社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1064318442.html
<転載開始>
 【図体が大きい人間が集まっている割りには,お尻のお穴は小さめの人たちが多そうにも感じられる日本相撲協会の今昔物語】


 ①「〈耕論〉日本出身横綱の誕生 小錦八十吉さん,紺野美沙子さん,星野智幸さん」(『朝日新聞』2017年2月10日朝刊オピニオン)

 稀勢の里が初優勝し,横綱に昇進した。「日本出身では19年ぶり」という歓迎ムードの一方で,昇進基準の甘さや,外国出身力士の貢献の大きさを指摘する声もある。どう考えたらよいのか。
 補注)本ブログの2017年01月30日では,つぎの記述がなされていた。

  主題「大相撲では外国人力士に対する差別はあるのか,日本出身も外国出身も同じ相撲取りだが,いろいろ微妙にはある違い」

   副題1「19年間,日本人力士の横綱がいなかった日本相撲協会は,昇進審査を甘めにさせて,稀勢の里を横綱にした」

   副題2「小錦が横綱になれなかったときよりも『事前の場所の成績(星取り)』が悪い稀勢の里は,日本人力士だから横綱になれたのか?」

 こちらの記述を,事前に読んでもらうのが好都合に思うので,そうしてもらえるとありがたい。

konishiki-net表紙から
 右側画像は,小錦自身のウェブサイトの冒頭左側にかかげられたツイート欄に,描かれていた図(富士山2つを題材とする)である。以下において議論の材料にしていくが,この図はもとは,『朝日新聞』2017年2月10日朝刊,オピニオン欄「耕論」の「全体の紙面」の左上に配置されていたものである。

 この絵の構図は意味深長というまでもなく,左側が小錦を指し,右側が稀勢の里を指す。ただし,観方によっては左側の絵はいままで19年間,日本(人?)出身の横綱を産めなかった日本相撲協会のふがいなさ(?)を示唆しているかのようにも「解釈できる」。右側の絵は「晴れて日本出身の〈日本人〉横綱」の誕生,それも間違いなくうれしい登場を,皮肉的になのか意味させたいかのようなものにみえる。


 1)「どうしても必要なのさ」小錦八十吉さん(元大関)

 ※ 人物紹介 ※ 「こにしき・やそきち」は1963年米ハワイ生まれ,外国人初の大関,1994年日本国籍取得,1997年に引退しハワイアンシンガーとして活躍。ここでいわれている「外国人」という小錦画像言葉の意味には問題がある。それは,以下の記述中で説明されていくものとなる。

 --稀勢の里が横綱になったのは,相撲全体のためにはとても喜ばしいことだね。日本人が「待ってました」というのは当然だよ。19年ぶりだよ。これからが大変だ。「日本出身」横綱という看板を背負うからプレッシャーがある。30歳で肉体的にもきつい。
 補注)「えっ!」と驚くような小錦の発言である。19年ぶりに誕生した「日本人横綱」なのだから,プレッシャー(精神的な負担・心理的に重荷)が大きいと指摘している。横綱になった力士は誰でもこの地位なりに緊張し,責任を感じるはずだと思われるが,このたびは「19年ぶりの日本人横綱誕生」ということで,この横綱稀勢の里は年齢が30歳にすでに達している肉体的な条件もあり,よりきびしいこれからの場所を迎えるに違いないといっているる。

 相撲の話題になったら注意すべきは「在日横綱の2名」がいた事実である。見目・形が日本人とほとんど変わらないので,日本人は一般的にはほとんどその事実しらないらしい。だが,在日韓国人社会のなかでは当たりまえの事実としてしられている。

 ★-1 第51代横綱「玉の海正洋」は,愛知県出身,1944年2月5日生まれ,1970年3月に昇進。画像左側である。
     玉の海画像 三重ノ海理事長時代画像
   出所・左側)玉の海は,https://matome.naver.jp/odai/2141289041787547801/2141299571883883803
   出所・右側)三重ノ海は理事長時代の写真,http://www.jiji.com/jc/v4?id=dohyouhyakei-0004_
200812260001

 ★-2 第57代横綱「三重ノ海剛司」は,三重県出身,1948年2月4日生まれ,1979年9月に昇進。日本相撲協会理事長も務めた。画像右側である。

 これ以外にも在日の人口比率(とはいっても,たとえば昭和の時代に限定しておくが)に換算するに,在日韓国〔朝鮮〕人の力士は「本名」を表面に出さない関係で,日本相撲協会のなかでは生きてきた。その数は横綱2人の在日がいたのだから,それ以下の地位にいた在日力士はどのくらいいたのか〔いるのか〕と想像を逞しくして考えてみればよい。

 なかでも,力道山(いまの北朝鮮が出身地で日本出身ではなく1世の韓国・朝鮮人であった)は,関脇まで昇進したもののなにか鬱積するものがあったらしく,日本相撲協会を飛び出て(企業経営の関連用語でいえばスピンオフして)日本のプロレス業界を創造する開拓者になっていた。

 その弟子でいまは国会議員のアントニオ猪木が北朝鮮との外交的通路を維持している事実も,あえて指摘するまでもなく周知のことがらである。とくにプロレス業界は,日本人が敗戦後に強く抱いていたアメリカ・コンプレックスを少しでも解消してくれる「興行スポーツ」として,一時期はものすごい人気があった。いまでは女子プロレスリングの分野まで多様な展開をみせている。


 〔ここで「小錦の発言」の記事本文に戻る→〕 いままで外国出身力士ががんばって,相撲人気を支えてきた。外国出身者がいない相撲なんてもう考えられない。でも年配の相撲ファンは僕にいうんだ。「モンゴル出身ばかりで面白くないからみない」って。稀勢の里が横綱になって日本対モンゴルの取組ならファンは大喜びだ。
 補注)日本人横綱がいないから相撲の放送をみない? 面白いいいぶんである。イギリスでは英国人テニス・プレーヤーが優勝しないから,ウィンブルドンを観ないというのか? 相撲というスポーツ競技は,最近では海外でも人気が出てきており,ファンの人口も増えている時代である。柔道の場合はどうであったか? 相撲業だけが,これからもやたら “ニッポン,チャチャチャ……” とばかりこだわっているようでは情けない。

 それでもなおこだわっていて,相撲は日本の伝統的な国技だからとウンヌンしたい向きには,日本相撲協会の力士になるための条件に,はじめ(入門時)から日本国籍を要求すればよいだけの話である(ただし,日本人の国際結婚もすでに多くなっている背景も考慮に入れておきたい)。それにしても,お尻のお穴がどんどん小さくなっていく感じの論述になってしまった。日本民族に特有だとされる大和魂の持主である立場なのであれば,そのお穴はけっこう雄大な直径を誇りうると解釈しておきたいのだが……。

 〔小錦の引用に戻る→〕 僕の時代は,強い人がみんな日本人。そういうときにハワイから来た僕ががんばって人気が出た。それから若貴時代がきて相撲が盛り上がった。それが最近は,現役力士がテレビに出てタレント扱いされてる。寂しいね。相撲は勝負の世界だから厳しいんだ。土俵で勝てないと稼げない。強くないとなにも始まらないよ。横綱は勝てないと引退しかない。保障がないんだ。サラリーマンの方が楽さ。
 補注)最近における日本のサラリーマンは,小錦がいうほどに気楽な職業範疇ではなくなっている。非正規労働者の比率が(男女平均)ではほぼ4割にもなっている。5名のうち2名が非正規で雇用されいている。だからサラリーマン全体の平均年収も低い。4百数十万円のところをウロウロさせられている。日本相撲協会の本場所を枡席で観戦したいと思っても,ひとまず躊躇してしまう程度の年収水準なのである。

 稀勢の里の横綱昇進は,基準が甘かったという声も聞くね。プロの目からみても甘いと思うけど,いいんだよ。今回の昇進を逃したら,いつ日本出身の横綱が生まれるか分からない。横綱稀勢の里はどうしても必要なのさ。いま,困っているのは日本の若い子たちが相撲部屋に入ってこないこと。稀勢の里をみて,日本の子供たちに相撲に入ってきて欲しい。
 補注)この横綱昇進に関する小錦のいい方は優しさが込められている。きっと,自分のときは横綱になれてもおかしくなかったという「昔の思い出」があるのだが,これにいまでは「余裕をもって,距離を置いて」語っている。本当のところは(現役当時という意味で)煮えくり返る思いをさせられていたはずである。しかし,現在における彼の立場とこれを囲む環境が,彼をしてそのように発言させる余裕をもたせている様子がうかがえる。

 相撲ほど美しいものはないよ。礼に始まり礼に終わる。日本の文化を代表するものなんだ。日本で毎日,着物を着ているのは芸者さんと相撲取りぐらい。負ければ,心のなかでは悔しくても黙って頭を下げて帰る。外国人だった僕たちもそうやってきた。横綱はその頂点だ。外国人も日本人も関係ない。
白鵬の土俵姿塩を撒く画像
出所)土俵で塩を撒く白鵬,http://corobuzz.com/archives/18083

 みんなが相撲は日本の国技だっていうなら,国にもっと支援して欲しい。小学校でお相撲さんを先生に呼んで体操を指導したらいいよ。やめた力士が日本中にいる。体が柔らかくなって足腰も強くなる。学校でダンスを教えるよりいいさ。そうしないと柔道のように相撲もよその国のものになって,別の相撲ができてしまう。偽物は困るんだ。だから稀勢の里が横綱になったのはいいんだ。みんなが関心をもつようになるからね。

 今回の基準なら自分も横綱になれたとは思いませんか,ですか? それは余計なことだよ。僕がなにかいって変わる? 僕は通算で3回優勝したけど,横綱にはなれなかった。優勝しないで横綱になった人もいる。基準は時代時代で変わる。決めるのは横綱審議委員会だよ。僕の夢はかなわなかったけど,素晴らしい相撲人生だったよ。(聞き手・桜井 泉)

 --この小錦の発言を聞くほうは,いい意味でひねくれて解釈しておく余地もありそうである。小錦が1997年11月場所の最後のほうで引退してからもう20年が経った。ウィキペディアにはこう書かれている。つぎの2点のみ参照しておく。

 ◇-1 1997年11月23付『日刊スポーツ』は,「ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」。前記の11月場所の最後の「2日間(前後する事情があって相撲を)取れなかったが,ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には,この場を借りて “15年間ありがとう” といいたい」と語っていたと伝えている。

 ◇-2 現役中からボランティア活動にも積極的にとり組み,阪神・淡路大震災の復興支援などをおこなった。1997年には「KONISHIKI 基金」を設立し,ハワイの子どもへの就学援助や日本との文化交流に力を注いでいる。横綱にはなれなかったが,その存在感・人気は横綱クラスで,人格者として角界の人気・地位を向上させた。

 実際に横綱空位が要因となって1992年4月から曙が横綱昇進を果たした1993年2月まで最高位が大関の力士としては唯一となる力士会の会長を務めた。また,初めて外国人大関となった小錦の存在が,外国人力士の評価を高めるうえで大きく役立ったことも高く評価されている。    

 2)「運を味方,それも実力」紺野美沙子さん(俳優)
紺野美沙子画像
 ※ 人物紹介 ※ 「こんの・みさこ」は1960年生まれ,1980年連続テレビ小説「虹を織る」のヒロイン役,朗読と音楽などを組み合わせる「朗読座」主宰。
 出所)右側画像は若いころの紺野美沙子,http://eroyakuba.com/紺野美沙子・・・ より。

 ずっと稀勢の里の横綱昇進を願ってきましたが,初場所の展開は想定外でした。うれしい誤算,といったら怒られますけどね。なんども,こんどこそ初優勝,綱とりだという場所がありました。そして裏切られる。そんなことが多かったのです。昨〔2016〕年の九州場所は,横綱,大関に4連勝し,これからという13日目に平幕の栃ノ心にあっさり敗北。この場所は,他の2敗も平幕相手でした。

 対照的に,優勝した鶴竜は取りこぼしがなく,内容も危なげない「横綱相撲」。横綱の壁は厚い,と感じました。稀勢の里のまっすぐな取り口は好きですが,いつも心配させる「ヒヤヒヤ相撲」です。このまま名大関でいいじゃない,と思いました。期待しない癖がついていたから,初場所は勝っていても疑心暗鬼でした。それが14日目に優勝決定です。そうなると横綱でいいんじゃないか,という思いが出てきました。

 たしかに,2横綱は対戦前に休場し,大関豪栄道には不戦勝。初優勝に向けて周りがお膳立てしてくれた状況でしたが,運を味方にするのも力のうちです。とにかく優勝をつかみとったという事実が大事。それに昨年は年間最多勝という実績もある。私の気持ちは,「これはもう文句なしに昇進」でした。横綱審議委員長も同じようなことをいってくれて,うれしかったです。そのときは不思議と,千秋楽の白鵬戦も絶対に勝ってくれると信じられました。
 補注)この紺野美沙子のいいぶんは,稀勢の里の「横綱昇進は妥当であると判断してもよい」という見地を,それはもう一生懸命に支持した立場からするいいわけのようにも聞こえる。いずれにせよ「まあ,ともかく,よかったよかった,日本人力士が横綱になれてネ……」。

 相撲好きは,小さいころからです。祖母とテレビ中継をみているうちに,自然とファンになりました。小中学生のころは高見山が最大のヒーロー。輪島の強さには,結婚したいと思ったくらい。お相撲さんがあこがれの存在でした。自分とまったく違う存在,身近でないところがいいんです。そもそも大相撲じたいが非日常的で,そこが好きです。スポーツでありながら,伝統文化や神事を担う。日本相撲協会の八角理事長も「国技館に入ったら江戸時代」といっていますよね。
 補注)日本相撲協会は公益財団法人になるとき,だいぶ苦労していた。国技として「伝統文化や神事を担う」とはいわれているものの,なんといっても,相撲という競技を売り物にして商売を成立させることが第1の目的・目標である。この日本相撲協会もまた「儲かってナンボのもの」という基本性格をとらえそこなうわけにはいかない。

 いまの日本相撲協会がもともと「伝統文化や神事を担う」団体組織であったかといえば,このあたりの問題・論点は,専門的にも歴史研究をおこない,解明した書物がある。だが,それほど簡単には,日本相撲協会=「日本の伝統文化:神事」の,申し分ない担い手だということにはなりえない。あくまで営利興行事業体であるといった基本の性格がみのがせない。採算がとれない商売であれば,伝統文化も神事もとだえるほかない。

 そのうえで,伝統とか文化とか格式とか,また神事もおこなっているのだというごとき,関連する性格を発揮できてもいる。各場所の優勝力士に手渡される優勝杯(天皇杯)が,いつ・どのようにして創られていたか,正確にしっている人は少ない。これをしっている人はかなり〈鼻高々〉の気分で説明してくれると思う。くわしくはウィキペディアの該当広告を参照されたい。

 〔紺野の発言に戻る→〕 力士の出身地がクローズアップされる理由は,この非日常性もあるかもしれません。別世界に住む力士ですが,郷土のつながりがあると途端に身近に感じる。サッカーなどどんなスポーツでも応援には地元意識が働きますが,相撲はとくに大きい気がします。

 来場所は,モンゴル出身の3横綱に,稀勢の里がくわわって,日本のファンは盛り上がるでしょうね。国で区別しちゃいけないと思いますが,日本出身力士を応援したくなるのもわかります。ただ,どちらか一方に肩入れするような応援は好きじゃありません。白鵬だってがんばっているじゃない,って思っちゃう。応援する側の品格の問題かもしれませんね。(聞き手・村上研志)

 --以前,ある場所の取組で横綱の白鵬が敗けたとき「万歳の声が巻き起こっていた」。そのときの様子を,白鵬のいわせてみる。こういうスポーツ新聞の記事があった。
★ 敗れて観客が万歳 / 白鵬の葛藤 ★
=『日刊スポーツ』2015年1月27日 8時51分=

 大相撲初場所で史上最多33度目優勝を全勝で飾った横綱白鵬(29歳=宮城野)が〔2015年1月〕26日,審判部を痛烈批判した。

 東京都墨田区の宮城野部屋でおこなわれた一夜明け会見で,取り直しになった13日目の稀勢の里戦について言及。納得いかない様子で「子供がみても分かる。なぜ取り直しになったのか。2度とないようにやってもらいたい」などと,異例の注文を付けた。

 この話題は,〈白鵬の葛藤〉という見出しで,さらにこう記述されていた。

 ◆-1 2013年九州場所14日目稀勢の里戦  初日から13連勝で迎えたが上手投げで敗れて観客が万歳三唱(下掲の画像参照)。「正直,あの雰囲気にビックリした。いままで自分に万歳してくれる人はいたけどね,優勝したときに。でも負けたときは初めてじゃないかな。でも,ちょっとうれしかった。自分が負けることを喜ぶっていうのは,そこまで強くなれたのかっていうことでもあるので」。
     白鵬負けて万歳した場所の画像
   出所)http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-3108.html

 ◆-2 2014年名古屋場所  時間前の汗拭きが不十分で間接的に注意を受け「汗が多い時には拭いているつもりだったが,気づいていないときもあったのかもしれないな。〔受けとるさいの態度について……〕懸賞だって人間だから自然と力が入ってしまう時もある。反省はしないけれど,おとなしくやらないと」。

 ◆-3 2015年初場所6日目遠藤戦  仕切り中から遠藤コールが沸き起こるなか,張り手・かちあげと厳しい攻めで勝利。「燃えるという意識はなかったけど,どっかにあったんでしょうね」。「(コールについては)もう別に。もう慣れたよ。ファンは人それぞれだから」。
 註記)http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20150127-1426847.html
 横綱にはそれなりにふさわしい品位・品格が求められているらしいが,どこまでがどうで,ああだという決まりはない。あくまで伝統文化,不文律で伝承されているそれである。大昔から絶対的に決まっているものはない。西田幾多郎の哲学流に表現すれば「作るものが作られたるものを作る」のだから,日本相撲協会の場合,ここにくわわった外国人力士に,この協会の歴史を新しく創る資格がないとはいえず,むしろ十二分にある。エジプト人力士の「大砂嵐金崇郎(おおすなあらし・きんたろう)が頻繁に繰り出す〈かちあげ〉が問題視されたこともある。つぎの画像は遠藤を相手にしたときのかちあげ技である。
大砂嵐のかち上げわざ画像
出所)http://ukeru.blog.so-net.ne.jp/2014-07-19

 この画像の前後には 「かちあげとは胸の前に腕を構えて相手の胸をめがけてぶちかますという技です。遠藤も一撃で……」と付記されていた。最近の場所においては白鵬も,このかちあげを多用しているときもあって,番組報道の解説者から非難気味の口調であれこれ指摘されてもいた。

 3)「熱狂が議論かき消した」星野智幸さん(作家)

 ※ 人物紹介 ※ 「ほしの・ともゆき」は1965年生まれ,『俺俺』で大江健三郎賞,『夜は終わらない』で読売文学賞。40年来の相撲ファン。
 出所)右側画像は,http://mainichi.jp/graph/2015/10/14/20151014dde018040029000c/001.html
星野智幸画像
 綱とりだ,といわれて迎える場所で優勝できるか。その力を試す意味合いが,「2場所連続優勝,もしくはそれに準ずる成績」という規定にはあると思います。稀勢の里は,この審査をきちんと受けさせてもらえずに昇進してしまった。

 精神面の弱さが克服されたのなら,もう1場所みて証明させればよかった。過去の強い横綱のように。もっとも不可解なのは,千秋楽の白鵬戦の前に昇進が確実になったことです。仮に横綱戦で負ければ雰囲気が壊れる,とおそれた日本相撲協会が,世の中の空気を読んで先手を打ったのだと思います。

 折しも1年くらい前から,NHKがリードし他のメディアが追随して,「日本人」横綱昇進を実現させようという雰囲気づくりがありました。そして,本命・稀勢の里の初優勝決定です。世間の盛り上がりをみた協会が,日本人横綱の誕生はいまだ,と踏んだに違いない。稀勢の里は「綱とり場所」はおろか「綱とりの一番」の重圧もまともに与えられませんでした。一皮むける機会を奪われたのです。協会は稀勢の里を信用していないと僕にはみえました。
 補注)ここの表現法は巧みである。「協会は稀勢の里を信用していない」というよりは,この協会じたいが「場所・土俵」そのものを信用できていないと観たほうが,より現実的な評価にも思えるのだが。

  〔星野の発言に戻る→〕 直近の2場所の成績で判断するのがいいのかという議論はあっていいと思います。でも,規定を見直すなら,場所前に明確に打ち出すべきだった。年間最多勝というデータをあとでもち出したのは,ご都合主義に映ります。そして,これが前例になるのかもあやしい。今後,優勝した大関が年間最多勝だったら昇進させるのか。今回だけの特例なのか。疑問は尽きませんが,歓喜にわくいまの勢いでうやむやにされそうです。
 補注)ここまで聞いていると,いま問題になっている「天皇明仁の希望」=生前退位に対する安倍晋三政権側の対応,皇室典範の改正をしないまま特例法で臨時的に個別法でのみ,この明仁の期待にの応えようとする(つまり「上意に反する」)「天皇の玉転がし」をするかのような基本の態度を想起せざるをえない。

 それはともかく,「いいじゃないか,これでようやく日本人横綱が19年ぶりに生まれた」のだからという理屈(?)だけは,ともかくもなんでもいいから通されたことになる。年間最多勝という条件は相対的な基準であるが,優勝2回(に準ずる)という基準は絶対的なものであるから,星野智幸の指摘は妥当性がある。


  〔星野の発言に戻る→〕 最近,いろんなことが「やったもん勝ち」で決まってしまう。政治では強行採決が繰り返されました。ただ,そこには批判の声もありました。しかし,今回の昇進は,熱狂が異論や議論をかき消している。世の中が熱狂すればルールを無視していい,という初めての例になる。そういうメンタリティーが人びとのなかに生まれるのは,民主主義にとってすごくよくないことです。
 補注)ここで星野智幸が念頭に浮かべているのは,安倍晋三政権のことである。今日〔2017年2月11日〕あたりは,新大統領トランプと会談するためにアメリカを訪問中であるが,デタラメ三昧『度』では格違いのトランプからどのようなオドロキのカードを突きつけられるか,そのときのシンゾウ君の対応が見物である。

 まして相撲は日本に根づいた文化です。普段はさして興味のない人でも,日本人が日本人横綱を期待するのは当然だ,と感じる。でも,国技とうたうからこそ,頂点に立つ横綱は国籍やルーツにかかわらず,曇りのない明快な基準ではかられるべきです。ファンとしては,大切なものを汚された気がします。

 稀勢の里や白鵬が出てきたとき,僕の理想の横綱の貴乃花を継ぐ逸材だと思いました。稀勢の里には横綱にふさわしい力士になってほしいと心から願います。日本人横綱誕生に沸騰した期待はすぐバッシングに変わりかねない。ふがいない成績が続いても僕は真剣に応援し続けます。(聞き手・村上研志)

 --この星野智幸が心配しているらしいことといえば,それは今後において,もしも「横綱にふさわしい力士にな」らないときの「稀勢の里には」「日本人横綱誕生に沸騰した期待はすぐバッシングに変わりかねない」ことである。もっとも,あとは3月場所以降の様子をみるほかないが,稀勢の里の成績がよければそれでよし。しかし,もしもかんばしくなかったら,どうなるか?

 ② 杉本良夫「日本人をやめる方法」など

 面白いのでいつも,ついでに参照(!?)してみるアンサイクロペディアの記述は,小錦をこうあつかっている。
    とても人気はあったが,師匠であるジェシー・高見山と異なり,テレビCMででんぐりがえしを試みたりはしなかった。スモウレスラー引退後も日本に残り,日本民族に溶けこめる体型になろうと,さまざまな手段を用いて減量を試小錦似顔絵画像みる。その結果,現在は現役時代の驚異的な巨体はみられないほどの減量に成功した。
 出所)左側画像は,http://ameblo.jp/takunigaoe/entry-11369376956.html

 二度結婚しているが,最初の嫁も二度めの嫁もまあまあ美人である。武蔵丸光洋の引退から2012年12月30日現在に至るまで現役ハワイ人力士が皆無なのは,KONISHIKI がハワイに帰っては「相撲やっても良いことなかった」と地元の青年に吹きこんでいるから。
 註記)http://ja.uncyclopedia.info/wiki/KONISHIKI
  この最後の〈解説〉は,前段における小錦自身の発言とは正反対と思われる指摘(悪く書いている)である。それはさておきまた,小錦の結婚話についてネット上では,あれこれ雀の噂話のような記述も多くみかける。こちらの話題は,小錦の体躯の特徴をとりあげる記述もみうけられる。

 さて,① で記述した内容,日本社会の伝統や文化,歴史というものについては,その代表的な一例として,日本の相撲が格別に強調されるかたちで挙げられているわけである。だが,このへんの事実に関してみれば,外国人力士の存在がより大きくなるにしたがい,かえって故意にその伝統などが強調されるほかない傾向がなかったとはいえない。とくに,江戸時代以降における「日本の相撲問題」は,この相撲という競技を商売にし,興行する材料にしてきた事実史を念頭に置いたうえで,現在における日本相撲協会の由来や特性を踏まえた議論がさらに必要である。
 補注)「相撲の歴史」について簡潔には,このリンクを参照されたい

杉本良夫画像 杉本良夫という歴史社会学者がいる。この人の書いた本から引用するが,意味深長な段落から参照する。
 出所)画像は,https://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya/jinbunya18.htm

 ◇-1 日本にも海外諸国にもある「自文化市場主義」,いわゆるエスノセントリズムが問題である。この種の考え方はみずからの文化を世界の中心に置き,その基準にもとづいて他の社会を計る。その裏打ちになっているのは,自己陶酔的なロマンチシズムやナショナリズムである。日本では,「大和魂」「日本神国論」「和魂洋才」「攘夷論」などのシンボルが代表する皇国史観の伝統が長い。

 今日の日本ユニーク節は,もちろんこのような史観と中身は同じではない。しかし,「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「日本株式会社」とかいうような現代風の語彙を使いながら,日本の独特性を主張し,他の社会との共通性を否定する点で,容器の鋳型は似ている。しかも,こういう鋳型に共鳴する社会層が,戦前から戦後杉本良夫表紙まで,一貫してかなり広範囲に存在してきた。
 註記)杉本良夫 / ロス・マオア『日本人は「日本的」か-特殊論を超え多元的分析へ-』東洋経済新報社,昭和57〔1982〕年,122頁。

 日本相撲協会の場合(あり方)で考えるに,このような批判的な見地と真正面からガチンコでぶつかるような論点が出てきて当然である。記述中で触れた事実,在日力士の存在がかつては,なるべく分からないように措置(対応=隠蔽)しておき,「日本人となにひとつ変わらないまったく同じ存在」であるかのように,裁いておいてきた歴史があった。

 だがその後において,いわゆる「外人力士の黒船的な到来(襲来)になってしまい」,ついには,2017年初場所のように番付をみると,横綱を張る3名が全員モンゴル勢という〈異常事態〉(?!)になっていた。だからこれでは,日本ユニーク節の見地にふさわしい横綱人の布陣には,全然なっていなかった。ここに稀勢の里が,2017年3月場所から日本人力士の横綱としてくわわる。歓迎すべき事態であるという雰囲気(祝賀のムード)が,ことさら醸される事情ともなっていた。

 杉本良夫の別著『日本人をやめる方法』1990年から,もうひとつ引用する。

 ◇-2 日本人論の圧倒的多数は,これら3つの論点〔後段で引用する〕を基軸にして,日本人が他国民にはみられない独特な国民性をもっており,日本社会や日本文化は他の国にには観察できない特殊な性質をもっている,と主張してきた。日本人が特殊独特であるかどうかはさておいても,自分たちがユニークだという主張が,絶えず繰り返されているという点において,日本は文字どおりユニークな社会なのである。
 註記)杉本良夫『日本人をやめる方法』ほんの木,1990年,107頁。

 前段のなかでいわれている「3つの論点」とは,さらにこう説明されている。

 ★-1 個人の次元では,日本人は自我の形成が不全である。自己意識・私権感覚・プライバシー志向が弱く,みずからの所属する集団に依存し献身することによって,心理的満足をえる。情緒的で非合理的な思考が大切にされる。

 ★-2 人間関係の次元では,日本人は「腹芸」や「以心伝心」などあいまいな意志の伝達方式を好み,明確な文書によるコミュニケーションや契約的な社会関係を嫌う。集団の内部の調和が重視され,「和」が尊重される。

 ★-3 社会の次元では,集団のあいだでのコンセンサスを形成することに力が注がれる。自発的な合意を基礎にしてことが運ばれるため,社会の安定度が高い。紛争,争議,騒乱などの社会内コンフリクトの度合いが低く,犯罪,非行などの逸脱行動も少ない。
 註記)杉本,前掲書,107頁。

 --このような定義にもとづき,公益財団法人日本相撲協会を分析してみたら面白いが,ここではいちいちこまかい議論はできない。ただ,親方株の金銭的な譲渡が公益財団法人化する段階では認められなくなったために,その申請当時までは大いにもめる原因になっていた事実だけ指摘しておく。

<転載終了>