浮世風呂さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/b79ff42f4790d827609edef3b80e2500
<転載開始>

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン)本人サインは“Syngman Rhee”

●1875年3月26日 - 1965年7月19日
●1896年(明治29年)- アメリカ人のキリスト教宣教師アペンセラーが設立した培材学堂で学び始める。
●1897年(明治30年) - 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。
●1904年(明治37年) - 特赦による出獄後、アメリカ合衆国に渡る。
●1907年(明治40年) - ジョージ・ワシントン大学で学士号取得。
●1908年(明治41年) - ハーバード大学卒で修士号取得。
●1910年(明治43年) - プリンストン大学で政治学博士号取得。
●1911年(明治44年) - 寺内正毅朝鮮総督暗殺計画に連座して投獄される。
●1912年(明治45年) - アメリカ合衆国に亡命。
●1934年(昭和9年) - オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。
●1945年(昭和20年)10月 - 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。
●1946年 2月 - 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。
●1948年(昭和23年)4月3日 - 済州島四・三事件 (3~6万人虐殺 )
※左翼島民に対する弾圧・虐殺
●1948年(昭和23年)8月15日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。
●1948年(昭和23年)10月27日 - 麗水・順天事件(非武装の民間人8000人虐殺)
※済州島事件に反発し放棄した市民を虐殺
●1949年(昭和24年)6月5日 - 国民保導連盟を組織させる。
●1949年(昭和24年)12月24日 - 聞慶虐殺事件(韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の住民88人を虐殺)
●1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
●1950年 漢江人道橋爆破事件 (約500~800名虐殺)  ※多数の市民が大混乱の中、漢江を渡り避難する最中、 侵攻阻止の為、多数市民が渡橋中にも関わらず人道橋を爆破。
●1950年(昭和25年)6月 国民保導連盟事件 (約20万~100万人虐殺)
※朝鮮戦争勃発を受け、李承晩の命令により、共産主義者と見られる国民や、 収監中の政治犯や国民保導連盟に登録されている民間人など、少なくとも20万~100万人あまりを大量虐殺。
●1950年 全国刑務所在所者虐殺。 (1万4千人虐殺)
※韓国軍が釜山に一時撤退中、地域の刑務所に収監中の 政治犯・思想犯を虐殺
●1951年(昭和26年)1月 国民防衛軍事件 (約9万人死亡)
※朝鮮戦争中、民兵組織国民防衛軍幹部らが、軍事物資や兵糧米などを横領し、 9万名余りの兵士が餓死したとされる。
●1951年 居昌事件 (680人虐殺)
※朝鮮戦争中、韓国軍が共産匪賊のパルチザンを殲滅するためとして、子供385人を含む無実の市民を虐殺。婦女子を含む約680名の村民全てを、一箇所に集めて、全員を機関銃で虐殺した後、さらにガソリンをかけて焼き殺している。韓国は李承晩の人殺し犯罪実績を歴史に中で消そうとしているが、英国のBBCはこの惨たらしい虐殺現場映像を放送しているし、現在もビデオを保管している。映像を見てその残虐さに衝撃を受けたピカソは 「李・金による朝鮮の虐殺」と題した有名な絵を書いている。 (パリ・国立ピカソ美術館所蔵)
●1952年(昭和27年)1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。
※竹島を占拠するとともに対馬は韓国領であるとして日本に「返還」を要求するとともに日本の漁民数千人を抑留し、第一大邦丸事件のような日本人殺害事件も引き起こした。
●1945年9月2日 - 1952年4月28日、連合国最高司令官の指令により多くの密入国者や犯罪者の在日朝鮮人が韓国に強制送還される(大村収容所だけでも3633人)。
自ら帰還を希望した在日朝鮮人140万人は日本政府の手配で帰還する。
●1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効のより日本国主権回復。以後、韓国政府は日韓政府協定が結ばれていないとして在日朝鮮人の引き取りを拒否。
●1952年(昭和27年)5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。
●1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
●1958年(昭和33年) - 進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
●1959年9月、李承晩は日本に戻ることなく韓国に帰還したままであった在日義勇兵(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために日本に潜入して妨害工作活動を行う工作員となるよう要請した。
第一は、新潟日赤センター爆破計画、
第二は、輸送の列車爆破、
第三は、すべてが失敗に終わった時に朝鮮総連幹部と北朝鮮側の帰還責任者に対してテロを行なうというものであった。
●1959年(昭和34年1)12月4日 - 新潟日赤センター爆破未遂事件。
●1959年12月14日、北朝鮮への帰国船の第一陣が出発する。
●1960年(昭和35年) - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
●1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。
●1965年(昭和40年)7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。

このように朝鮮民族の歴史はあまりにも惨めすぎて、過去を振り返るのが苦痛であった、だからと言って偽りの歴史をあたかも真実のように子どもたちに教え込む事は国の衰退につながる。何故なら韓国人が本当の韓国の姿を知った時、韓国政府が過剰に賛美してきた「理想の韓国」とあまりに酷い現実のギャップに耐え切れずに、精神に異常をきたすからである。

韓国には伝統的に韓民族の日本民族に対する優位性の主張ともなる華夷思想があった。それは、日本人を文化程度の低い侵略的な野蛮な中華文明周辺の夷族とみなす、非中華文明諸民族への蔑視の思想である。李承晩はこの伝統思想を目覚めさせようとすることに成功したのである。それが戦後韓国の反日思想の実態である。

没落両班の家に生まれ、李氏朝鮮末期の高宗に対し独立と家の再興を目指すが、悉く失敗し、日本に対し強烈なまでの反日思想をもった。戦前からの,アメリカでのロビー活動を認められ、大韓帝国臨時政府の代表に指名された。その後、華夷思想の回帰をもとに、日本を蔑視し偏向思想教育を行った。小中華思想の申し子のような存在である。学生時代の成績は平均Cであった。民主主義とは、相入れない、異質の政治家である。

李氏朝鮮時代のことをあたかも日本併合時代の出来事として李承晩は学校で教えさせた。現代の若者は併合時代も李氏朝鮮時代も混同して教えられている。ハングルを日帝に奪われたというが李氏朝鮮時代の1504年に燕山君によって公式な場でのハングル使用を禁止された。

更に、ハングルの教育や学習の禁止を行った。(ハングルの消滅)
それが350年間もの間続いた。だから元々無いものを日本が奪うなんて不可能である。

虐殺が繰り返されたというのも李氏朝鮮時代の出来事である。李氏朝鮮では権力争いや裏切り、抗争が絶え間なく繰り返された。併合後に飛躍的に人口が増えているのに虐殺していては辻褄が合わない。よって併合時代の日帝の悪行というのは、正に李氏朝鮮時代の出来事を日帝時代の出来事として徹底的に教育したからに他成らない。

しかし、其れくらいのことを少し調べれば分かるものを、TVなどで間違って主張する知名人や評論家というのは一体何を根拠にのたまうのかと思ってしまう。特に史実を徹底的に調査して時代考証の末に小説を書くはずの、「著名な小説家」と言う存在は、一体何者なのかと疑わざるを得ない。

今日に至るまでの約70年近くの災いの原点がここにある。
 
李承晩の怨念は、彼ら南朝鮮人の鬱憤のはけ口として今も延々と生きている。

たまたま近所に、米国人のプロテスタント系教会ができ、少年時代の彼は、そこで米国人宣教師から、英語を学んだ。

その縁で、大韓帝国皇帝の高宗王が韓国近代化のための学徒として明治三十七(1907)年、国費で学生を渡米させることになったとき、李承晩は、そのなかのひとりに選ばれている。
きっと、優秀な若者だったのであろう。

この後米国に滞在した李承晩は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学に学び、明治43(1910)年には、プリンストン大学で政治学博士号を取って卒業している。

学校の成績がどんなによくても、人としてのルールやたいせつなこと、あるいはアイデンティティを身に付けない者は、結局は人の道を踏み外すように思う。

さて、ブリンストン大学を卒業した李承晩は、意気揚々と韓国に帰国する。
ところが祖国韓国で李承晩を待ち受けたのは、「日韓併合」という現実であった。

故郷に錦を飾るべく帰国してお家再興を夢見ていたが、そこには李氏朝鮮の両班の特権という物が何も存在しない日本併合という現実だった。両班としての特権剥奪の個人的な怨念を日本に対して生涯持ち続けた人物である。
彼は翌年、寺内正毅朝鮮総督の暗殺計画に加担し、露見して投獄された。
国費で留学の栄誉に服した韓国の英雄は、一夜にしてただの犯罪者となってしまった。

翌年出獄した李承晩は、米国に亡命。

大正8(1919)年3月に、初代大韓帝国皇帝の高宗が逝去。

三・一暴動 

この葬儀を前に、韓国にあった天道教という宗教団体が、ソウル市内の中心部のパゴダ公園(現タプコル公園)で朝鮮の独立宣言を読み上げることを計画しました。

本来はわずか33人の小規模な集会でしかなかったのだが、そこに数千人の学生が集まり、口々に韓国独立を唱えて、デモ行進をはじめた。

このデモは、その後五月にかけて合計1542回も行われた。参加延べ人数は205万人である。

もっというとこのデモは、昨今日本国内で行われているような大人しいものではない。むしろ暴徒である。
暴徒団は、警察署や役場を襲撃し、生徒達が授業を受けている小学校にまで押し寄せて、投石、放火、破壊、暴行、強姦、虐殺を繰り返した。
小学校を襲い小学生を暴行、強姦をしたのである。いかに狂った民族であるかわかるだろう。

この暴動は、やがて鎮圧され、暴動の原因をつくった天道教の幹部達も逮捕された。
日本は、特別な弾圧のようなことはしていないのだが、この後、日本が大東亜戦争終結によって韓国を撤収するまで、韓国内では、このような反日、反政府デモは起きていない。
日本の統治によって社会が安定し、経済が目に見えて発展して行く姿を、韓国民達が目の当たりにしたからである。

此の後、朝鮮半島が狂い始めたのは、日本の敗戦により南朝鮮に李承晩大統領が誕生してからである。

李王朝の王族や両班は朝鮮併合時は貴族や国会議員として朝鮮半島を治めていた。それすら成れない下級両班が利権や奴隷を失い盗賊となったり集団でテロを起こし、その衝突で36年間で1万人ほどが死亡した。

朝鮮の国会議員の80%は朝鮮人が占めていた。

警官や役所にも多くの朝鮮人が採用されていたのである。

戦後、朝鮮李王朝の末裔は李承晩に韓国を追い出されて日本で死んだ。

直系じゃない子孫は帰化して日本人になった。

歴史の事実はいくら捏造しようと、事実は事実として変わらないし、日本は全く捏造など必要ない。

日本の国にとってそれがたとえ不利益なことでも、それが事実なら甘んじて受け入れる。歴史とはそういうものだ。

李朝時代は、ご存知の通り両班・上人・中人・下人・白丁などの身分制度が厳しく存在していた。

白丁などは日本でいう部落民か非人の扱いだった。
両班や上人が歩くと、すれ違うその他の身分の者は道端で叩頭して見送ったのだ。

日本が併合してからは、そのような身分制度を改めさせた。日本国籍を付与された朝鮮人の内で、貧しい暮しをしていた下人・白丁達は差別されてきたその土地を離れて日本に渡ってきた。

済州島の人達も、昔から朝鮮本土から差別されてきたが、日本人になってから大勢の人が渡って来たのである。

今でも在日朝鮮・韓国人は済州等出身者の子孫が最も多いといわれる。小沢一郎や管直人もそうだろう。

下層民系というのは、以上のような出身者を指していると思われる。両班(ヤンバン)達は金持ちで働かず、下層民からの搾取で楽な暮らしをしていたので、その子弟は上級学校に進むために内地に来る程度であった。日本の医師の資格を取ってそのまま内地で開業・定住する人も多くいた。

土井たか子の祖父なんかもそのケースだと思われる。
戦後の一時期、医者不足が言われた頃に、日本の医師資格を持っている老医師達が韓国から随分渡ってきたことがあったが、戦前にもそのような歴史があった。ドラマ「おしん」でも見られたように、日本の田舎はやはり貧しかったのだ。

しかしながら、実態としては、現在の在日達の殆ども日本併合前は貧民だった人々の子孫だと言えるだろう。

李承晩の目指した韓国大統領は大統領とは名ばかりで、その実体は李氏朝鮮王朝の皇帝であった。

そして李承晩は、大統領に就任するとすぐに、韓国内で言論の取締を行っている。
すなわち、市内で「日本統治時代のほうがよかった」「いまの政治はおかしい」と発言しただけで、全員その場で逮捕、投獄し、厳しい拷問を加えた挙げ句、殺害してしまった。

こうして逮捕された政治犯は、李承晩が大統領に就任した最初の二年間だけで、日本統治36年間の政治犯の総数をはるかに上回るものとなった。

李承晩は自らの出自である李氏朝鮮の両班が白丁庶民や奴隷に行った悪政を非難されないために、その圧制をすべて日帝が行った虐殺や奴隷制度だと学校でも一般国民にも教え、自分たちはその日本と戦って、独立を勝ち得たとすり替えた。だから日本は朝鮮人を植民地の奴隷として悪政の限りを尽くした永遠に憎むべき民族だと指導した。対馬は本来韓国の領土であり何としても取り返さなくてはならない。

それが朝鮮戦争を招く結果となったのである。

◆朝鮮戦争

朝鮮戦争による死傷者の数は
韓国軍将兵が20万人。米軍が14万、その他連合国軍が22万、北朝鮮軍が29万、中共軍が45万である。
民間人死傷者数は、韓国側133万人、北朝鮮側が250万人。
合計で、なんと500万人を超える死傷者を出した戦いが朝鮮戦争だった。

朝鮮戦争が行われた期間は、昭和25(1950)年6月25日から、昭和28(1953)年7月27日。
これをみたら、ピンとくる方もおいでになるかもしれない。

そうです。
日本がサンフランシスコ講和条約を締結したのが昭和26年、施行されたのが昭和27年4月。
まさに、朝鮮戦争の最中の出来事だったのである。

ここまでくると、なぜ米国がサンフランシスコ講和を急いだのか、理由が見えてくる。
米軍を筆頭とする連合国は、あの悲惨な朝鮮戦争に、世界最強をもって鳴る日本軍を再生させ、参戦させようと急いだのだ。

ところがときの総理の吉田茂首相は、そうした米国等の思惑を見抜き、占領統治憲法に記載された事項を盾に、言を左右にして日本の再軍備と参戦を拒んだ。
まだ戦後の傷跡の癒えない日本が、泥沼化した朝鮮戦争に加担させられることを防いだのである。

そして米国は、翌年、当事者である韓国李承晩大統領の「あくまで戦う」という意向を無視して、韓国の頭越しに北朝鮮と休戦協定を締結している。
米国が日本の参戦をあきらめたからだ。

サンフランシスコ講和条約発効によって、占領統治憲法はその役割を失い、大日本帝国憲法が復活するというのは、私の持論である。
理論的には、そうなる。
なぜなら、GHQによる占領統治期間というのは、戦争状態を意味し、サンフランシスコ講和条約でその戦争状態が終わったからだ。
この間、戦争をしていたのは占領統治領日本ではない。大日本帝国である。
従って講和条約の当事者は大日本帝国であり、講和条約発効の時点で大日本帝国が復活していると考えるのが妥当な考え(理屈)だ。

ただし、同時に私は、当時吉田茂首相が、あくまで占領統治憲法(現:日本国憲法)を盾にとり、日本の再軍備による朝鮮戦争参戦を拒んだ、その決断を正しいと思うし、心から感謝したいと思っている。
なぜなら、もし日本が朝鮮戦争に参戦していれば、戦いは勝てたかもしれないが、間違いなく多くの日本人の若者の命が奪われたであろうことは、間違いないからだ。

その若者たちとは、昭和20年から昭和30年くらいまでの間に、結婚適齢期にあった若者達である。
つまり、いまの団塊の世代が生まれた前後の時代に、結婚適齢期にあった若者達だ。
つまり、その時代の日本人の若者の命が多く奪われたとなれば、いまの団塊の世代とそれに続く何年かの世代の人たちの多く、この世に生まれていないし、私もこの世に産まれていない。

その意味で、私達は吉田茂首相、重光葵外相に、やはりまずは感謝しなければならないと思う。
なぜなら、私達がいま生きているのは、この二人が日本の朝鮮戦争参戦をあくまで拒んでくれたからである。

もっとも、それから60年も経過した今日、朝鮮戦争時に意図的に曖昧にした憲法を、もう見直すべきというのも、事実も、これまた当然の事実である。

さて、朝鮮戦争の苦戦によって、日本に再軍備させることを急いだ米国に対し、日本の参戦をあくまで拒もうとする李承晩が行ったことがある。
それが、日本の竹島に対する一方的な軍事占領と、海洋領海線を一方的に拡大した李承晩ライン。

竹島の占領は、昭和26(1951)年7月のことだ。
実はこの2年前に、李承晩は対馬の領有宣言を行っている。
しかし、これは日米両国はおろか、連合国諸国から完全に無視されている。
「猿が何かわけのわからんことを言い出した」くらいの評価だったのである。

ところが、竹島に関しては、李承晩は強引であった。
時は、ちょうど米国がサンフランシスコ講和条約の草案を起草していた当時のこと。
李承晩の読みはおよそ次のようなものであった。

1 日本が参戦する
 ↓
2 日米という最強の取り合わせで北朝鮮と戦う
 ↓
3 当然日米連合が勝つ
 ↓
4 この場合、韓国李承晩政権と北朝鮮金日成政権はどちらもこの世から消滅する。
 ↓
5 朝鮮半島は再び日本の領土となる

政権の危機感を募らせた李承晩は、米国政府に対して要望書を提出した。
内容は、
(一)日本の在朝鮮半島資産の韓国政府への移管
(二)竹島、波浪島を韓国領とする要求
である。

(一)は、すでにそうなっているもので、何の問題もない。むしろ「いまさら何?」という程度の問題だ。
ところが(二)は、すでにGHQが日本統治時に決定した領海線であるマッカーサー・ラインを否定するものである。
ただでさえ李承晩の我がままに乗ったばかりに、米国は米国の青年たちの命を、朝鮮半島で損耗している最中なのだ。
そしてなんとか日本を参戦に導こうと水面下でコツコツと努力している最中に、この李承晩の提案は、邪魔なものでしかない。

激怒した米国は、翌月には在朝鮮半島の日本資産の移管は認めるが、それ以外の要求は「一切認めない」という、外交文書としては異例の厳しい内容の書簡を李承晩に送りつけた。
これが「ラスク書簡」である。

そして「ラスク書簡」の一ヶ月後の昭和26(1951)年9月8日、日本との間にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月28日、この条約が発効している。

ところが、要望書を袖にされた李承晩は、おもしろくない。
というより、地位を失うことが怖かったのかもしれない。

◆日本人が決して忘れてはいけない歴史 李承晩ライン

李承晩は、サンフランシスコ条約が発効となる三ヶ月前の昭和27年1月8日に、突然、日本との国境を一方的に定めた「李承晩ライン」を取り決めた。

これに一番驚いたのは米国で、なんと朝鮮戦争の最中なのである。
なんとしても強兵で知られる日本軍を再武装させて参戦させようと水面下で努力していたのに、日本に協力をもらうべき韓国が、日本にいきなり喧嘩を売ったのだ。
日本は抵抗しようにも武装解除後何の武器すら持っては居なかった。

この結果、多くの日本漁船が韓国に不当に武力攻撃され、328隻が拿捕され、漁民44人が死傷した。
しかも、拿捕された日本の漁民を解放する条件として韓国が出してきた要求は、収監されている凶悪犯を多数含む、大量の在日韓国人犯罪者を無条件に釈放することと、在日韓国人全体に在留特別許可を与えることであった。
日本政府は国民を助ける為、止む無くそれを呑んだ。つまりこれは現在の在日問題の根底に関わる事件でもある。
そして日本領土である竹島を韓国が不法占拠し、現在までに繋がる竹島問題を生み出した。

米国にしてみれば、これではすべてが台無しで、サンフランシスコ講和条約自体の意味がなくなる。

どう対策しようか迷う米国に対し、李承晩は、カウンターパンチが効いたと思ったのだろう、さらに追い打ちをかけた。
同月27日に、「李承晩宣言韓国政府声明」を発表した。

この声明で李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に宣言する。
そんなことをすれば、日本は怒るにきまっている。
そして日本が怒れば、米国の朝鮮戦争に日本を参戦させようという目論見は、総崩れになる。

米国は、ここへきてようやく事態を重く考え、李承晩に、
「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」
「李承晩の一方的な宣言は、国際法上違法である」と韓国政府に伝達している。

そしてこれに対する李承晩の回答が、韓国官憲による日本人漁船の拿捕と、竹島の軍事占領だったのである。
実にとんでもない話だ。

李承晩ラインは、朴大統領によって廃止されるまでの13年間継続された。だがしかし竹島は返還されなかった。

朝鮮戦争で北朝鮮軍は釜山を残して半島全土を制圧した。李承晩はこの時マッカーサーに「九州に大韓民国臨時政府を移させて欲しい」と打診し、マッカーサーは即座に却下したと言われている。

李承晩が想定していた「李承晩ライン」はおそらくこのようなものだったのではないか。

李承晩自身は失脚したが、残念ながら韓国の法律に組み込まれた「李承晩ライン」は、その後も維持された。
ようやくこれが廃止されたのは、昭和三十一(1956)年に軍事クーデターを起こして、韓国内に新政権の朴正煕大統領が誕生してからのことである。

日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正煕大統領は、昭和四十(1965)年六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止した。そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げた。

ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされなかった。
このため、いまだに竹島が領有をめぐっての日韓の火種となって残っている。
さて、私達日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持つ。
けれど韓国における大統領は、未開の野蛮族の王様である。
絶対君主であり、君主は民衆の幸福より君主の身の安全を優先する。
李承晩はまさにそのために反日侮日工作を行ったし、昨今の李明博もそのひとりである。

そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩の蛮行にある。

李承晩は(いまの韓国もそうであるが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いている点だ。
その「東洋の理想国家李氏朝鮮」を打ち壊し、破壊したのが日本だというわけなのだ。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1620.html ねずさんのひとりごとより引用編集

言論の自由もなく、国民の安全も守れず、法律すら守れず、歴史の勉強も出来ず、国会の作る方針でしか動けない。これを『ファシズム』と言わずしてなんと言う。なにが自由主義国なのか?

◆賊喊捉賊(ぞくかんそくぞく)

2012-06-12 ブログ「日豚の牢獄」

反日学

中国語に「賊喊捉賊」(ぞくかんそくぞく)という成語があります。
英訳 「A Thief shouts "theft".」 「A thief shouting "stop thief".」 「Thief crying "stop thief".」
「悪事を働いた盗賊が泣き叫びながら『盗賊を捕まえてくれ!』と、あたかも自分が盗賊を追いかけている被害者や第三者の様に見せかけて逃げる」

中国成語
「賊喊捉賊」→「泥棒が(逃げながら)『泥棒を捕まえろ!』と叫ぶ」。
転じて「自分の悪事を誤魔化す為に、悪人が他人を悪人呼ばわりする」そして「自分は第三者や被害者に成り済ます」
自分への罪責追及を逃れる為にわざと人の耳目をそらそうとする。故意に混乱を作る。

「賊喊捉賊」は日本のことわざに治すと「盗人猛々しい」に当たるとされていますが、その狡猾さ・大胆さにおいて「盗人猛々しい」だけでは言い表せない卑劣さも「賊喊捉賊」という言葉のニュアンスにはある様な気がします。

反日国、例えば韓国はなぜ日本を悪く言っているのかと問われれば
「賊喊捉賊。This is Korea.」 の一語でその全てを説明出来るのである。

例えばサムスンがアップルをパクリで訴えたように、泥棒が他人を泥棒呼ばわりしたり、パクリをした者がパクった相手を逆にパクリで訴えるなど、悪人が他人を悪人呼ばわりすることは典型的な「賊喊捉賊」と言える。
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A君がB君を殴りました。B君は殴られた痛さで泣き出してしまいました。
A君はさらにB君を足蹴にしてB君の持っていた財布を強奪しました。

そこに偶然C君が通りかかりました。
C「どうしたの。」

A君はすかさず殴られた演技をしながら

A「Bはひどいやつだ。俺を理由もなくいきなり殴りつけて俺の財布を奪ったのだ。」

A君は事実とは真逆の説明をしました。
当然B君は慌てて弁明します。

B「Aは嘘をついている。殴って足蹴にして財布を巻き上げたのはAだ。」

A「騙されるな!嘘をついているのはBの方だ。こいつは俺を殴って金を盗んでいるくせに嘘までついて俺の名誉を傷つけている。Bは本当の加害者だからこのような嘘をつくのだ。Bは二重三重の加害者だ。本当に許せない。Bはこういう見下げ果てた奴なのだ。」

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「賊喊捉賊」とは簡単に例示するとこのように
「事実とは真逆の事態をでっち上げ、本当は悪くない者(善な者)を悪に、本当は「悪」の者を「善」にして事実を「転倒白黒」させて誣告することである。

あるいは犯罪を行った後で、自らの犯罪行為をあたかも犯罪行為では無いかのように見せかけるという追加的犯罪行為を行うことである。

戦後体制においては往々にして日本は悪者にされてしまう場合がある。特に近現代史などの歴史問題に顕著である。
曰く「極悪非道の日帝が…」「人類史上最大の人道犯罪を犯した日帝は…」等々。。。

しかし、本当に日本が悪者だったのか?
否、それは単に本当の極悪非道をやってしまった者、あるいは現在進行形で悪行を積み重ねている者が他人(日本)を悪者呼ばわりしているだけではないのか?
つまり単なる「賊喊捉賊」ではないのか!

他人を悪人呼ばわりしている者が一番の悪人である。。。

厳正に検証する必要がある。

http://d.hatena.ne.jp/hannitigaku20/20120612/p1

彼らが言う、「日帝は我らの文化をことごとく破壊した」というのはある意味正しい。

彼らの原始的で糞まみれの住環境を、ことごとく近代的で衛生的なものに変えてしまった。

以前は行かなくてもよい学校に、強制的に行くことを義務づけた。

以前はおまじないで直した病気を、病院をつくって医学で直すように強要した。

そのことと、彼らに関わったことを、日本人は率直に謝罪すべきかもしれない。

「すまん!放っておくべきだった。」 

 済州島四・三事件

  

 麗水・順天事件

 

 国民保導連盟事件

   

 
<転載終了>