社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1064443799.html
アタリ 「日本とドイツとロシアは消滅へ向かっている」
https://www.youtube.com/watch?v=7gA5q-AoObE

<転載開始>
【日本は再生可能エネルギーの開発・利用に恵まれた国土(風土)を有する事実に目をふさぐ竹内純子(『朝日新聞』2017年2月15日朝刊オピニオン欄)の意見は,

 原発を「使うリスクと,使わないリスクを比較考量して」などと,すでに前提条件そのものが瓦解している比較考量を,あえて「想定して話を進める〈過ち〉」を意図的に披瀝しつつも,原発を「やめると決めるのならよいたたみ方を考える」などと,結論の判りきった〔「やめたほうがいいの決まっている〕原発関連の議論を,いつまでも四の五のしているつもりである】

 【「再生可能エネルギーは急速に増えてはい」るという現実を,極端に過小評価する見地は,現実をやぶにらみどころか,薄目にでもきちんと正視しようとしていない】


 以上,赤太字でいつもかかげる本ブログの副題であるが,これは先日〔2017年2月15日〕の記述においてとりあげていたが,詭弁と目くらましの議論を盛んに展開するばかりであった竹内純子(国際環境経済研究所理事)の,完全に間違った,それも意図して「騙竹内純子画像2る」かのような論法を批判している題字である。
 出所)画像は竹内純子,http://diamond.jp/articles/-/54749

 いまどき,原発の積極的な推進(日本でいえば再稼働)を勧める議論をする,しかも「環境」という文字をつけた〈理事・肩書き〉でモノを騙る--だから語るではなく騙ると修辞しているのだが--論法は,すでに破綻している「原発推進にかかわる利害とこの関係」を如実に反映させている。この論法の特徴は,その口調の思わせぶり的な個性はさておき,原発の必要性に執着している〈原点〉を探って判断すれば,まったくの謬説の立場であると論断されてよい。

 先日〔2月15日〕の翌日(16日),つぎの ① に引用するが,再生可能エネルギーの開発・利用を奨励する記事が報道されていた。これを読むと,原発の推進や再稼働を提唱する立場がいかに馬鹿げているかということや,今後もさらに再エネの推進に向かうほかない基本事情についても納得がいくはずである。原子力村の面々にとってみれば,再エネが順調に進展している現状は,おそらく脅威なのであり,忌むべき現象なのである。


 ①「自然エネ100%,日本で実現すると『84兆円お得』WWFジャパン試算」(『朝日新聞』2017年2月16日夕刊)

 世界自然保護基金(WWF)ジャパンは〔2017年2月〕16日,日本が2050年までに石炭や石油などの化石燃料に頼らない「100%自然エネルギー」を実現すれば,必要な設備費用を投入しても,燃料代節約などで84兆円の「得」になるとの試算を発表する。地球温暖化対策の国際ルール「パリ協定」がめざす脱炭素社会は実現可能だとしている。
 補注)それにしても,東電福島第1原発事故現場の後始末のために,いまの時点で見積もられている金額だけでも「21.5兆円」である。これからさらに膨らむ見通しを否定できる者(専門家のこと)はいないはずである。この金額と比べて読む記事だとすれば,こちらの原発事故の被害・損害が金銭的には驚愕すべき水準にある。この事実は注目されねばならない。

 原発推進論の立場からは,発電コストが一番安いのが原発だと喧伝されてきた。しかし,いまとなってみれば「原発安価論」は,デマでなければ,単なる虚説でしかなかった。このことは確認済みであって,いまではその「原発安価論」はどこかへ雲散霧消している。おまけに,原発コストがこれからも高くなっていく展望だけは確実である。

 試算によれば,2010~2050年の約40年間で,設備費用は産業部門や家庭での省エネに191兆円,太陽光などの自然エネルギーの導入に174兆円の計365兆円が必要な一方,化石燃料の消費が減って449兆円の節約になるという。温室効果ガスの排出量は2010年に比べて95%削減できるとした。
 補注)原発事故収拾・対策のために必要な経費は,結局そのすべてを,国民の負担・血税に求めて調達されるほかない。そのような,ムダどころか二重の浪費になっている事故対策費に充てられるような予算があるのであれば,これははじめから,自然・再生可能エネルギーの開発・利用の領域に充てていればよかったものである。逆にいえばまた,電源調達のための必要な予算は二重の意味で大きく低減されえたはずである。

 しかし,ここでの話題は「はず」であるという表現でしかいえない。現在における日本のエネルギー事情についていえば,再エネ事業体制の促進を抑制(妨害)する要因になっているのが,いまだに40基以上も残っている原発である。設備投資計算の見地でいえば,この原発は再稼働しないと,原価計算的に観ても損失ばかりが発生させていく。

 かといって,とくに事故を起こした原発の場合では,廃炉工程に立ち入る前の段階からすでに,事後対策のための膨大な処理費用が発生している。この点はいまからよく透視できているが,これにくわえてさらには,使用済み核燃料の後始末にあっても非常な苦労をさせられる事実も,既知である。いうなれば,原発利用の結果生じている “三重苦” は,日本の経済・社会にとって度外れの水準までの負担になっている。この話題が理解しにくいという筋には,東電福島第1原発事故現場における汚染水問題後始末状況を思いおこせばよいのである。

 そもそも,そうした類いの事故対策工事が「いったいいつになったら終わらせられるのか」という技術的な論点からして,これに答えを明示できる専門家は1人もいない。この事態そのものがすでに悲劇を意味し,原発の「公害」性に潜む〈悪魔性〉,つまり人間の手には負いきれない始末になっている深刻な事態を明示している。そして,この始末をどのようにしたら,今後において「始末にメドのつく方途」にまでもっていけるのかについても,これに対する確答をできる専門家もいない。

 現在ある技術が広く普及すれば,エネルギー需要は2010年比で47%減らせると試算。すべて自然エネルギーで賄えるとし,国内の気象データから太陽光と風力の発電量は2対1の割合が望ましいとした。2030年ごろから自然エネルギー発電で余った電力から水素をつくって活用すると想定している。
 補注)「原発が発電する電力」について原発推進論者は,この原発の電力の生産量」を基礎(ベース)に置いてこそ,消費者側が適応的に使用しなければいけないかのような「理屈を立ててきた」。いわゆる〈ベースロード〉という概念が,その理屈を根拠づけるためにもちだされている。だが,このベースロードの理解は間違えている。問題は,原発そのもの向けのためのの論になっているが,けっして,ベースロードじたいのためのその論ではないところに,その間違いを発生させる考え方が隠されていた。

 このベースロードは,電力使用者側の立場から評価され決められるべき対象であるものを,ウドの大木的な装置・機械である原発(稼働中は常時100%の操業度で運転し,融通の利かない)の電力生産水準のほうに,強引に寄せ付けて解釈しようとするところに,おおもとの基本的な間違いがあった。

 昨〔2016〕年発効したパリ協定では,各国が温暖化対策の長期戦略を国連に提出するよう求められている。日本は環境省と経済産業省がそれぞれに素案をまとめている。WWFジャパンは,政府に長期戦略の早期策定を求めている。(記事本文〔黒字部分〕引用終わり)

 --原発は要らない。なぜ,ムリ・ムダ・ムラの多い,それもとくに高コストで,非常な危険もかかえていて心配だらけの原子炉を,わざわざ電気を作るために使ってきたのか? スリーマイル島(1979年3月),チェルノブイリ(1986年4月),フクシマ(2011年3月)などの原発事故に続いて,仮にでも,またもや原発の大事故など発生したら,地球全体が恐慌を来たすことになる。いまでもすでに地球上には,2016年で434基もの原発があるというではないか。

 ② 原発は一般的に安全ではなく特別に危険

 原発事故の危険性に関する確率を,ごく単純かつ簡潔に考え,つぎのように計算してみる。数学的にいろいろ見当をつけて試みた論者が,ひとつの意見として,こういっている。

 「日本で事故が起きる事後確率は,福島以前の0.000107から福島後の0.000389と3.6倍になり,その変化率は先の推計より大きい。50基を前提とした事故発生確率に引き直すと,188年に一度の確率から52年に一度の確率への変化,ということになる」。
 註記)http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20120428/Bayesian_updating_after_Fukushima

 世界にある原発は434基であるから,434基 ÷ 50基 = 8.68 と計算しておき,52年 ÷ 8.68 = 5.99年に1回「事故が起きる」。こうして計算した原発事故の発生可能性は,どう受けとめておくべきか? 

 原子力事故の深刻さを示す国際原子力事故評価尺度「INES評価」という物差しが,原子力施設事故の深刻度を示す尺度として提供されている。施設内外への影響などの観点から評価し,軽微なレベル0から深刻な事故のレベル7までの8段階に分けている。チェルノブイリ原発事故とフクシマ原発事故は「最高のレベル7(深刻な事故)」であった。

 人類が原発を利用しだしてからの歴史は,日本の原子力発電開発は米国から導入した動力試験炉JPDR(BWR)の1963年10月26日運転開始が出発点であるとされるが,米ソの関連させていえば「原子力の平和利用=原発」は,1950年ころがその出発点である。とすると,原発のレベル7に相当する大事故は,いままで2回起きた。

  2017年 - 1950年 = 67年 であり,

  67年 ÷ 2回の原発大事故 =「33.5年あたり1回」発生していた。

 その間に原発の基数は増加している。危険度(この確率計算的な頻度=発生蓋然性)は高まるばかりである。アメリカの国家運輸安全委員会 (NTSB) の行った調査によれば,航空機に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.0009%であるとされるが,原発事故による被害は人間が死亡する事故などに限定されず,放射性物質の拡散による物理化学的な被害は,事後にまで,重大・深刻な惨禍を広範囲にももたらしつづける。

 ところが,村主 進(原子力システム研究懇話会)「原子力発電はどれくらい安全か」(『原子力システムニュース』Vol. 15, No.4(2005.3)は,以上に該当する論点をこう説明していた。
村主進画像
出所)http://onodekita.sblo.jp/article/80625597.html

 イ)「自動車事故は毎年発生しているが,炉心損傷事故は〔1人の人間の〕生涯の80年間に一度も起こらないと考えてよい」。「事故発生頻度を考えると,原子力発電所の安全性は自動車事故よりも一万倍以上安全であることになる」。
 補注)「人間の生涯:80年間」とはあくまで単なる「時間としての80年間」を意味するが,ここでの指摘「80年間に1度も起こらない」のが原発の事故だという規定そのものが,自己破産的な定義であった。

 ロ)「過去に炉心損傷事故を起こした米国のスリー・マイル島原発,旧ソ連のチェルノブイリ原発は,わが国の原子力発電所とは安全設計の異なるものであって,わが国の原子力発電所の炉心損傷事故頻度の参考になるものではない」。
 補注)日本は違うのだ,他国のそのような事故はわが国では起きるわけがないという,一方的で観念的な決めつけ(発想)は,完全に誤謬であった。日本の原発においては「安全設計の異なるものであ」るという〈仮想〉も,現在の時点で同じ発想を口する者がいたら,それこそ「馬鹿あつかい」される。

 ハ)「炉心損傷事故の発生頻度の推定値は機器の故障率と作業ミスの頻度によって変動する。このため,原子力発電所の老朽化に対して十分の対策を実施し,従業員の教育訓練も充実して,故障や異状事象を起こさないようにまた作業ミスをしないようにすることが原子力発電所を安全に利用するための要件である」。
 註記)引用は,http://www.enup2.jp/newpage38.html から。

 --最後の ハ)  についていうと,東電福島第1原発事故が実際に起きたのであり,その「原子力発電所を安全に利用するための要件」が満たされていたとはいえない。この事実は「3・11」を契機に発生した「福島第1原発事故」との遭遇によって,はしなくも露呈されていた。

 以上にとりあげた話題は,日本の原発管理は安全だという神話がまだ通用していた時期における見解に関してであった。だから,いかにも妥当性があるかのように語らえていた。けれども,いままた同じに発言する人がいたらまさに「真っ赤をウソ」を平然と「騙る人間」だと指弾されるのがオチである。

 ③ 関連する議論-原発推進派批判-

 1)  アーニー・ガンダーセン(岡崎玲子訳)『福島第一原発-真相と展望-』(集英社,2012年2月)
  「これからは化石燃料やウランではなく,日本が恵まれている風力,太陽光,潮力,地熱といった代替エネルギーを生かす時代です。技術者として私は日本の革新的なテクノロジーと丁寧な仕事ぶりに敬意を払っており,思慮深く勤勉な人びとが世界に手本を示してくれることを期待しています」(189頁)。
アーニー・ガンダーセン画像
  出所)http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/cat_60249594.html

 本ブログ筆者が2月15日の記述中で,竹内純子の謬説(「日本は燃料資源にはとことん恵まれませんでした」というデマまがいの発言)をきびしく批判しておいた。だが,このように原発問題の専門家にとっても,日本が再生可能エネルギーに恵まれている国土(風土)である事実は,一目瞭然であるはずである。単なる砂漠であってもそこには,自然ネルギ-として電力をとりだすことが可能になっている時代である。

 2) 舘野 淳『廃炉時代が始まった-この原発はいらない-』(リーダースノート,2011年9月)に関連させて
  「今回発生したような『冷却材喪失事故』を食い止める抜本的な方策がみいだされていないのである。もし原発を放棄するとすれば,このことが最大の理由になる」(「再刊のためのまえがき」)と断われている点を読んで,こういう点も思い出した。それは最新型原子力発電所『AP1000』に関する解説記事である。アーニー・ファーガソンが再登場する。
    原子力村側は,東芝・ウェスチングハウスの第3世代の新型原子炉 AP1000 を大幅な安全性向上により,福島のような事故は起きないと主張し,原発輸出の主役に据えている。だが,実際はどうか?

 この AP1000 は,圧縮ガス・重力・自然循環力による静的(受動的)安全系を採用した改良型加圧水型軽水炉である。屋上に巨大な水槽を設置し,一次冷却水喪失のような重大事故がおきても,3日間は炉心に冷却水が注入され炉心損傷を防止できる。また格納容器壁と外周建屋の間の自然通風路が空気が循環して格納容器を冷却する。

 しかし解説を読むと,安全性・信頼性の向上よりも,ポンプ・配管・ケーブルなどの部品の大幅削減や建屋体積の削減によりコストダウンや工期短縮できることに重点が置かれている印象が強く,とても安全性が飛躍的に向上したは思えない。

 事故が起きれば何年間も注水冷却をおこなわなければならない。福島第1ではいまだにおこなっている。3日間だけ自動的に注水冷却したところで炉心溶融は防げない。そもそも,こんな大きな水槽を屋上に乗せた原発が,地震に耐えられるだろうか。
 補注)ここの引用した原文は2011年12月における記述であった。その後も,東電福島第1原発事故に関連させていえば,そもそも「いまだに未解決状態にある地下流水汚染問題」からして,依然と〈事故である状態のまま〉が続いている。
 以下に引用する段落は,元原子炉設計者のアーニー・ガンダーセン氏が,2012年に来日したときの答弁である。

 「アメリカが最近,発行いたしました認可というのは,AP1000と呼ばれるシステムなんですけども,これは非常に面白いポイントがありまして,日本では絶対に使えないという種類の設計だと思います。AP1000というのは巨大な水槽,水のタンクを屋上に置くという,そういう設計になっております」。
AP1000画像
 「全部で600万ポンド〔2720トン〕の重量になっていまして,(これをキロに換算しようとしたんですけど,うまくいかないんですけど),とにかく巨大な水タンクを屋上に置くというシステムになっておりまして,日本のように地震のある国では,こんなデザインというのはありえないということだと思います」。

 「ですから,アメリカでも認可が発行されましたのは,地震活動の低いジョージアというところに対して発給されたんですが,カリフォルニアなんかではけっしてこれは認可されることはなかったでしょうし,また日本ではちょっとありえないシステムだろうと思っております」。

 「こんな頭デッカチな原発は,とても地震の強い揺れには耐えられず,傾くか倒壊してしまうだろう」。「さらにガンダーセン氏は別の問題点も挙げている」が,あれこれ問題があり過ぎるので,かえって引用は止めておき,つぎの段落に飛ぶ。

  「ガンダーセン氏は,福島の教訓に学ばないNRCを繰り返し批判しているが,そのとおりである」。「AP1000 の前身である AP600 の開発が始まったは1985年,AP1000 の最終設計承認をえたのは2006年である。巨大で複雑な原発の設計は長い年月がかかるため,10年以上前の設計なのにこの業界では『最新鋭』なのである」。
 補注)NRCとは  “Nuclear Regulatory Commission“ ,アメリカ合衆国原子力規制委員会のこと。

 「もちろん福島原発事故前の設計であるから,その教訓はまったく活かされていない。原発の存亡が問われるような大事故が起きたのだから,原子炉の設計を白紙に戻し,根本から見直す必要があるが,そういった常識は原子力ムラには通用しない。ほとんど設計変更なしで,NRCは AP1000 にゴーサインを与えてしまった。信じられないことである」。

 「事故の原因究明と対策に真剣にとり組まないから,いつまでたっても原発の安全性は向上しないという見本である」。
 註記)以上,2)の引用は,http://www.asyura2.com/16/genpatu45/msg/408.html

 以上のほかにもまだ問題点が指摘されているが,ここでは割愛しておき,引用はしない。舘野『廃炉時代が始まった-この原発はいらない-』は,最後部でこうも述べていた。原発というものは「あつかい方を誤ると『自然』は人間に復讐する」「科学的認識がねじ曲げられ,政治優先・経済優先でことを運ぶなら,京大事故の発生というかたちで人間は『自然』に復讐される」(385頁)。

 3)2011年中に「3・11」発生以後に公刊された原発関係書物-任意に選んだ5冊-
 以下に挙げる関連の書物は,筆者の書棚にあったもののなかから任意(つまり勝手)にとりだした5冊である。それぞれから1箇所ずつを引用しておくが,原発問題の核心を突いた批判がそれぞれ明示されている。。

 ☆-1 川村 湊『福島原発人災記-安全神話を騙った人々-』現代書館,2011年4月。 ⇒「日当40万円で,下請け会社の作業員を現場の前線に,放射能汚染の危険覚悟で押し出そうとする東京電力。なにひとつ変わっていない荒廃した精神風景だ。東電の清水〔正孝〕〕社長は,体調を崩して2週間も安静にしていたそうだ。放射線治療でも受けたら? 皮肉にひとつもいいたくなる」(185頁)。

 ☆-2 槌田 敦『原子力に未来はなかった』亜紀書房,2011年5月。 ⇒「技術改良のない状態は,1950年代から始まった。これ以後30年間,原子炉は大きくはなったが,基本的設計の変更はなされていない。つまり,原子力技術は,1950年代半ばより,進歩がいっさい止まっているのである」。「このように進歩できない原子力,または試行錯誤のできない原子力は,もはや科学技術というべきではない」(80頁)。( ↓  画面 クリックで 拡大・可)
ホーガンと川村表紙
 ☆-3 R・カーチス = E・ホーガン,高木仁三郎・ほか訳『原子力その神話と現実《増補新装版》』紀伊國屋書店,2011年7月。 ⇒「原子力は極端に非経済的なものなのである。アメリカ政府のエネルギー研究費の実に40%を使いこむことによって,原子力開発計画は実際には,アメリカがめざした真のエネルギー自立への発展を妨げてきた。何十億ドルもつぎこんでも,原発はまともに動かず,遊んでいる。つまり,原子力産業は,生産したエネルギーよりもはるかに多いエネルギーを浪費してきたばかりでなく,電力料金の仕組や税金を通じて,国民の金を食いものにして,大浪費をしてきたといってよい」(75頁)。

 ☆-4 ミランダ・A・シュラーズ『ドイツは脱原発を選んだ』岩波書店,2011年9月。 ⇒「電力会社が出す広告費は巨額で,テレビ局・新聞社にとって,この広告費が入るか否かは経営に大きく響く。当然,原発を批判するニュースや記事は自主的に規制され,『原発は安全である』『原発は必要なエネルギーである』という流れに乗ったものが多くなる。一方で,電気に頼った便利で快適な生活に慣れてきた人びとは,『原発は本当に安全なのかどうか』を考える機会を奪われたことに気がつかない」(「解説」62頁)。

 「アメリカでは,スリーマイル島原発事故以降,原発の建設は中止された。また,チェルノブイリ原発事故後は,ヨーロッパ,とくにドイツやスウェーデンでは脱原発の政策が採られた。ドイツは……自国の原発政策を見直し,大胆な再生可能エネルギー政策を打ち出した。現在のメルケル政権下でドイツは原発延命祚に傾きかけていたが,このたびの福島第1原発事故後,いち早く脱原発政策を明確に打ち出し,放射能の危険はゴメンだとはっきり表明している」(「解説」63頁)。

 ☆-5 中野洋一『原発依存と地球温暖化論の策略-経済学からの批判的考察-』法律文化社,2011年10月。 ⇒「現実には良心と良識をもった自然科学者は非常に少数であり,多くの自然科学者は自分たちの研究と名誉と利益のために『原発御用学者』となり,政治家・政府官僚・産業界・マスコミと手を組み,一般国民を騙しつづけていたのである。そればかりか,大嘘を原発の『安全神話』を作りあげ,最後は破滅的な福島原発事故を引き起こしたのである。この原発事故責任はきびしく追及されなければならない」(142頁)。

 また,「3・11」の1ヵ月前に公刊された吉岡 斉『原発と日本の未来-原子力は温暖化対策の切り蓋か-』(岩波書店,2011年2月8日)は,こう主張していた。

 「地球温暖化対策として原発拡大は有効だという主張は,口先だけのものであり,それについて批判的吟味をくわえるのは,わら人形とのボクシングにしかならず,時間の空費である」「相手にせずというのが正しい対処法である」。だが「これが言説として社会的に無視できない影響を及ぼしている以上,まったく無視するわけにもいかない」(55頁)。

 冒頭で言及した竹内純子(国際環境経済研究所理事)の言説は,すでに決着の出ている謬論をいつまでも蒸し返す立場を,恥ずかしげもなく開陳していた。このような人物(原子力村住人の1名)に対するわれわれ側の立場としては,なぜ,いまだに彼女のような人材が必要とされているのか,まず関心を向け,よく理解しておく必要がある。

 原発(原子力)に有用性があるかのように,それもいまさらながらように『虚偽のイデオロギー』を宣伝する担当の立場から,性懲りもなく旗振りする人士は,この国の未来を過つほかない役割を発揮している,と断定されてもよい。騙り口だけは巧妙に聞こえるけれども,その現実的な害悪性は看過できない。それだけに,けっして黙過・許容することはできず,きびしく批判をくわえておく必要がある。

<転載終了>