星月夜☆さんのサイトより
http://pandora32.blog.fc2.com/blog-entry-4550.html
<転載開始>
以前書いたつもりだったのですが、一応記録として再掲載。

原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」
(2011/07/26)
古川 愛哲

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原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報 投稿者 gataro-clone

2011NHKスペシャルNHK原爆投下 生かされなかった極秘情報のツイートまとめ

長崎原爆投下の5時間前に軍の指導者は知っていたという驚愕の事実。

内容は、日本にとって原爆は、まったく想定外の奇襲攻撃とされていた。
実際は、日本の諜報部隊が原爆投下に至る動きを事前に
察知していた。原発と同じです、隠ぺい、知っていても対策しない・・・

 当時使われていたアンテナ↓が今も残っていて、あらゆる方向へ
巡らせて、アメリカ軍が発信していた電波を傍受していた。

わずかに残されていた機密文書や軍幹部の日記、
その肉声が録音されていたテープから、「軍が危険が迫っている
ことを知りながら、何も手が打たれなかった」という事実が、浮かびあがる。

 昭和20年3月、東京大空襲、アメリカはこのころから日本各地の
都市に対する無差別爆撃を本格化させていた。

 3月10日、東京大空襲では、アメリカ軍が、サイパン島やテニアン島から、
B29を344機飛ばし、6時間かけて爆弾(1685ト ン)を雨あられと落とした。
死者・行方不明者は8万人(民間の調査 では10万人)以上だった。

 で、本土防衛のため、陸軍特殊情報部(敵国に対する諜報活動を
専門とする参謀本部直属の部隊)が秘密裏に発足 

 東京杉並区にある大正時代に建てられた老人ホームを隠れ蓑に、
昭和20年の春から、活動を始めていた。

部隊に所属していた元陸軍少尉長谷川良治さん(88)は、
「部隊の存在は決して口外してはならない」と言われていたと。

太平洋戦争末期、米軍は日本本土空襲をマリアナ諸島のサイパン島
・テニアン島・グアム島からB29を飛ばして行っていた。

部隊は、B29が発信するモールス信号の解読をしていた。
 本土防衛のために、どのようにしてB29の動きをつかむのか。

特殊情報部は100人以上動員し、24時間体制で臨んでいた。
傍受していたのは、B29が発信していたモールス信号。

基地などと連絡を取り合う無線信号。
そのほとんどが暗号化されていたため、解読は困難だった。

 しかし、冒頭に暗号化されていない短い信号があった。
コールサインだ。
アルファベットのVに続く3桁の数字で、発信者がだれからか知らせる。

 軍の傍受記録。 傍受記録は戦後ほとんどが処分されたが、一部
が見つかった。
コールサインの多くが、当時のアメリカ軍の拠点、太平洋マリアナ諸島から
発進されていた。

特殊情報部はある特徴に気付く。島ごとにコールサインが決まっていた。
サイパン V400番代
グアム  V500番代
テニアン V700番代
B29 V600番代
 コールサインを傍受すれば、いつどの島から何機のB29が飛び立ったの
かわかる。追跡を続ければ、どこへ空襲に向かっているのかまで予測できた。

「そりゃ、いろんな情報は集まってきます。
毎日毎日、3月から日本全国来ますわね。
それはまず第一に全部来ますわね。B29。毎晩来るんですから、
どっちかに、ね。
今日は東京でなかっても、名古屋に来るかもしれませんし
、大阪へ行ってるかもわからんし。」

 「どのくらいで来るかというのはほぼ先に見当がつくし、それを纏めて
参謀本部へいうんですが。今日はどっち方向へいくらぐらいの飛行機
が出そうかと。200なら200、300なら300と。」

 原爆投下2か月前の6月。特殊情報部は、異変に気づく。
これまで聞いたことのない謎のコールサインを傍受した。

V600代が出てきた。突然現れたV600代の不審なコールサイン。
発信元はテニアン島


700番代を使う部隊とは別の600番代を使う新たな部隊が現れた。
後に広島と長崎に原爆を投下する第509混成群団だ。
そのB29の数は、10~12機。

 その目的は何なのか。
特殊情報部は、通信部隊を増員して、テニアン島への警戒を強めていった。 

 第509混成群団の一員に選ばれたラッセル・ガッケンバック氏(88)

 B29の乗組員として、広島・長崎、両方の原爆攻撃に参加した。
島での行動はすべて監視され、他の部隊との交流は一切禁じられていたという。
最終的なターゲットは知らなかった。

 8月6日も広島に向かうその動きをつかんでいた。 
「広島の方へ入ってきた飛行機があるんですよ。B29。
これは、特殊任務機が近づいてきたと。これはただ事じゃないと。」

さらに、長崎では、原爆機が迫っていることを軍の幹部が5時間も前に知っていた。


 しかし、空襲警報すら出されなかった。


 空襲警報さえ出されずに無防備なまま、原爆の熱線と放射線に襲われた人々。
 諜報部隊元隊員の証言。

 「悔しいったらありゃしないじゃない。わかってたんだから」

 日本軍元パイロットの証言。

 「出撃命令さえ出していれば、絶対、長崎は爆撃されていないですよ。
確信してます。それだけは」

 テニアン島の秘密部隊の情報を、陸軍上層部はどこまでつかんで
いたのか。特殊情報部に入ってくる機密情報のすべてを知る人物がいた。

奈良県にいる遺族の下にその資料が保管されていた。

 アメリカ軍に対する諜報を任されていた堀栄三陸軍少佐。

情報参謀2部特殊情報部。上層部へ伝えるのが任務。
原爆投下を防げなかったことを悔やんでいた。
テニアン島について語った肉声が残っていた。
600代は正体不明。12,3機しかない。小さなものだ。
特殊任務機と呼び出す。それを追っかけていた。
参謀本部上層部まで伝えた。

特殊任務の目的が原爆投下だとは分からなかったとしている。

陸軍上層部は、特殊任務気の情報をどう受け止めたか。
アメリカの原爆攻撃に気付くことはできなかったのか。

陸軍はアメリカが原爆開発をしていることを早くから知っていた。
当時陸軍大臣だった東条英機大将が、兵器開発担当幹部に語った言葉、
原子爆弾は特にアメリカの研究が進んでいるという情報がある。

この開発は戦争の死命を制することになるかもしれない。
原子爆弾の開発を航空本部が中心になって
これが推進を測れ。日本から選りすぐりが集められた。

ウラン開発の開発を任される、木越。理化学研究所の仁科芳雄博士。
陸軍から頻繁に呼び出され進捗状況を聞かれた。

 福島県の山間ではウランの採掘が進められていた。
その作業に学徒動員されていた。ここで切り出した石を担いで
運ぶ仕事を繰り返していた。
過酷な労働を強いられていた。彼らを鼓舞するため、陸軍が
その目的を語った。
マッチ箱一つぐらいの大きさでアメリカの大都市を一瞬にして破壊できるんだ、

 昭和20年8月に、陸軍は開発を断念。陸軍が作成した報告書
には別の理由。放射性ウランは不可能。アメリカにおいてもなし得ざることと判明セリ。
 止めるって言いだすことが難しいと。

 直前、7月16日、アメリカは初めての原爆実験に成功。
断片的に参謀本部にも伝わる。原爆だと認める人は誰もいなかった。?

アメリカニューメキシコ州で爆発威力の膨大な実験が行われたと
いうのは知っていたが、誰も原爆とは想像しなかった。

 原爆開発にかかわった木越さんは、陸軍上層部が原爆に気付かない
はずはないと。
日本でこんな小規模で研究をやってもうまくいかないが、上手くいくなら
アメリカが当然先行くだろうと考えていた。

 8月6日、午前3時に、600代コールサインを傍受。日本に向かっている。
ワシントン向けの短い電波を出している。どういう電波やら中身はわからない。

今度は、硫黄島米軍基地に対して無線電話で「われら目標に進行中」と。
その特殊任務気こそB29エノラ・ゲイ。

人類史上、初めて実戦で使われる原子爆弾を積んでいた。

攻撃に参加したガッケンバック氏は、原爆投下の写真を撮るためエノラ・ゲイに乗っていた。

 テニアン島を飛び立ったエノラ・ゲイは硫黄島の上空を飛んで、
広島へと向かっていた。
8月6日、広島城に置かれた軍司令部は、いつにも増して空襲への警戒を強めていた。

 連絡係として学徒動員されていた岡さん、当時14歳の女学生は、
 この日の未明、周辺の都市にB29の大編隊が次々と来襲していた。
西宮・今治・宇部。空襲の情報を事前につかんでいた参謀本部は、
各地の司令部に連絡。

それを受けて司令部は空襲警報を発令していた。
次に狙われるのは広島かもと徹夜で待機していた。
夜が明けた7時過ぎ、一機のB29が広島に入った。

午前7時20分ごろ備後水道の方から広島に入ってきた。
備後水道から来た飛行機が電波を出したら、それはだいたい
気象偵察。これが、広島の上空を通って、また短い電波を出した。
これやっぱり、600代です。
これはただ事じゃないと。これは特殊任務機が近づいてきたとわかった。

 しかし、この情報は、参謀本部から広島の司令部に伝えられなかった。

気象偵察機の後から特殊任務気が迫っていることを知らないまま、
司令部は警戒態勢を解除した。何事もなく通り過ぎたから、
みんなホッとした。
司令官も参謀も夜じゅう一睡もしていないために、食事をして30分ぐらい
仮眠をとって帰ってきてもその間ぐらいは大丈夫だろうと。

 エノラ・ゲイは、何の攻撃も受けずに広島に入れた。
午前8時15分原子爆弾が炸裂。空襲警報も出されなかった。

 アメリカの作戦命令書によると、まず、気象偵察機が飛び、
V675のコールサインを使って、あとに続くエノラ・ゲイに報告すると指示している。

 特殊情報部元少佐の長谷川さんは、上官が自分たちが上げた
情報が活かされなかったと悔しがる姿を見ていた。

自分の意見が聞いてもらえなかった、残念やったという顔がありありと見える。
こんだけ日本を最後まで攻められてきているのに、判断が鈍い
ということが、自分はわかっているんだけども、参謀のほかの方々
には通じなかったと。

 広島の指令部に学徒動員されていた岡ヨシエさん。
爆心地からわずか700メートルのところですが、地下壕の中にいたため
無事だった。
しかし、近くの広場で朝礼に出ていた60人の同級生は、全員なくなった。

あの時、空襲警報さえ出ていればと、岡さんは今も悔やんでいる。
私達の仕事で半地下壕にいて助かったと思えば、
皆さんも近くの防空壕に避難していたらなくならなくて済んだのでは
ないかと思った。

 原爆が落とされ、傷ついた同級生の看護にあたった。
次々と亡くなっていくのを見守るしかなかった。

 お母さん泣かないで、私はお国のお役にたって死んでいくのと言い残して。

 原爆投下の翌日、広島壊滅の知らせを受けても、陸軍はそれが
原爆だと認めようとしなかった。

東郷重徳外務大臣は事実の確認を迫る。
陸軍幹部は、アメリカでは原子爆弾とかいっているけれども、
非常に力の強い普通の爆弾と思われると。

原爆を否定する陸軍がその影響を小さく見せようとしていたと
東郷大臣は述べている。

 しかし、参謀本部は広島に落とされたのは原子爆弾であると内部
では認めていた。
原爆投下二日後の8月8日、特殊情報部の中庭で、参謀本部による
表彰式が行われた。
原爆機のコールサインを突き止めた功績が評価された。

 表彰式に出席していた人物、特殊情報部元大尉の田中国夫さん90歳。
田中さんは、参謀本部の人間が、V600番代のB29が、原爆を
搭載していたと説明するのを聞いていた。

 「これが最も恐ろしい原子爆弾を積んでいる飛行機だと。これをね、
同じ~~~が、こんな全部追跡して撃滅すると、お前さんら
みんなごくろうさんだった」というふうな、ねぎらいのお言葉を頂いた。

 その翌日長崎で悲劇が繰り返される。8月9日未明、再び、あの
コールサインが傍受される。
広島の時とまったく同じV675、発信地も同じテニアン島だった


 このコールサインを実際に傍受していた人物がいた。諜報部隊元中尉太田新生(90)。

 また、広島に(原爆を)落としたB29が使っていた特別の電波と同じ
電波を使って、テニアンの飛行場が通信、内容はわかりませんよ、
ただ電波を出しただけ。だから、それだけを私がつかんだ。

これは普通ではないとだけ思って、非常に不安を感じた。

同じものが近く、どこだかわからないけども、
数時間後に日本国内のどこかで落とされる危険大。
この情報は軍の中枢にまで伝わっていた。

それを裏付ける新たな資料が防衛省防衛研究所で見つかった。

 資料を残していたのは、参謀本部の井上忠男中佐。
参謀本部のトップ、梅津善治郎参謀総長に情報を伝える側近でした。
井上中佐が重要な情報を書きとめていた備忘録です。

この中に、8月9日のことを記した、走り書きが残されていた。
「特殊爆弾V675 通信上事前に察知する 長崎爆撃5時間前」
原爆機接近の5時間前に参謀本部中枢に伝わっていた。


 長崎から北へ15キロ、大村の飛行場には、九州全域を守るため
戦闘機部隊が配置されていた。
その部隊でパイロットを務めていた本田稔さん88歳。

 本田さんたちが乗っていた戦闘機、「紫電改」は、b29が飛ぶ
高度1万メートルまで飛行可能な数少ない戦闘機でした。
本田さんは、原爆を積んだB29が来たら、体当たりをしてでも
落とさなければならないと覚悟を決めていた。

実は、本田さんは、広島で原爆が炸裂する瞬間を偶然上空から目撃していた。

兵庫県から大村の基地に戻る途中のことでした。

 「広島の上空に来るか来ないかわからんころに、バーンと
吹き飛ばされたんです。
紫電改が吹っ飛んだの。
操縦できなくなって、落ちて行って、500メータぐらい落ちたですかね。

どうにもならないんです。舵が効かなくて。

やっと、舵が取れるようになって、前を見たら、目の前に薄く赤黒い雲
がグーッと上がって、今見たばかりの広島が消えて無くなってるんです。

ないんですよ。目の前の広島が。頭がおかしくなったですね。

あれ見た時には。現実かどうかが自分では見当がつかないんですよ。」

8月9日午前9時、テニアン島を飛び立ったB29は、九州に接近していた。
第二の原爆を搭載したB29、ボックスカーです

 最初に向かったのは福岡の小倉、しかし、視界が悪かったため、
攻撃目標を切り替える。次の目標長崎へと向かう。

しかし、本田さんたちの部隊に出撃命令が出されることはなかった。
長崎べ向かうB29は確認されていたが、それが原爆機であるという
ことは伝えられていなかった。

「落ちない飛行機じゃないんですよ、B29は。実際私は落としてますから。
非常に難しいですけどね。落ちない飛行機じゃないです。
今なお悔しいですね。何で襲撃命令を出さなかったかと。
それだけ情報がなかったんですかね。」

この時軍の上層部は何をしていたのか。
皇居では、最高戦争指導者会議が、午前から開かれていた。
更なる戦況悪化の情報が入っていたのです。中立を保っていた
ソビエトが日本に対し宣戦布告。満州との国境を越えてきた。

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をするかどうかが、この日の
議論の焦点でした。降伏すれば天皇の地位はどうなるのか。
自分たちは戦争犯罪人として厳しく処罰されるのではないか。
みな結論を出しかねていた。この会議の席で、梅津参謀総長、
陸軍幹部は、広島に原爆を落とされてもなお戦争は続けられるとして、
こう発言している。

 「原子爆弾の惨禍が非常に大きいことは事実であるが、
果たしてアメリカが続いてどんどんこれを用い得るかどうか疑問である」

第二の原爆投下はないだろう。

原爆機が、長崎に向かっていたその時にも根拠のない主張を繰り返
していたのです。
まだ、会議が続いていた午前11時2分、長崎に原爆が投下された。
またしても、空襲警報すら出されなかった。

 テニアン島から発進されるコールサインを傍受し、第二の原爆攻撃の危険
を報告していた太田新生さん。
なぜ情報が生かされなかったのか。今も納得できずにいる。

「悔しいったらありゃしない。わかってたんだから。
何か努力をしてくれていたら、まだ駄目だったとしてもあきらめられるかも
しれないけれども。全然使った形跡がないから、余計悔しいです。」

 特殊情報部が傍受した情報を軍の上層部へ伝えていた参謀本部堀栄三少佐。
長崎の原爆についてはほとんど語っていない。
戦後書き残した資料には、ただ一言、
「コールサインを8月9日も同様にキャッチしたが、処置なし。あとの祭りとなる」と。

本田稔さん、原爆が落とされた後、次々と運ばれてくる怪我の人を
病院に運ぶ命令をされていた。髪の毛もなく服もない体がドロドロ
に溶けている。このようなことが許されるか。
泣けて泣けて。ずーっと今なお思い出すだけ、情けなくなって、
軍人として本当に情けない。申し訳なくて。
5時間も前に軍の中枢がつかんでいたことを初めて聞かされた
本田稔さんは「なんで出撃命令を出さなかったのか
。5時間もあれば十分対応が出来ていた。これが日本の姿ですかね、
こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」。

出した命令は・・・・・
 8月11日、特殊情報部にある命令が下される。
諜報記録をはじめとするすべての証拠の隠滅です。
(731部隊もですね、証拠隠滅)
長谷川洋二さんは資料を燃やすように命令され
この特殊情報部と言う存在を消滅させた。


<転載終了>