社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1065066599.html
<転載開始>
【原 武史の天皇地位論の基調は,なにか?】

 【明治維新・明治帝政時代の亡霊がいまだに徘徊する戦後日本社会の天皇政治的な遺風】


 ① 前 論

 1)天皇明仁の発言
 2016年8月8日,天皇明仁が退位(譲位)したい意向・要望を,NHKという公共放送(実態は国営放送)を利用して公表した。日本国憲法にはたしかところ(その条文をすなおに読めば),そのように天皇がもの申してもいいのかを許す条項・規定はないはずである。だが,彼はそのように発言できていた。ものいいはやわらかであり,婉曲であり,つつしみ深く,そして言葉をよく選んで,自分の立場を表明していた。

 本ブログ筆者は,天皇や天皇制を専門とする研究者ではないが,いままで一定の学習・勉強をしてきた立場から判断すれば,天皇明仁は「憲法に反する言動をおこなった」と解釈するほかない。むろん,ここに至るまでには,敗戦後史における日本国憲法制定史の複雑な事情・経緯も踏まえた吟味・解明が必要である。だが,それにしても,いまや憲法は「これによって規定される立場」にいる天皇自身が,この憲法を規定しなおす立場にまで進出している,それも天皇自身がそう敢行したのだと受けとめるほかない。

 敗戦直後における天皇裕仁の画策(自身と一族の生き残りのために必死の工作をおこなってきたし,落ちついてからは内奏など介して日本国家の内政・外交に実際に関与・介入していた)の事実は,公然たる歴史の記録として残されており,当然のこと,政治学者たちの研究の対象にもなっている。裕仁の息子の明仁は,そうした父の生きざまをよく観させられてきた家族の1人である。だから,自分が天皇の地位に就いたとき,あらためてこう語っていた。
◇ 天皇陛下のおことば  即位後朝見の儀 ◇
= 平成元〔1989〕年1月9日(月)(宮殿)=


 大行天皇の崩御は,誠に哀痛の極みでありますが,日本国憲法及び皇室典範の定めるところにより,ここに,皇位を継承しました。深い悲しみのうちにあって,身に負った大任を時事通信「明仁即位後朝見の儀」あいさつ画像思い,心自ら粛然たるを覚えます。
 出所)この儀のときの明仁,http://www.jiji.com/jc/d4?p=ten002-54-jpp01047709&d=d4_ii

 顧みれば,大行天皇には,御在位60有余年,ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され,激動の時代にあって,常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ,今日,我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し,平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。

 ここに,皇位を継承するに当たり,大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし,いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ,皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません。
 註記)http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h01e.html
 だが,このいいぶんは事実に反する内容を含む。1945年8月以前だけに限定して思い起こすにせよ,天皇裕仁が大元帥だった昭和天皇の時代において「世界の平和と国民の幸福を祈念され,激動の時代にあって,常に国民とともに」歩んできたかい問われれば,それも厳密に答えるまでもなく,基本的に違っていたというほかない。「平和を愛する天皇裕仁」は軍部・軍人に引きずられてあの大敗北を喫した戦争(太平洋:大東亜戦争)にかかわったのだというのは,あまりにも「歴史の事実」をないがしろにした,きわめて特定の観方に偏った独自の解釈である。

 昭和戦前史における天皇裕仁が本当に「平和を愛する天皇」でしかなかったのであれば,このあたりの問題はこの天皇自身が発言していたように「暗殺された可能性」もあったという危険性に,彼がどのように対応してきたか。また,敗戦になって自分の立場を弁解する文書を作成することに必死になる必要が,どうしてあったのかなど再問しておく余地がある。
昭和天皇独白録表紙
  寺崎英成 = マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録-寺崎英成・御用掛日記-』(文藝春秋,1991年3月)は,これを一読すれば,天皇裕仁がいかに敗戦後に自分が背負うしかなかった戦争責任を回避するかに腐心していた「歴史の事実」を教えている。同書はいわば,昭和天皇自身の弁解書であり,聞き苦しいいいわけや遁辞に満ちている。 

  2)天皇の配偶者の発言
 また,平成天皇の配偶者である美智子までも,こういうふうに自分の意見を表明していた。それは「『五日市憲法草案』を読み返して頂ければ理解できると思います」という文句に表現されていた。「天皇皇后は現行憲法が日本の伝統に沿うものであり,『平和と民主主義』を大切にする現憲法を徹底して守っていくという強い決意表明をしていた」のであるが,天皇の妻がこのようないまの憲法に関する,いいかえれば,配偶者の地位に直接影響するかのような発言をすることじたい,大きな疑問がもたれる。

色川大吉表紙1 さて,その「私擬五日市憲法草案」は,つぎのように解説されている。1968年のことであった。東京経済大学教授色川大吉らが,五日市深沢家旧宅の土蔵より発見したもので,人権意識の成熟度において,既存する民間憲法中屈指と判定され,民衆憲法として反響を喚起した。発見者らによって「五日市憲法草案」と名づけられた。この草案は全文204か条(大日本帝国憲法76条,日本国憲法103条)からなっていた。
 註記)右側は日本経済評論社,2015年発行。

 明治13〔1880〕年11月10日第2回国会期成同盟大会が東京において開かれ,その際,憲法起草が議され, 翌年(明治14年)10月に予定された第3回大会に,各自草案をもちよることが決議された。これを額面通り に受けとったのが,五日市の民権家たち,中でも千葉卓三郎であったかと推測されている。 五日市憲法草案の下敷きとされた櫻鳴社の草案は土屋勘兵衛が13年12月13日手に入れている。
 註記)「私擬五日市憲法草案について」,http://home.interlink.or.jp/~jho-masa/ituka1.htm 参照。

 平成天皇の曾祖父が天皇であった明治時代,このような近代憲法がどのような目に遭っていたのかを棚にあげたまま,その配偶者である美智子(皇后)がこの五日市憲法をもちあげるだけでなく,いまの日本国憲法に通じるものがあるかのように語るのは僭越である。というのは,明治天皇の時期にあって,そのような近代憲法の動向は徹底的に弾圧・排除されてきたからである。要は,21世紀のいまごろにもなって,19世紀との歴史の因縁などすっかり忘却の彼方に押しやっておいて,ただ「いいとこどり」をしたと批判されても,返す言葉もないはずである。
   〔明治〕政府は明治14〔1881〕年10月,みずから進んで10年後の国会開設を約して,自由民権運動の気勢をそらした。 同年10月に予定されていた第3回の国会期成同盟大会はこのため混乱し,自由党結成大会に切り替わり,そのせっかく用意した憲法草案の審議はまったくなされずにしまった。

 民間の憲法草案は他に40数種発見されているが,この五日市憲法草案のようにどういうグループが,どういう内容の検討会を開き,どういう本を参考文献として読んで,誰が起草したか,その起草者を誰が助けたかなどということは,分かっていない。
 註記)「私擬五日市憲法草案について」,http://home.interlink.or.jp/~jho-masa/ituka1.htm
 ここではとくに気をつけねばならないことが,現憲法との関連で基本的に配慮すべき論点として,控えている。天皇が地位に就いたとき「憲法を守ります」といったのは当然の発言にしても,その配偶者が五日市憲法をとりあげ,うんぬんする関係で,皇室一族は現憲法を守るつもりですと発言したことじたい「憲法違反」の虞(おそれ)があった。日本国憲法の「天皇条項」関連においてこそ,規定されながら生きている天皇とこの一族たちが,実際において日本社会に向けてそのように発言(意思の表明)することを,ただちに許している条文はなにもない。もちろんのこと,それを「禁止している条文」もないとはいえ,こちらはそれ以前に属する問題点である。

 3)日本国憲法の該当条文
 宮内庁の庇護と支援のもと,いまの天皇家の人びとがどのように言動しているかについては,いったん脇に置いての議論とするほかないが,ともかく,こう断わっておく必要がある。憲法の内容をすなおに読みこむ必要があり,とくに以下の条文に注意しなければならない。
  〔内閣の助言と承認及び責任〕
    第3条天皇の国事に関するすべての行為には,内閣の助言と承認を必要とし,内閣が,その責任を負ふ。

  〔天皇の権能と権能行使の委任〕
    第4条天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。
    2 天皇は,法律の定めるところにより,その国事に関する行為を委任することができる。

  〔天皇の国事行為〕
    第7条天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ。

        一 憲法改正,法律,政令及び条約を公布すること。
        二 国会を召集すること。
        三 衆議院を解散すること。
        四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
        五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状
    及び大使及び公使の信任状を認証すること。
        六 大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権を認証すること。
        七 栄典を授与すること。
        八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
        九 外国の大使及び公使を接受すること。
        十 儀式を行ふこと。
 政治の実際における天皇一家は,これらの天皇個人に割り当てられた「国事(公務)」以外にも,宮内庁の采配のもとで割り当てられ膨大な仕事量を自家内にとりこんでいる。天皇を先頭にして多種多様な公的行為や私的行為が,それも幅広く実行されている。

 それら以外にも彼らは,自家用の宮中三殿においては,皇室神道の宗教精神にもとづく祭祀を盛りだくさん創設させてきた。明治以来に「創られた天皇制」を装飾する宗教装置として,それらを抱えこんできており,こちらの宗教行事を執りおこなうためにも,たいそうな時間と労力を割かねばならない〈日常の生活〉を過ごしている。

 そうした状態のなかで,平成天皇自身が高齢化したいまとなった段階で,いろいろな負担が肉体面でもたいへん辛くなっているから,早期での退位をさせてほしい,息子の代に天皇の仕事を移管させてほしいと,それも明仁みずから発言する形式でもってこの希望・期待を述べていた。

 しかし,現憲法をこのまますなおに(これは厳密にいわなくてもよいという意味であるが),彼のそうした要望を位置づけるとなれば,これは完全に憲法の規定・条項に反していると判断するほかない。ところが,この点が肝心の問題になっていても,天皇がいったことなのだから特別あつかいにしたうえで,その訴えをなんとかかなえてあげたい。そういったふうに「関連する事情の推移」が展開されてきた。昨年の8月8日に天皇明仁がNHKの公共放送を介してその意思を表明した以後,「退位の問題」は絶対に回避してはいけない皇室問題になっていた。

 ② 退位を特別法を制定し,定める手順について

 1)天皇のお言葉によって憲法の規定がないがしろにされるという,いかんともしがたい矛盾の発生

 『日本経済新聞』2017年3月16日朝刊2面に「きょうのことば」という解説コラムに「天皇退位の特例法-立法の動き『お言葉』が契機」とい文章が載っていた。これはつぎのように関連する説明を与えていた。
『日本経済新聞』2017年3月16日朝刊きょうのことば天皇退位   ▽ 天皇陛下の退位についていまの天皇に限って認める法律。一般に特例法は特定の人や地域,行為など対象や期限を絞って適用する特別立法の一種。特例法には,ほかに財政法で原則として禁じている赤字国債の発行を期限を設けて認める法律などがある。皇位の継承などを定めた皇室典範は一般法で恒久的に適用される。

 ▽ 皇室典範では天皇の崩御による皇位継承を前提としており,生前の退位の規定がなかった。2016年8月には天皇が高齢で公務を果たすのが難しくなることなどを理由として退位の意向を示唆するお言葉を国民向けに公表した。これを一つの契機に,退位を認める立法措置の必要性が高まった。

 ▽ 一般法の皇室典範を改正した場合は恒久的に生前の退位を認めることになり,将来,恣意的な退位につながる懸念があるうえ,退位の要件を明確に定めることが困難とされた。このため,今の天皇の事情に配慮した規定を設けて退位を認める特例法で対応することになった。
 退位の規定が現憲法にないわけは,実のところ「押しつけ憲法」のかたちでGHQが敗戦国に対して制作してくれた,その基本性格になんらかの遠因があるかもしれない。とはいえ,憲法内には規定のないにもかかわらず,つまり,天皇自身の発意を受けて「この憲法にはない退位の問題」を,しかも皇室典範(まともに現代的に指称するならば皇室法)との関連でも議論せざるをえない実状からして,奇妙な展開になっていた。

 問題は,このコラムの見出しにも表現されているとおり「立法の動き(は)『お言葉』が契機」となって開始されていた事実を,よく踏まえての議論にしておく必要がある。と同時に「日本の民主主義」の枠内における「天皇・天皇制の問題」が,あらためて再問されるべき契機も生まれたというほかない。

 2)「〈時時刻刻〉民進,典範『付則』で妥協」「『特例法でも退位先例』自民案飲む」「『退位後』『秋篠宮さま待遇』残る論点,法案化へ有識者会議再開」(『朝日新聞』2017年3月13日朝刊)

 この記事の見出し・小見出しをこの 2)の表題に出してみた。ここではこの解説記事に添えられたいた図解のみかかげておく。
『朝日新聞』2017年3月13日朝刊時時刻刻天皇退位画像
 ③「〈インタビュー〉『お気持ち』と政治」(『朝日新聞』2017年3月18日朝刊「オピニオン」)

 このインタビュー記事に登場した「天皇制を研究する政治学者・原 武史」は,昨年(2016年)夏からの天皇退位問題に関して,懐疑的な見解を抱いている。というよりは,この原 武史は明確な形式では語らないけれども,天皇・天皇制そのものに対して批判的な意識をもって研究し,その成果を公表してきた。原は現在放送大学の教員であるが,以前は明治学院大学に属していた。
『朝日新聞』2017年3月18日朝刊原 武史天皇退位インタビュー記事
 ※ 人物紹介 ※  「はら・たけし」は1962年生まれ,専門は日本政治思想史。明治学院大学教授を経て2016年から放送大学教授。著書に『昭和天皇』『「皇后考』『日本政治思想史』など。

 問題の焦点にはこういう論点があるはずである。国民投票にかけることはもちろん,国会における憲法改定作業もないままに,今回におけるような天皇の地位にかかわるひとつの問題である退位(譲位)を,憲法のほうはいじれない状況のなかでいじくりまわし,それも皇室典範という前近代的な王族のあり方を規定する法律との関係のなかでとりあげ,そして特例法としてだが,変更しておく手順そのものが問題であった。

 なぜ,このような指摘をするかについては,この原 武史の一文を読んでから再度考えてみるべきことにしたい。以下,この全文を引用する。◆は記者,◇は原である。

   --天皇陛下が昨夏,退位の意向を示唆する「お気持ち」を表明して以降,政治は大きく動いている。与野党は特例法制定でまとまり,政府は今国会に法案を出すという。「国政に権能を有しない」はずの天皇が政治に影響を及ぼし,それを社会が当然のように受け入れることに,近現代の天皇制を研究する原 武史さんは疑問を呈する。

 ◆ 特例法に向けて与野党が合意し,天皇の退位が現実味を帯びています。これまでの流れをどうみていますか。

 ◇「はっきりいっておかしいと思います。いまの憲法下で,天皇は国政に関与できないはずです。それなのに,天皇が退位の気持ちをにじませた発言をすると,急に政府が動きだし,国会でも議論を始めた。『お気持ち』を通して,結果的にせよ,国政を動かしています。私がしるかぎり,戦後,天皇が意思を公に表し,それを受けて法律が作られたり改正されたりしたことはありません」。

 「明治憲法によって『大権』をもっていた明治天皇や大正天皇,戦前の昭和天皇の時も,こんなことはありませんでした。今回の天皇の『お気持ち』の表明と,その後の退位へ向けての政治の動きは,きわめて異例です」。

 ◆ 政府も国会も天皇のお気持ちが大事と受け止めたからでは。多くの国民も同様でしょう。

 ◇「だからといって,これでいいとは思えません。本来は天皇を規定するはずの法が,天皇の意思で作られたり変わったりしたら,法の上に天皇が立つことになってしまう。政府や国会での議論の焦点は,特例法か皇室典範改正かでしたが,どちらになろうと,天皇の意思が現実政治に影響を及ぼしたことに変わりはありません」。

 ◆ これまで,そう大きな議論にはなっていない点です。

 ◇「そうですね。もっと憲法学者や政治学者たちから問題提起や疑義が出てもよさそうなものですが,なぜか聞こえてきません。それどころか『天皇が個人として,当事者として問題提起することは憲法違反にあたらない』という意味の発言をした学者もいます。あれには驚きました。その結果,政治が動いてもいいとは」。

 「『退位の意向』が報じられた当初から私はおかしいといっているのですが,ほとんど反応がない。孤立感を抱いています」。
 
 ◆ 本来,どういう過程だったらよかったと考えますか。

 ◇「日本国憲法の国民主権の原則との矛盾を避けるには,あらかじめ国民のなかに『天皇の年齢を考えると,そろそろ退位してもらい,皇太子が即位した方がいい』という意見が広がり,その国民の『総意』にもとづいて,天皇が退位するという過程をたどることでしょう。憲法は天皇の地位を『国民の総意に基づく』と定めています」。

 「あるいは,その総意を受けて,国民の代表である国会議員が退位を発議するというかたちでもいいかもしれません」。

 ◆ 主権者である国民の側の意思が先にあるべきだった,と。

 ◇「ええ。でも,それが現実には難しかったということも,判ります。国民のなかに,天皇に対する『おそれおおい』という感情はいまも根強くありますから。さらに,各地の被災地やかつての激戦地を訪れる天皇の姿に,尊敬の念が増しているともいわれています」。

 「次善の策としては,政府が天皇の内意をくみとり,自発的に動いていればよかったと思います。少なくとも,天皇の意思がこんなに露骨に政治を動かすという事態は避けられました」。

 「天皇本人は数年前から周囲に退位の希望を語っていたといいます。でも歴代内閣は対応しなかった。意思の疎通がうまくいっていなかったのか,理由は分かりません。そうこうしているうちに,しびれを切らした天皇自身が動いたということではないでしょうか」。

 ◆ 天皇自身は,ことあるごとに「日本国憲法を守り……」といいつづけてきました。

 ◇「その天皇に,憲法への適合性が疑われるようなことをさせてしまった。周囲や政府の責任は大きいといわざるをえません」。

 「政府の有識者会議の委員,あるいは会議に呼ばれた専門家のなかにも,私と同じような疑問を抱いた人はいたようです。発表された会議の論点整理には,『天皇の意思にもとづく退位を可能とすれば,そもそも憲法が禁止している国政に関する権能を天皇に与えたこととなるのではないか』『仮に,今上陛下の御意向に沿って制度改正したということとなると,憲法の趣旨に反するのではないか』といった記述があります」。

 「ところが,いずれも皇室典範を改正した場合の『課題』として挙げられている。つまり,皇室典範改正ではだめで,一代限りの特例法の方がいいという論拠として使われているのです。そうではなく,この過程全体にかかわる問題点とされるべきでした」。

 ◆ とはいえ,天皇はご高齢です。このままなにもしなくていいとは思えませんが。

 ◇「方法がないわけではありません。まず検討すべき選択肢は,摂政を立てることです」。

 ◆ 保守派,伝統派といわれる人たちと近い立場ですか。

 ◇「そう思われるのは困ります。大事なことは,退位のよしあしよりも,過程全体が憲法や皇室典範など現行法にのっとっているかどうかです。次元の違う問題です」。

 「摂政案には天皇本人が強く反対したという報道もありました。大正天皇の時に,皇太子だったあとの昭和天皇が摂政になりました。この結果,大正天皇はいわば押しこめられ,しかも宮中は天皇側と摂政側に大きく割れてしまった。いまの天皇はそれをしっていて,摂政案を拒否したといいます」。

 ◆ 世論調査では,8割以上が天皇の退位について賛成しているようですが。

 ◇「昨〔2016〕年の7月13日にNHKが報じるまで,ほとんどの人は天皇の退位について関心がなかったでしょう。それが突然しらされ,気づいたわけです。そして『本人が望むなら辞めさせてあげてもいい』と,素朴な感覚で受けとめている人は多いと思います。現代はテレビを通して,時間とともに老いる天皇の身体が,いわば公開されています。いったん気づくと,こうした感情は広がりやすい」。

 ◆ 昨年公表された「お気持ち」には,リベラルといわれる人からも高い評価がありました。敗戦翌年の1946年元日の昭和天皇による「人間宣言」と「相互の信頼と敬愛」が重なるなど共通点がある,引きついでいると。

 ◇「新日本建設の詔書ですね。私は,あれは『人間宣言』とはいえないと考えています。たしかに詔書で『現御神(アキツミカミ)』であることは否定しましたが,『昭和天皇実録』の当時の記述を読むと,昭和天皇は『神の裔でないとすることには反対である』という意見だったとあります。つまり天皇本人は天照大神の子孫であることを否定していません。万世一系イデオロギーを継承しているのです」。

 「それより,1945年8月15日の昭和天皇による終戦詔書の朗読,いわゆる『玉音放送』との比較にこそ意味があります」。

 ◆ というと。

 ◇「玉音放送が流れるまでは,たとえこの戦争は負けると思っていても,公然といえる空気ではありませんでした。ところがいったんあの放送が流れるや,圧倒的多数の臣民がそれを受け入れました。だからこそ,速やかに戦争を終えることができたわけです」。

 「当時の鈴木貫太郎内閣は終戦に向けて政府・軍部をまとめることができず,非常手段として御前会議で聖断(天皇の直接のことば)を仰ぎました。それによってようやく,ポツダム宣言受諾を決めた。その流れが今回の退位をめぐる動きと似ています」。

 「昨年7月にNHKの第一報が流れるまでは,もし国民の誰かが『陛下ももうお年なのだから,そろそろ皇位を皇太子にお譲りになって引退されたら』などといおうものなら,それこそ『身のほどをわきまえない無礼者』とのそしりを受けた可能性は大いにあったでしょう。たとえそう思ったとしても,公然とそれをいい出せる空気があったかどうか」。

 「ところが,いったん天皇からその意思が示されるや,圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で,1945年8月と現在は変わっていません」。(聞き手 編集委員・刀祢館正明)

 原 武史は,いまの天皇・天皇制は「敗戦の年の時」となんら変わっていないと断言している。しかし,その1945年8月となんら変わっていないということは,実は1868年ともなんら変わっていないといってよい。極論ではなくて,そう断言できる。明治維新以降,大日本帝国憲法と皇室典範(これは旧のものではあるが,いまもなお,その骨格は継承されている)の組みあわせである日本の政治体制は,質的には連続している。

 なぜ,敗戦時にGHQ(マッカーサー:アメリカ政府)は,天皇・天皇制をそのまま〔あり方は多少変更させたが〕に残置させたのか? それは,21世紀の現在まで堅固に維持されている日本の対米従属関係を構築させるためであった。他方で天皇裕仁は,自身の生命の安全と一族の存亡を賭けて,端的に・率直に表現すればこれは彼自身がよく認識していた肝心な政治意識であったが,この日本とその民たちをアメリカに売り渡すような敗戦処理をおこなっていた。いまのオキナワをよくみよ。

 敗戦後の占領史におけるマックとヒロヒトの会談がなぜ,ほぼ「年に2度もの調子で」もたれていたのか? その会談の内容は完全には明らかになっていないが,この2人は,政治家ではない天皇裕仁,つまりすでに象徴天皇になっていたはずの人物が,GHQの占領軍最高司令官とたびたび話合いの場をもっていた。象徴天皇が単に国事行為ではない個人的な行為として,マックのところに足繁く通っては,あれこれ意見を交換していたのである。

 戦前における明治天皇⇒大正天皇⇒昭和天皇,戦後における昭和天皇⇒平成天皇という流れのなかには,君主天皇から象徴天皇への変化はあれ,日本の政治の頂点にはいつも天皇がいる仕組があって,これがなんらかの影響を与える政治史を形成してきた。日本国憲法内における国事行為という規定は,象徴天皇であるはず〔べき?〕天皇の地位を,現在にあっては最大限にまで拡延してきた。

 天皇明仁が退位(譲位)したい旨を国営放送を利用して表明し,希望した。早速,おおあわてで安倍晋三内閣は,改憲したい極右政権としての欲望はひとまず置いて,ともかくその天皇の要望に応えることにした。ここまで書いてみたところで,原 武史が発言していた文句から,つぎのような箇所を拾ってみておく。他者の表現もあるが,これも原のことばとして拾っておいてもよい。

 ☆-1 「天皇の意思が現実政治に影響を及ぼした」

 ☆-2 「憲法の趣旨に反するのではないか」

 ☆-3 「天皇の意思がこんなに露骨に政治を動かすという事態」
 補注)以上の3点は「天皇自身による憲法違反の疑い」の含意をもたせた言説であることは,いうまでもあるまい。天皇明仁は明確に批判されている。

 ☆-4 「天皇に,憲法への適合性が疑われるようなことをさせてしまった。周囲や政府の責任は大きい」。
 補注)これは説明不要。同前であるが,責任の主体はあくまで天皇自身にある論点である。天皇に同情的,つまり感情移入する解釈をしたら,そのときからすでに客観的な議論の次元からは離れる作法を意味する。

 ☆-5 「『昭和天皇実録』の当時の記述を読むと,昭和天皇は『神の裔でないとすることには反対である』という意見だったとあります。つまり天皇本人は天照大神の子孫であることを否定していません。万世一系イデオロギーを継承しているのです」。
 補注)この指摘は『昭和天皇実録』にかこつけていわれているけれども,この指摘そのものは以前(大昔)よりなされており,その実録の公表によって初めて明らかになったことがらではない。インタビュー記事のなかでの発言とはいえ,このような指摘の仕方をする原 武史においては,なにかが秘められてでもいる,と観察したくなるような歴史認識が語られていたつまり,天皇問題に関しては,より慎重に論旨を構築しておこうとする「事前の警戒」が備えられていたかのように思える。この点はかなり憶測的な感想ではあるが,文章化しておく価値のある所感だと考え,表現してみた。

 ☆-6 「天皇からその意思が示されるや,圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で,1945年8月と現在は変わっていません」。
 補注)これは,現段階において日本国民側の「政治領域における市民意識の成熟度」を問題にする指摘である。つまり「1945年8月と現在は変わっていません」ということであれば,マックが日本を去ってからあとで,「日本人の精神年齢は12歳だ」といてのけた点がいまだに,日本の国民・市民の立場にあっては十分に克服できていない事実を表わしている。こういう疑問点が論点としてより擬態的に表現され指摘されてもいいはずである。

 以前より,原 武史における「天皇・天皇制問題の研究者」に関しては気になっていた点がある。それは,日本の政治問題としては,もっとも基本的な認識方法に関する点であった。ただし,この問題意識(原 武史の学問方法に対して抱く疑問点)あたりについていうに,ほかの政治学者や法学者から原 武史に向けられる議論は,ほとんど存在していない。原の論じ方はある意味で,よく工夫されているせいか,そうした学問的な現状になってもいる。だが,本ブログ筆者は,原 武史の著作を読むたびにいつも,一定の疑念を強く抱いてきた。それがなにかはつぎに説明する。

 それをあえて一言でいってのければ,原 武史は「反天皇制の立場」に立脚する研究者であることである。だが,その立場をより明確に旗幟に揚げることにしたら,いまの日本の学界内のみならず,とくに極右が警戒の目を光らせながら遊弋しているこの日本の社会においては,どのような迫害(嫌がらせ・妨害・不利益)を受けるか分からない。原はこのことを多分,自分自身ではよくしっている。だからこそ,その本心(つまり本質で構える姿勢)を学問の展開のなかにじかに反映させ表示する立場は,たくみに回避してきた。

 以上のような指摘をしたら,おそらく原 武史は怒るかもしれない。だが,この原は要するに「天皇・天皇制」には反対の立場・思想にある。そのように本ブログ筆者は受けとめている。すなわち 「1945年8月と現在は変わっていません」という意味あいは,ふたとおりある。ひとつは,敗戦後の占領体制が実質ではいまだになにも変わっていないという指摘,もうひとつは,とくに天皇・天皇制も本質的には,昔(明治帝政時代)のままではないのかという指摘である。

 安倍晋三が必死になって「戦後レジームからの脱却」を叫んできているけれども,この脱却を主張するさい,その前提:基盤となっている戦後レジームそのものが,実は形成不全を来たしていたといえなくもない。占領体制の実質的な不変性と天皇制度の形式的な連続性という対比のなかで,日本の政治はいまもなお「旧・封建遺制」を引きずらされている,あるいはまたその逆にいえば,その古代史的な明治遺制にこの国の政治が引きまわされている,と形容してもいいのである。

 21世紀の “日本の政治における民主主義の未熟性(半熟さ?)” は,いったいいつまで続いていくのか? 天皇・天皇制という「古代史的な遺制(異物)」を,これこそが日本民族にとっては「歴史的に連綿たる精華」だと確信・誇張しつつ,その皇統を現代の時代においていかほど誇示・自慢しえたところで,民主主義の政治理念の基本に則して判断するに,その観点はどだいからして時代錯誤であることは回避できない。

 以上のような基本認識に対してまっとうに反論できない人びとにかぎって,それでもなお,前段のごとき「オマエみたいな意見」を提示する人間は「非国民でケシカラヌ」(!)とかなんとか,妄信的に非難ばかりくわえてくる。そうした人びとがこの国のなかには大勢いるが,これらの人びとに対しては,もはや「付ける薬もない」くらいに,それも「民主主義とは縁遠い人たち」だと,あえてレッテルを貼っておく(薬の代わりに……)。

<転載終了>