櫻井ジャーナルさんのサイトより
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201605300000/
<転載開始>
 アメリカを象徴とする資本主義の基本原理は「利潤の追求」、有り体に言うならば「富の独占」にある。世界の人びとはその強欲なシステムを押しつけられ、抵抗する政権、体制は破壊されてきた。その口実として「民主化」や「人道」が最近は使われる。

 この基本原理が反社会的だと考える人は支配層にもいて、例えば、フランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派は資本主義を修正、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めようとした。ジョン・F・ケネディも同じような考え方の持ち主で、支配層から憎まれることになる。

 1970年代に力を得た新自由主義はニューディール派の桎梏を破壊しはじめ、1990年代にはその作業がほぼ終了する。1999年11月にグラム・リーチ・ブライリー法が成立、投機を規制する目的で1933年に制定されたグラス・スティーガル法が葬り去られたのは象徴的だ。

 1999年11月にアメリカのシアトルで開かれたWTOの閣僚会議に対する抗議活動には約10万人が集まった言われている。強欲で身勝手な巨大資本に対する人びとの怒り、不公正な政治経済システムを変えろと要求する声は高まり、エンロンのような新自由主義の申し子的企業も破綻寸前。アメリカの支配システムが揺らぎ始め、クーデター、あるいはそれに類することをしなければ体制を維持できないような雰囲気が漂っていた。

 そうした中、2000年には大統領選挙があった。民主党のアル・ゴアと共和党のジョージ・W・ブッシュが争い、裁判所の決定でブッシュの勝利が確定したのだが、選挙戦が始まる前、最も人気があったのはジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまり1963年11月22日に暗殺されたJFKの息子だ。
 選挙戦への出馬を表明していなかったが、1999年前半に実施された支持率の世論調査ではブッシュとゴアをJFKジュニアは5ポイントほどリードしていた。アメリカ支配層にとっては脅威だったが、その脅威を取り除く出来事が1999年7月に起こる。彼を乗せた単発のパイパー・サラトガが自動操縦だったはずの場所で墜落、本人、妻、妻の姉が死亡したのだ。

 アメリカの支配体制を揺るがす抗議活動は2001年9月11日以降、沈静化する。言うまでもなく、その日、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されている。人びとが茫然自失になる中、支配層は憲法の機能を停止させる愛国者法を成立させ、国外では侵略戦争を始めた。

 開戦から数年で侵略戦争の実態が広く知られるようになり、政府の政策に対する反発も高まるが、そうした中、2008年にアメリカ政府はTPPへの参加を表明、環太平洋ファシズム化を目指し始める。有力メディアは支配層の宣伝一色になるが、徐々に批判の声は高まり、現在の大統領選は支配層の思惑とは違う展開になっているようだ。

 強欲な支配層に対する怒りは世界規模で広がり、アメリカではドナルド・トランプ、フランスではマリーヌ・ル・ペンなどの支持につながっている。イギリスではトニー・ブレアに象徴されるシオニストにコントロールされてきた労働党で、党を本来の姿に戻そうというジェレミー・コルビンが党首になっている。こうした現象を「極右の台頭」だとして危険視する人も少なくないが、真のファシストは巨大資本とその手先だ。

 1938年4月29日、アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」と語った。

 彼にそうした定義を言わせたのは、1933年から34年にかけて計画された巨大資本によるクーデター計画の経験だろう。スメドリー・バトラー海兵隊少将の議会証言によると、1934年にJPモルガンとつながるふたりの人物の訪問から話は始まる。ルーズベルト大統領のニューディール政策を止めさせようと持ちかけてきたのだ。

 ふたりには仲間がいて、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を攻撃し、50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることになっていたという。バトラー少将から話を聞いたポール・フレンチ記者はクーデター派を取材、「コミュニズムから国を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で話している。計画の黒幕はJPモルガンだったという。

 クーデターを実行すればバトラー少将がカウンタークーデターで対抗、内戦になることは必至だったが、ルーズベルト大統領がクーデター派を摘発すれば、やはり内戦になる可能性が高かった。そこで有耶無耶のうちに幕引きになる。

 第2次世界大戦の終盤、ドイツや日本が各国で奪った金塊や財宝を回収する作戦をアメリカ政府は開始するが、それと並行して、ナチス時代のドイツと違法な取り引きをしていたアメリカの有力企業やナチスに同調していた有力者を調査しようとしたとも言われている。ウォール街の大物たちが責任を問われる可能性があったのだが、1945年4月にルーズベルトが執務室で急死したため、そうした事態にはならなかった。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

 ドイツの巨大資本がナチスを支えていたことは有名だが、ウォール街も同じ。そうしたこともあり、ウォール街の弁護士でOSSの幹部だったアレン・ダレスはアメリカとドイツの二重スパイだったと言う人もいる。

 大戦の終盤、OSSはイギリスの情報機関と共同でジェドバラという破壊工作部隊を編成したが、その人脈は大戦後、OPCのメンバーになる。そのOPCがCIAへ潜り込んで破壊工作部門(計画局。後の作戦局、国家秘密局)になり、イタリアのグラディオをはじめとする「NATOの秘密部隊」を編成した。

 NATO加盟国は秘密部隊を編成し、その手下になる「右翼過激派を守る」ことが義務づけられていると、この問題を研究しているダニエレ・ガンサーは語っている。ウクライナのネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)、あるいはアル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュも「右翼過激派」と同じ役割を果たしている。EUへ侵入した「イスラム過激派」はこのシステムの中に潜る込むだろう。

 1960年代から80年代にかけてグラディオは「極左」を装って爆弾攻撃を繰り返し、クーデターも計画した。ヨーロッパを自立させようという動きを潰すため、似た作戦が展開される可能性はある。


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