福田元昭の「桜の木になろう」さんのサイトより
http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-832.html
<転載開始>
(1)Japan's Emperor Akihito 'to abdicate on New Year’s Day 2019'

2019 天皇
↑画像 現在の皇太子と天皇

 2019年1月1日に現在の皇太子が新たな天皇に即位し、新しい元号を適用する案が浮上していますが、その場合、2018年のうちに新元号を発表することを政府が検討しています。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170111-00000032-jnn-pol

(2)前漢の武帝が始めた元号制度
 
 前漢の武帝は儒学を官学化し、董仲舒の献策で五経博士を設置し、郷挙里選を採用し、元号を使い始めました。 この知識は大学受験の世界史でよく出題されます。

 元号は“天の代理人たる天子(皇帝)が、時間と空間を超えて世界を支配する”という思想のもとに生み出された紀年法です。

 「朕はこの広大な中国と言う空間だけでなく時間も支配したい」と言う武帝の欲望から始まったのが、私が粉砕したい元号制度なのです! 

 世界最初の元号は、紀元前に存在した中国の王朝・前漢の武帝が定めた「建元」でした。武帝は何回も改元(元号を改める事)を行いました。つまり現在の日本の場合と違い、一人の君主の時代に何回も元号が替わったのです。やがて武帝が死んだ後も、これに倣って中国の歴代皇帝や王朝は元号を使用し続けた。
  また、中国王朝の冊封(中国に対し、周辺国や民族が中国皇帝を天子と仰ぐ君臣関係を結ぶ事)を受けた周辺諸王朝は、中国王朝の元号や暦を自国においての公式な元号・暦として使い続けた。これを「正朔を奉ずる」と言った。

(3)「元号制度は日本独自の伝統文化」ではない!

 おぞましい元号法制定前の議論の際、「元号制度は日本独自の伝統文化」と主張した馬鹿な右翼がいた。誤解を受けないように書き添えますが、すべての右翼を馬鹿と言っているわけではなく、この主張をした右翼に限定した言葉です。拙ブログで書いてきた通り、尊敬できる右翼もいます。

 (2)に書いた通り、「元号制度は日本独自の伝統文化」ではない! 中国からの輸入文化です! 右翼の皆さんの多くは中国嫌いなのに、中国発祥の文化を今後も後生大事にに守っていくつもりなのですか?

(4)日本の元号使用のSTART

 『日本書紀』によれば、乙巳の変が起きた645年に「大化」と言う元号が用いられたのが、日本の元号使用の最初であるとされる。以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。しかし、当時使われた木簡の分析によると、元号の使用は確認されていない。まだ7世紀後半は、元号よりも干支の使用が主流だったようである。701年に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることとなった。

(5)元号使用は天皇への忠誠の証!

 南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)がそれぞれ独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した。

 この歴史的事実から次の事が解る。「元号使用は天皇への忠誠の証!」と言う事が。つまり持明院統(北朝)を支持する人々は持明院統(北朝)の天皇が定めた元号を使用して、大覚寺統(南朝)を支持する人々は大覚寺統(南朝)の天皇が定めた元号を使用していたのです。

(6)一世一元の制

 日本における南北朝時代、海の向こうの中国では元から明へと王朝の交替があった。1368年に成立した明で、一人の皇帝の時代に一つの元号となりました。これを「一世一元の制」と言います。日本は明治時代に入り「一世一元の制」を採用しました。

(7)戦国時代には私年号が多用

 「元号使用は天皇への忠誠の証!」と言う意味があるので、天皇家の権威が地に落ちた戦国時代は、「天皇の定めた元号なんか馬鹿らしくて使えるか!」と言う事で、各地の武士や民衆は元号とは別の私年号を定めて使用した例が多い。特に東日本で私年号が盛んに用いられた。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/018.htm

(8)辛亥革命→中華民国成立→中国の元号制度廃止!

 清朝政府の鉄道国有化政策に対する四川暴動を契機に、革命派の新軍が蜂起した1911年10月10日の武昌蜂起が全国に波及することによって、辛亥革命が起こり、翌12年1月、中華民国が成立した。清の支配層にとってさぞかし心外だった事でしょう。

 「中華民国成立により、中国はアジア初の共和制国家となった。」などと書いてある教科書があるが間違いです! 1895年の台湾民主国は、台湾最初の独立国家であり、さらに辛亥革命によって成立した中華民国の成立に先立つ、アジア初の共和制国家でした。

 それはさておき、中国は共和制国家になったのですから、君主制国家と密接不可分の元号制度は元号制度発祥の地・中国で廃止になりました。めでたし、めでたし!

(9)ベトナム阮朝の場合

 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した阮朝は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝です。フランスの支配下にあった時代も含め阮朝は一世一元の制を採用していた。つまり元号制度を採用していた。

 インドシナ半島の東側に南北に長い国土を持つベトナムは、1884年にフランスの保護国となり、カンボジア・ラオスとともにフランス領インドシナ連邦として植民地支配を受けていた。20世紀に入ってファン=ボイ=チャウらによる ベトナムの独立運動が活発となり、東遊運動が展開さ入れたが、フランスに抑え込まれていた。

(10)日本人がチャンパ米を強奪した為、ベトナム民衆約200万人が餓死!

 第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗北したことは、ベトナムの独立の好機となったが、代わって日本軍が侵略すると、抗日ゲリラ戦を展開しなければならなくなった。

 日本軍が侵略した北部仏印(ベトナム北部)では、日本が米作地帯をジュート畑に転換したことと、日本軍がラオスや日本本国へ備蓄米<チャンパ米>を輸送したため、すさまじい食糧不足となり、1944年末から45年にかけてベトナム人約200万人が餓死した。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.221>

 「戦争中まずいチャンパ米を食べてつらかったわ」などと言う高齢者がいる。日本人がチャンパ米を強奪した事によりベトナム民衆約200万人が餓死した事をまったく想像できない罰当たりな高齢者が実にたくさんいる。

 この史実は、ホー=チ=ミンがベトナムの独立宣言で触れている。ベトナム人にとっては常識のこの史実を多くの日本人は知らない。一部の良心的な日本史の教科書には書いてあるのですが。 

(11)ベトナムでも元号制度廃止!

 1945年8月の日本軍降伏の直後、ホー=チ=ミンの指導によるベトナム民主共和国が1945年9月に独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとしたフランス軍がふたたび侵略してきたので、ベトナム人はフランス軍との間に激しいインドシナ戦争を戦うこととなった。

 君主制国家・阮朝は滅びたので、君主制国家と密接不可分の元号制度はベトナムでも廃止になりました。めでたし、めでたし!

 1949年にフランスはバオ=ダイ帝を擁立してベトナム国を樹立、傀儡政権とした。アメリカ(トルーマン政権)は同年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援して介入し、インドシナ戦争はベトナム人民とフランス・アメリカという大国との対決となった。

 ベトナムはホー=チ=ミンの指導するベトナム労働党(1951年にインドシナ共産党から改称)を中心とするベトナム独立同盟(ベトミン)がゲリラ戦を展開してフランス軍・アメリカ軍に抵抗、ついにディエンビエンフーの戦いでの勝利を経てフランスを追い出すことに成功したが、アメリカは南部一帯を占領した。 

 1954年ジュネーヴ休戦協定で北緯17度を境に休戦が成立したが、55年には南部にアメリカの支援でゴ=ディン=ディエムを首班とするベトナム共和国が誕生し、南北ベトナムの分立という事態となり、南北の抗争に米ソの対立がからむこととなった。

(12)敗戦後、日本の元号制度は法的根拠を失う。

 第二次世界大戦の敗戦に伴う連合軍占領下の法改正により、日本の元号は法的根拠を失った。大日本帝国憲法下においては、元号に関する規定は旧皇室典範第12条に明記されていたが、日本国憲法下においては、1947年に現皇室典範が制定されるに伴って元号の法的根拠を示す条文が消失した。日本の元号はただ慣習として使用されるにすぎない有様となり、昭和天皇の死とともに消滅する運命にあった。

(13)サンフランシスコ講和条約締結の頃、保守政党内部で元号廃止論が。

 サンフランシスコ講和条約締結の頃、後の自民党に繋がる保守政党内部で元号廃止論が出た。先の大戦で我が国は諸外国に多大な迷惑をかけた。そこで国際標準の西暦に一本化しようと言う発想だった。

(14)元号法制化キャンペーン

 やがて右翼が、昭和天皇の死とともに消滅する運命にあった元号を法制化しようという運動を開始した。

 「日本青年協議会」が一躍注目されることになったのは、「元号法制化運動」であった。敗戦後30年以上にわたって「元号」の使用は法制化されていなかった。「元号」を日本国の正式な年号の記録の方法として法制化しようとしたのが「元号法制化運動」であった。この運動は「日本青年協議会」が結成される2年前の1968年に「神社本庁」などが中心となって開始されていた。

 しかし、「日本青年協議会」がこの運動の中心的な主体として参加するにつれ、運動は大変な勢力になって行った。「日本青年協議会」を率いた人物は、長崎大学出身の椛島有三であった。椛島有三は右翼のくせに左翼の大衆動員の方法からヒントを得て、地方自治体と地方議会に働きかけ、地方から「元号法制化」の決議をしてもらい、政府に圧力をかけるという手法を展開した。

 また「日本青年協議会」は、地方の力を結集するために西日本などにキャラバン隊を組んだ。講演会を開き映画を上映して元号法制化を啓蒙すると同時に、地方議会に決議を促すように要請した。

 この結果、1968年の運動開始から元号が法制化された1979年まで、47都道府県議会の46の議会と、日本全国の市町村議会の半数以上の約1600の自治体が、国会に元号法の制定を促す決議案を採択した。

 http://www.mag2.com/p/money/8039/3

 そしてついに1979年6月、元号法案は自民・公明・民社・新自クの賛成多数で成立してしまった。

(15)「元号を強制しない」と言う政府答弁

 1979年、元号法案の審議が国会で展開された頃、元号法案に対して多く人々が反対の声を上げた。その為、1979年4月19日衆院内閣委員会で、クリスチャンの首相だった大平正芳は、「(元号の)使用についてこれを強制しようとするものでは決してない」と答弁しました。これ以外にも、元号法案の審議が国会で展開された頃、公的機関等で元号を強制しない事を政府が再三答弁しています。

 私達主権者である国民は、公的機関等で元号を強制されないのです!

*「元号制度を粉砕しよう! PART2」に続く

(16)元号制度粉砕<元号制度廃止>に賛成の皆様へ

 元号制度粉砕<元号制度廃止>に賛成の皆様、いつにも増して下の「拍手」をクリックして頂けると幸いです。また、「いいね」などを活用してこの記事を拡散して頂けると幸いです。


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