社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1064401812.html
<転載開始>
【国際環境経済研究所理事の肩書きで「原子力村の一員である発言」をする元東電社員であった国際環境経済研究所理事竹内純子は,

 旧態依然の原発観そのままに,いまどき完全に硬直したエネルギー観しかもてない人物なのか】

 【再生可能エネルギーの開発・利用の現段階的な状況を無視・軽視したい原発維持論者のふたしかな謬説】


 ① まえおきの説明

 本日〔2017年2月15日〕『朝日新聞』朝刊「オピニオン」欄に「〈争論〉21.5兆円,私も払う? 竹内純子さん,除本理史さん」という題目で,以下にとりあげるような,賛否両説を代表する識者にそれぞれ意見を訊いている。

『朝日新聞』2017年2月15日朝刊オピニオン原発東電問題 しかし,いまどきこのようにエネルギー問題について,いちじるしく時代遅れの立場からする,いいかえれば,原発の基本問題や再生可能エネルギーの開発・利用の状況について,意図的にも感じられるほどズレた見解を披露したうえで,「21.5兆円」は「私も払う」立場に賛成だといった竹内順子のほうの主張に関しては,そのアナクロ的なエネルギー観が看過できないと最初に断わっておきたい。

 この「21.5兆円」という,東電福島第1原発事故現場の後始末のためのかかると予測されている経費の問題は,引用する文章のなかに記述されているとおり,現実にはすでに日本国内で電力を使用する側が負担させられている。

 以下に参照する賛否2名の意見は,その点を念頭に置いた議論にしておく必要がある。ただし,両説の意見を引用するに当たっては,順序を逆にしている。さきにまわした除本理史(よけもと・まさふみ)から聞く。なお本ブログ筆者は,除本の意見に対して異議はなく,とりあえずはそのまま引用しつつも,多くの補注を入れて議論もくわえておく。

 なお,この「〈争論〉記事」の冒頭に断わられているのは,つぎのごとき問題状況に関する概説と要点である。また識者の意見は黒字で引用し,その間に随時挿入される本ブログ筆者側の記述は青字にされているので,注意しておきたい。
    6年前の東京電力福島第1原発の事故で,避難住民への賠償や廃炉に必要な費用は,広く電気を使う人たちが負うしくみが作られてきた。「想定外」の事故の費用は,いま,総額で21兆5千億円。だれが負担するべきなのか。この先も原発を使い続けるのか。

  ★-1 電気利用者が負担するべきか

  ★-2 東電を存続させるべきか

  ★-3 原発をこの先も続けるべきか


 ②「【 ✕ 】料金上乗せ,合意していない」大阪市立大学教授・除本理史さん

除本理史画像 ※ 人物紹介 ※ 「除本理史(よけもと・まさふみ)」は1971年生まれ,専門は環境政策論,水俣病や原発事故の被害を調査。著書に『原発賠償を問う』『公害から福島を考える』。

 事故の対応に必要な費用は本来,原発事故を起こした東京電力が負担するべきものです。電気を利用する人たちへのツケまわしは,本末転倒です。しかも,電気料金に,判りにくいかたちで紛れこませて集める手法を許してはいけません。事故の賠償費用の原資は,東電の電気を使う人はもちろん,北海道や九州など他の地域に暮らす人も負担してきました。
 補注)最初に,東電管区以外の電力消費者も福島第1原発の事故から生じた結果の責任をとらされ,その経費を負担させられる現状は不当でしかない点を強調しておく。消費者側がその分に対する電力料金不払い運動ができない立場である事実を逆手にとったような,経済産業省の役人たちのこすっからいものごとの決め方に怒りを感じないほうがおかしいはずである。

 現段階ではようやく「3・11」当時における東電の最高責任者たちのうち,原発関連の技術管理面において責任重大であるとされた者を入れた3名の最高幹部が起訴され,裁判が進行中である。だが,ここにまで至る過程でも,東電の基本的な責任は原発事故のような重大事故発生のおりは,もともと免責事項があった国家間とのとり決めによって,いままで東電側の責任が完全に放置されてきた。

 大手電力の多くは,事故後に値上げした電気料金に組み入れ,標準的な家庭で月平均で50円ほど払っているとの計算があります。国や電力会社はその負担額の根拠を説明していませんし,実際,どれだけの人が額をしっているでしょう。そこへ,2020年から月平均18円を追加して負担することが,昨〔2016〕年末の経済産業省の有識者会議の議論を経て打ち出されました。
 補注)この事実は「3・11」以後,当初は非常に高かった原油(LNG)価格の大幅な低下などによって電力料金もいちじるしく下落する経過のなかで,消費者側にはますます感じとりにくい事情になっている。しかし,ここでは「塵も積もれば山となる」の譬えを出して,つぎのようにいっておく。

 電力会社側は重大・過酷な事故を起こしてしまい,かけがえのない国土の一部を半永久的に破壊するような非常に深刻な事故を起こしていながら,いまでもなお,なにもなかったかのような経営姿勢でもって,営業を継続させている。しかも,そのように消費側に負担をこまかく分散させる工夫によって,その事故の収拾に必要な経費のツケまわししている。


 もちろん,あの首相は原発事故に関しては「大ウソをいって,電力会社をかばっていた」けれども,いまだに「アンダーコントロール」とは無縁の惨状をさらしつづけている東電福島第1原発事故現場の後始末は,いったいいつになったら終止符を打てるのか。その終着駅はどのあたりになったらみえてくるのか,いまもなお見当すらついていない。いわゆる廃炉問題,これは事故を起こした原発のほうの話であるが,これからも必要な経費(処理費用)は算定しなおすたびに,おそらく「21.5兆円」という数値をさらに超えてしまし,大きく膨らませていくはずである。

 昨〔2016〕年の3月であったが,「2016年度予算成立,過去最大96兆7218億円,社会保障費31.9兆円」という見出しで,『日本経済新聞』は報じていた(nikkei.com,2016/3/29 16:49)。この金額を目安に置おいて参考にし,じっくり再考してみる必要がある。そして今日〔2017年2月15日〕の『日本経済新聞』朝刊の1面冒頭記事には,原発産業を事業部門にとりれて大儲けをするつもりだった東芝の問題が,こういう見出しで報道されていた。

 「東芝,債務超過1912億円 4~12月,米原発損失7125億円,半導体は過半売却も」。


 大企業の経営不振・営業失敗であれば,それでもまだ1兆円以内の赤字で済むが,原発事故の場合は,国家=国民が何十兆円の,それもただの後始末,しかもいつ収まるかが分かりえないそのために「21.5兆円」という数字を突きつけられたのである。

 東芝の場合の赤字はまだ,事業経営の結果として生まれた〈赤字〉であるのに比較して,東電福島第1原発事故現場の後始末においては,これからも新しく追加的に発生していく「基礎(出発点)の数値」としての「21.5兆円」である。今後においては,末恐ろしい金額になる可能性のある,いいかえれば,莫大なる負の可能性を秘めた数値である。  


 賠償費がこれまでの想定より2兆5千億円も増えたからです。万が一の事故に備えて積み立てをしていなかった,だからこの先40年にわたり,電気を使う人で分割払いをするというロジックですが,あとづけの説明ですよね。原発をもたない大手電力以外のいわゆる「新電力」と契約をする人も支払います。不本意だ,との声が出るでしょう。
 補注)そもそも「この先40年」の時点で,はたして済むかどうかまだ分からないことがらである。要するに「21.5兆円」という金額そのものが増える可能性は大であり,「この先40年」という表現のなかの年数がさらに増える可能性が回避できない。むしろその可能性は「より大」なのである。

 福島第1の廃炉費も,有識者への聞き取りにより6兆円増えました。送配電を担う東電の子会社のコスト削減で生まれる利益がまわされ,電気料金の値下げの原資には使わない。やはり,利用者にツケがまわされます。電気料金は2020年以降,電気をつくって届けるのに必要な費用をすべて回収できる制度(総括原価方式)がなくなり,賠償の負担金を料金に転嫁することがむずかしくなる。それで政府は新たに費用をまかなえるしくみを急ぎ再構築したのだと思います。

 除染費にも国の予算が投入されますが,汚染した当事者が負担するという環境政策の大原則は,いったい,どこへいったのでしょうか。事実上,東電を救済する役割を果たしますよね。そもそも2011年の事故のあと,他の民間会社と同じように法的整理の手法を使い,東電の株主や金融機関に負担を求める道を探れなかったのか悔やまれます。国は東電をつぶさず,巨額資金を返済期限なしで「貸し出す」ことにしましたが,これは資本主義の原則からの逸脱でした。
 補注)PPP(Polluter-Pays Principle;汚染者負担原則)という用語がある。これは,公害防止のために必要な対策をとったり,汚された環境をもとに戻すための費用は,汚染物質を出している者が負担すべきという考え方である。経済協力開発機構(OECD)が1972年に提唱し,世界各国で環境政策における責任分担の考え方の基礎となった。

 もともとは,企業に厳しい公害対策を求める国とそうでない国があると公正な貿易ができなくなるので,こうした事態を避けるために作られた原則である。なお,2000年閣議決定の環境基本計画では,環境政策の基本的考え方についての指針として,汚染者負担の原則・環境効率性・予防的な方策・環境リスクの4つをあげて整理している。


 東電にかぎらず電力会社はつい最近まで,地域独占体制を保証されるだけでなく,総括原価方式によって利潤(率)を確保できていたので,やたら原発という固定費の高い設備投資を好んで選択してきた。

 要は,東電は,儲けだけはいままで存分にフトコロに入れておきながら,「3・11」の過酷・重大な原発事故を起こしてからは,自社が社会的に負うべき基本責任を免責される法体制が整えられていたことを奇貨として,このPPPなどへったくれもなにもないかたちで,つまり,いままさに「原発は公害である」という基本的な危険性を全面的に露呈させつつ,同時に,その結果のもたらしている被害を金銭面でも外部経済に向けて拡大させている最中である。


 すなわち,原発という装置・機械は,まさしく『終わりなき危機』(ヘレン・カルディコット監修,河村めぐみ訳,ブックマン,2015年)を意味するほかない理工学の理論と技術に上に成立しえているはずの《悪魔の火》をかかえこんでいる。

 賠償費でみると,追加分を入れても標準家庭で月100円に届かない程度で,負担感は小さいのかもしれません。でも,なぜ,私企業が起こした事故の尻ぬぐいを,私たちがしないといけないのでしょうか。同じ国民負担でも,国会で徹底的な議論を重ね,だれもが納得するような「福島の復興」などの目的をかかげた税金で,とするほうが望ましい。再び原発事故が起きたときも,また私たちがお金を出し,結果的に電力会社を助け,ひいては原発を続ける? そんなことに国民の合意はえられていないはずです。

 福島の事故の費用総額はいま,21兆5千億円とはじかれていますが,本当はもっと大きいでしょう。たとえば賠償の基準も被害実態からかけ離れていて,賠償されるべき被害はまだ残されていると思えるのです。もはや原発は「安い」とはいえません。ふくらむ事故費用はあらためて「原発を止める」判断を迫っています。政府に任せるのでなく,国民がみずから選択しないといけません。
 
 --以上のとおりに聞いた除本理史とはだいぶ距離感のある意見を陳述するのが,つぎの竹内純子の原発問題対する立場・思想である。

 ③「【 〇 】つぶせば東電が楽になるだけ」NPO法人国際環境経済研究所理事・竹内純子さん
竹内純子画像
 ※ 人物紹介 ※ 「竹内純子(たけうち・すみこ)」は1971年生まれ,東京電力で尾瀬の自然保護などを担当,2012年から現職,筑波大学客員教授。著書に『原発は “安全” か』など。

 東京電力という一企業の失敗を,なぜ国民が負担するのかという指摘は,感情的には分かります。でも,1日も早く福島復興への責任を果たすという目的を考えれば,当面は昨年末に国が決めたこの仕組以外に,解はないと思います。簡単にいえば,国が東電に資金を出して時間的猶予を与えるという制度で,昨〔2016〕年末に決まったものは,これまでの大枠と同じです。私は一定の評価をしています。
 補注)ここで「感情的には分かります」という論理の出し方に疑問がある。批判する側の立場を「感情論」のほうに導き,これの説得度合を事前に落としたいときによく使用される〈理屈の方法:述べ方〉である。仮にそうした感情の問題(要素)があることは事実そのものであるとしても,そうした感情が出てくる事情や背景を,いっさい無視したかのように,つまり決めつけ的に〈感情論だ〉というかのような反論の仕方は,あやしい弁論法にもとづいている。

 それでは,いまの原発事故に対する事後処理の仕方は「国が東電に資金を出して時間的猶予を与えるという制度」だと説明する場合,それでは,あと何年(それとも何十年何年)その時間的猶予を与えられる(待てる)つもりなのか。また,いつになったら東電がその資金を返済できると観てのか(はたして40年で可能か),これについておおよそでもいい,その見通しなり計画を最低限は明示しながらいうべき理屈である。このあたりをはっきりさせえない議論のほうこそが「感情的」であり,かつ感情的にも理解できないいいぶんである。


 東電福島第1原発事故現場の後始末は,おそらく半世紀から1世紀「単位」の視野でもって構えなければ,その対応はまともにできない。この点は説明するまでもなく周知の事実になっている。この事実を踏まえてもまだ,竹内純子はそのような主旨を堂々と展開できるのか? 不思議な主張をする「国際環境経済研究所理事」であり,NPO法人の関係者による,理解しにくい発言の内容である。


 税金での負担を主張する人もいますが,「福島のための増税」といったところで,簡単に国民の理解をえられるとは思えません。税制と違い,電気料金の変更は国会審議が必要ないので問題だという指摘もあります。でも,国は標準家庭で月平均18円の追加負担を40年担うという枠組みがふくらまないように閣議決定で上限を2兆4千億円と決め,世帯が負担する金額を毎月の検針票に明示することも定めています。電気料金には,地域によって負担額の加減ができるメリットもあります。
 補注)ここでの指摘,40年間に限るとか,上限を2兆4千億円に切るとかいった話題は,これまでの経験律によればおおよそ,ほとんど信頼性の置けない,当座だけのものだと断定されてもよい。いいかえれば,暫定的な,それこそゴマカシ的な制限のための数値の仮定でしかない。

 一方で,太陽光などの再生可能エネルギーの電気を高く買いとっている費用は,「賦課金」として電気料金に上乗せされていますが,標準家庭で月約600円になります。私たちは自分たちが使っているエネルギーにもっと関心を払うべきです。
 補注)ここでの議論も,もっていき方がおかしい。東電の事故問題にかかわる消費者側の料金増加・負担の問題と,再生可能エネルギーの開発・利用のためにかかっているその料金増加・負担の問題を同じに,まったく質的に同じ次元に乗せてとりあつかうところからして,問題があり過ぎる。同じ金銭の問題でもどのように考えるかについて異論がある。その理由・根拠は後段で触れる。

 「東電をつぶすべきだった」という声がありますが,事故当時の東電の純資産は2兆5千億円ですから,必要額に届かないのは明らかでした。泣くのは賠償をえられない被害者です。東電をつぶすことは,東電を楽にしてあげることと同義です。たとえば会社更生法などの事業継続を前提とした破綻(はたん)処理では,賠償を含む東電の債務を一定程度で区切ることになります。これでは東電が責任を果たすことにはならないので,いまの枠組がつくられたのです。
 補注)この説明の方法は詭弁に近い。前段と同じ反論ができる。質的に異なる論点同士を混同させてはいけない。関連づけて論じることはできるが。惨酷な核事故を起こした東電を破綻処理させるのは,やはり好ましくなかったという主張であるが,個別企業の社会的責任を曖昧化させる方法が,相対的に好ましい選択であったのか否かについて,説得力ある説明にはなっていない。

 東電はいわば,日本においては「原子力村の核心をなす主導的な大会社」であった。この会社を簡単につぶすことはできないというわけである(「大きすぎて潰せない(too big to fail)」!)。かつて,バブル崩壊後においては日本の大企業(とくに金融機関を先頭に)がつぎつぎ破綻していったが,今回「3・11」のために,世紀の記録に残るような原発の大事故を起こした東電だけは,そうはさせじとする意気ごみだけはよく伝わってくる。

 東電を破綻処理して責任は国が果たすべきだといっても,国には賠償や廃炉の具体的な作業を進め,電力事業をおこなう「東電の代わり」はできません。電力インフラの担い手として事業を営む東電の経営環境は,電力自由化でさらに厳しくなっています。今回の決定では,8兆円もの廃炉費用を捻出できるのかという実現性や,原発をもつ他の電力会社にも負担させる正当性に疑問も残りますが,現実的な代案があるでしょうか。
 補注)このあたりは,もはや「開きなおりの理屈」となっている。「電力事業をおこなう『東電の代わり』」を,はたしうる事業体(おそらく共同事業体になると思われるが)を,まさにお膳立てするのが国家側の任務・仕事である。にもかかわらず,この竹内純子の意見は初めからその可能性を排除した「原子力村的な基本思想」を,それも遠慮も躊躇もなく披露している。

 また「原発をもつ他の電力会社にも負担させる正当性に疑問も残ります」という論理も奇妙である。各地域における独占企業であったのであるり,また総括原価方式という特恵を許されてきた同じ電力業に関する話題である。国家側から格別の便益を享受してきた電力会社陣側には,それ相応に負担すべき共同責任があって当然である。ただし,沖縄電力だけは原発を保有せず,会社規模も小さい点を理由に免除してもよい。

 将来も原発を使いつづけるかどうかは,国民の覚悟の問題だと思います。エネルギー資源が乏しいこの国で,使うリスクと,使わないリスクを比較考量して,やめると決めるのならよいたたみ方を考えるべきでしょう。ただ,再生可能エネルギーは急速に増えてはいますが,水力をのぞいた太陽光や風力がまかなう電気は,全体の約5%にすぎません。日本は原発事故の前,電気全体の約3割を,原子力に頼っていました。
 補注)この段落における意見は完全に時代遅れというか,また完全に間違えたような,原発問題に関する立脚点からモノをいっている。こういうことであるから,いちいち反論・批判しておく。

 a)「将来も原発を使いつづけるかどうかは,国民の覚悟の問題だと思います」というのは奇怪な指摘である。各大手新聞社による世論調査の結果をまつまでもなく,国民・市民・住民・庶民の立場・意見・希望はその過半が原発反対,つまり脱原発の意向である。にもかかわらず,あえてこのように意見を表明し,わざわざ押しつけたがるかのように唱えるのは,意識的な「神経過剰サービス」でなければ「鈍感の過ぎた立場」の表明である。

 なぜならば,その「国民の覚悟」は以前よりできていた。だから,そこのろことへくわえて「問題だと思います」と断わった点は,すでに克服されている。つまり,国民の側はその「覚悟ができている」のである。竹内純子の意見は露骨な〈論点外し〉であるだけでなく,過去のにおける,それも「3・11」以降にかぎってみても,続々と登壇してきている関連の諸見解を,頭から無視したうえでいわれている。その意味では原発支持論者に特有である「現実無視の基本観点」が色濃く,前面に押し出されており,説得力がない。

 b) ここであらためて引用するが,「エネルギー資源が乏しいこの国で,使うリスクと,使わないリスクを比較考量して,やめると決めるのならよいたたみ方を考えるべきでしょう。ただ,再生可能エネルギーは急速に増えてはいますが,水力をのぞいた太陽光や風力がまかなう電気は,全体の約5%に過ぎません。日本は原発事故の前,電気全体の約3割を,原子力に頼っていました」という点については,こういっておく。

 本ブログでは,2017年02月13日の記述「原発産業というババを引いた東芝の経営失敗,アメリカ企業が手を引いた原発事業に進出した日本企業の失策など」で言及したように(こちらが関係する論点をくわしく解説している),竹内純子のように短期的かつ固定的にしか,再生可能エネルギーの開発・利用を観察・評価しようとしない見地・立場は,問題があり過ぎる。

 そもそも「3・11」以前における原発依存率3割の事実を,いまごろになってもちだしウンヌンすることじたい,論理として醜怪である。原発なしでもやってきた現状までにおける日本のエネルギー事情の推移に関する解釈はさておいても,この「原発がなし」でもやってきたこれまでの実績に対する,以上のごとき弁説は理解しがたいものである。

 ここで「再生可能エネルギーは急速に増えてはいます」という現実と,今後に向かっているその現実的な方向性については,つぎの図表を参照しておきたい。
再生可能エネルギー導入目標(発電電力量)
出所)https://www.asiabiomass.jp/topics/1212_03.html
これ以外にも関連の図表がいくつか掲示されているので,
興味ある人は,このリンクをたどって検索し観てほしい。


 私は,日本は当面,原発を使っていかざるをえないと考えます。しばらく使いつづけるなら,安全性を高めるしくみ,そしてつぎに事故が起きたときの備えを徹底的に追求しつづける必要があります。安全規制のあり方や住民の避難計画,賠償のかたちは,まだまだ議論の途上です。
 補注)竹内純子は女性であるが,これは原発〔という女〕に完全に振られた男が,いつまでもその女〔原発〕を恋しがる光景に映る。「当面,原発を使っていかざるをえないと考え」というけれども,現に再稼働に漕ぎつけている日本の原発は,まだ数基だけであるが,日本全体にとってみれば絶対に必要不可欠な稼働ではなかった。

 だが「安全性を高めるしくみ,そしてつぎに事故が起きたときの備えを徹底的に追求しつづける必要があ」という点は,とうてい支持できず,猛反対する。「つぎの事故が起きたとき」を想定することが,はたして許されうる原発「観」だとまでいうのであれば,この竹内純子の,なにやら東電代理人の立場からするような発想は,これじたいからして許容できない。さすがに,いつの間にか原発の「安全神話」は舞台からすっかり消えた議論になっている。

 なによりも気になるのは,エネルギー観において反時代的であり,いうなれば反動形成とみなされてよいその「原子力」エネルギー観が,控えめを装ってだが,臆面もなく前面に披瀝されている点である。


 いまある原発の安全性向上だけでなく,新しい炉型の新設やリプレース(建て替え)も議論する必要があるでしょう。判りやすくて一時的に留飲が下がる主張に流されず,実質的な議論を進めるべきです。
 補注)新型の原子炉にも問題があることは,専門家が指摘済みである。いまからもっと盛んに「議論する必要がある」のは,再生可能エネルギーの開発・利用のほうに,さらに重点を置くべき点である。最後にいっておくが,はたして「判りやすくて一時的に留飲が下がる主張」(脱原発に関する立場からするそれのことと思われるが)とは,いったい具体的にはなにを指すのか? この表現のなかには,原発事情に関して「よほど悔しいらしい竹内純子の『感情的な〈なにか〉』」が含有されているとみるのは,うがち過ぎた観察になるか?

 ④ まとめ的な論述

 1)いまどき時代遅れの原発擁護論
 最後に,本ブログ内では原発問題に関してなんどか引用してきたつぎの文章を,再度かかげておくことにしたい。これは2016年11月中に数回引用した段落であった。これは,日本語訳では1982年に公刊された書物のなかでの意見であった。
ロビンス表紙    再生可能エネルギーの流れの変動性について考えることに慣れていない人びとは,気まぐれな天候が再生可能エネルギー利用の信頼性を低下させるので,完全なバックアップが必要となり,既存エネルギーの容量を小さくすることはできないという考えてしまう。

 ところが,詳細な分析によると,再生可能エネルギーの変動は,エネルギー源ごとに異なり,その攪乱は従来型エネルギー型システムに対する攪乱(技術的故障,石油禁輸,ストライキ)よりも小さくかつ予測可能であることが分かっている。致命的で解決不能な貯蔵の問題を生じるのは,既存のシステムのほうなのである。
 註記)エイモリー・B・ロビンス&L・ハンター・ロビンス,室田泰弘・槌屋治紀訳『ブリトル・パワー-現代社会の脆弱性とエネルギー』時事通信社,昭和62年,305頁・下段。
 要は日本のエネルギー生産体制もようやく,この基本認識に添った方向に動き出している。ところが,この動向が気に入らない竹内純子〔などの原発再稼働派〕は,ロビンスらのこうした35年前に表明されていた認識が日本でも本物になりつつある事態に対面させられて,前段のように,それを「判りやすくて一時的に留飲が下がる主張」だと決めつけている。ともかく,竹内純子の意見(議論)は今日聞けたインタビュー記事に依拠するかぎり,説得力のきわめて稀薄な,しかも一方的な断定にもとづく内容になっていた。

 竹内純子『誤解だらけの電力問題』(ウェッジ,2014年)の「おわりに-解だらけの電力問題」より,つぎの段落を抜粋しておく(同書,227頁)。
 註記)ここでは,https://www.solar-partners.jp/pv-eco-informations-32575.html からの孫引き。

 気持ちは原子力発電などもう嫌だと思っても,エネルギー政策の3Eが染みついた頭は,脱原発を容易に口にすることを許してくれません。日本は燃料資源にはとことん恵まれませんでした。化石燃料,ウラン燃料のほとんどすべてを海外から輸入しなければなりません。ということは,貿易収支が燃料の輸入でつねに圧迫されることだということです。
 補注)文中の「3E」とは,つぎの3つのEのことである。

  ★-1 Energy Security(エネルギー安全保障)
  ★-2 Efficiency(エネルギー効率・コスト)
  ★-3 Environment(環境・温暖化対応)

 現段階において原発をめぐる評価は,この3Eは落第点しかついていない。ただし,最初に挙げてある「エネルギー安全保障」はマイナス点を付けるべき対象にまでなっている。

 モノづくり立国となり,高い付加価値の工業製品で外貨を稼げるようになったので,燃料を海外から買ってくることが可能になり貿易黒字も生み出してきましたが,そもそも電気は「あるのが当たりまえ」ではなく「ないのが当たりまえ」の国なのです。
 補注)ここでは,再生可能エネルギーの開発・利用によって,この指摘はすでに転覆させられていること(⇒批判され破綻している事実)を,どうやら竹内純子はよく承知のうえでいっているらしくもみえるから,なおさらのこと奇怪に感じるほかない。

 しかし,いつの間にか私たちは資源貧国であることすら忘れ,エネルギーあるのを当たりまえと考えるようになってしまいました。世界には電気を使えない人が約13億人もいて,電気がないために健康や生活を脅かされているというのに。
 補注)ここでは,この意見に対しては明確に「違う」と断定しておく。こういうふうにいいかえておけばよい。日本に暮らす「私たちは」「いつの間にか資源富国であることすら忘れ,エネルギーがないのを当たりまえと考えるようになってしまいました」と。

 再生可能エネルギーの開発・利用には原料(燃料)そのもの輸入は不要である。地産地消型のそれだからである。水車を利用してきた水力の歴史を忘れたか? 一事が万事で竹内の見解には問題ありあまるほどある。

 また,その「約13億人」用の電源に原発が有効ということも,いいたいのか? これまたひどい立論である。こちら用にもっとも適した電源が再生可能エネルギーであることは,いま世界中で注目されているだけでなく,国際協力的な視点からも実現されるべき方途である。
 
 それほどにまで原発に執心しなければならない「竹内純子の立場・思想」には,どうも解しかねるものが残る。とはいえ,そこに控えている〈なにか〉を察することは,むずかしくはない。比喩でいえば「三つ子の魂百まで」。いうまでもない点だが,ここでの「三つ子」とは竹内が「元東電社員であったとき」に「原発必要論」に,きっと骨の髄まで洗脳(?)させられていたと推察しておけばよいのである。

 前述にあった3E,Energy Security(エネルギー安全保障)と,Efficiency(エネルギー効率・コスト)と,Environment(環境・温暖化対応)は,いまでは討ち死に状態になっている。安全保証のことは前述したので,残りふたつについては,こういっておけばよい。

 原発のコストは高い。環境・温暖化対応は原発にとっては不可能事である。熱効率(発電)に生かされていない熱は,近隣に放出しており,炭酸ガスを出さずにじかに「地球温暖化の原因」を提供している事実は「しる人ぞ,しる」。その熱量全体はものすごい水準に達している。
    ここでは,こういう指摘を引用しておく。なお,文中で「?」は原文のままである。

 1年間における原発からの温排水による総廃熱は日本全体に入射する太陽熱の0.14%に相当し,これは産業革命以来,約?年間排出されてきたCO2による強制放射熱の0.12%を上回る。
  註記)http://fukushimaworkerslist.blogspot.jp/2013/11/blog-post_14.html
      広瀬隆二酸化炭素表紙
 関連する議論の関して代表的な文献が,広瀬 隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社,2010年)である。問題は,広瀬が電力会社にとって天敵のような人物であるかどうかよりも,関連する事実=真実を的確に把握し,認識するほうにかかっている。
 そして,竹内純子はいまも多分,そうしたヘソの緒:原点(原発推進論の立場)を引きずっていかざるをえない立場から,「NPO法人国際環境経済研究所理事」としての主張をしていたとも推理する。このごろは「環境」という言葉が〈悪性インフレ〉を起こしている。
 補注)本ブログにおける関連の記述がある。⇒ 2014年06月15日,「『原発』こそが地球温暖化の,重大な原因のひとつである」
 

 2)読売新聞社編『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』昭和29年
 いまもなお原発推進の立場にある読売新聞社は,昭和29〔1954〕年にみずからが編者となって,また当時の東京大学助教授・理学博士中村誠太郎の校閲をもらい,著作『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』を公刊していた。この本の題名はより正確にいえば『ついに《悪魔の火》は人間をとらえた-原子力を人を不幸にする-』と名づけるべき性質をもっていた。
ついに太陽をとらえた1954年表紙
 事故を起こすとわずか2~3時間でメルトダウンを惹起させるような装置・機械である原発が,人間に幸福をもたらすとか・そうではないとかいった次元で話題にすることじたいからして,議論の方向をとりちがえている。

 読売新聞社編『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』は,原発のすばらしさを解説する本だと,そのころは宣伝されて発売されていた。だが,半世紀以上も経った現在の地平から回顧するに,この本は,原発の危険性・反人類性を自己証明するための告白をしていた書物であったことになる。

 同書のなかには「ついに太陽をとらえた」という同名の1章が設けられているが,その副題には「原爆から水爆へ-壮大きわまる思いつき実現-」という文句がつけられていた(同書,184頁)。しかし,この「壮大」さというものは,原発がいったんでも事故を起こした分には,まことにもって「壮大極まる」「過酷事故」「核惨事」の発生となる宿命を,まえもって説明するための形容であったことにもなる。

 「原子炉というのはどういうものか?」と問うこの本は,こう答えている。「一言にしていえば,爆弾が原子力を一時に出させるものとしたら,これは原子力が小きざみに出させる装置」である(175頁)。すなわち,原発事故は,この原子力の使用法を間違えるという意味での操作失敗なのであるが,事故を起こしたときには「原子力を一時に出させる」 原子「爆弾」となる。物理学的にいってそう説明できる。
 
 読売新聞社『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』1954年から30年後,こんどは朝日新聞科学部編になる『あすのエネルギー』(朝日新聞社,1974年)が公刊されていた。本書はつぎのように楽観的な観方を披露していた。いわゆる「安全神話」の幸福感に満たされた見解であった。
    原子力発電所は,……安全対策を立ててある。運転中に突然,炉の中の水が全部抜けてしまい,燃料棒が熱のために溶けるという,現実にはほとんど起こりえない事故を考え,そういう事故が起きた場合でも,付近の住民にひどい放射能の害が及ばないように非常装置を取りつけ,発電所の立地も決めてあるのだ(同書,138頁)。
 いうまでもないが,ここに説明されている内容はすべてウソ(反故)になっていた。前述したように前世紀から今世紀にかけて起きた原発の大事故は,それぞれ以下の日付けに起きていた。

  ★-1 1979年3月28日,スリーマイル島原発事故。 
  ★-2 1986年4月26日,チェルノブイリ原発事故。
  ★-3 2011年3月11日, 東電福島第1原発事故。

 川村 湊『福島原発人災記-安全神話を騙った人びと-』(現代書館,2011年4月25日)に対するブック・レビューのなかには,「悪魔は誰か本当の黒幕は誰かわかって来ました」という感想もみられるが,悪魔そのものは〈原子力〉という物理=太陽のエネルギーある。この悪魔を人間の側から “とらえることができた” などと勘違いしたところから,そもそもの原発的な間違いが開始されていた。

 人間が「原子力をとらえた」のではなく,原子力が「人間をとらえた」のである。しかも,そのとらえかたは尋常ではなく,人類を破滅させかねない地点まで,人間を追いこんでもいる。原子力は《悪魔の火》である。この力が役に立つのは「戦争のとき」だけである。人間を殺す戦争のために使われる。それを電源に応用したのだから,間違いであったというほかない。
 

<転載終了>