しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-414.html
<転載開始>
前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。
しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸戦隊警備兵が機関銃を浴びせられ、さらに夕方には砲撃を開始されたために、ついにわが国も戦闘を開始するに至る。
このように発生した第二次上海事変は、やがて日本軍が上海地方を制圧し、逃げる中国軍を追撃するかたちで南京戦へと展開していくのだが、この戦いで日本軍に大きな犠牲が出た。

松井石根

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。
「8月13日、上海陸戦隊と支那軍との間に戦闘が開始されると、我国は海軍の要請によって陸軍部隊を増援することになり、8月15日、上海派遣軍(軍司令官・松井石根大将。第三、第十一師団基幹)の編成派遣を下令した。…
 当時陸戦隊は十数倍の中国軍と対峙して苦戦を続けていたため、第三、第十一師団は応急動員のまま出発、8月24日未明より呉淞(ウースン)およびその上流揚子江岸に上陸した。
 クリーク*とトーチカ**に拠る中国軍十五万の抵抗は激しく、我軍の攻撃は9月に入ってから停滞し、兵員の損害も急増したため、統帥部は台湾から重藤支隊(約1個旅団)を、内地からは第九、十三、百一各師団、野戦重砲兵第五旅団などを増派した。激戦の末、10月下旬に中国軍は退却を開始し、派遣軍は進撃に移り、26日大場鎮を占領、進んで蘇州河を越え、11月9日大上海全域を占領した。
 11月8日までの上海戦に於ける我軍の戦死者は9,115、負傷者は31,257。南京占領までを合算すると戦死者は21,300、負傷者は5万余に達する大激戦であった。」(『大東亜戦争への道』p.422-423)
*クリーク:小運河  **トーチカ:鉄筋コンクリート製の防御陣地

少し補足すると、戦闘が開始されたとはいえ当初の日本軍は4~5千人程度の兵力しかなく、一方国民党軍は8月17日の段階で7万名を超えていたというから、日本軍は本土から援軍が来るまでわずかな兵力で持ちこたえなければならなかったし、我国の援軍が到着した後も、次から次へと繰り出してくる中国兵との苦しい戦いを余儀なくされている。
Wikipediaによると、第二次上海事変においては航空機、戦車、軍艦の数では日本軍が優っていたのだが、兵士の数では中国兵約60万に対し日本兵は約25万と、圧倒的に中国兵が多かったのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

子供の頃に中国軍は「烏合の衆」で、日本軍の相手ではなかったという話を何度か聞いた記憶があるが、第二次上海事変では日本軍に多くの犠牲者が出ている。では、中国軍は日本軍に対してどのような戦術で臨んで日本軍を苦戦させたのであろうか。中村粲氏の文章を続けよう。

大東亜戦争への道

「上海付近の中国軍官民は、長年にわたって排日・侮日思想を鼓吹されてきたため、日本への敵愾(てきがい)心が強く、婦女子を含む一般人民までゲリラ行動に出たため、作戦は頗(すこぶ)る困難であった。また中国軍は、後退する友軍の兵を射殺する『督戦隊(とくせんたい)』という異常かつ非人道的な部隊を第一線の後方に配置したため、退路を断たれた中国兵は命を捨てて頑強に抵抗せざるを得ず、ために極めて悲惨な状況が展開したのであった。
 また中国軍は退却に際しては、重要交通機関や建造物を破壊、焼却するいわゆる『清野(せいや)戦術』*を行なったため、その道路周辺は忽ち無残な荒廃に帰したのである。のみならず敗退する中国将兵の中に『便衣隊』となり、軍服を平服に着換えて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かす者も少なくなかった。これは明白に戦時国際法の違反であった。」(同上書 p.424)
*清野戦術:焦土戦術のこと。敵が行っても泊まるところも食べるものもないように、全部焼き払う戦術。日本軍に追われた支那軍は退却の際、何もかも焼き払い、同胞も平気で犠牲にした。そのため、退路周辺はたちまち荒廃に帰した。

以前このブログで、日本に留学していた中国人陳登元氏が帰郷した際に徴兵され、日中戦争に従軍させられて負傷した体験談をもとに記された『敗走千里』という本の一節を紹介したことがあるのだが、その本には『便衣』になって逃げ延びようとした兵士の話や、『督戦隊』に銃殺されて、兵士の死体の山が出来たなどの話が赤裸々に記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

この本は戦後まもなくGHQによって焚書にされてしまったのだが、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で内容を解説しておられるだけでなく、日本文化チャンネル桜でこの本の講話をしておられる番組を、誰でもYouTubeで視聴することが出来るようになっているのはありがたい。


当時陸軍少佐であり、後に参議院議員となった松村秀逸氏は著書で督戦隊についてこう述べている。この本は、国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。
松村秀逸

「支那軍は第一線に雑軍を立てる場合が多い。その後に督戦隊が頑張っていて、逃げ出そうとすると後ろから撃つのである。また無茶なことをするもので、トーチカの中で手枷・足枷をつけて、鎖でくくりつけたり、トーチカの鉄の扉に外から錠をかけたりしている。私は北支戦線でも広東でも、この手枷・足枷を見たのであるが、全くひどい事をするものである。要するに逃げ出さないように万般の手段を講じているので、進むも死、退くも死、必死の地に追い込んで、戦いをさせるのである。最も激戦だった上海戦線の如きは八段構えの布陣である。第一線、第二線と第八線迄あって、これを時々取り替えるのである。『この前督戦隊で、おれを撃ったから、今度はこっちが撃ってやるぞ』という寸法。支那人同士が仇討ちのつもりで、第一線が逃げ出そうとすると後ろから撃つのであるから、頑強な抵抗をしたわけである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218491/22

松村氏によると、このような督戦隊は15~16世紀にはいずれの国にも存在し、傭兵のような自国に対して忠誠心の乏しい兵士を働かせるために、後方に督戦隊をつけて戦わせたのだという。

中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲された

Wikipediaで「督戦隊」を調べると、こう記されている。
「国家の近代化と市民化が進むにつれ強制徴募は衰退し、戦時国際法・ハーグ陸戦条約などでは占領地での兵の強制徴募が禁止されることになる。しかしそれ以降も徴兵令による兵士(徴集兵)やゲリラ兵、市民兵、あるいは自国内で不正規に徴発された兵士(強制徴募兵)を督戦するための兵や部隊がしばしば登場した。
第二次世界大戦時、主に独ソ戦のソ連労農赤軍に於けるものや中国軍におけるものが有名である。1937年の南京攻略戦の際にも敗退して潰走する国民党軍将兵を、挹江門(ゆうこうもん)において督戦隊が射殺したと言われる事件でもその存在が知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E6%88%A6%E9%9A%8A

挹江門

第二次上海戦争で敗れた中国軍は撤退を始め、当時の首都であった南京に防衛線を構築した。挹江門というのは南京城の北西にあり揚子江に最も近い場所にある城門である。
閉ざされた挹江門の城壁を登って越えて逃げようとする中国兵を射殺したのが正式な督戦隊であったかどうかは議論があるようだが、南京戦を経験した日本軍の兵士たちが督戦隊について語った証言が残されている。

nanking_senshi01.jpg

『証言による「南京戦史(6)」』p.10に掲載されている高橋義彦中尉の証言を紹介しよう。
高橋氏は当時第6師団左側支隊に所属し、(12月)12日に新河鎮の部落まで進軍して、13日に揚子江沿いを下関(シャーカン)に向かう予定であったが、13日の早朝5時ごろから敵の総攻撃を受け、最初の頃は勇敢な兵士が出てきて手こずったが、9時ごろから次第に敵兵の質が落ちて、11時頃に出てきた敵は戦意を失っていたという。

南京地図

「(12月)13日11時頃、敵の突撃部隊は便衣を着た民兵たちで、質が落ちてヘッピリ腰で押し出してくる。異様な感じがした。見れば、私たちの抵抗をうけて反転しようとする兵を督戦隊が後方から射殺している
督戦隊は『督戦』という腕章.をつけ、大型モーゼル拳銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃部隊を押し出すのが任務であったようだ。 味方撃ちで殺された敵の死体は、死体総数の約1割、三百名を下らないと観察した。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

高橋氏によると9時以降繰り出してくる敵兵の約半分は督戦隊によって射殺され、戦場には遺棄死体が約2300、水際付近には約1000あったと記している。そして、「遺棄死体の服装は区々であったが、一般住民は混入しておらず、すべて武器を持った戦闘員であった。また付近には住民は一人も居らなかった」とある。

中国兵の多くが軍服を着用していない「便衣兵」であったのだが、これは明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうことになるからだ。
南京陥落の前日である12月12日に、中国兵多くが商店などからの掠奪をし、軍服を脱いでいることがニューヨークタイムズのダーディン記者が目撃している。その記事が『証言による「南京戦史(5)」』に掲載されている。

12日の夕方、彼等は安全地帯に充ちあふれ数千の兵士は軍服を脱ぎ始めた。民間人の服を盗んだり、通りがかりの民間人に頼んでわけてもらったが、どうしても『非戦闘員』に化けきれない兵士は、最後には軍服を捨てて、下着姿となった。
持っていた武器は、軍服と一緒に投げ捨てられたので、街頭には銃や手榴弾、軍刀、鉄カブトが山積みされた。特に下関付近に棄てられた軍需品の数は驚くほど大量だった。逓信省前から二区画にわたって、トラック、大砲、バス、乗用車、荷馬車、マシンガンの類がまるでガラクタ置場のように散乱していた。
そして12日の深夜には、南京市が誇る豪華な建物の逓信省に火が放たれ、中に貯蔵されていた弾薬は、物凄い音をたてて、数時間にわたって爆発を続けた。火はやがて付近のゴミの山に燃え移り、この日は翌日も燃え続けた。…
中国軍部隊のうち、数千名は下関に辿りつくと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない『パニック』のため、揚子江で溺死するものも沢山あった。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

そもそも蒋介石は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡していたのだから、中国軍に戦意が乏しかったことは当然なのだが、13日に南京が陥落して日本軍の勝利となったとはいえ、これで戦争が終わったわけではない。南京政府は都落ちしたが、四川省の重慶へ遷都し抗日政権は残っていたのだ。

ここで考えて頂きたいのだが、南京の戦場に残された遺棄死体の多くが軍服を着ていなかったし、遺体の処理は中国側が実施した。武器を回収してしまえば、遺棄死体や処理のために運ばれた死体だけを見れば住民ともども虐殺されたと誤認される可能性が外見上からはありえたということは重要なポイントである。その点を衝いて蒋介石は、プロパガンダで日本を貶める戦略を考えていたようである。

南京事件--国民党極秘文書から読み解く

東中野修道氏の『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』によると、国民党は上海戦に次ぐ南京戦に勝算がないことは承知していたという。しかし蒋介石には別の狙いがあったという。

「だからといって日本との戦いを放棄することはなかった。中央宣伝部が『抗戦6年来の宣伝戦』(1943年)で〈現代戦は武力戦とともに宣伝戦が勝敗を決する決定的要因である〉と言うように、彼らは武力戦で負けても宣伝戦でかつという国策に立っていた。そして董顕光の率いる中央宣伝部はかってない宣伝戦を計画した
 極秘文書の中の『編集課工作概況』は、編集発行した『英文日刊』について、次のように報告している。
 『…たとえば首都(南京)防衛戦のときには我軍の勇気を奮い起こした作戦、後方の救援工作を宣伝し、首都が陥落した跡は、敵の暴行を暴き、武漢会戦の段階では、わが軍事力が日増しに増強したことを宣伝した。』
 つまり中央宣伝部からすると、南京戦の焦点は陥落後の敵軍(日本軍)の暴行を宣伝する宣伝戦に絞られていた。…
 …中央宣伝部が国際宣伝において重要視していたことの一つは『各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする』ことであった。つまり『われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果がある』のであり、そのための工作が重要であった。」

南京陥落直後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いたのだが、この時に世界の報道機関は二紙に追随しなかった。主要国の記者は南京にいたので、何が真実であるかがわかっていたようである。
国民党政府は米紙の報道があったことを根拠に、この事件の直後の1938年2月に国際連盟における顧維鈞の演説で2万人が日本軍に虐殺されたことを世界に向けて公言したのだが、これも世界の反応がなかったという。当時は主要国の記者が南京にいたので、中国の主張が嘘であることが判断できたのだろう。

しかしながら、その後中国は東京裁判以降このプロパガンダを何度も繰り返し、わが国が長きにわたり積極的な反論を行なわなかったために、今では『南京大虐殺があった』という説が世界の多数説になってしまっている。

わが国のマスコミや学校で「自虐史観」が今も拡散されているのだが、当時の南京の写真や映像を先入観なしで観ていただいて、本当は何があったのかを多くの人に考えてほしいと思う。
当時の新聞や写真で報道された、日本軍が南京戦に勝利したあとの南京の写真や映像が数多く残されているのだが、いくつかを見れば、その後に南京に平和が訪れて住民の笑顔が戻ったことが分かっていただけるだろう。

南京風景

Wikipediaに当時の写真がいくつか紹介されているが、上の写真は南京陥落の4日後の12月17日に日本軍による南京入城式が行われた後に、「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民の画像である。(昭和13年1月11日発行『支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影』第15集)
また下の写真は12月20日に南京城内中山路にて子供達と戦車の玩具で遊ぶ日本兵の画像である。(昭和13年刊、朝日新聞『支那事変写真全集〈中〉』)

南京事件1220

もう一度言うが、アメリカの2新聞が「日本軍による大虐殺があった」と報じた日は、12月15日と18日であるのだが、もし本当に大虐殺があったのならば、子供がこのような表情をするはずがないのだ。

また南京陥落の翌年である昭和13年の2月に封切られた『戦線後方記録映画「南京」』がYouTubeで公開されている。



この記録映画は昭和12年(1937)12月14日から翌年1月4日に至るまでの間、南京城内外の様子を撮影したものだが、通説では南京陥落後に『南京大虐殺』が行なわれたことになっていることを頭に入れて、多くの人にじっくり見て頂きたい映像である。
もちろん、わが国が編集したものだからわが国にとって都合の悪い場面はカットされている可能性は否定できない。

南京入城式

とは言いながら、12月17日に陸海軍による入城式が整然と行われ、18日には陸海軍合同慰霊祭が厳かに挙行されている
多くの中国人が映像に出てくるのだが、日本人を恐れている様子は感じられない。正月になって爆竹を鳴らして遊びに興じる子供達の明るい表情を見れば、陥落後わずか1か月で南京の人口が20万人から25万人に膨れ上がったことが、誰しも納得できるのではないだろうか。

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<転載終了>