の証券会社はいわゆる金貯蓄口座を積極的に販売したが、これは名目的には金投資で、金の輸入につながった。しかし金の「購入」は書類上でおこなわれるだけで、金が実際に外国から輸送されることはなかった。それでも国際収支上は、これらの投資は日本への輸入と数えられた。1990年、この資本輸出は60億ドルに達した。しかし資本勘定には計上されず、その分だけ貿易黒字を減少させたのである。

貿易黒字を減少させるもうひとつの方法は、過去に実験済みだった。1970年代末、日本の経常収支黒字が外国との貿易摩擦を生んでいたころ、通産省と日本のトップ銀行は「サムライ・プラン」という仕組みを考えだし、その後大蔵省の支持を得た。この仕組みで経常収支黒字に化粧をほどこすことができた。外国人が外国人から航空機のような値の張るものを購入するとき、日本の銀行が介入して、商品を自分で買ってリースするのだ。
大蔵省は国有の輸出入銀行に外貨準備を提供して、取引に必要な外貨を手当てした。日本の民間銀行も貸し主も、納税者負担で融資された取引で巨額の利益をあげることができた(当時で6%、10年間)。

ある航空会社が世界のどこかの製造会社から航空機を買うとき、これを日本への輸入のように見せかけることで、日本政府は記録的な経常収支黒字を削減させることができるというわけだ。ただし、リースは暫定的であるという法的な体裁を整える必要があった。通常はリースヘの融資は輸入とみなされないからだ。1979年、通産省はこの「黒字削減の切り札」で、1979年度だけで黒字を8億ドルも減少させられると考えた。国際通貨基金(IMF)がこの仕組みを見破るのではないかと心配して、大蔵省は一年後にはこれを廃止した。
しかし1980年代、ふたたび貿易黒字がふくれあがると、日本企業や銀行の海外子会社を使ったもっと巧妙なリースの仕組みが実行された。日本は日本企業一社が100%所有する最大の航空機リース会社をつくって、国際航空機リース市場の主役のひとつになった。

こうした資本輸出をごまかす策に加えて、多くの資本輸出が記録されずにおこなわれた。日本の国際収支勘定のなかで「誤差および脱漏(だつろう)」の項目の金額は、経常収支黒字よりも大きいことが多かった。1989年、年間3兆円にのぼる日本の資本輸出が計上されず、「誤差および脱漏」の項目に入れられた。
これは、公式に記録された年間6兆6千億円の長期資本輸出のほぼ半分にあたる(日本の会計慣行に関するIMFの批判は、外交的な配慮で薄められた。IMFは報告書の中で、「全ての国・・・・とりわけ資本の流れの規模がもっとも多い国々」に改革を求めるにとどまった)。
当時、IMFは、国際資本の流れに関する国際統計には不備が多く、「それぞれの国の真の資本(あるいは経常収支)勘定の実態や、ある国が残る世界にどれだけの貯蓄を提供しているか、あるいは吸収しているかを明らかにすることが難しい」と警告した(『IMF Survey』1992)。

日本企業の買収物件の多くは、まったく国際収支にあらわれなかった。ひとつの方法は、ロンドンやニューヨークにある日本の銀行の子会社を通じて融資することだった。銀行は東京本店から外国子会社に「本支店間移転」として資金を送る。これは国際収支勘定の資本輸出には記録されない。しかもうまいことに、「本支店間移転」で送った金を、今度は公式に資本輸入することができる。その結果、公式に記録された長期資本の輸出はその分だけ少なく見える。
1980年代にはこのとおりの方式が導入されて、日本の銀行はいわゆる「インパクトローン」を国内の顧客に提供した。この方式によれば、日本の借り手はドル建ての融資を受ける。これはすぐに円に換えられて、借り手にとっては通常の円融資と同じになる。だが、融資はオフショア・センターを通じておこなわれ、国際収支統計上は長期資本輸入となる。
要するに、国内取引(円融資)をこの方法でおこなえば、統計上は「資本輸入」に見えるから、その分だけ国際収支上、日本の純資本輸出が減少するというわけだ(ある大蔵省幹部はこの方式を批判し、日本は会計上の定義を変更して、いわゆる本支店間移転を資本輸出に「計上」すべきだと主張した)。

□ジャパン・マネーの謎
正確な数字はわかりようがないが、公式に発表された数字だけでも、日本の対外投資額は多くの識者に懸念を抱かせるに充分だった。しかも、これは経済論理に反しているかに見えたので、なおさら不安はつのった。1970年、日本の資本の流れは教科書どおりだった。日本の貿易あるいは経常収支黒字の額にほぼ見合っていたのだ。したがって、日本は単に純輸出で得たマネーを外国に投資として「還流」させていたことになる。貿易の動きが原動力で、資本の流れはこれにしたがっているようにみえた。

80年代、この教科書的なシナリオが崩れる。もう、原動力は経常収支ではなかった。長期資本の輸出は時期的にも経常収支黒字に先立ち、規模の面でもはるかに大きくなっていた。簡単に言ってしまえば、日本は輸出で得た金で買える以上の資産を外国で買っていた。この80年代の国際的なショッピング三昧のために、日本はじつは外貨を借りていた。

エコノミストたちはこの現象を説明しかねていた。資本規制の撤廃が原因だろうと言う者もあった。
事実、1980年の外為法改正を皮切りに、80年代を通じて法的規制は徐々に緩和されていた。しかし大手の機関投資家は、80年代前半は外国投資の法的な限度をはるかに下回る投資しかしていなかった(
リチャード・クー。「Nomura Medium-Term Economic Outlook for Japan and the World」」野村総合研究所)。
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(リチャード・クー)
それに、なぜ投資家が突然これほどの外国投資をしようと考えたのかという疑問が残る。
もうひとつ、よく引用される説明は、日本の資本輸出は日本の貯蓄率の高さのせいだ、というものだった。
だが、この事後的で定義にすぎない説明づけは、なぜ日本の貯蓄率がこれほど高いのかに触れていない。

ほとんどの研究者は経験的に、長期資本の流れをポートフォリオ投資対外直接投資に分けて、この二つをべつべつに説明するモデルをつくろうとする。ポートフォリオ投資を説明する主要なモデルは、標準的なポートフォリオの多様化を基礎にしていた。投資家は分散されたポートフォリオをもつことで、リスクを低減させようとする、というのだ。このモデルは(日本と外国をくらべた)資産の見返りに関する情報で、現実の投資行動を充分説明できるかどうかで検証できる。実際には、日本と外国の金利の格差が日本の投資の流れを説明できるか、ということに帰着する。

残念ながら、このモデルは日本のポートフォリオ投資の説明にまったく失敗した。金利格差がそう変わらないときに、日本の対外投資が増加していた。相対的な利回りから見て対外投資のほうが不利なときでさえ、ジャパン・マネーは国外に流れ出していた。
とくに80年代半ばに円高が進んだときは奇妙だった。円に換算した対外投資の見返りは低下したのだから、日本の投資家はかなりの期間、損失を出していたはずだった。ある推計によれば、円に換算すると日本の対外投資の40%が1985年から一年以内に消し飛んだという(『AMEX Bank Review』1988.3p。タコ注:例えば1ドル100円の時に1000円のものを買ったとします。後に1ドル80円の円高になると、1000円で買ったものは800円の価値しかなく200円の損失です)。
それにもかかわらず、日本の投資家はなおもアメリカその他の外国資産に金を注ぎ込むのをやめなかった。この異常な事態は、プラザ合意で円高へ誘導する意志がはっきりしたにもかかわらず、さらに数年続いた。

日本の対外投資に関するまじめな研究は、日本の対外投資は「理解しがたい」「理屈にあわない」「謎である」といった言葉で終わっている(Graham,Edward & Paul Krugman「Foreign Direct Investment in the United States,3rd edition 」1995。Institute for International Economics.ワシントンDC)。日本の対外投資の劇的な増大は、専門家にとっては解けない謎だった。

□潮目が変わった
日本の対外投資に関する経済モデルは、対外投資が急増した時期に焦点をあてたが、この現象を説明できなかった。このモデルは、1990年代の出来事の説明となるとさらに惨めなことになる。1991年、日本の経常収支黒字は9百億ドルに達して、さらに記録を書き換えたが、純長期投資の輸出はとつぜんにかき消えてしまった。日本の長期資本は10年あまりではじめて400億ドルの入超になった。日本の投資家が売り越した外国証券は記録的な額になった(『Asian Wall Street Journal』1990)。1991年もこの状態が引き続き、日本の対外資産売買は売りが買いを上回った。製造業者から銀行、不動産会社まで、ジャパン・マネーはあらゆる戦線からとつぜん引き上げていった。

対外投資の損失は増大していたから、どれほど「利潤追求動機」を信じる頑固者にでも、日本企業、とくに金融機関が利潤を動機として投資をおこなっていたのではないことは明白だった。利益などほとんどなかったのだ。
結局、大企業でさえ、数々の対外資産買収にあたってキャッシュ・フロー分析も収益予想もしていなかったことが判明した。

研究者たちは、記録的な経常収支黒字と膨大な長期資本勘定の黒字という常軌を逸した事態を説明しかねていた。
標準的な分析では、80年代と90年代はじめの日本の異常な対外投資の動きは解明できなかった。

これがたとえばトリニダートトバコ(タコ注:カリブ海に浮かぶ西インド諸島の小国で、この地域で唯一、豊かな石油と天然ガスに恵まれる)のような国に関してだったら、世界がその資本の行動を経済的に理解しかねるとしても、さしたる支障はなかったかもしれない。
しかし、史上最大の資本輸出国で、そのお金が10年以上も世界中の企業や政府、そして人々の暮らしに直接影響を及ぼしてきた国だというのに、
その国の資本の動きを何が決定しているのか理解できませんでは、簡単には通らないだろう。
この劇的な出来事の陰に何かあるか、探ってみる価値は充分にあるにちがいない。

第9章 円の大幻想-信用のバブルとバブル崩壊
□地価の謎
1980年代、エコノミストが首をひねった現象は、日本の資本の国際的な移動だけではなかった。
1980年代半ばから地価と株価はすさまじい上昇を示した。85年1月から89年12月までに、株価は240%、地価は245%上昇した。地価はだいたい国内総生産の伸びと歩調をあわせるもので、国内総生産に対する地価の比率は通常は一前後になる。アメ:リカでは89年にはこの率は0.7と低かった。いっぽう、日本では5.2に上昇した。そのころまでに、地価はかつてなかったほど高騰していた。市場価値で計算すると、東京の中心部にある皇居をとりまく庭園とカリフォルニア州全体が等しくなった。日本はアメリカの26分の一の広さしかないが、土地の価値は4倍にもなった。東京23区のひとつ千代田区の市場価値がカナダ全土を上回ったのである。

この数字は何かがおかしいことを語っていた。だがエコノミストは「市場が出す結果」を信じるように訓練されている。だから、説明できないことを説明しようと試みた。
土地の稀少性に理由があると考えた者もあった。だが、人口が密集している東京でさえ、いちばん多いときで利用されているオフィス面積は土地の広さの40%でしかなかった。稀少というよりは、利用効率が低かったのだ。日本の人口のほぼ3分の2は6大都市に集中しており、都市部の地価は高かったが、6大都市から離れた地方では人口密度が低く、地価も相対的に安かった。

もうひとつのよくある説明は、土地の生産性がきわめて高いから地価も高いのだ、というものだった。
これが真実なら、地代に反映されるはずだ。ところが地代は地価ほど上がらなかった。1980年代終わり、東京の住宅地の地価はニューヨークの150倍だったが、地代は4倍にすぎなかった。
地代をもとにして金利その他の変数を考慮した理論的な土地の価値から見て、市場価値は理論的な価値よりもずっと高いことをエコノミストは認めるしかなかった浅子和美『The land price bubble in Japan』1991,Recerche Economiche XLV,2-3,451~468p。野口悠紀夫『Japan’s land problem』1990。『バブルの経済学-日本経済に何が起こったか』)。
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(浅子和美)
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(野口悠紀雄)

地価は専門家にとっても依然として謎だった。

□投機
謎の回答を得るには、80年代の土地ブームに加わった誰かに聞いてみればよかったはずだ。この人々はオフィスースペースを貸して収益をあげようとして土地を買っているのではないことがわかっただろう。彼らの主たる目的は、すぐに土地を売却して手っとり早く利益をあげることだった。彼らにとっては、土地は単なる資産、それも値上がりが見込める資産だった。

同じ力が株価を急騰させていたようだ。1984年から89年、日経平均株価(225種)は年平均30%上昇した。89年十二月には、3万8915円という最高値をつけた。地価と同じで、株価もたとえば企業収益といった経済モデルでは説明がつかないほど上がっていた。
株価収益率はこの5年で35から70へと倍に跳ね上がった。企業の一部を所有することで得られる予想所得では、もう株価を説明できなかった。株価を説明しようとして、たとえば低金利などさまざまな変数が用いられた。
だが、標準的な理論はどれも株価を説明できないという結論になった(French Kenneth R. & James.M.Poterba『Were Japanese stock prices too high?』1991。Journal of Financial Economics,vol.29。337~363p)。
困ったことだが、ある研究では株価をいちばんよく説明するのは地価の上昇だろうということになった。地価が上がれば、土地を所有している企業の価値は上がる。だが、これでは何もわかったことにはならない。地価が依然として謎だからだ。

□フリー・マネー
企業は専門家が資産価格を説明できようができまいが、気にかけなかった。彼らはパーティが続くかぎりパンチボールに群がった。企業はお金を借りて投資した。あるいは株式や社債を発行した。生産的に投資された分は少なかった。大半はまっすぐに株式市場か不動産に向かった。
資産価格が上昇すると、堅実なはずの製造業者までがゲームに参加したいという誘惑に抵抗できなくなった。彼らは大量の資金を証券会社にも預けた。証券会社はいわゆる「特金」勘定を設定し、顧客のお金を一任されて金融市場で投機をおこなった。
まもなく、自己勘定でも投機に手を染めるようになった。投機熱はますます激しくなり、自動車メーカーの日産のような主要な製造業者までが、本業よりも投機による収益のほうが大きくなった。

素人は、どうしてそんなことが可能なのかと不思議がった。専門家は説明し難いと言った。これは金融技術だ。金融市場はますます高度化し、驚異的な「財テク」が可能になったのだ、と。
多くの企業は、いちいち考えている暇はないと思った。時は金なり、である。そこで、彼らは財テク専門の子会社を設立して投機をおこなった。不動産部門の子会社がつくられ、銀行はノンバンクの金融機関をつくって不動産会社に融資した。個人も土地を担保にしてゲームに参加した。そして誰もが土地と株式を買いつづけた。

□好況
1980年代終わりに経済にあふれ出たホットマネーのすべてが、純粋な投機に使われたわけではない。かなりの額は企業の設備投資に注がれた。企業はそれまで資金不足で棚上げされていたプロジェクトをようやく実施することができた。プロジェクトは続々と実現していった。日本でも海外でも、野原に新しい工場が建った。最新の機械設備が発注され、一世代分の生産設備が更新された。
東京の濠洒なビジネス街には、ぴかぴかの大理石張りの本社が新築された。郊外には贅沢な社宅が建設され、海辺や山にはテニスコー卜やゴルフ場つきの贅沢な保養施設がつくられた。東京湾がいっぱいになるほどの埋め立てのプロジェクトがあった。不動産会社は世界一高いビルの建設を競い合った。

投資総額ははね上がり、日本の設備投資は平時としては歴史上なかったほどの規模になった。1985年から89年までに、303兆円の資本投資がおこなわれた
このあいだ、日本は毎年平均してフランスの国内総生産に匹敵するほどの額を設備投資した。
経営者たちがお互いに贅沢な接待をおこない、企業の会員権でゴルフをして大金を使ったので、企業の交際費はふくれあがった。日経平均と同じく、ゴルフ場の会員権の相場は金融市場のバロメーターとみなされるようになっていたが、これも上昇の一途をたどった。値上がりするいっぽうだったのだ。

企業が積極的に社員を増やしたので、労働市場も加熱した。深刻な労働力不足が心配されるほどだった。企業は大学の最終学年の学生を贅沢なリゾートに招待して、他社にとられないように囲い込み、入社誓約書にサインさせようとした。1990年3月の失業率は2%という記録的な低さだった。
労働市場の需給が逼迫して、個人所得は上昇し、消費支出も急増した。そこで、消費と設備投資、政府支出、それに純輸出からなる名目国内総生産は86年から90年まで年平均5.5%も成長した(林直道『現代の日本経済』)。工場の設備はフル稼働していた。

□謎は深まる
しかし、高度成長と労働市場の逼迫にもかかわらず、消費者物価指数で測ったインフレ率は驚くほど低いままだった。87年と88年には消費者物価が下がって、デフレのほうが問題ではないかと思われた。日本経済の奇跡は、すべての人を幸せにする経済成長を達成し、インフレは鎮静しているようだった。

1980年代の日本経済のパフォーマンスには、多くの人々が賛嘆の念を抱いた。日本経済の奇跡について文字どおり何千もの記事が書かれ、諸外国が長期的失業とインフレに悩まされているのに、どうして日本がこれほど目覚ましい成功をおさめたのかを説明する理論がたくさん登場した。東京にニューエコノミーのような「新しい時代」が訪れていた。

□金融モデルの崩壊
エコノミストが1980年代の異例な出来事をいっさい説明できなかったことを、識者は懸念すべきだった。エコノミストは日本の国内総生産の成長すら説明できずに立ち往生していた。
またもつまずいたというだけでなく、現代経済学と呼ばれるもの自体に、深い疑惑の念が生じた。


それまでエコノミストは、少なくとも国内総生産の成長を決定する要因は理解しているつもりだった。だが、現代のマクロ経済学には多くの理論があるが(古典派/新古典派、ケインズ学派、マネタリズム、財務学派など)、いずれも貨幣と経済の基本的な関係を土台にしている。どれも、マネーサプライは名目国内総生産に比例すると想定している。
有名なエコノミストのミルトン・フリードマンは、この関係が経済で最も安定していて、物理学の法則と同じくらい信頼できるとさえ言った(Milton Friedman『Studies in the Quantity theory of money』1956,University of Chicago Press20~21p。「経験科学としての経済学に向けられる主要な非難の一つは、『定数』がろくになく、基本的な規則性を抽出できないではないか,というものである。だが,金融はこれに反論できる分野の主要な例である。経済学のなかでも、短期的な通貨量の変化と価格の変化ほど、いかに多様な環境のもとであっても一定した関係を経験的に観察できるものはほかにはあるまい。両者は必ず相互に関係し、しかも同じ方向に働く。この一定性は物理学の基礎をなす多くの不変性と同一の秩序といっていいのではないか。しかも一定性は方向だけではない。経験的に見て、所得の流通速度にはきわめて大きな安定性と規則性が存在するのであり、通貨量のデータを扱う者を感銘させずに葉置かない」)。
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(ミルトン・フリードマン)

ところが、この科学がめんどうなことになっていた。1980年代の日本では、M1、M2などのいわゆる「マネーサプライ」の測定値と経済活動の関係が崩れた。国内総生産(GDP)とマネーサプライの伸びは連動しなかった。マネーサプライの伸びが国内総生産の伸びを上回っていた。
経済学用語を使えば、これはもう
「貨幣の流通速度」が一定ではなく、
「貨幣の需要関数」が崩壊した
ことを意味していた。

古典派、ケインズ学派、マネタリズムを問わず現代経済学のすべてに、非常に深刻な欠陥があることになる。
すべて、マネーサプライと国内総生産の関係は一定であることを前提にしていたからだ。


現実的な問題もあった。金融と国内総生産の動きがばらばらになってしまえば、経済に影響を及ぼす主要なツールである金融政策は効力を失う。経済成長がマネーサプライに連動しないのなら、通貨量を操作しても好ましい成長率を達成することはできない。

事態はさらに深刻だった。
経済モデルで最もよく説明に使われる変数である金利が、経済成長や資産価格を説明できなくなった。
1987年2月から89年5月まで、公定歩合を2.5%という低水準に維持したことがバブルを生み出したのだ、とよく言われている。
しかし、金利も資産価格や経済成長との安定した関係を失った。エコノミストは理論に裏切られて途方に暮れた。

日本はそれまでもエコノミストを苛立たせてきた。自由市場だけが経済的に成功するという古典派経済学お得意の主張を、日本はかたなしにしてしまったように見えた。
日本の経済は明らかに規制、カルテル、貿易障壁、競争障害だらけだ。
古典派経済学によれば悲惨な経済状況になっておかしくない。ところが、戦後日本の経済成長は「奇跡」と呼ばれるほどだった。
この高度成長は1980年代にも再現されたようだった。
資産価格、国内総生産、資本の流れ、どれも経済モデルでは説明できなかった。
エコノミストは日本の奇妙な経済をまったく解しかねていた

□ぐずの逆襲
しかし、「お伽話」経済は長続きしなかった。1990年以降、資産価格が下落して、エコノミストをふたたび仰天させた。
1990年1月から94年12月までに、株価も地価も半値になった。借金して土地投機をおこなってきた多くの会社や個人は、元金どころか金利も払えなくなった。企業と個人の破産件数は戦後最高になった。日本の投資家はおおあわてで海外から投資資金を引き上げた。いくつかの銀行や証券会社が債務不履行に陥るという前代未聞の事態になった。1980年代の好況は一転して1990年代のバブル崩壊へ進み、1930年代以来最大の不況が襲った。

ほっとしたエコノミストもいたようだ。景気下降は明らかに、日本の経済システムがそう優れてはいない証拠だった。官民の密な絆、メインバンクによる企業監督、家族主義の企業システムなど、それまで称えられていた日本の特性は、身びいきや腐敗と透明性の欠如以外の何ものでもない、ということになった。たちまち、システムが不況の原因にされた。日本的経済構造の改革を求める声が日本の内外であがった。

□答えはマネー
1980年代のバブルも、1990年代の不況も、日本の構造に原因があったわけではない。伝統的な理論で日本の資産価値を説明できなかったのは、信用創造の役割を無視していたからだ。信用創造プロセスを理解していれば、状況は素人にもわかったはずだ。

1986年ごろから、銀行は精力的に信用創造量を増加させていた。都市銀行の貸出額の伸びは80年代末には15%で、貸出総額の伸びはほぼ12%程度で推移していた。
いっぽう、この融資の金利を払う経済の能力、つまり国民所得の伸びはその半分でしかなかった。非生産的な信用創造の行き過ぎの典型的な例である。
銀行システムが生み出していたマネーは生産的に使われていなかった。それどころか、投機と衒示(げんじ)的消費に費やされていた。

無から大量のお金が生み出され、不動産市場に流れ込んで土地購入に向かえば、土地の需要は上昇する。土地の供給は限られているから、地価は上がる。投機家はキャピタル・ゲインを手にする。それが更に投機を呼ぶ。

□一見、安全で健全だが
地価上昇で、銀行家はさらに元気づいて貸出を増やす。1927年の銀行危機以来、日本の銀行は担保依存になり、その担保はほぼまちがいなく土地を意味した。銀行と同じ企業グループに属する大企業は、担保保証なしでも融資を受けられた。だが、借り手のほとんどは土地を担保にしなければ金を借りられなかった。この場合、銀行は融資の使い道をほとんど気にしない。アメリカで広くおこなわれているもうひとtつの方法だと、提案されている投資プロジェクトが生み出すキャッシュ・フローを計算する。
だが日本の銀行は、キャッシュ・フローの見通しなど危険すぎると考えた。企業がどれだけの商品を売れるか、銀行が正しく判断できるだろうか?

銀行は担保重視の方法を好んだ。シンプルだからだ。融資担当者は毎年公表される各地の「路線価」を調べ、この市場価値の70%まで融資した。70%ルールは、安全な率を確保したい大蔵省が銀行に命じたものだった。これなら、地価が30%下落しても、融資をカバーするのに充分な担保価値がある。

土地担保方式は、信用を戦略的産業に振り向け、消費者が金を借りられないようにしたい為政者の目論見にも合っていた。大都市のほとんどの土地は大企業の手にあり、資金を調達するのに役立った。都市部の地価が急騰すると、企業はさらに多くの融資を銀行から引き出すことができた。戦後を通じて、土地は日本の金融システムの柱だったのである。

地価は戦後、ほぼ着実に上昇しつづけた。もちろん、1970年代はじめのバブル後に地価が下がるといった例外はあった。だが、1980年代半ばに仕事をしていた融資担当者の世代にとっては、地価は下がるはずがないものだった。多くのエコノミストもこの見解を支持し、土地需要は増えるいっぽうだと主張した。1980年代には「グローバル化」と「国際化」が華々しいキーワードで、外国金融機関は東京での営業を拡大していた。彼らにはオフィスースペースが必要だった。しかも投機熱が高まって、さらに多くの金融機関が創設されると、ビジネス街の土地需要は急増した。ほとんどの人たちは、単純にその傾向が将来も続くと考え、不動産アナリストは21世紀まで地価は上昇しつづけると予測した。

価格の上昇がさらなる投資を呼び、それがさらに価格を押し上げるという典型的なバブルが形成されていた。しかし、これは経済のファンダメンタルに根ざしたものではなかった。すべてのバブルと同じく、銀行システムが急激に創造する新たなお金によって支えられていただけだった。

□合成の誤謬(ごびゅう)ふたたび
個々の融資担当者は危険に気づけなかった。彼らは地価を所与の変数と考え、自分たちが影響を及ぼせるはずがないと思っていた。だから地価をもとに貸出を増やした。
だが、すべての融資担当者が同じことをして、不動産購入の資金を貸し出せば、地価は上昇する。銀行は合成の誤謬に陥っていた。どの銀行も土地を確かな担保だと考え、銀行の集団的な行動が地価を上昇させていることにも、したがって安全どころではなく、不動産投機は増加する銀行融資に依存していることにも気づかなかった。
結局、銀行システム全体が信用リスクを過小評価していたのだ。銀行はそれぞれ、不動産融資は安全だと思っていた。ところが、不動産取引のための貸出総額が減少すれば地価は下落する。

銀行の貸出総額のうち不動産投機に費やされた割合は莫大だった。1989年末までに、不動産融資は銀行貸出総額の12%に達していた。ところが、話はそれだけではすまなかった。建設業種への貸出も同じく土地投機に使われていた。これが貸出総額の5.4%。さらに、多くの企業や銀行がノンバンクの金融機関をつくって、そこが銀行から金を借りて不動産投機に融資していた。これがさらに貸出総額の10%になる。これだけで、「バブル」融資は貸出総額の27%という驚くべき率に達する。
絶対額でいえば98兆9千億円、1989年の名目国内総生産の25%だった。70年代末には、建設、不動産、ノンバンクという三つの「バブル」業種の率は15%、名目国内総生産の9.9%にすぎなかった。

現実には、まだほかにもあった。形式的には他の目的に分類される多くの貸出が、じつは不動産投機に使われていた。たとえば「サービス業種」への貸出は80年代末に急増したが、その多くは投機資金だった。「製造業」への貸出でさえ、表向きは操業資金やプラント、設備への投資だったはずだが、実際には「財テク」という投機的投資に流れ込んでいた。
これを考えれば、創出された信用のなんと3分の1以上が生産的な投資に使われずに空費されたことになる(三つのバブル業種への貸出にサービス業種と製造業種への投資的な貸出をあわせると,銀行融資総額の37パーセントに達する)。

□どうぞ、借りてください
銀行はふつう、多くの融資申し込みのなかからどれに応じるかを選択し、大部分は断る。1986年から87年にかけて、銀行の融資姿勢は単にゆるいという程度だった。だが1987年以降は関係が逆転した。銀行のほうが積極的に顧客を追いかけだしたのだ。大手の借り手が必要なだけの資金を借りてしまうと、銀行は借り手を増やそうと中小の不動産会社やデベロッパーに精力的に働きかけた。銀行は貸出帳簿の数字をふくらませようと激しい競争を始めた。

銀行が貸出額を増やすのに夢中になっても、必ずしも生産的な信用創造は増加しない。経済のファンダメンタルによって、つまり生産要素(土地、労働、資本、技術)のインプットとその質的な利用法(生産性)によって決まるからだ。
だが、銀行は非生産的な信用創造ならいくらでもできる。借り手にキャピタル・ゲインが獲得できるといううまい見通しを与えればいい。これは担保融資を中心にすれば可能だ。土地や株式などの資産を根拠に信用創出と配分かおこなわれる部分だ。融資を担保の評価額いっぱいに上げることで、銀行は儲かりそうだと思う多くの借り手を獲得した。
借り手がこの種の担保物件を購入すればするほど価格は上昇し、借り手のキャピタル・ゲインが増えて、投資は利益を生むことになる。銀行も借り手もさらに熱心になり、それが評判になれば、ますます多くの個人や企業がゲームに参加したがった。

1980年代末、銀行の融資担当者はこんなことをしていた。路線価のかわりに、たとえば前年の伸び率をそのままあてはめて、翌年の予想地価をはじきだしたのだ。したがって、表向きの担保のかけ目は70%でも、「推計」地価が引き上げられていたから、借り手はそのときの市場価値でいえば担保価値の100%以上の資金を借りることができた。

まもなく、それでもまだ足りなくなった。融資担当者は2年後の地価を推計しはじめた。銀行はますます地価を水増しするようになり、そのために融資額は現実の担保価値の300%以上に跳ね上がることも珍しくなかった。

□うちから借りなければいけません
銀行が金利を値引きしてまで顧客獲得に走ったことを語るエピソードは山ほどある。
たとえば、小さな不動産開発会社のオーナーは、1987年末にそれまで取引のなかった大手都市銀行の支店長が訪ねてきた、と言う。
支店長は取引を申し出ただけでなく、銀行から金を借りてくれと懇願した。金利はいくらでもそちらの言うとおりでいい、と彼は確約した。
「どうか借り入れをしてください。金利だの返済予定だのというご心配はいっさいいりません」
と支店長は言った。社長のほうが、べつに資金を必要としてはいない、と断ると、支店長は部下につくらせた具体的な不動産プロジェクトの資料を取り出した。そして、東京の商業地域にちょっとした土地があり、6億円で買えると説明した。
銀行は担保価値の70%までしか貸せないのだから、ふつうならこの土地については4億2000万円しか貸すことができない。しかし、銀行はその土地について11億円の架空売買契約書をつくった。この契約書を使えば、開発資金を7億7千万円まで融資することができる。
表向きは担保価値の70%という比率は守られるが、現実には100%を優に超える融資がおこなわれていたのだ(山室博之『Bubble, then Double Toil and Trouble』The Dairy Yomiuri.1996.7.31)。

文書になったものだけでも同様のケースはまだまだある。銀行の貸出担当者は上司に貸出額を増やせと責められて、借り手になりそうな顧客を探し回り、投機的な土地購入にふんだんに金を貸した。
その土地は担当者が前もって選び、価値を「推計」しておいて、キャピタル・ゲインを「保証」するという仕掛けである。

銀行はどう見ても、必死になって金を貸したがっていた。素人には奇妙な現象に映る。そこで、まもなく「金あまり」という言葉が生まれた。

エコノミストやアナリスト、金融市場や不動産の関係者たちは、自分たちはもっとよく理解しているつもりで、素人との単純な分析を一蹴した。
「地価が上がるのは金あまりのせいなんかではない、はるかに複雑な理由があるのだ」、と彼らは主張した。
「一般人には高度な金融の技術が理解できないだけだ。金融と経済を大学で勉強した専門家は、市場価格はつねに正しく、したがって地価も正当であることを理解できるのだ」、と。

□典型的な信用バブル
蓋を開けてみれば、専門家よりも
巷(ちまた)の一般人のほうが賢明だった。

「金あまり」とは、まさに言い得て妙だった。銀行はあまりに多くの金を貸し、あまりに多くの金を創造した。
消費に使われる金はそう多くはなかったから、消費者物価はほどほどにとどまった。
金は金融取引に使われ、資産価値が上昇した。資産インフレ、いまでは「バブル」と呼ばれる現象が起こったのである。

個々の銀行は気づいていなかったが、彼らは集団で地価を押し上げていた。これが、70年代はじめに起こった日本の不動産価格上昇の実態である。80年代にスカンジナビア諸国で起こった不動産ブームも同じだった。80年代にアメリカやイギリスで担保融資が盛んになり、住宅価格が高騰したのも同じ仕組みだ。
同じプロセスが、20年代には「ゴールデン・トゥエンティズ」を生み出した。アメリカの銀行は株を担保に金を貸した。原理は同じである。各銀行が株価を所与と考えれば、株価は上昇せずにはいない。銀行は株価の何割かを担保として認めても安全だと考えた。しかし、すべての銀行が同じ行動に出れば、株式相場は上昇する。するとますます多くのお金が創造される。
銀行が押し上げる信用ブームは90年代の韓国やタイ、インドネシア、マレーシアなどでも起こった。すべて、同じ物語である。
そして、信用ブームのなれのはてもまた、つねに同じだ。信用の崩壊、銀行危機、深刻な不況である。

□債務が所得より急増すれば、災厄は目前
銀行融資は国の借金と言うこともできる。借金の金利を払えるかどうかは、所得の創出に左右される。つまり、国内総生産の伸びである。おおまかに見て貸出額の伸びが国内総生産の伸びを上回る分だけ、非生産的な信用創造がおこなわれているということだ。
このお金はすべて、生産に使われるのではなく、土地や株式市場での投機に使われた。そして、債務しか残さなかった。信用創造の額の大きさを考えれば、アインシュタインでなくても、日本が破滅に突き進んでいたことはわかる。個人だろうと、会社あるいは国家だろうと、借金が増えるほうが、所得が増えるよりも早ければ、どこかで返済が不可能になるに決まっている。

資産価格は新たなお金が市場に流入しているあいだは上昇する。信用がふくらませたバブルを破裂させるには、貸出額の伸びを抑えればいい。
信用というピラミッド全体は、トランプの家のようにがらがらと崩れ去る。資産価格は下落する。おおぜいの投機家は多額の借金を抱えて放り出されるっ彼らは資産価格が上がらなければ金利を払えない。まして、元金など返済できはしない。そこで、資産を叩き売る。
資産を叩き売りする投機家が増えれば、資産価格はますます下がる。投機的な借金がさらに白日のもとにさらされる。多くの投機家は破産に追い込まれる。銀行には不良債権が積み上がる。
あれこれを考えあわせれば、問題の最終的な規模を推測するのはたやすい。バブルが破裂すれば、国内総生産の伸びを上回る貸出額の伸びの分だけ、不良債権化する。

□バブル崩壊-1990年代の物語
そしてもちろん、1990年代にこのとおりのことが起こった。
1989年半ば、銀行はとつぜん貸出額の伸びを抑えだした。半年後、株価が最高値をつけて、急落した。つぎに、地価の上昇が止まった。
資産市場に新たな金が流入しなくなると、資産価格はもう上がりようがない。投機家はポジションをカバーするために売りに出た。1990年だけで、日経平均株価225種で見た株式相場は32%も下落した。
地価も急激な下降に転じた。商業地区でとくに投機対象となった土地だと、「市場価値」が70%以上も下がった。
不動産投機家はますます追いつめられた。彼らが破産すると、銀行のほうは何十年もなかった不良債権の不安を感じだした。問題があっというまに拡大しかねないことに、銀行は気づいた。
そこで、銀行は慎重になった。慎重になったどころではなかった。不動産や建設関係、ノンバンクの金融業者への貸出を急激に引き締めたのだ。
そのために、資産価格はますます下落した。市場に流人する新たな資金がますます減ったからだ。破産件数は増加した。

潜在的な不良債権の規模の大きさにおののきはじめた銀行は(99兆円の「バブル」融資のほとんどが焦げつく可能性があった)、恐怖のあまり投機家への融資を止めただけではなく、バブルとは何の関係もない製造業の企業への融資も制限しだした。

□信用収縮(クレジット・クランチ)
下請けを抱えた日本の戦時および戦後の企業システムは、少数の大企業がてっぺんにいて、多くの中小企業が裾野をつくる階層構造になっている。
中小企業は社債を発行できないから、外部資金を調達しようと思えば全面的に銀行融資に頼らざるをえない。そこで当然ながら、彼らが銀行の最大の顧客だった。
1980年代に投機家への融資が増えても、その事情は変わらなかった。厄介なのは、中小企業への貸出は大企業へのそれよりもつねにリスクが大きいということだ。そこで1990年代はじめ、不良債権を抱えた銀行は債務不履行のリスクを避けようとして、中小企業への貸出を減らした。
1992年以降、中小企業は信用収縮に苦しめられるようになった(多くのエコノミスト、とくに銀行や日銀に雇われているエコノミストは、1990年代に信用収縮があったという主張に反論して、資金需要がなかったのだと言う。しかし,信用市場はつねに需要超過の状態にある-価格に関係なく資金を借りたい者がいつでも存在する-から、銀行が融資を割り当てることができるのだ。さらに、信用収縮には経験的な証拠がある(馬場直彦『Empirical Studies on the recent decline in bank lending growth:an approach based on asymmetric information』1996,institute for Monetary and Economic Studies,日本銀行議事録96-E-10,2月。松井聖『近年における銀行の貸出供給と実体経済の関係について-クレジット・クランチ論に関する考察』1996,日本銀行金融研究所IMES議事録、96-J-17,10月。著者『'has there been a'Credit Crunch' in Japan?』1996,Paper presented at the Fifth Convention of the East Asian Economic Association,Bangkok,10月 などを参照)。
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(馬場直彦)

経済にもつ意味は大きかった。中小企業は日本最大の雇用主なのだ。雇用総数の70%は中小企業が占めている。影響はただちにあらわれた。中小企業は終身雇用だの年功賃金などという贅沢はできなかったからだ。
こうした構造は戦時の経済官僚が大企業向けに維持したものだ。不況時には中小企業はすぐにボーナスや賃金をカットするし、労働者を解雇する。
日本の主たる雇用主は中小企業だから、失業率は1992年から上昇しはじめ、可処分所得は減少した。中小企業の従業員は当然ながらクビを心配して消費を減らし、貯蓄を増やした。
消費が低迷し、企業は製品が売れなくなった。だが企業は新しい工場を建設し、生産能力を拡大したばかりだった。売れない商品の在庫が増加した。価格は低下した。
大企業でさえ、コスト引き下げ策をとらなければならなくなった。労働市場はさらに悪化した。
要するに、日本は本格的な不況に突入したのである。

これは予想できたことだった。麻庫した銀行が貸出を減らし、経済全体の信用創造量が減少した。購買力は少なくなる。その結果、国内総生産の伸びは急激に落ち込んだ。失業者の数は戦後の記録を更新した。職を失い、就職口を見つけられなかった日本人は500万人以上にのぼったと思われる。

ここでも、大半のエコノミストは首をひねった。
彼らは不況を予測できなかった。それどころか、1991年以来、9度にわたって公定歩合が引き下げられると、そのたびに金利が経済成長の優れた先行指標だと考えて、これで景気は回復する、と予想した。

(そこで、)1991年末に筆者が、日本の銀行は破産の瀬戸際に追い込まれ、大々的な信用収縮が発生して大規模な不況になるだろう、と警告したとき、専門家として名の通った人々はこの予測を退けた
(著者の警告については『The Great Yen Illusion:Japanese Foreign Investment and the Role of Land related Credit Creation』1991,Oxford Institute of Economics and Statistics Applied Economics Discussion Paper,No.129。または『Towards a Quantity theorem of Disaggregated Credit and International Capital Flows』1993、paper presented Royal Economic Society Annual Conference, April)。
世界に冠たる日本、輸出品が世界の市場シェアを制覇し、地球上の各地の資産を買い集めている日本が、どうして本格的な不況に突入したりするだろうか、と。

不況だと認められたあとも、それは予想より長引いた。
理由は簡単だった。
より多くの信用創造がおこなわれなければ、経済は成長しない。金利が下がっても、信用創造量が少なければ何の役にも立たない。
しかし、1993年から94年、東京のほとんどのエコノミストは信用収縮を否定した。
彼らの理屈には信用創造という、すべての経済の核心にあるプロセスが含まれていなかったのである。

□あらゆる謎は信用で解ける
信用関係の数字を見れば、ことは簡単にわかる。
図9・1は、銀行の不動産融資と地価を示している。
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ごらんのとおり、両者には高い相関関係がある(統計学的検証でも裏づけられている。
(著者『Towards a New Monetary paradigm:A Quantity Theorem of disaggregated Credit』1997,with Evidence from Japan, Kredit und Kapital ,vol.30,no.2,276~309p。またはこちら)。
信用はまた、伝統的な「マネーサプライ」数値がもはや、国内総生産とあまり連携していないことを教えてくれる。

国内総生産には数えられない取引に使われるお金がますます増えているのだ。つまり投機的な金融取引と不動産取引である。
名目国内総生産の伸びは、国内総生産に含まれる取引に使われる信用創造とだけ関連していると考えるべきだ。言い換えれば、貸出総額から三つのバブル業種をのぞいた額が、名目国内総生産の伸びと密接に関連している。図9・2は、これが事実であることを示している。
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国内総生産にまわる信用創造という指標を使えば、1980年代の好況だけでなく、1991年以降の国内総生産の急激な落ち込みも説明できる(国内総生産と通貨の関係が崩れたことにエコノミストは首をかしげ、多くの研究や調査報告が生まれたが、要するに、通貨:マネーの定義が間違っていて、国内総生産に含まれない金融取引が無視されているのが原因である。われわれのモデルでは、生産的信用と国内総生産の比率、つまり通常、流通速度とエコノミストが呼ぶものは一定である)。

□マネーをつくって世界を買え
最後に、われわれの信用モデルを使えば、1980年代に世界を席巻し、1991年に崩壊した日本の対外投資の謎も解明できる。日本は要するにせっせとマネーをつくって世界を買っていたのだ。

個人がお金を印刷して、買い物三昧をするのは違法だが、中央銀行は好きなだけお金をつくる権限をもっている。警察も止めにはこない。
だが、一国がお金をどんどんつくって世界を買い占めに行くというのは、そう簡単ではない。外国の資産を買うには、国内通貨を外貨に換えなければならない。変動相場制のもとでは、外貨需要、たとえば米ドルの需要が異常に増大し、当該国の通貨供給が異常に増えれば、外為ディーラーが目をつける。これはすぐに為替レートにはねかえる。さらに、外為ディーラーは通貨を扱っている各国の主要な経済指標にも目を配っている。ある国のインフレ率が上昇すれば、中央銀行が大量にお金をつくっている証拠だ。そこで、その通貨のレートは下落する。

ところが、落とし穴がある。お金を大量につくっても、為替レートが自動的に下がるとはかぎらない。
外為デディーラーは自分たちが得た情報をもとに行動し、それが為替レートを動かす。ディーラーが注視している伝統的な指標が通貨の過剰な創造を示さず、その国の経常収支が黒字であれば(その国は世界に商品を売っているのだから)、通貨の需要はあり、余分のお金を大量に印刷してそれを米ドルと換えてもうまくいくかもしれない。巧妙な金融トリックが奏功する。
その国は紙幣を印刷して外国の資産を買えばいい。エコノミストは為替レートが通貨の変動を反映しない現象を「貨幣の錯覚(マネー・イリュージョン)」と呼ぶ。

□円の錯覚-日本はお金を印刷して世界を買った
1980年代に日本で起こったのは、過去最大の貨幣の錯覚だった。国内投資家や銀行だけが、貨幣の錯覚にだまされただけではなかった。全世界がだまされたのだ。
じつは日本はお金を印刷して、世界を買っていた。
ふつう、インフレは消費者物価指数で測る。だが、これまで見てきたとおり、過剰に創造されたお金は商品やサービスの購入に使われたのではなかった。過剰な通貨のほとんどは金融取引に向かって、資産価格インフレを起こした。
そのため、消費者物価指数は安定し、1980年代前半は平均1.3%程度だった。卸売物価指数は輸入価格の下落のおかげで、1980年代後半には平均して2.7%も下がったくらいだったし、前半は2.3%程度の上昇だった総務省統計局統計センター)。

莫大な資本の流出が日本のバブルと結びついていたという見方を、有名なエコノミストたちは退けた。彼らは、地価の高騰が資本の流れに影響を及ぼすはずはないと主張した。日本人が売った土地は、ほとんどべつの日本人が買っている。したがって、対外投資能力の増大にはつながらない。土地の売り手は持ち金を増やしたかもしれないが、買い手のほうでは減っている。これはゼロサムーゲームだ、と。
だが、実際には地価の上昇は過剰な信用創造によって引き起こされたものだった。
この過剰なお金が外国へとあふれ出したのだ。

現実には、日本の大手の不動産開発業者が日本の銀行から金を借りて、ハワイやカリフォルニア、ニューヨークなど各地の優良不動産を購入するという直接的なルートでも起こったが、間接的なルートもあった。過剰に創造された信用が、生命保険会社など金融機関の資産を増大させたのだ。
自由になる金が増えたので、これらの機関は投資を増やさねばならなかった。そうなれば、ポートフォリオの多様化という見地から見て、外国の資産を買うべきだ。不動産から米国債、そして外国の企業などである。

したがって、日本の対外投資は非生産的な信用創造に比例しているはずだ。図9・3は、日本の対外投資と不動産融資を比較したものである。
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おわかりのように、非常に変動の激しい金融データとしては珍しいほど、きわめて高い相関関係がある。
日本は新たなホットマネーを創出しては、世界を買いあさったのだ。膨大な資本の流出にもかかわらず、円は弱くならなかった。それどころか、円は1985年から87年までに106%も上昇した(※)。

日本は1950年代、60年代にアメリカの銀行が米ドルを過剰に創造したときに使ったのと同じトリックを用いた。
アメリカ企業はこのホットマネーでヨーロッパの企業を買いあさった。当時、ヨーロッパにおける「アメリカの挑戦」と言われたものだ(タコ注:それでフォート・ノックスの襲撃からニクソン・ショックに繋がるのは先に見た通りです)。
アメリカには基準通貨ドルという隠れみのがあったが、日本には莫大な貿易黒字があり、それで人々は「円は強いのだ」と思い込んだ。円は弱くならず、世界は歴史上最大の貨幣の錯覚、「円の大幻想」に苦しむことになったのである(より詳細な統計的検証は著者『Towards a New Monetary Paradigm:A Quantity Theorem of Disaggregated Credit』1997, ,with Evidence from Japan, Kredit und Kapital ,vol.30,no.2,276~309p。またはこちらを参照のこと)。

【※日本銀行と経済企画庁のデータペースや大半の日本の対外投資モデルと異なり、われわれは「直接」投資と「ポートフォリオ」投資を区別しない。まず、この二つの違いは理論的に考えるほど明確ではない。
外国企業の株式の10%という恣意的な率を超える外国企業のエクイテイ投資は、「対外直接」投資に分類され、10%未満だと「ポートフォリオ」投資とみなされる。多くの企業の株式取引には変動があるから、ポートフォリオ投資と対外直接投資を区別するのは難しい。
だが、もっと大きな問題がある。マクロ経済学的にみれば、この二つの投資は密接に関連している。一方が増えれば、一方は減る。言い換えれば代替性があるのだ。
これは考えればすぐにわかる。日本企業がスコットランドにプラントを建てることを考えたとする(「対外直接」投資)。このプロジェクトを実施するかどうかは、企業独自の判断で決定されるのであって、外国のプラント建設の費用をどう調達するかで左右されるわけではないのは明白である。プラント開始は必ずしも国際的な資本の移動を意味しない。日本企業は地元で資金を調達しようと考えるかもしれない。その場合,「対外直接」投資は国際取引として国際収支勘定に記入されることはない。
しかし、われわれが関心をもっているのは国際収支に計上され、金融資本が日本から諸外国に移動するケースである。日本の資本が使われるか地元の金が使われるかは、マクロ経済学的環境の結果であって、プラット建設地に関するミクロ経済学的決定と違って、国際貨幣の経済学に影響する。たとえば、なぜ日本の対外投資の大半が日本発の通貨で支払われたのか?このお金に日本で利用可能な資金総額の一部があてられるとすれば、結果として対外「ポートフォリオ」投資はその分だけ減少する。したがって,ポートフォリオ投資と対外直接投資は、一方が増えれば一方が減るという関係にある。
このふたつの対外投資が完全に代替することは検証済みであり、強力な裏づけもある。詳細については著者『’Japanes Foreign Investment and the’Land Bubble”』1994,Reveiew of Internatinal Economics,vol.2,no2,June.166-178pを参照のこと。】

第10章 不況を解消する法
□「七年の豊作、七年の飢饉」
1995年半ば、日本の不況はすでに大半のエコノミストが予測したよりはるかに長引いていた。日本経済を見るアナリストや投資家は暗い悲観論にとらわれざるをえなかった。円は1ドル80円あたりまで上昇してしまった。ほんの半年前まで、多くの人々が夢想だにしなかったことだ。
輸出業者は追いつめられ、需要は完全に低迷し、生産は伸び悩み、在庫は積み上がって、企業は生き残りをかけたコスト削減に必死だった。競争激化と規制緩和がさらにデフレ圧力を強めた。価格破壊を見た消費者は買い物を手控え、コスト削減策の結果、失業は戦後はじめてという水準にまで増加した。いっぽう銀行システムは不良債権の重みにあえいでいた。

1996年、景気は一時上向いて大多数の識者を驚かせたが、97年、98年とまた落ち込んだ。このときは、円も道連れにされたかっこうだった。98年6月15日にはIドル147円と、98年4月のピーク時の80%にまで下がった。だが、円安も日本経済には追い風にはならなかった。
それどころか、このとき、大多数のアナリストは円安を日本経済の弱さの証拠だと考え、資本流出は経済崩壊に向かっている徴候だと思った。

なんとか景気を再活性化させようという当局の試みはことごとく失敗した。
下降スパイラルは加速し、ついに需要減少、価格低下、窮状に陥る企業、さらなる需要の減少という悪循環が始まった。景気回復について考えるエコノミストはほとんどなかった
だが1999年、多くの識者は景気の急激な回復にふたたび意表をつかれた。
東京株式市場の株価は50%近くも上昇した。しかし株価は2000年第1四半期でピークに達し、2000年後半には株式市場も経済もふたたび低迷状態に落ち込んだ。
2001年はじめには、ほとんどの評者が速やかな景気回復はありえないと匙を投げていた。不況が底を打つのがいつになるにせよ、どうせだいぶ先に決まっているし、回復の足どりは重いに決まっている。日本経済には問題が山積しているから、不況からの脱出は遅いにちがいない、それも脱出できればの話だ、というのだった。

□犯人は誰だ
1992年以来、政府と大蔵省は金利を操作して景気を回復させようとしてきた。
1998年までに公定歩合は9度引き下げられて、長期金利は1%以下に下がった。それでも、景気は泥沼から出られなかった。金利政策の失敗が明らかになると、政治家たちはケインズ的な財政政策による刺激を要求する。景気回復のために1ダースもの大規模な総合経済対策が実施され、その総額は1992年以降、125兆円を超えた。

マネタリスト、ケインズ学派、どちらの処方隻も効果がないとあって、エコノミストの多くは、あとはどんな策が残っているかと考えた。そして、不況は日本経済のシステムに起因しているという主張に耳を傾けはじめた。不況脱出策はただひとつ、規制緩和や市場公開といった徹底的な構造改革を実施することだというのだ。1998年ごろまでには、歴史的な構造改革をおこなうべきだという明確なコンセンサスが生まれていた。経済界の指導者、政治家、さらには驚いたことに官僚たちまでが、構造改革が不可避であると言いだした。

この結論はきわめて魅力的だった。絶好調で衰えを知らない1990年代のアメリカ経済を見ればなおさらである。高い経済成長、記録的な低水準の失業率、インフレ率は低いのに資産価格が上昇して、アメリカ経済は新しい時代に入ったかに見えた。これは自由市場がもたらした生産性向上の成果だと言われた。
1996年以来、毎年恒例のG7サミットは、アメリカ大統領と財務長官がアメリカ経済の優位性を自慢する場になった。一国の経済を成功させたければ、規制緩和、自由化、民営化か不可欠だと、彼らは聞く耳をもつ者には誰にでも説いてまわった。日本をはじめアジア諸国の景気低迷で、古い経済システムを捨ててアメリカが先鞭をつけた繁栄のモデルを導入すべきだというアメリカやIMFなどの国際金融機関の圧力、それに日本やアジア諸国内の世論は盛り上がった。

ほんの10年ほど前には立場がまったく逆だったことは都合よく忘れ去られていた。1991年には、アメリカ経済が不況のまっただ中にあった。80年代にアメリカの銀行は不動産投機への貸出を増やしすぎ、1990年には不良債権のためにアメリカ有数の銀行までが破産しかけていた。銀行はリスクを避け、貸出意欲も能力も低下した。その結果、銀行融資が頼りの中小企業は窮地に追い込まれた。中小企業は従業員を解雇し、需要は衰えた。信用創造が崩壊し、1991年、経済はマイナス成長になった。

当時、アメリカの経済構造に対する悲観的な見方は、1999年の楽観的な見方と同じくらいひろく世界に浸透していた。多くの論者が、アメリカは、バブルのピークを超えたばかりで相対的に優れていると見えた日本のシステムを導入すべきだとさえ主張した。
1991年には、ほとんどの人たちが、新しいミレニアムを迎えるころには日本経済がアメリカ経済を凌駕しているだろうと予想した。21世紀は日本の世紀になるだろうと言われていた。

何か経済システムを成功させるのかといった評価は、その経済が景気循環のどの段階にあるかでまったく違ってくるらしい。好況のときには、評論家はその経済システムを称える。不況はシステムがまちがっている証拠だ、と貶す。
だが現実には、どちらも景気循環を反映しているにすぎない。
そして、景気循環は信用創造によって決まる。

政府の財政支出は効果なし
しかし、1990年代の大半を通じて、日本経済を分析した人々の大半は、貸出が伸び悩んでいるのは資金需要がないからだと主張していた。彼らが処方した政策は、国内需要を政府の財政支出によって底上げすれば資金需要も増加するだろう、というものだった。十年にわたって政府はこのアドバイスにしたがい、政府の債務は歴史的なレベルにまで増加し、日本の財政は蝕まれた。

ところがすでに第4章で見たとおり、信用市場を決定するのはつねに信用供給である。マネーの場合は、リンゴやオレンジと違って、つねに需要がある。取締役は有限責任だから、お金を借りてリスクの高いプロジェクトに投資したいと考える起業家はつねにありあまるほどいる。信用の潜在需要はきわめて大きく、銀行がそれにしたがって金利を引き上げれば、まっとうな感覚をもった保守的な投資家は逃げ出してしまい、銀行の顧客は高リスクの起業家だけになる。だから銀行は金利を市場の実勢相場よりもはるかに低く設定し、そのかわりに借り手を選ぶ。銀行が信用を割り当てるのだ。その結果、信用市場はつねに供給によって決定される。

財政支出で需要を押し上げることはできない。購買力が、たとえば大規模な公共事業を受注する建設業の手に移転するだけだ。ほとんどのエコノミストは単純に経済対策費を足しあわせ、その分、国内総生産が増加すると信じていた。ここでも合成の誤謬が生じる。重要なのは財政支出が何によってまかなわれるか、ということだ。
1990年代に圧倒的だったように、純粋な財政政策の場合、大蔵省が国債を発行して資金を調達する。
したがって、民間部門を刺激するための財政政策資金は、まず民間部門から吸い上げられる。国債を買う投資家は、その前にほかの投資先から資金を引き上げなければならない。
財政政策は新たな購買力を創造しない。単にすでに存在する購買力を再配分するだけだ。つまり、
純粋な財政政策だけでは経済成長を高めることはできない。
財政政策は経済成長に対して中立なのである。

信用創造は経済のパイの大きさを決める。
(対して)財政政策は与えられたパイを民間部門と政府部門でどう分けるかを決定する。

信用創造の額が変わらなければ、財政支出の増加はその分だけ民間部門の購買力を減らす。
したがって、国民所得のなかの民間の取り分は減少する

(量的クラウディング・アウト)。
とくに銀行の主たる顧客である中小企業は、1990年代の大半を通じて信用収縮(クレジット・クランチ)に苦しめられてきた。これが需要を押し下げ、国内総生産を低下させた。

□印刷しろ
経済回復の必要十分条件は、新たな購買力の創造だ。
これによって、経済のパイが大きくなる。

購買力を創造できるところは二つしかない。銀行システムと中央銀行である。
したがって、景気回復策はどちらかの方法、あるいは両方で信用創造をめざすものでなければならない。
銀行を支援する政策には時間がかかるだろう。だが、だからといって速やかな回復ができないわけではない。銀行が充分なお金を創造できなくても、
中央銀行は単純に紙幣を印刷できる。
1992年以来、いつでも日本は景気回復できた。必要十分条件は日本銀行が印刷機のスイッチを入れること、それだけだった。

こうして紙幣を印刷しても、インフレは起こらない。経済の生産能力が100%稼働していれば、余分な紙幣の印刷はインフレにつながる。だからこそ、デフレのもとで生産資源がありあまっているときには、紙幣を印刷すれば需要が増大して、デフレから脱却できる。
インフレになるのは、経済が拡大してあらゆる生産要素が全部使われているとき、失業率が最低限まで下がり、すべての工場がフル稼働し、投資が盛んで、それ以上は供給を増やせないときだ。
そこで、景気が充分に上昇すれば、中央銀行は印刷機の回転を遅くしなければならないだろう。しかし、1990年代の日本にはそんな心配はなかった。

□お金をつくれば需要が増加する
もちろん、「お金を印刷する」とは、単に紙幣を増やすことだけを言うのではない。
現在は、流通通貨の大半は「帳簿上のマネー」、
もっと正確には
コンピュータ・マネー
というかたちをとっている。

中央銀行はいつでもこのマネーを無制限に増やすことができる。
民間部門から資産を買い上げて、新たに創造した信用で支払えばいい。
経済的にみれば、中央銀行が何を買おうが問題ではない。ネクタイでも歯ブラシでも何でもかまわない。

たとえば、日本銀行が原田氏の家を買おうとしたとする。市場価格以上の値をつければ、原田氏は売る気になるだろう。だが、日銀のほうはそれで差し支えない。紙幣を印刷する、もっと正確には新たな購買力を無から創造することができるからだ。原田氏のほうも、現金で払ってくれても、日銀が彼の銀行の口座にお金を「移転」してくれても(つまり、彼の銀行の日銀当座勘定の額が増え、つぎにその銀行の彼の口座が増えても)かまわないと言うだろう。原田氏の購買力は増加するし、彼は少なくともその一部を使って何かを、たとえば住宅を買うだろう。原田氏はどこかに住まなければならないからだ。彼は新たに印刷されたお金を売り手に移転する。その人物はまた何かを買って、誰かにお金を渡す。さらにその相手の人物もまた、というぐあいに連鎖的に進み、とつぜん経済取引は活発になり、経済が活性化する。日銀は無から需要を増大させたことになる。

□実際にはこうなる
現実には、日銀はあまり不動産を買わない(住宅や風光明媚な土地にあるクラブハウス、ゴルフ場とテニスコートがついたレクリエーション施設などを、スタッフのために取得してはいるか)。短期に大量のお金を経済に注入するためには、中央銀行は国債や企業が発行するCPを購入することが多い。日銀が市場でこうした商品を買うと、土地を買うのと同じように経済活性化に役立つ。

少し考えれば、このことはすぐにわかる。銀行が不良債権の重みでにっちもさっちもいかなくなって、多くの中小企業は信用収縮に苦しめられている。解決法のひとつは、企業がCPや社債などの債務証書を発行することだ。
この債務証書を日銀が買い上げて、新たに印刷されたほやほやの円で企業に代金を支払う。そうすれば、企業はお金を受け取ることができる。零細企業なら、社債を発行する大企業からの信用取引のかたちで、間接的に資金を手に入れられる。結果は同じだ。
銀行が貸出という仕事をせず、新たな金を創造しないなら、日本銀行が出ていって、国家の銀行の役割を果たせばいい。

べつの見方でも、「紙幣を印刷」すれば簡単に景気を回復させられることはわかる。
投資家に国債を売ってまかなった純粋な財政支出が経済成長を押し上げられないことは、先に見たとおりだ。新たな購買力は創造されず、すでにある購買力が移転するだけだからだ。
しかし、財政政策が信用創造で裏づけられれば、効果がある。
国債を民間部門に売るのではなく、中央銀行が引き受ければ、信用創造が増加し、財政政策によって新たなお金を経済に注入することができる。違いが出るのは財政支出のせいではなく、お金を創造するという中央銀行の行動のためだ。

□紙幣を印刷して、公園をつくれ
ロンドンの一人あたりの公園面積は26.9平方メートル、ニューヨークは29.3平方メートル、パリは11.8平方メートルだ。だが、東京は世界の主要都市のどんじりで、一人あたり5.34平方メートルにすぎない。しかも、東京は日本の大都市のなかでも公園面積の比率が少ない。
需要を押し上げ、経済を剌激し、不動産市場を活性化させ、同時に東京の暮らしの質を高めるよい方法がある。
日本銀行が通貨を印刷して東京中の土地を買い上げ、公園や市民のための施設をつくるのだ。一人あたりの公園面積を少ないほうのパリなみに引き上げるために紙幣を印刷すると、ほぼ70兆円の資金が経済に注ぎ込まれるだろう。ちょうど不良債権の額に匹敵する。
もちろん、もっと生産的な方法で新たに印刷したお金を使うこともできる。
市民のニーズに応える優れた医療システムや老人のための福祉施設を建設してもいい。

ある意味では、1990年代のバブル崩壊は、大量の紙幣を印刷して、それを国民のために使う千載一遇のチャンスだった。しかも、通常なら支払わねばならないインフレという代価すらいらなかったのだ。

こうした事例はすべて、1992年から93年ごろにすでに景気を回復させることがいかに容易であったかを示している。何百万もの失業者が職を見つけられただろう。不況が原因の自殺も防止できただろう。疑問の余地はない。90年代の失われた10年のいつでも、それが可能だった。正しい政策が実行されていれば、である(原田泰『日本の失われた10年』1999)。

□効果は歴史が証明している
通貨を印刷して需要を増大させるというのは、理論的に優れたアイデアであるだけではない。
実証済みなのである。

本書ではすでに、銀行が惨憎たる状態にあった敗戦直後の1945年、一万田に率いられた日本銀行がいかに日本経済の浮揚に成功したかを見てきた。たとえば1930年代、日本の構造改革の端緒となった大恐慌に世界が苦しんでいたころがそうだ。1990年代と同じく、問題は銀行システムが崩壊したことだった。まずアメリカ、つぎにドイツ、そして日本その他の国々に波及した。第4章で見たとおり、銀行システムというのは基本的に脆弱だ。偽りのうえに成り立っているからである。
銀行は実際には預金者から預かったお金を手元にもってはいない。当時、アメリカの銀行は投機家に貸し込みすぎ、株価や地価を押し上げてしまった(1980年代の日本と同じく、その過剰に創造された信用の一部は対外投資というかたちで外国にあふれ出た。1920年代、アメリカの過剰な信用創造の行き先として好まれたのがドイツだった。ドイツ銀行はアメリカ主導の賠償委員会によって国内の信用創造を制限されていたので、ドルの輸入に依存するせざをえなかった。1997年にタイが気づいたように、銀行資本を短期資本の流入に頼るのは賢明ではない。外国人はいつ、突然資金の流れを逆転させるかもしれないからである)。

しかし、ドイツと日本は最初に大恐慌から脱した。アメリカの中央銀行は景気浮揚に失敗し、たくさんの銀行を破綻させたが、ドイツと日本の中央銀行はかなり早期にお金をつくりはじめたのである。日本とドイツの景気を回復させたのは財政政策だとよく言われるが、じつは財政政策が効果をあげたように見えたのは新しい信用創造のおかげだった。世界中どこを見ても、中央銀行が積極的にお金をつくって、国内需要を刺激できなかった国はない。信用ブームのあとにバブル崩壊が訪れれば、中央銀行がお金をつくって信用創造を拡大するまでは、どこの国の経済でも回復はできない。

□銀行問題の解決
中央銀行が景気を浮揚させなければならないのと同時に、銀行システムの問題も解決しなければならない。これには時間がかかるが、基本的には解決策は単純だ。
多額の不良債権を抱えているかぎり、銀行は貸出によってお金を創造するという任務を果たさない。銀行は不良債権を始末しなければならない。不良債権を償却して、帳簿から消さなければならないのだ。
バランスシートは資産と債務から成り立っており(貸出は銀行にとっての資産)、両者はバランスしなければならないから、資産だけを削除するわけにはいかない。それでは、債務のほうが資産より大きくなってしまう。債務のほうが大きくなれば、個人でも会社でも国家でも銀行でも破産する。だから不良債権を償却するには、銀行のバランスシートの資産勘定のほうに、何かを加えてやらなければいけない。
これが「引当金」と呼ばれるもので、不良債権が棒引きされて空いた穴を埋めるのに使われる。要するに、銀行にはお金が必要なのだ。

それなら、銀行にお金をやればいい。問題がこんなに簡単に解決できるとわかれば安心だ。
お金は銀行自身によっても、中央銀行によっても、簡単に創造できる。したがって、
最も単純な解決策は、日銀が通貨を印刷して銀行に与えることだ。
もちろん、日銀は見返りに何かを獲得したいだろう。みずからのバランスシートの資産の側に記入するためである。だが、そんなことは枝葉末節だ。銀行は日銀から(たとえばゼロ金利で)お金を借りましたという債務証書を発行すればいい。あるいは優先株などの新株を発行し、日銀が買ってもいい。所有している土地をすべて日銀に渡して、日銀がそれを市民のための公園にしてもかまわない。あるいは本店を日銀に提供するのもいいだろう(日銀はそれを保育園とか公立図書館、精神病の研究施設などに転用することができる)。

お金は儲けを増やすというかたちで、銀行に移転させることもできる。これにはいくつかの方法がある。ひとつは、中央銀行が買い占めに出て銀行を助けることだ。実質的には銀行が多額の投資をしているどこかの市場でミニーバブルを創り出し、銀行に多額の利益をあげさせる。くわしくはあとでご説明しよう。
もうひとつのもっと公平な方法は、公園や公共施設を建設することだ。その資金を銀行からの借り入れでまかなう。銀行は喜んで貸すだろう。政府はリスク・ゼロの借り手だからだ。事実、
最も単純で最も効果的な方法は、国債の発行を完全に中止することだ。
かわりに、政府は必要な資金を銀行から借り入れる。債券市場と違って、銀行の信用創造なら新しい購買力が生まれる。中央銀行が国債を買い入れて財政支出の資金を提供するのを拒否しているときには、この方法がとくに有効だ。


日本銀行がほんとうに景気を回復させたいと願っていたら、もちろん窓口指導のメカニズムを使って、単純に銀行の貸出額を増やすように「指導」することも可能だ。最後に、銀行は貸出リスクの評価法を変更して、貸出額を増加させることもできる。資産を担保にする方法から、キャッシューフローの見通しをたてる方法に変えれば、銀行はまともな借り手には充分な資金需要があることに気づくだろう。

□日銀は実際にどれだけお金をつくったか
これまで説明してきた銀行の信用創造を増大させる方法は、どれも多少の時間がかかる。日本の不況は1992年以降、小規模企業、そして国民の大半を苦しめてきたのだから、そのころすでに最も迅速な景気浮揚策を実施すべきだった。第9章の図9・2で、われわれは(バブル業種を除く)実態経済に流通していた銀行の信用創造量を測定し、1990年以降、これが急減していたことを指摘した。
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それから一年後、名目国内総生産の成長率も低下する。それでも信用創造は最小限にとどまり、94年にはマイナスに転じた。このために、95年には戦後の一時期を除けば1931年以来はじめて、名目成長率もマイナスになった。
銀行の信用創造が機能しなくなっているこんな状況のもとでは、中央銀行が手を打って、銀行がなしえないことを実行するべきなのは明らかだった。つまりみずから進み出て、信用創造量を拡大するべきだった。

では、日本銀行は1990年代にどれだけのお金を創造したのか調べてみよう。まず、信用創造量を正しく測定する必要がある。中央銀行はお金を創造するときには、民間から何かを買い上げなければならず、購買力を減少させようとすれば何かを売らなければならないから、中央銀行の信用創造の量を正確に測ろうと思えば、すべての市場の取引額を足し合わせればいい。
多くのエコノミストは中央銀行の分析にあたって、日本銀行が「短期金融調節」と呼んでいるものを総和することだけを考える。この数字が毎日、発表されて都合がよいからだ。しかし、このオペレーションだけでは、日銀の純信用創造総量はわからない。
日銀の純信用創造総量は、日銀のすべての取引を合計すればわかる。
これを試みたのが、図10・1である。
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日本銀行が発表した数字が操作されていないと想定すれば、これがかなり正確な日本銀行の信用創造量だということになる(これを我々は「日銀リクイディティ指標」と呼ぶことにした)。

(以下略)

以上引用終わり。

バブルに成らないように、Finance(金融)、Insurance(保険)、Real Estate(不動産)産業(まとめてFIRE分野と呼ばれています)の投機的取引に強力な規制をかけつつ、
道路や橋などの補修、耐震工事化などに信用創造又は政府紙幣のお金を入れ、債権を大きく償還し、介護労働者などの報酬を大きくアップし、
消費税増税を阻止(又は消費税10%の代わりに年収600万?世帯以下は所得税無し又は大幅低減)しましょう!!

国民が中央銀行の欺瞞性に目覚め、信用創造と信用配分の重要性に気がつけば、これ等のことも簡単に両立します!!

日銀法を改正して通貨発行権を国民の手に取り戻しましょう!!

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