社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1071225842.html
<転載開始>
 【皇室との〈縁〉で観れば,そこからはもっとも遠い位置にあった農事作業に,天皇家の妻が明治以来,率先するかっこうで,それも優雅にかかわろうとしてきたその「近現代的な意味」は,奈辺にありや】

 【
「養蚕という農事」を用いる技法でもって,天皇家に関する「現代の古来性」を表現するもくろみが,その思いどおりにはいかない事情があった。これら全体が物語っているのは,日本社会における「その遊離的な希少性」であった】


 本ブログ,2018年05月07日がすでに関連する記述をおこなっていた。本日〔5月14日〕における以下の記述にとって,その記述は前編を意味してもいるゆえ,ここではその主題・副題と主要目次を付記しておきたい。
  主題:「『明治製の古式概念』として新たに『創られた天皇制』の実例,『御養蚕始の儀』は旧日本帝国主義史における『坂の下の塀』を連想させる『絹の靴下』と『絹の薬曩』」

   副題1:「砲弾と絹で包まれた火薬-大口の径砲では薬包に火薬を装塡する時に入れる袋を指して薬曩という-」

  副題2:「火砲(薬嚢式)で『絹がないと砲弾が華(はな)てない』のは『絹袋で火薬を包まないと危険』だからである」

  副題3:「旧日本帝国主義史における『皇室養蚕』の向こう側にかいまみえる『女工哀史』」

   ①「皇后さま,蚕と共に 御養蚕始の儀」(『朝日新聞』2018年5月1日夕刊「社会」)

   ② 日本の資本主義と女工哀史

   ③ 関連の文献-ごく一部,4冊-
     1)細井和喜蔵『女工哀史』岩波書店,昭和29〔1954〕年
      (原版初版は大正14〔1925〕年)。

     2)土屋喬雄校閲,農商務省商工局『職工事情全3巻』新紀元社
      (版),昭和51〔1976〕年(原版初版は明治36〔1903〕年)。

     3)石原 修『労働衛生』杉山書店,大正12〔1923〕年。

     4)玉川寬治『製糸工女と富国強兵の時代-生糸がささえた日本
        資本主義-』新日本出版社,2002年。

 ① 農業水産省の公表する統計から

 平成30〔2018〕年5月1日現在で集計・収録されている「農林水産基本データ集」から,つぎの数字を抽出しておく。

   ◇-1 国内総生産(GDP)は,平成28〔2016〕年で, 538.45兆円(内閣府「国民経済計算」)。

   ◇-2 農業・食料関連産業の国内総生産は,平成28〔2016〕年で,53.44兆円,シェア 9.9%(農林水産省「農業・食料関連産業の経済計算」)

   ◇-3 農業就業人口は,平成29〔2017〕年2月で,182万人(前年比較で 5.5%)。とくに自営農業のみ,または自営農業従事が多く,就業者の平均年齢は66.7歳。
 註記)http://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/

 いくら高齢社会化した日本の産業社会における内的な構造とはいえ,農業の従事者の平均年齢がほぼ67歳になったという事実は,林業・漁業(水産業)にも共通する老齢化の現象として,注目すべき特徴である。いまの時代,「79%の会社は『60歳』が定年,『65歳』定年は16%だけ」註記)という状況になってはいるが,農業従事者の平均年齢はその年齢を超えた水準になっている。
 註記)『シニアガイド』2017/12/28,https://seniorguide.jp/article/1046936.html

 「高齢化,就農者減少……荒廃農地増加が意味すること」『AGRI JOURNAL 農業が日本を元気にする』2018/01/23)という一文が,関連する事情を,つぎのように解説している。

  ※ 最大の原因は就農人口の減少による労働者不足 ※

 近年,日本の荒廃農地面積は増加傾向にある。荒廃農地が増えることはなにを意味し,どのような問題につながるのか。その対策についても考える。
   耕作放棄地の推移図表
 出所)http://jeinou.com/column/murata-yasuo/2015/12/24/115500.html
 先日,農林水産省から平成28〔2016〕年度の荒廃農地面積が発表された。その面積は全国で28.1万haで,このうち「再生利用が可能な荒廃農地」は約9.8万ha(農用地区域では約5.9万ha),「再生利用が困難と見込まれる荒廃農地」は約18.3万ha(農用地区域では約7.4万ha)だった。

 現在,増える一方の荒廃農地だが,その原因はさまざまだ。もっとも多いのが,都市部に先駆けて農村地域で進行する高齢化や人口減少のため,農業就業者のリタイヤや,就農者の減少による労働力不足。その他,土地持ち非農家の増加や,農作物価格の低迷も,農地を荒廃させる要因となっている。
 註記)https://agrijournal.jp/aj-market/36661/

 ② 日本における養蚕業

 つづけて,前掲した本ブログ「2018年05月07日」の記述のなかでも若干言及した論点,つまり「養蚕業の歴史」に関して若干説明しておきたい。

  「養蚕業の今昔」(『グローバリゼーション研究所のブログ』2015年6月18日,http://blog.livedoor.jp/igarashi_gri/archives/45217639.html)から適宜に拾い,説明したい(なお文章表現は適宜に補正した)。

 1)「皇室の養蚕」
 皇室では古くから養蚕がおこなわれてきた。一時,中断していたが,明治の代になり復活する。1871年(明治4年),昭憲皇太后が養蚕業の奨励のために始めた皇室の養蚕は,明治,大正,昭和,平成の歴代皇后に継承され,国内の養蚕業が急速に衰えたいまも,

 皇后がおこなう養蚕ということで「皇后御親蚕」といわれ,皇后の「紅葉山御養蚕所」で蚕が飼育されている。皇后が,なお,養蚕を続けているのは,国内でいまだ熱心にこの伝統文化を守っている人びとに対する強い共感と連帯の気持である。
 補注)皇室問題に関した〈歴史的な関連事情〉の説明になると,必らずこのような表現形式が採られる。いわく「古くから養蚕がおこなわれ」「一時,中断して」い「たが,明治の代になり復活し」た。

 ただし,ここでいわれる「 a)  古くから」とはいったいいつからのことなのか,あるいは「 b)  一時,中断して」いた時期はいつからいつまでの長さであったのか。

 さらには,なぜ「 c)  明治」になると「復活し」たのかという歴史的な事情に関する説明は,全然十分になされていない。ただ,そうであったといわれるに留まっている。

 ただ c) だけについては多少の説明がある。皇室の皇后が「始めたいから始めた」という,分かりやすい「歴史的な事情」があった。明治維新以降,大日本帝国を名乗るようになったこの国は,富国強兵・殖産興業という近代化・産業化の路線を進め,なおかつ東アジア地域では欧米の帝国主義に対抗するために強国化を図らねばならず,そのさいまず軽工業を足場(経済的な踏み台)にして資本主義経済体制を構築していかねばならなかった。

 なかでもとくに,絹糸生産のための養蚕業が広く産業経営の事業として展開され,この稼ぎを帝国主義の基盤に不可欠であった軍事費調達の原資に充てる国家経済体制が,それこそ昭和戦前期までは維持されていかねばならなかった。日本の産業構造は明治時代であれば,農業部門が圧倒的な比率を占めていた。
  ここで,つぎの2つの図表をみてもらう。
農業人口比率統計
   出所)http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=71728 下段は%。     (  ↑  ↓  画面 クリックで 拡大・可)
 農業部門の実態
   出所)http://www.zennoh.or.jp/japan_food/02.html
 前掲稿の「養蚕業の今昔」にさらに,そのあたりの事情を聞こう。

 2)『養蚕の歴史』
 a)「起源」 蚕を育てて繭をとることを養蚕という。養蚕は中国の黄河や長江流域で野生のクワコ(蚕の祖先)を家畜化したのが始まりで,いまから5000~6000年前のことであった。日本ではすでに卑弥呼の時代に中国へ絹織物を贈っている。

 日本に養蚕技術が伝わったのは紀元前200年で,稲作といっしょに中国からの移住者が伝えたといわれている。さらに195年には百済から養蚕が,283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えている。すでに奈良時代には,東北,北海道を除き全国的に養蚕が普及していた。課税方法として,産地ごとに等級が決められ,それぞれ朝廷へ納付した。

 b)「興隆期」 室町・桃山時代になると,中国から撚りをかける撚糸の(ねんし)の技術が伝わり,西陣織が生まれ,能装束や小袖飾りになど実用性を離れ,権力を誇示するようになった。

 江戸時代末期から勧められていた製糸の機械化は,明治時代になると,さらに進み,明治政府の国策(富国強兵)の一環として「殖産興業」により,1872〔明治5〕年,群馬県の富岡製糸場がフランス人の指導で創建され,ここから多くの技術者たちが育ち,各地の製糸技術の向上に貢献した。また,フランスに渡った留学生は染織技術をもち帰り,明治期の染織業の発展に大きく寄与していった。
 補注)以上の説明はごく一般的な養蚕業に関する歴史事情を教えている。だが,皇室とどのような実際的な関連があったのかについては,なにも触れていない。結局,明治になってからの話となる。皇室の一員である,それも女性の代表格である皇后が手を着けるのにふさわしい,

 しかも,明治帝政日本の産業体制を,天皇家としてふさわしいかたちで代表できるような「産業・業種のなかの商品」がなんであったかとみれば,それが養蚕(⇒生糸生産につながる)であった。当時において,明治政府が推進していた近代化・産業化路線に即応したかたちで「皇室的に選択する対象」に,もっとも「適合的であった品物が生糸(製糸)」であった。

 前記した本ブログ「2018年05月07日」でも触れたように,養蚕業は農業部門の1種として,絹の原料を蚕からとりだして生産する。それも,生物である蚕を育てて「生糸⇒製糸」の加工をする工程(工場)に原料を供給する。この工場制工業は軽工業である。

 とりわけ,綿糸ではなく製糸(生糸)である事実に注目しなければならない。綿製品にくらべて絹製品が高級品であることはいうまでもない。歌手だった夏木マリのヒット曲に『絹の靴下』(1999年発売)というものがあった。戦前においてアメリカに輸出されて絹糸のうち6割はアメリカ女性の靴下用であった。
夏木マリ『絹の靴下』歌詞
出所)http://j-lyric.net/artist/a000cd3/l001590.html

 日本は戦前において,太平洋戦争の段階にまで至ってしまい,とうとう米英との戦争まで始めた。とくに,敵国となったアメリカからは石油やくず鉄など「戦争のために必要不可欠な物資」を大量に輸入していた。だが,その資金を調達する源泉のひとつとして絹糸(生糸)が重要な役割:貢献を果たしてきた。明治時代にまで時代がさかのぼればのぼるほど,その占める比率はより高かった。

 上掲した夏木マリの歌『絹の靴下』の文句をあらためて「読んでみて」,われわれは,明治「維新」以来,旧大日本帝国が1945年夏に大敗北を喫した事情(理由?)を,想像力をたくましくして読みとることができなくもない。ともかく「絹〔の靴下〕」が,明治「維新」以来の日本にとって,なにかとてもいけない “原因になっていった事情” があったかのようにも,受けとれる歌詞になっていたと,この夏木の歌を現代的にだが勝手に解釈しておく。

 さて,その1999年に発売された阿久 悠作詞,川口 真作曲となる夏木マリ『絹の靴下』は,あくまで流行歌での売れゆきを狙った世俗的なお色気ソングであった。けれども,この歌詞はいかようにでも読みこめる余地もあると「歴史的には強引に解釈」してみた。
 
 ③ 明治「昭憲皇太后」以来の伝統として創出された「皇后の養蚕」農事

 「皇居の養蚕,伝統継ぐ 皇后さま,雅子さまに説明」(『朝日新聞』2018年5月14日朝刊30面「社会」)という記事は,明治の維新以後「創成された皇后が養蚕にたずさわる」という皇室の『新しい伝統』を,来年(2019年:平成31年)で終える予定が決まっている平成天皇夫婦の仕事(私的行為?)のうち,皇后の農事である養蚕の作業を,次代天皇の妻となる雅子にも伝承させるという話題であった。

 明治天皇の配偶者「昭憲皇太后(?)」から数えると,雅子は5代目の皇后になる。1世代をひとまず30年単位で区切るとすれば,約150年にまでにおよぶ「〈伝統〉の創造=新展開」の延長が,さらに期待できる見通しとなった。この記事をつぎに引用する。

 --来〔2019〕年5月の新天皇の即位に伴い,皇居で伝統的におこなわれてきた養蚕(ようさん)が,皇后さまから新皇后となる雅子さまに引きつがれることになった。13日,雅子さまはご一家で皇居・御所の天皇,皇后両陛下のもとを訪れ,皇居内にある紅葉山御養蚕所を視察した。

 皇室では明治以降,養蚕業の奨励や文化継承のため,歴代の皇后が蚕(かいこ)を育て繭をつくってきた。毎年,蚕に桑の葉を与えるなどの作業を5月上旬から始め,同月末ごろ繭を収穫(収繭〈しゅうけん〉)する。とれた糸は文化財の復元や国賓への贈り物などに使われる。13日は作業の引き継ぎのため,雅子さまが皇后さまからじかに説明を受けた。

 雅子さまは午前10時50分ごろ,皇太子さまと愛子さまとともに,沿道の人に笑顔で手を振りながら車で皇居に入った。雅子さまが御養蚕所を訪ねたのは初めて。天皇陛下の立ち会いのもと,皇后さまから作業について説明を受けたという。

 関係者によると,雅子さまは病気療養中のため,皇后さまは「過度な精神的負担とならないよう,可能な範囲でなさればよろしいのでは」との考えだという。(引用終わり)

 要は,「皇室では明治以降,養蚕業の奨励や文化継承のため,歴代の皇后が蚕(かいこ)を育て繭をつくってきた」という記事であった。けっして,古代史からの長い伝統の継承だとはいえない記事でもあった。そもそもをいえば,「皇后が養蚕で蚕をいじる農作業にかかわる」という話題からして,日本の天皇史においては “眉ツバもの” であり,歴史的に間違いなく実証されている事実とはいえない。

 「皇室と養蚕の歴史は古く,日本書紀にもつながりが登場する。近年では明治の頃,絹が輸出産業の大きな割合を占めた時代に,産業を奨励するという意味で御養蚕所が設立され,明治天皇の妻である昭憲皇太后から “皇后の役割” として代々伝わってきた」という解説が宮内庁側による定番の文句である 註記)。けれども,こうした説明の仕方がなされているという事実だけは認められるが,それ以上の「皇室史的な事実」として確実に語れるのは,どこまでも明治以後の話題であった。
 註記)https://www.news-postseven.com/archives/20170519_556711.html

 いずれにせよ「日本書紀にもつながりが登場する」といった程度の説明では,本ブログ筆者のように疑問を呈する側に対して,まともに説得力ある中身をなにも提供できていない。「明治以来の天皇家皇后による養蚕農事」については,したがって,つぎのごとき2点の疑問があった。

  ※-1 まず『時間的な歴史に関する疑問』 歴史的に絶対に・たしかに継続されていたといえるような実証的な文献・根拠があるのか。『日本書紀』(720年)に関連する事項が書かれていて,これが典拠にできるかのようにいわれてきただけであった。 

  ※-2 つぎに『空間的に社会に関する疑問』 これは実は,※-1よりももっと重要な疑問でもある。古代史における社会経済構造において,天皇家(一族)が農事に直接たずさわっていたという証明は,必要かつ十分になされてないままである。むしろ逆であって,農業者が大部分であった人びとの時代にあって,皇室が人びとが農事としての養蚕にたずさわってきたという社会のありかたが実在していたのかといえば,たしかな証拠は与えられていないどころか,そうではないといっておいたほうが無難である。

 「律令制的農民支配」という古代史研究における用語があるが,このことばのなかで天皇の地位がどこを占めていたかを創造することは困難ではないはずである。

 すなわち,歴史の流れのなかでは,いいかえれば「時空の両次元」で,皇室の皇后,それもいままで4代,「昭憲皇太后→貞明皇后→香淳皇后→▼▼〔名称未定:美智子〕皇后」(これらは謚号・追号・女院号)〕が養蚕にたずさわってきた。それもあくまで象徴的な意味でしかないのだが,別の意味ではまた〈意味深長〉でもある「明治以来からの一定の含意ならばあった」ことになる。

 問題は,天皇代替わりに執りおこなわれる『大嘗祭に固有である農業的的な本義』が問われてもいるとすれば,皇后がその対照的・均衡的な立場をもって「農事としての養蚕」にたずさわってきた〈明治以来に創られた伝統〉に,はたしていかほどの意味がみいだせるのか(?)と表現したらよいような疑問も湧いてくる。

 日本国憲法(〔多分〕民主主義のそれ)において規定されている象徴天皇の問題ではなく,その配偶者の皇室内における,それも私的行為にまつわる歴史問題であるものが,なにゆえか「国事的な意味あい」さえあるかのように,それも当たりまえにとりあげられている。

 つぎの画像資料は,この ③ でとりあげた記事を『日本経済新聞』のほうでは,どのように報じていたかを確認するためにかかげてみた。ベタ記事である。字数は156字であった。これに対して『朝日新聞』の該当記事は462字であった。 
『日本経済新聞』2018年5月14日朝刊28 面皇太子夫婦養蚕

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