しばやんの日々さんのサイトより
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<転載開始>
先日このブログで、慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を上海ルートから密輸入して戦争準備を進めたことを書いた。アメリカの南北戦争が終わって用済みとなった大量の最新鋭武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったわけなのだが、この第二次長州征伐の戦争準備のために長州藩は慶応元年(1865)5月にミニエー銃千八百挺、ゲベール銃二千挺を金額合計四万六千両で密輸入する契約をしたという。
すると内戦勃発の戦雲が漂い始めて、欧米の駐日外交官が動き出した。鈴木惣一の『開国の真実』にはこう記されている。

開国の真実

「イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表は会談をもち、慶応元年(1865)5月『四国共同覚書』を作成した。四国共同覚書は長州藩のきたるべき幕長戦争に際し、
 第一 日本の内戦に対する厳正中立。
 第二 絶対不干渉。
 第三 密貿易(開港場以外での貿易)禁止。

を取り決め、わが国に対する内政不干渉を申し合わせた。当然の姿勢と言うべきである。
 四国共同覚書のなかで特に重要な意味をもつのは、第三番目の密貿易禁止条項である。
 というのは、当時の開港場は通商条約が定めたうち長崎、函館、神奈川(横浜)の三港であり、
『通商条約で定められた兵庫については勅許がおりないため…』
いまだ開港されず外交懸案事項となっていた。
だから四国共同覚書がうたった第三項の『密貿易禁止=開港場以外での貿易禁止』とは、イギリスの長州藩に対する下関における小銃等の武器密輸出を禁止したことを意味する
 イギリスが長州藩に心を寄せていることは他の三国に周知の事実だった。
 だから第一項の『日本の内戦に対する厳正中立条項』も、第二項の『絶対不干渉条項』も、イギリスが日本の正統政府であり開国方針を堅持する徳川幕府に敵対する長州藩を支援しないよう、フランス、オランダ、アメリカ三国が牽制したものである。」(鈴木荘一『開国の真実』p.250-251)

 かつて徳川幕府はオランダのみに貿易を認めていたのだが、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで通商条約を締結し、それぞれの国が平等にわが国と交易が出来る状態にあった。にもかかわらず、イギリスが通商条約で禁止されている武器を討幕勢力に密売する動きが出てきたことを各国が警戒したのは当然である。
以前このブログで書いたように、当時の最新鋭の銃は幕府軍が所有していた銃と比較して飛距離、命中精度、破壊力に格段の差があり、大量に保有していれば幕府に対し銃撃戦で勝てる可能性が高かったし、イギリスには各国から警戒されるだけの前科があった。鈴木氏の著書の解説を続けよう。

「それなのに幕長戦争でイギリスが長州藩を軍事支援し、最新鋭小銃を装備した長州藩が勝って幕府が敗れ、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事援助したイギリスの独断場となりかねない
 …
 思い返せば結局のところ、清国市場は香港・上海を押さえたイギリスが統治してしまい、他の三国は清国市場から事実上締め出されてしまった
 とくにフランスは『苦い思い』があった。フランスはこれまでイギリス外交に追随してきたが、その結果、良い思いをすることは無かった。対清国外交では、当時の広東駐在イギリス領事パークスが仕掛けたアロー号事件に際し、フランスもフランス人神父が殺害されたことを理由にイギリスと共に安政4年(1857)に清国へ出兵し、更に万延元年(1860)にはイギリスと共に大軍を送って清国を屈服させたのだが…。結果をみると、イギリスが香港対岸の九龍の割譲を得るという戦後処理となって、イギリスが清国市場を独占してしまった
 フランスは、イギリスの外交に追随して『骨折り損』という結果に終わったのである。」(同上書 p.251)

ここで、イギリスが清国に対してそれまでどのような事をしてきたかを簡単に補足しておこう。
『もういちど読む 山川の世界史』にはこう記されている。

「中国では古くから物資が豊かで、日用品の輸入を必要としなかった。このため、イギリスは茶を買い入れるにあたって、中国に銀を支払わなければならなかったが、18世紀末ころから銀にかえてインド産のアヘンを持ち込むようになった。1830年代には中国ではアヘンの輸入が激増し、逆に大量の銀が流出して国内経済が不況におちいった。アヘンの害毒は大きく、清朝はしばしば禁令をだしたが改まらなかったので、ついに強硬な措置を取ることをきめ、1839年、林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。彼はイギリス商人所有のアヘンを没収して廃棄し、一般の通商を禁じたため、イギリスは外交・貿易上の問題点を一挙に武力で解決しようとして翌年遠征軍を送り、アヘン戦争(1840~42年)がおこった。」(『もういちど読む 山川の世界史』p.191-192)

アヘン戦争

林則徐はアヘン吸飲者・販売者の死刑執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求したのだが、それが履行されないために貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し焼却したのだが、イギリスは清に対して焼却されたアヘンの賠償を要求し、それが容れられないために海軍を派遣し中国海岸を北上して1840年に戦端を開いた。
イギリスはこのアヘン戦争で清国を圧倒し、1842年に南京条約が締結されて、清国は上海などの五港の開港および香港島の割譲と賠償金の支払いを余儀なくされたのである。

 このようなとんでもないやり方でイギリスは清国との貿易を開始したものの、その後も綿布などのイギリスの工業製品の中国への販売が伸びなかったため、イギリスはさらなる利権の拡大を武力によって勝ち取ろうと動いている。
再び『もういちど読む 山川の世界史』の解説を引用する。

「たまたま1856年広州港でおこったアロー号事件(イギリス船籍であったアロー号の中国人船員を逮捕した事件)が契機となって、英仏(フランスはカトリック宣教師の殺害事件を口実にした)両国と清とのあいだに戦争がおこった。これをアロー号戦争(第2次アヘン戦争、1856~60年)といい、英仏軍が北上して天津にせまったので、1858年天津条約が結ばれていちおう講和できたが、清が批准を拒絶したため、60年英仏連合軍は北京に進撃し、清は敗れて北京条約を結んだ。天津条約・北京条約によって清はイギリスに九竜(きゅうりゅう)割譲するほか、天津など11港の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教の信仰と布教の自由、外国人の中国内地旅行の自由などを認めた。その結果、欧米諸国の中国における権利は、南京条約にくらべ一段と大きくなった。」(同上書 p.194-195)

アロー号事件

教科書には何も書かれていないのだが、アロー号はアヘンの密輸船でありその船に清朝の官憲が海賊容疑の立入りの検査を行い船員を逮捕した。ところが、イギリス領事のパークスはアロー号はイギリス領香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引きずりおろされたことはイギリスへの侮辱であるとして清国に対し開戦に踏み切ったのである。実際のところアロー号の香港船籍は期限が切れていたらしく、イギリス国旗が降ろされたというのも事実かどうかはっきりしていないというからひどい話である。

こんな理由でイギリスは清国と開戦し、かくしてイギリスは清国を半植民地状態に陥れたわけだが、イギリスがこのようなひどいやり方をしたのは清国に対してだけではなかった。

インド大反乱

イギリスの植民地であったインドで、1857年にムガール帝国の皇帝を担ぎ出してイギリスの植民地統治に反対する大反乱*が全土で拡がったのだが、イギリスはこの反乱を鎮圧するためにイスラム教徒と対立関係にあったパンジャブのシーク教徒を味方につけ、射程距離が長く命中精度も高い新式の銃で、旧式の銃を持つ反乱軍を圧倒し、みせしめのために捕虜となった反乱軍の兵士たちを、大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させるといった極めて残虐な方法で処刑している。

インド大反乱 反乱軍の処刑

このようにアジアの国々でひどい事をしでかした国が、わが国に対してだけは例外的に悪意を持っていなかったかのような幕末の歴史叙述はあまりに不自然で、そのまま鵜呑みにして良いとはとても思えないのは私だけではないだろう。
イギリスは、わが国に対しても清国と同様に、武力を用いてわが国を混乱させ疲弊させて、最後に半植民地化することを考えていたのではないのか。
*大反乱:以前は「セポイの反乱」と呼ばれていたが、最近では「インド大反乱」。インド側では「第一次インド独立戦争」と呼ばれている。

再びイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表が合意した『四国共同覚書』の話題に戻そう。
この覚書は、前述したとおり幕府に敵対する長州藩を支援するイギリスをフランス、オランダ、アメリカの三国が牽制するために交わされたものなのだが、イギリスはこの覚書があるにもかかわらず、長州藩に対する武器の供給を続けているのだ。

江戸幕府は長州藩が密貿易で最新鋭の銃を密輸入していたことを把握しており、幕府探索方が眼を光らせていた。また、長州藩は武器代金を特産物などで支払おうとしたくらいだからそれほどの資金があるわけではなかったようなのだが、では長州藩はどうやってイギリスから大量の武器を手に入れたのだろうか。

鈴木荘一氏は著書でこう解説しておられる。
長州藩がイギリスから密輸入する武器類は薩摩藩名義にして幕府探索方の眼を盗むと同時に、慢性的な米不足に薩摩藩は長州藩からの米の融通を受けて米不足を補い、また長州藩の資金不足を救ったのである。長州藩の武器輸入が『薩摩藩名義』で行われることになると、四国共同覚書によって禁止された長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが可能となった。長州藩が薩摩藩名意義で購入した銃火器類は、薩摩藩の船や長州藩が薩摩藩から購入した船で、長州藩内に搬入された。
 代わりに長州藩は米不足の薩摩藩に軍糧米を融通した。…こうして長州藩は近代兵器を揃えてますます強くなり、薩摩藩も農村の疲弊を顧みることなく強兵政策を推進しますます強くなった。」(同上書 p.256-257)

強兵政策に走ったことで農業生産者が兵士に取られたために薩摩藩では米が不足していた一方、薩英戦争講和後は、薩摩藩は大手を振ってイギリスから最新武器を購入できるようになっていた。そこで薩摩藩名義で長州藩の武器購入契約が結ばれて、薩摩藩の船で武器を長州藩に運び、長州藩の米と交換することで、長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが出来たのだが、その長州藩の武器の取引に土佐郷士の坂本龍馬が関与している

坂本龍馬

坂本龍馬が薩摩藩や商人の援助を得て亀山社中を結成したのが慶応元年(1865)閏5月で、その頃に『四国共同覚書』フランス、オランダ、アメリカの三国がイギリスと長州との密貿易を牽制している。
そして、7月には坂本龍馬の周旋により長州藩の伊藤博文・井上馨が薩摩藩名義でグラバーとミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んでいるのだが、出来たばかりの亀山社中にこんな巨額の取引が周旋出来たのは不自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

パークス

注目したいのは、清国でアロー号事件を仕掛けたパークスが、同年の閏5月に駐日公使として来航し着任している点。パークスは幕末から明治初期にかけて18年間駐日公使を務めたのだが、着任当初からグラバーらが通商条約と四国共同覚書に違反する取引を黙認しただけでなく、同年9月に幕府が第二次長州征伐を開始しようとした矢先に、幕府に対して『下関戦争賠償金第二回以降支払延期要請は、朝廷から通商条約勅許を得ない限り認めない』と突っぱねて、第二次長州征伐の開始を9か月遅らせたのである。
そのおかげで、長州藩はイギリスの支援を得て戦争の準備を整え、翌慶応2年(1866)の1月に坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立するという流れだが、鈴木荘一氏の同上書にはこう解説されている。

薩長両藩の連携は、薩摩藩が長州藩に武器輸入の名義を貸し、長州藩が薩摩藩に軍糧米をを融通する『三角貿易の商取引』がベースになったことは言うまでもない
 イギリス公使パークスとイギリス武器商人グラバーは、反幕府の旗印を鮮明にする長州藩と我が国最強の戦闘集団薩摩藩を合力させ、第二次長州征伐に備えた。こうした事情についてグラバーは、
『つまり自分の一番役に立ったのは、パークスと薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番の手柄だったと思います(史談会雑誌)』
と率直に告白している
。」(同上書 p..265-266)

パーマストン子爵

ついでに言うと、当時のイギリスの首相はアロー号事件、インド大反乱の反乱軍処刑に関わり、以前には外相としてアヘン戦争を主導したパーマストン子爵なのである。こんな人物がイギリスの政治や外交の主導権を握っていた時代にわが国の明治維新が起きていることは、とても偶然とは思えないのだ。

以前このブログで、イギリスのハモンド外務次官が1866年4月26日付でイギリス公使ハリー・パークスに宛てた文書の一節に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と書かれていることを紹介したが、明治維新が「日本人だけから端を発しているように見え」るためには、イギリスが討幕勢力に最新鋭武器の密貿易に加担したように見えては拙いことは言うまでもないだろう。
イギリスには、自国あるいはグラバー商会の意向に沿って動く日本人がどうしても必要になってくるのだが、その人物が坂本龍馬だったという説がある。私はその可能性がかなりあると考えるのだが、みなさんはどう思われますか。

<転載終了>