弁護士小森榮の薬物問題ノートさんのサイトより
http://33765910.at.webry.info/200810/article_9.html
<転載開始>
<<   作成日時 : 2008/10/09 23:47   >>
わが国の薬物乱用に対する法規制の基本となっているのが麻薬及び向精神薬取締法ですが、その原型は、第二次対戦後の占領下で連合国軍最高司令本部(GHQ)の指示によって整備されたものです。
この法律の背景を理解するには、まず、日中戦争や満州国と阿片の問題をひととおり把握しなければなりません。その背景を抜きにして、GHQが日本の麻薬政策に関して極めて厳格な姿勢で臨んだ理由を理解することができないからです。

1945年に連合国軍が日本に進駐した当時、日本は、国際社会において、悪名高い麻薬ブローカー国家とみられていたようです。しかし、日本が国家的規模で行った麻薬売買について、あまり語られることはありませんでした。ポツダム宣言を受諾後、軍事政策に関係した資料の多くが焼却されたといいます。

私はいま、日本による中国侵略と阿片問題の資料を読み始めたところです。この問題に関して、2冊の優れた歴史資料集があります。
江口圭一編『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』岩波書店、1985
岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』みすず書房、1986
いずれも、日本の中国侵略と連動した阿片政策に関する貴重な資料集です。なお、最近刊行された読みやすい文庫本として、佐野真一『阿片王―満州の夜と霧』新潮文庫、2008があります。


今日、読んだばかりの『続・現代史資料12 阿片問題』の冒頭に掲載された「解説」は、「始めに軍隊が、次に商人が、というのが日本の中国の侵略の型であった。」としています。「軍隊が侵攻した占領地を確保する。そこに製薬会社の、または密造による麻薬が持ちこまれる。阿片は阿片戦争以後、広汎に中国で吸飲されていた。清朝が倒れた辛亥革命(1911年10月10日に始まる〉以後、中間は各地に軍閥という一種の封建領主が割拠し、互いに争い、戦っていた。この「動乱の支那」の時代、軍閥の軍費を中心とする維持費はおおむね阿片によって賄われた。中国は阿片の生産量でも吸飲者の数でも世界一となっていた。蒋介石・国民政府による北伐完成(1928年6月9日〉で一応、国家統一された以後も、雲南省、綏遠省、四川省、広西省、山西省、熱河省や東三省などには軍閥が健在であり、けし罌粟(けし)が栽培され阿片が製造されていた。蒋介石の阿片禁止もまったく実効はなかった。ここに日本軍が入ってきたのである。(岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』xii頁、みすず書房、1986)


日本の薬物政策の歴史―対中国侵略と阿片問題の予習
http://33765910.at.webry.info/200810/article_11.html
作成日時 : 2008/10/11 23:41
日中戦争期から戦後にかけての麻薬事情を理解するために、予習をしています。まず、現在のあへん事情の概要。参照し、また文章やデータを引用したのは、医療用麻薬に関しては、厚生労働省医薬食品局監視指導・麻薬対策課編『麻薬・覚せい剤行政の概況 2007年12月』7~15、23~25頁。不正麻薬に関しては、国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』(http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html)です。

けしから採取するあへんは、モルヒネやコデインなどの原料として、医薬品に欠かせない素材です。あへんを原料とする麻薬には、疼痛を抑えるモルヒネやコデインなどがありますが、医薬品の原料としてもっとも広く使われるのはリン酸コデインやリン酸ジヒドロコデインで、医師が処方する薬品のほか、薬局で買う総合感冒薬にもごく少量が含まれています。
しかし、あへん系の麻薬は、乱用薬物としても広まっています。生あへん、ヘロインなどはもっぱら乱用目的で流通し、また、乱用目的で密造されるあへんアルカロイド系の麻薬もあります。

世界のあへんの生産
●医療用に使われるもの
あへんアルカロイド系麻薬は、けしから採取します。典型的には、けしの朔果(けし坊主)からあへんを採取し、これを製薬の原料にするのですが、ほかに、けしの全草、または成熟したけしの朔果から抽出したCPS(けしがら濃縮液)を生産し、これを製薬原料とする方法もあります。
2005年現在では、あへんを生産しているのはインド、中国、日本で、総生産量は345トン。正規のあへん生産では、世界最大の生産国はインドで、2005年には332トンを生産しました。2005年の日本のあへん生産量は2キログラムです。CPSを生産しているのは、オーストラリア、トルコ、フランスなどで、2005年の総生産量は601トンです。
画像

図は厚生労働省医薬食品局監視指導・麻薬対策課編『麻薬・覚せい剤行政の概況 2007年12月』15頁から。
クリックで拡大します。

●不正麻薬として生産されるもの
不正けしの主な栽培地域はアフガニスタン、ミャンマー、ラオスなど。栽培状況は、衛星監視システムなどで監視されていますが、2006年ころからアフガニスタン南部でけしの栽培面積が拡大し始めています。世界の不正あへんの生産量は、2007年では8,870トン。アフガニスタンが世界のあへん生産の92%を占めています。

日本の薬物政策の歴史3―旧麻薬取締規則
http://33765910.at.webry.info/200810/article_13.html
作成日時 : 2008/10/15 01:14
あへんは、様々に表記されます。現在、公式な文書では「あへん」「けし」と表記されますが、終戦後までは「阿片」「罌粟」の文字が使われていました。資料との関係もあるので、第二次大戦後までについては、「阿片」「罌粟」と表記します。

20世紀初頭、中国での国内阿片生産が35,300トン(1906年)、さらに外国から3,292 トンが中国に輸入される(1907年)という時期に、世界は麻薬の国際的流通を規制する動きを開始しました。
当時、日本はアジアにおいて覇権の拡張を続け、台湾を領有していましたが、台湾では阿片漸禁政策をとっていました。
「台湾は福建とともに中国でももっとも早くから阿片吸食がはじまった土地であり、その悪習が蔓延し、財政収入もその半ば以上を阿片に依存する状態にあった。日本は、内務省衛生局長であった後藤新平の主張にもとづいて阿片漸禁政策をとり、その間の阿片専売制度を実施した(江口圭一編『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』16ページ、岩波書店、1985)。」
1897年、台湾阿片令を公布し、阿片を専売とし、喫煙者を登録制としましたが、登録された喫煙者は、1900年では169,064人(全人口の6.3%)、1907年までには113,165人(3.7%)と減少し、漸禁政策はある程度の成功をおさめました。

台湾での成功によって、日本はその後、関東州、満州および中国本で、漸禁政策を中心とした阿片政策をとることになります。しかし、中国大陸では、漸禁政策は失敗に終わります。
「漸禁主義は政策当局の建前として表面―法令、裁判など―は漸次阿片吸飲を断つ政策を掲げていても、実際は、阿片、モルヒネ、の密造、密売により、一攫千金を得た多くの日本人、朝鮮人、中国人により空洞化され、無法状態にされていったのである。たんに密造者、密売者たちの跋扈にとどまらず、関東庁、満州国政府の財政収入の一環として阿片の輸入、罌粟栽培を当局が推進していったことにより、この漸禁主義は実質的に崩壊した(岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』xiii頁、みすず書房、1986)。」

この間の阿片政策はたいへん興味深く、私は資料に埋もれながらこの時代の日中阿片政策の流れを理解しようと悪戦苦闘していますが、ここでは、深入りせずに先へ進みましょう。
1920年代、日本がとった漸禁政策は、次第に占領地の財政上阿片を重要な収入源と位置づける方向に進み、日本は罌粟栽培を推進し、阿片取引を擁護しているとして、国際的な非難を浴び始めます。
従来、中国の阿片問題を招いた悪役として避難されてきた英国が、国際阿片会議の場で、新たな悪役として日本への非難を強めました。1924~1925年、ジュネーブで開かれた国際阿片会議では、英国対日本の熾烈な外交戦が展開されたといいます。
1924年11月、ジュネーブ国際阿片会議で、日本の代表が日本の阿片政策を各国に説明した原稿が残されています(賀来佐賀太郎「日本帝国の阿片政策」岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』32~50頁、みすず書房、1986)。そこでは、内地、台湾、朝鮮、関東州で行われてきた阿片政策の概要を示し、とくに台湾に関しては、関係法令、阿片管理の具体的な施策や中毒者の減少データなどを示し、同時に「阿片行政と密接の関係ある」医療・公衆衛生の整備状況なども報告しています。
同文書の最終部分「第二会議に関する声明」では、麻薬類乱用の解決には、第1に、取締りの励行と教育などによって新たな中毒者の発生を防止すること、第2にすでに中毒者となった者に対しては救護の途を講ずることと結論付けています。つまり、日本が台湾で行い、成果を挙げつつあった漸禁政策をひとつの政策モデルとして示したのです。

1925年、ジュネーブ国際阿片会議では2つの条約が作成されました。第一阿片会議条約は、阿片の阿片吸食を許容する国(実際は阿片貿易に関与する国)を対象とするもので、第二阿片会議条約は、阿片等の麻薬の国際規制を内容とするものです。
日本は、占領地では阿片の許容政策をとっていたため、第一阿片会議条約の締結国にはいっていますが、内地では阿片等の乱用実態がなく、阿片の吸飲を許容する制度もないので、第二阿片会議条約に沿った国内法の整備が行われることとなり、1930年(昭和5年)、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されます。なお、これは、大戦後の昭和21年の麻薬取締規則と区別するために、旧麻薬取締規則と呼ばれます。

日本の薬物政策の歴史4―旧麻薬取締規則の内容
http://33765910.at.webry.info/200810/article_14.html
作成日時 : 2008/10/15 21:45
1930年(昭和5年)、第二阿片会議条約に沿った国内法を整備するため、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されます。旧麻薬取締規則の内容をみていきましょう。

まず、この規則で麻薬として規制対象となっているのは次のとおりです。規制対象は、①あへんアルカロイド系麻薬とその原料となるモルヒネなど、②コカ葉、コカインとその原料となるエクゴニンなど、③印度大麻草の3系統を「麻薬」として規制対象としています。
1 モルヒネ、ヂアセチルモルヒネ及びコカイン並びにその各塩類
2 粗製モルヒネ、コカ葉及び粗製コカイン
3 エクゴニン及びエクゴニン誘導体並びにその各塩類
4 モルヒネ誘導体及びその塩類(コデイン、ヂヒドロコデイン並にその各塩類を除く)
5 千分中二分以上の「モルヒネ若しくは「モルヒネ誘導体「コデイン及ヂヒドロコデイン」を除く)、千分中一分以上の「コカイン、エクゴニン若しくは「エクゴニン誘導体又は「ヂアセチルモルヒネ」を検出するもの
6 印度大麻草、その樹脂及びこれを含有するもの
7 内務大臣において指定するもの

この規則には、3つの柱があります。まず、製造についての規制で、第2条から8条がこれにあたります。麻薬の製造には許可または届出が必要で、前記の規制対象の1~3については、麻薬を製造する者は内務大臣の許可を受け、また毎年の製造計画について事前に許可を受けなければならず、4~7については届出をするよう定めています。さらに、麻薬を製造した者には年1回の実績届出を科しています。第5、6条はコカ樹栽培についての規制。

2つめの柱が輸出入・移出入についての規制で、第9条から15条がこれにあたります。ここで輸入とともに「移入」という記載があるのは、当時、日本が統治していた地域があることによるものだと思います。麻薬の輸出入には、すべて許可が必要とされています。

3つめの柱が、麻薬を取り扱う薬品営業者の管理に関する規制。麻薬を小分け販売する際には販売者の名称、住所、日付などを明記すること、医師などに譲り渡す際には相手から医師であることの証明書を受け取り5年間保存すること、麻薬の販売について帳簿を備えることなどが規定されています。
第20~26条は罰則と雑則にあたる内容です。許可を受けずに麻薬を製造し、あるいはコカ樹を栽培した者、許可を受けずに麻薬を輸出入(移出入)した者は3月以下の懲役。製造や輸出入の届出などの違反、および薬品営業者に科された義務の違反に対しては3月以下の懲役または100円以下の罰金。事後の報告を怠ったり検査や巡視を拒んだ者に対しては100円以下の罰金または拘留若しくは科料。

この規則は、第二阿片会議条約に沿って制定されたもので、麻薬の国際的な流通規制を主な目的としているため、輸入・移入に関する規定が規則の中核をなしています。ここでは、医療上の必要があって麻薬を取り扱う医師や、麻薬の投与を受ける患者に対する規制や管理は見当たらず、当然ながら、末端の使用者が麻薬を乱用することに対する禁止や処罰は設けられていません。
その後、昭和21年に新たな麻薬取締規則が制定される際には、麻薬の施用を禁止する内容が盛り込まれるのですが、その源流は、この旧麻薬取締規則ではないようです。私は、麻薬の施用罪にこだわって、日本の薬物規制法令をさかのぼってきましたが、いよいよ、その起源がわからなくなってしまいました。
もしかすると、戦時下の台湾で制定された台湾阿片令を調べてみる必要があるのかもしれません。

日本の薬物政策の歴史5―明治以降のあへん規制
http://33765910.at.webry.info/200810/article_16.html
作成日時 : 2008/10/18 01:27
当ブログ10月15日で、1924年にジュネーブ国際阿片会議で、日本代表がわが国の阿片政策を各国に説明した「日本帝国の阿片政策」を紹介しましたが、その第1章第1節に次の文章があります(かっこ内の説明は私が加筆したものです)。
「阿片の輸入は維新以前已(すで)に之が禁制を設け居り、安政五年(1858年)英国と協約を結ぶに当り、阿片の輸入及其の輸送を禁じ。禁を犯す者は之を厳罰し、贓品(ぞうひん;犯罪によって得たもの。ここで阿片のこと)は之を没収することとせり。維新後は益々其の禁を厳にし、明治元年(1868年)4月、阿片吸食の有害なることを国民に諭告し、その吸食は勿論、売買授受と雖(いえど)も厳重に之を禁止し、犯す者は厳罰に処することとせり。」
賀来は続いて、明治以来積み重ねてきたわが国のあへん規制制度の概要を紹介し、「是等の努力功を奏し内地人にして阿片吸食の習癖に感染したる者絶えて在ることなし。」としています。(賀来佐賀太郎「日本帝国の阿片政策」岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』33、34頁、みすず書房、1986)

さて、わが国では、あへんの乱用問題が存在したことがないのか、この点の検討は次回にして、とりあえず、明治元年から積み重ねられてきた、法令による規制の流れをもう少し具体的に検討してみましょう。たしかに、明治政府は、問題発生を未然に防ぐために、あへんに関してきわめて厳しく対処してきました。

政府は明治元年太政官布告319号を発し、あへん煙膏の吸煙による弊害・害悪を指摘し、その輸入、販売、吸煙等を厳罰に処する皆を明らかにしました。明治3年には太政官布告521号「販売鶏片烟律」では、鴉片烟(あへん煙:あへん煙膏をさす)を販売・吸食誘引等した首犯は斬刑、従犯は7年の流刑、また誘われて吸食する者は1年の徒刑などと厳罰に処しています。
私は、弁護士会の図書館で明治3年の太政官布告を見つけ出しましたが、読み解くのに難渋しています。冒頭部分を少しだけ書き写してみます。
一 凡ソ鴉片烟ヲ販売シテ利ヲ謀ル者首ハ斬従ハ三等流自首スル者ハ一等ヲ減ス
一 人ヲ引誘シ吸食セシムル者ハ絞従及ヒ情ヲ知リ房室ヲ給スル者ハ三等流引誘セラレテ吸食スル者ハ徒一年

明治13年のいわゆる旧刑法(太政官布告36号)では、第 5章「健康ヲ害スル罪」第 1節に阿片烟に関する罪が設けられていますが、その内容は上記の「販売鶏片烟律」を整理したものといってよいでしょう。
第237条 阿片烟ヲ輸入シ及ヒ製造シ又ハ之ヲ販売シタル者ハ、有期徒刑ニ処ス
第238条 阿片烟ヲ吸食スルノ器具ヲ輪入シ及ヒ製造シ又ハ之ヲ販売シタル者ハ軽懲役ニ処ス
第239条 税関官吏情ヲ知テ阿片烟及ヒ其器具ヲ輪入セシメタル者ハ、前二条ノ刑ニ照シ各一等ヲ加フ 
第240条 阿片烟ヲ吸食スル為メ房屋ヲ給与シテ利ヲ図ル者ハ軽懲役ニ処ス
      人ヲ引誘シテ阿片烟ヲ扱食セシメタル者亦同シ
第241条 阿片烟ヲ扱食シタル者ハ二年以上五年以下ノ重禁錮ニ処ス
第242条 阿片烟及ヒ吸食ノ器具ヲ所有シ又受寄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ処ス

現行の刑法は明治40年に制定されたものですが、上記の内容はほぼそのまま引き継がれ、その後も大きな変化を経ることなく、現行法のなかで生きています。刑法第14章「あへん煙に関する罪」がそれです。つまり、この規定は、明治3年に原型ができたものが、あまり変化せずにそのまま現在の法律に生かされていることになります。

(刑法 第14章 あへん煙に関する罪)
第136条 あへん煙を輸入し、製造し、販売し、又は販売の目的で所持した者は、六月以上七年以下の懲役に処する。
第137条 あへん煙を吸食する器具を輸入し、製造し、販売し、又は販売の目的で所持した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。
第138条 税関職員が、あへん煙又はあへん煙を吸食するための器具を輸入し、又はこれらの輸入を許したときは、一年以上十年以下の懲役に処する。
第139条 あへん煙を吸食した者は、三年以下の懲役に処する。
2  あへん煙の吸食のため建物又は室を提供して利益を図った者は、六月以上七年以下の懲役に処する。
第140条 あへん煙又はあへん煙を吸食するための器具を所持した者は、一年以下の懲役に処する。
第141条 この章の罪の未遂は、罰する。

なお、わが国では現在、あへんの乱用に関する事件は少なく、外国人の薬物の密売人のあへん事件(自分で使うためにを持っていたり、使ったケース)がまれにあるていどです。
とはいえ、わが国が国際条約に沿って薬物規制に関する法の整備をし始める時期よりはるかに前の明治13年から、刑法(旧)という重要な法律の中に存在し続けたあへんに関するこの規定は、わが国の薬物管理法規の背景として、重い意味をもっているように思います。

日本の薬物政策の歴史6―阿片から麻薬へ
http://33765910.at.webry.info/200810/article_17.html
作成日時 : 2008/10/19 00:33
20世紀初頭から日中戦争期にかけて、中国で阿片問題が深刻化し、東南アジアから東アジア一帯に阿片問題が拡大するなかで、日本の国内では目立った阿片乱用の記録は残っていません。私はいま日中戦争期の阿片問題に関する資料を読んでいますが、日本国内での大規模な阿片問題はなく、また中国に侵攻した日本軍でも阿片乱用問題はほとんど起きなかったというのが、おおかたの見方のようです。
しかし、日本にまったく薬物問題の素地がなかったとすると、第二次大戦が終わって間もなく、日本で覚せい剤乱用が急速に拡大し、麻薬の密輸が問題になり、麻薬乱用が表面化するなど、数々の問題が突然浮上した現象が、なんとも理解しにくいのです。そのカギになるのが、モルヒネ、ヘロインなどの麻薬問題ではないかと私は考えています。そこで、この時期のヘロイン問題を追ってみます。

中国でもっとも広まっていたのは、阿片煙膏で、けしから採れる生阿片を原料に、簡単な手工業的な加工を施した喫煙用の阿片製品です。しかし、同時期の中国で、ヘロインを中心とする麻薬の乱用も拡大しており、その麻薬は日本から輸出されたものだったのです。
『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』の「序章 問題の所在と研究史」に次の指摘があります。
「日本は台湾領有・関東省租借・朝鮮併合によってそれぞれ阿片問題にかかわるようになったが、1910年代乃至1920年代の大きな問題は日本から中国に阿片・麻薬の密輸・密売がなされたことである。
 麻薬とくにヘロインは麻薬効果が大きく、その割に低廉・簡易で、しかも一時は阿片禍を追放しうる阿片代用品として宣伝されたこともあって、急速に中国大陸にひろがり、中国は麻薬でも世界最大の市場となった。
 一方、日本では第一次世界大戦でドイツからの医療用モルヒネの輸入が杜絶したため、その国産化がはかられ、台湾政府から粗製モルヒネの独占的払下げをうけた星製薬株式会社がモルヒネの精製を開始し、のちに大日本製薬株式会社・三共株式会社等も製造に加わった。」(江口圭一編『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』19頁、岩波書店、1985)

同書は、東京裁判の検察側書証として提出された朝鮮総督府専売局薬品工場の記録を引用し、1938・1939の両年度における朝鮮でのヘロイン生産が異常に多量であったことを指摘しています。1936年に256キログラムであったものが1938年には1244キロ、1939年には1327キロのヘロインを生産しているのです。このヘロインが、日本人の手で中国に運ばれ、中国で密売されていました。

やがて、日本人の手でヘロインの現地製造が始まります。この事情をよく伝えている資料として、満州でヘロインを製造した製薬会社の社長であった山内三郎氏が昭和40年に発表した文章があります。後年になっての回想記で、年代の矛盾などがあり、資料として若干問題があるといわれますが、当時のヘロイン密造の事情をありありと伝える、興味深い記録なので、その一部を引用します。
「大手製薬会社が、日本の国内で阿片を生産し、さらにヘロインを製造して、製品を支那大陸に運んだのに対して、大正も末期になると大阪道修町の製薬業者などはヘロイン製造を支那現地でやる方法をとり始め、数多くの技術者や工人が大陸へ渡っていった。現地で作られたものを売り捌く販売網としては、富山の薬売り行商人がこれに参加したのだった。
現地生産組は、主に満洲、北支那に腰をおろし、熱河産阿片を原料としてヘロイン製造を開始した。熱河地方で産出される阿片は、支那各地で作られる阿片の中では、モルヒネ合有量の多い、優秀品であった。
もちろん、ヘロインの生産は支那政府官憲の前で公然と行なえるものではない。その頃支那政府は、長い間支那人民を蝕ばんできた阿片を退治するものとして諸外国からヘロインが入ってくるのを許してはいたが、阿片の退治薬が、阿片以上の麻薬であることが知られてくると、今度はヘロインを自の仇にしはじめていた。
だが、日本の薬業者が現地生産を始めた地域は満洲、北支という、日本軍駐屯地域内で日本軍を隠れ蓑にするどころか、充分な保護を得られる全くの金城湯池だったのである。」(山内三郎「麻薬と戦争―日中戦争の秘密兵器―」、岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』xliv頁、みすず書房、1986)

日本の薬物政策の歴史7―モルヒネ、ヘロイン
http://33765910.at.webry.info/200810/article_18.html
作成日時 : 2008/10/19 17:14
生阿片を原料としてモルヒネが精製され、これがヘロイン、コデインなどのあへんアルカロイド系麻薬の原料となります。日本は早くから阿片の専売制をとっていましたが、実際には、大正初期ころまでは、医療用麻薬の多くは海外とくにドイツからの輸入に頼っていました。1914年(大正3年)ヨーロッパで第一次世界大戦が開始されると、ドイツからの医療用モルヒネ輸入に杜絶の懸念が生じ、その国産化がはかられます。1915年、台湾政府から粗製モルヒネの独占的払下げをうけた星製薬がモルヒネ製造を開始し、その後大日本製薬、三共、武田薬品工業なども参入してモルヒネの製造が行われるようになります。

当時、日本の製薬会社が行っていた麻薬の製造について、内部からの視線で書かれた文庫本が意外なところにありました。SF作家の星新一氏(前述の星製薬の創業者である星一氏の息子)が、星製薬のモルヒネ製造にまつわる話を『人民は弱し官吏は強し』として発表しているのです(星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978)。台湾からの粗製モルヒネの払下げ、南米からコカ葉を輸入しコカインの製造を開始した経緯などが書かれており、歴史資料とはいえないかもしれませんが、当時の製薬業界と麻薬の関係を理解するのに、よみやすい本です。
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当時、どのくらいの量のモルヒネが製造されたのか、私はまだ信頼できる資料に出会っていないのですが、製薬会社が製造するもの以外に、密造されるものもあり、相当多量のモルヒネ、ヘロイン、コカインなどが出回ったことは確かなようです。ところが、当時の日本人は、麻薬の問題を認識していなかったと思われるのです。

終戦後の1949年、連合国軍の公衆衛生福祉局のスペアー氏が、麻薬取締の意義について講演した内容があるので、その一部を引用します。
「戦前に於ける日本は麻薬の取締では世界中で最も悪い記録を持つ国の一つとして知られてきた。日本に何人中毒患者が居るのか誰も、政府すら全く知識を欠いて居た。日本には取締機関もなく又適切な取締法もなかった。唯阿片の喫煙に関してだけ、刑法上の厳重な禁止規定があった。これは成果があった。今日迄日本人は阿片を吸う習慣を持って居るとは知られていない。しかしながら所謂「白い薬」として知られるモルヒネ、ヘロインについては国内でも又国際的にも不正取引は横行して居た。これ等は強力な麻薬であり阿片より何層倍も危険である。不正取引をして捕まっても、刑は百円以下の罰金三ヶ月以下の体刑と云った申訳的な物であった。これでは日本を麻薬の不正から守る事は出来ない。結果は日本中そして国外にも麻薬が流れていったのである。
 当時日本国内の麻薬の不正取引については誰もよく知らなかった。しかし三年前に始められた取締は事態を一変した。合法的な麻薬の製造、使用のすべての面に対して厳重な統制が施行されている。何千にも及ぶ中毒患者の記録も出来た。中毒患者の中には麻薬に中毒しながら診察にあたる医師もいる。これは全く憎むべき、卑しむべき罪悪である。」(「日本における麻薬の不正取引について―昭和24年3月11日最高裁判所における総司令部公衆衛生福祉局スペアー氏講演」、最高裁判所事務総局刑事局編『刑事裁資料(麻薬関係)第28号』185頁、昭和24年6月)

上記には、当時の日本の状況が端的に語られていると思います。日本は明治以来阿片煙膏の喫煙を警戒し、厳しく取り締まってきたものの、そのいっぽうで、ヘロインやコカインなどの麻薬に関しては危機意識がなく、取り締まりも行われず、事実上、多量の麻薬が野放しにされていたといってよいでしょう。「当時日本国内の麻薬の不正取引については誰もよく知らなかった。」というスペアー氏の指摘が、この時代の日本人の麻薬に対する意識をみごとに表しているのではないでしょうか。

日本の薬物政策の歴史7―ヘロインは日本軍の兵器か?
http://33765910.at.webry.info/200810/article_21.html
作成日時 : 2008/10/23 00:46
日清戦争から第二次大戦期を通じて、日本人が中国に大量の麻薬を送り出し、また現地で密造していました。関東軍はこうした動きを制圧するどころか、むしろ擁護していたようなところがあります。また、当時の日本には阿片を「大東亜の特殊資源」ととらえ、その貿易で占領地運営を図る流れもあったようです。
そのいっぽうで、「日本は麻薬を兵器にして、中国を侵略している」と、いささか扇情的に国際世論をあおり、アメリカを味方につけようとした国民党政府の戦略も展開されていました。

Encyclopedia of American Foreign Policyの麻薬政策の項に、「問題の多い1920年代と1930年代」という文章があります。日本の侵攻にさらされる中国に対して、同盟国であるアメリカがかかわっていく課程をコンパクトにまとめていますが、そのなかに、連邦麻薬局(FBN)の長官を務めたAnslingerの著作の一部が引用されています。孫引きになりますが、その部分を紹介します。
「Anslingerは後に、占領下の中国に対して麻薬を兵器として使用したことについて、次のように書いている。『日本人は、軍を進行させるに先立ち、その破壊的な価値を冷徹に計算した。鋼鉄製のミサイルが飛ぶはるか以前に、阿片という弾丸が、陸軍による攻撃の前哨戦として送り込まれたのである。』芽生え始めた帝国の生き残りをかけて麻薬に依存する日本の姿を暴露しようとするアメリカの努力は、1939年9月のヨーロッパの全面戦争の始まりによって、激化することになる。1942年1月に太平洋戦争が米国に及んだとき、真珠湾攻撃の後で、連邦麻薬局の首脳は次のように宣言した。『財務省にいる我々は、10年以上にわたって日本の麻薬政策と戦ってきている。我々は、日本からもたらされる危険な薬物の性質で、過去に真珠湾を何回も体験してきた。これは、アメリカ人の血に毒を盛ることである。』」

日本に連合国軍が進駐したときも、連邦麻薬局長官の地位にあったAnslingerは、連合国軍の麻薬政策にもかかわっています。たしかに、彼の見方が影響した部分もあることでしょう。しかし、こうした見方はAnslingerだけのものではなく、むしろ当時のワシントンの一般的な見解だったと考えてよいでしょう。
上記の文章の続きです。
「10年ほどの間に、麻薬は、ワシントンにもっとも近いアジアの同盟国である中国の安全と不可分のものとなり、また日本の外交政策の進展においても重要な役割をはたすものとなった。東京の日本の政府高官が、実際に、1930年代の対中戦争において、兵器として薬物を使用することを是認したかどうかは、ほとんど問題にされなかった。重要なのは受け止め方であり、とくにワシントンが、そのように受け止めていたことであった。要するに、1930年代の東アジアでは、多くの国家の外交政策において、反薬物の政策が重要視される時代の開幕を迎えていたのである。」
Encyclopedia of American Foreign Policy/ NARCOTICS POLICY/ The troubled 1920s and 1930s 
http://www.americanforeignrelations.com/E-N/Narcotics-Policy.html

日本の薬物政策の歴史9―麻薬の問題国家としての日本
http://33765910.at.webry.info/200810/article_22.html
作成日時 : 2008/10/24 01:52
1920年代から1930年代、世界が麻薬規制に動き始めた時代に、日本が占領地域で行った阿片政策と麻薬の大量生産は国際社会の強い非難を浴び、日本は麻薬の問題国家とみられるようになっていきます。
1925年のジュネーブ国際阿片会議には日本も参加し、2つの条約を締結しました。そのうち日本本土に適用される第二阿片会議条約に対応して、1930年(昭和5年)、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されました。詳しくは当ブログ10月15日参照。http://33765910.at.webry.info/200810/article_13.html
しかし、1933年に日本は国際連盟を脱退し、国際的な麻薬規制の会議からも姿を消します。日本は、政治的にも、麻薬政策の上でも、孤立を深めていくことになります。

1930年代の薬物規制の動きを国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』を参照しながら、簡単に追ってみます。
1920年代から世界は新たな麻薬問題に直面していました。従来の阿片または阿片煙膏に加えて、阿片から精製されるモルヒネやヘロイン、コカから精製されるコカインという強力な麻薬が急速に広まり始めていたのです。1931年、こうした潮流に対応するため麻薬の製造制限および取引規制のための国際会議がジュネーブで開かれます。その協定では、今日のドラッグ・スケジューリングの基礎となる基準が導入され、各種の麻薬に対して、その危険性と医療上の有用性に応じて規制度合いを定める方法がとられます。ヘロインは、当時すでに医療用に用いられることが少ないため、輸出が禁止されるという厳しい規制を科され、違法薬物として押収されたヘロインは他の麻薬のように医療用、化学用に転用されることはなく、化学処理で破壊されるべきだとされました。
67か国がこの協定を批准していますが、日本がこの条約を批准したかどうかを知る資料に、私はまだ出会っていません。しかし、この協定に準じた国内法令の整備が行われた様子はありません。
次いで1936年には、麻薬の不法な国際取引を規制することを目的とした、危険麻薬の不法取引を制圧する国際協定が成立しますが、すでに国際連盟を脱退していた日本やドイツはこれに参加していません。(国連薬物犯罪局編『2008年版世界薬物報告書』194-196頁を参照)

日本が国際的な薬物規制から孤立していた10年余の間に、世界は麻薬に対する規制を強め、とくにヘロインを禁止し、また、不法取引を国家が厳しく取り締まる方向に動いていました。そのなかで日本は、麻薬を野放しにし、ヘロインを禁止せず、不法取引を許す問題国家として、ますます孤立していくことになったのです。もちろん、中国大陸での阿片問題を放置し、あるいはその拡大に加担しているという批判は、いよいよ強くなっていました。
1945年、ポツダム宣言を受諾したときの日本は、連合国軍の目から見れば、まさに麻薬の問題国家だったわけです。
日本の戦後は、この状況から始まりました。

日本の薬物政策の歴史10―連合国軍の進駐開始
http://33765910.at.webry.info/200810/article_23.html
作成日時 : 2008/10/25 23:10
連合国軍の麻薬政策については、当ブログで、大麻規制の歴史のなかでも触れましたが、大麻はあくまでも麻薬管理の小さな一部分なので、改めて、麻薬管理の全体像を考えてみようと思います。

1945年(昭和20年)10月2日、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)設置。民政局など幕僚部9局が設けられます。麻薬統制を担当したのは、公衆衛生福祉局(Public Health and Welfare)です。

1945年10月12日麻薬統制に関する最初の対日指令として「「日本に於ける麻薬の生産並びに記録の統制に関する件」が出されます。これは、以前、大麻栽培を全面的に禁止する指令として紹介しましたが、大麻草の栽培禁止はその一部であり、阿片やモルヒネ、ヘロインを中心とする麻薬全般を凍結し、その記録を保管するように指示したものです。対象は阿片、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、マリファナ及びこれ等の種子、草木、あらゆる派生品、混合物など。とくに「ヘロインはその総ゆる派生品、合成品、塩、混合物、或は調製品を含む」と具体的に指定されています。
その内容は、麻薬原料植物の栽培禁止、麻薬の輸出入の禁止、麻薬(原料や未完成品を含む)の移動・売却・使用の禁止、麻薬取扱に関する記録の保存などを含む、厳しい凍結命令です。
下記は、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の発したメモランダムAG441.1(12 Oct 45)PHに対応した同日付の和文の対日指令です。

「日本に於ける麻薬の生産及記録の統制に関する件」(1945年10月12日)
一、麻薬の種子及び草木の植付、栽培を禁ぜらる、現在植付られ、栽培せられ居る此等のものは直ちに除去すべし、且つ除去せられし量、日時、方法、場所、土地の所有権を連合国軍最高司令部へ三十日以内に届出づべし
二、連合軍最高司令官の許可なくして、何人たりとも麻薬の輸入は禁ぜらる
三、麻薬の輸出並に製造を禁ず
四、麻薬の原料、未完成品、或は喫煙用の麻薬の全ストック、コカインの原料及び未完成品、ヘロイン及びMarijuana(Cannabis Sativa L.)を凍結す、且つ連合国軍の許可なくして移動、除去、使用或は売却、此等に関する書物及び記録を禁ず
五、麻薬の取扱に関する総ゆる現存記録は保存し置くべし
六、定義
A、麻薬とは阿片、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、Marijuana(Cannabis Sativa L.)及び此等の種子、草木、総ゆる派生品、混合物或は編成品を含む
B、ヘロインはその総ゆる派生品、合成品、塩、混合物、或は調製品を含む
C、人とは医師、商人、薬剤師、政府専売者、及び他の総ゆる人保管所、合名会社、株式会社、有限責任会社、協会、此等に就いて総ゆる責任者を含む
最高司令官代   高級副官   H.W.アレン大佐

上記の指令はGHQ設置後のごく早い時期に出された指令のひとつであり、麻薬の凍結が重要かつ緊急の課題であったことがわかります。
GHQ公衆衛生福祉局のWEEKLY BULLETIN(GENERAL HEADQUARTERS SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS PUBLIC HEALTH AND WELFARE SECTION WEEKLY BULLETIN)から、この時期の動きを拾ってみましょう。まず、麻薬の関係先の視察。厚生省衛生研究所、日本陸軍医療基地(医療用品供給事務所)、病院、主な製薬会社などを視察し、東京、大阪の主な麻薬製造所の視察旅行を行っています。同時に、日本軍関係の麻薬在庫の押収も開始されます。

ところが、日本側には、GHQの考えていた緊急性や重要性は、あまり伝わっていなかったようです。WEEKLY BULLETIN の1945年10月28-11月3日号は、「かなりの量の医療品在庫が、日本の軍隊用として、日本本国に格納されているのは明らかである。」としながらも、「内務省は、これら在庫の民間への分配を担当しているが、この件に関して、これまで前向きの行動をとっていない。」と苛立ちが表明されています。
さらに翌週の11月4日―11月10日号には、次の記載が現れます。
「(薬品)製造所及び日本陸軍の医療(判読不明)への視察が続けられている。ある製造所への訪問では、彼らがSCAP指令に違反して麻薬の製造を続けていることがわかった。この訪問グループには写真家1名と日本政府の代表者1名が同行しており、本件の完全な記録が作成された。報告書は(判読不能)マーシャルに送られる。」WEEKLY BULLETINに関しては、杉田聡氏による復刻版(http://www.rekishow.org/GHQ-PHW/)に基づき、私が日本語訳したものです。

この違反行為は大きな波紋を広げ、11月18日-11月24日号は、この製薬会社の保有する「最大で230ポンドの精製モルヒネ・ハイドロクロロイドを含む麻薬」を押収するよう指示が出されたことを伝えます。さらに12月7日には「麻薬の製造禁止命令の違反に関する件」というメモランダムが発せられます。メモランダムは上記の違反が行われたことを告げ、日本政府に対して、製薬会社に対する禁止命令の伝達に関して、詳細を報告するよう求めています。禁止命令がいつ出されたか、この製薬会社に禁止命令を伝えたのは誰か、この製薬会社が命令を受け取ったのはいつか・・・など詰問するかのように、回答を求める事項が列記されています。AG441.1(7Dec 45)PH Violation of Directive Prohibiting Manufacture of Narcotics.



<転載終了>