しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-392.html
<転載開始>
Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

この記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ内容にかなり近いのだが、よくよく考えるとおかしな解説である。前半の文章ではこの政策によりわが国が「孤立状態」になったことを匂わせておきながら、後半では「実際には孤立しているわけではなく」と矛盾していることを述べているのだ。

Wikipediaの記述を読み進むと、こうも書かれている。
「『鎖国』という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年~1806年)が、1801年成立の『鎖国論』」(写本)において初めて使用した。…実際に『鎖国』という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及する時期は明治時代以降である。」

分かりやすく言うと、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の時代には、「鎖国」という言葉が存在せず、この言葉が本格的に使われようになったのは江戸幕末期に「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に「鎖国」という言葉が広まったということなのだ。

学生時代に「鎖国」を学んだ際には、教科書に「鎖国令」という言葉が使われて、Wikipediaにも第一次から第五次まで五回に分けて「鎖国令」が出たことが解説されているのだが、実際には、江戸幕府は「鎖国令」という名の布令を一度も出していないのである。

では、家光の時代に出されたという五回の「鎖国令」とは、いったいどのような内容であったのか。上記のWikipediaの解説ではこう記されている。

「1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船*以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた
1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた
1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す
1637年~1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。」
*奉書船: 将軍が発給した朱印状に加えて、老中の書いた奉書という許可証をもった船

江戸幕府は「鎖国令」という名の布令は出していないにもかかわらず、後世の歴史家がこれらを「鎖国令」と呼んでいるだけの話なのだが、外国との貿易を制限し統制することと、国を閉ざすこととは異なることは言うまでもない。

国民の歴史

西尾幹二氏は『国民の歴史』で次のように述べているのだが、この指摘は全く正しいと思われる。
「第一『鎖国』という言葉は当時存在しなかった。幕府は『寛永十年の令』『寛永十六年の令』といった渡航禁止令や蛮族打払いの令を出しただけである。しかも、これら政策の立案者にも、実行者にも、国を閉ざすという意識がまったくといっていいほどなかった。『寛永の令』は国を閉ざしたものではなく、ポルトガルとの断交を意味したにすぎない
 そんなことは江戸時代史を学ぶ学者ならみな当然知っていることであり、知らなくてはならないことではないか。それなのに教科書から専門書に至るまで無反省に『鎖国』という文字を濫用するのはなんという学問上の思慮の欠落であろう。まず幕藩体制について『鎖国』という用語を日本のすべての歴史書からことごとく追放することを提言したい。
幕府がキリシタン禁止令を決めたこと、貿易を一手に国家統制下においたこと、日本人の海外渡航の自由を禁じたこと―――これらの事実はまちがいなくあった。しかしそれは『鎖国』という言葉では表現されていなかった。それらの事象が意味するものは日本の“守り”であると同時に“余裕”である。幕府が海外交渉のあるべきかたちを求めつづけ、必要とみて断乎実施した外交政策上の積極的な表現にほかならなかった。外国の怪しげな諸勢力が侵入するのを拒絶する自由独立の意志の表現であると同時に、17―18世紀にかけて主権国家体制をとり始めた西欧各国と歩調を合わせ、日本が統一国家としての体制を確立せんとしていた証拠である。…」(産経新聞社『国民の歴史』p.402)

もしわが国が、家光の時代に外国との貿易を厳しく制限していたのなら、その後の貿易高は大幅に減らなければおかしいところだが、「鎖国令」の後も、わが国の海外貿易は活発に行われていたようだ。

内田銀蔵

大正8年に出版された内田銀蔵氏の『近世の日本』に、「鎖国令」が出された後にわが国がどのような交易を行なっていたかが記されている。

「…いわゆる鎖国後におきましても、引き続いて日本に来ることを許されておりましたオランダ人およびシナ人に対して、直ちに貿易の額を制限するとか、渡航船の船数を限るということはしなかったのであります。いわゆる寛永の鎖国には、経済上の理由というものはない。そのゆえにいわゆる鎖国後しばらくの間は、長崎におきましてオランダ人およびシナ人の商売はなかなか盛んに行われていたのであります。その貿易に制限を置くようになりましたのは、その後この方から向うにやります品物の欠乏を告ぐることとなり、それからいたしまして貿易の額を限定し、あるいは渡航船の数を限るということになったのである。即ちそれはやや後のことであって、寛永*からそういうような制限をしたのではない。
 なお、この貿易のことにつきまして、簡単に申してみますと、当時シナ人はすでに南洋方面に頗(すこぶ)る移住しておりまして、東南アジアの各地において盛んに商売をしておった。この東南アジアの方に参っておったシナ人は、やはりシナ人として船を長崎によこして商売をすることを許されていた。そのゆえに、実はシナと通商関係を保ったということによりまして、日本はある程度まで東南アジア一帯の地と経済上の関係を持っておったのであります。彼等シナ人はシナ本土の貨物、ならびに東南アジアの産物を色々持ってまいりました。つぎにオランダ人は買い継ぎをしますことが頗(すこぶ)る得意でありまして、彼らは決してオランダ本国のものだけを持って参ったのではない。アジアの各地の産物を持って、日本に来たことであります。西洋の貨物も、オランダ以外で作った品をも持参したのである。」
*寛永:寛永元年(1624)~寛永21年(1645)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981125/50

貿易の相手国がオランダと中国の2国に限定されたものの、その2国については貿易の額や渡航船に関する制限はなく、わが国に西洋や東南アジアの産物が大量に運ばれてきて、盛んに交易がなされていたのである。

出島

当時の主な輸入品は、木綿、生糸、絹織物、砂糖、茶、香辛料、陶磁器などで、これらの商品をわが国は主に金、銀、銅で購ったわけだが、江戸幕府がポルトガル船の入港を禁止した「第5次鎖国令」以降の方が、わが国の対外貿易高は増加しているということを初めて知った時は驚いた。

大石慎三郎 江戸時代

大石慎三郎氏の『江戸時代』には、鎖国についてこう解説されている。

「戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島国日本ははじめて世界史にとりこまれることになった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史にとりこまれたという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難問に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして“鎖国”という体制はその解答であった。
“鎖国”という言葉の持つ語感から、われわれはわが国が、この行為によって諸外国にたいして国を閉ざして貿易、交通さえしなかったと誤解しがちであるが、鎖国の方がその前よりわが国の対外貿易額は増えているのである
。また江戸時代の“鎖国”なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。
 “鎖国”とは一度とりこまれた世界史の柵(しがらみ)から、日本が離脱することだけでなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり“鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への“開国”であったとすべきであろう。…」(中公新書『江戸時代』p.19-20)

「鎖国」という言葉を読み下すと「国を鎖(とざ)す」となり、世界の中で孤立した状態を連想してしまうのだが、江戸幕府が寛永期に行った対外政策は、「国を閉ざす」というものではなく、わが国にキリスト教が流入し侵略の種を蒔かれることを阻止するために、貿易を幕府のコントロール下に置いたと考えるべきではないだろうか。

鎖国

「鎖国」に関して私が子供の頃から何度も聞かされてきたのは、「鎖国は日本の損失であった。もし日本が鎖国をせず、広く西洋文明を取り入れていたならば、もっと日本はもっと発展していたはずだ」という類の議論だが、このような偏狭な西洋文明至上主義的な発想でこの時代を論じることが正しいとは思えない。

もし戦国から江戸時代にかけて諸大名が自由に外国と交通できる状況が放置されていたら、早い段階でわが国の一部が西洋の植民地となっていたことだろう。大石慎三郎氏が述べている通り、この時期の西欧は「メキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴極まりない存在」であり、このブログで何度か紹介してきたように、わが国においてもこの時代に、多くの住民が奴隷にされ、寺や神社や仏像などが大量に破壊されたのである。
江戸幕府が寛永期に行った外交・貿易に関する諸施策については、マイナス面があったことは認めるが、マイナス面だけを見てプラス面を充分に考慮しない歴史叙述は誤りだと思う。

ところで、西尾幹二氏が「学問上の思慮の欠落」と痛烈に批判した「鎖国」に関する歴史叙述については、最近の教科書の世界ではかなり改善されてきているようだ。

オランダ船

例えば『もういちど読む 山川日本史』のp.160~162では、「鎖国令」という言葉は使われておらず、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航と、国外にいる日本人の帰国が禁じられ、寛永16年(1639)にはポルトガル船の来航が禁止され、その結果、「朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられ」、中国船からの輸入額が年々増加して次第に制限が加えられるようになったことが記されている。
『山川日本史』では、寛永期のこのような一連の政策を「鎖国政策」と表現してはいるが、注釈で「鎖国」という言葉の適否について議論がある事も述べた上で、「幕府はここ(長崎)を窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、…オランダ風説書によって海外の事情を知ることが出来た」と、昔の教科書と比べると、随分改善されていることは素直に喜びたい。

しかし、いくら教科書の叙述が代わったところで、多くの国民はその変化を知る機会を与えられているわけではなく、「鎖国令」が1639年に出されたという昔の教科書や参考書の記述をそのまま鵜呑みにして人が大半だと思う。高校や中学の教科書をこっそり変えられても、国民の常識とまでなってしまった「鎖国」のイメージは簡単には崩れない。
教科書の記述を全面的に変える時は、せめてマスコミなどでも大きく採りあげて、昔学校で教えていた内容が誤りであることを、何度も大きく伝えて欲しいものである。

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【ご参考】
このブログで長崎の出島のことを何度か書きましたが、この出島にオランダ商館医として来日したドイツ人のシーボルトは来日した翌年に鳴滝塾を開設し、高野長英ら、多くの弟子を育てただけでなく、わが国が欧米に侵略されないように尽力しました。良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html


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