木の花ファミリーの経済から世界を見る さんのサイトより
http://konohanafamilyeconomy.blogspot.com/2018/10/3.html
<転載開始>
 
10月1日、台風一過の富士山です。

頭では「これが大事」と分かっていても、感情的になるとそれが吹っ飛んでしまい投げ出してしまう。そしてまた冷静になったトキに後悔する。

昨日、ジイジとそんな人についての話をしました。そして、そんな話をしていて、昔の自分と重なり、2015年10月2日の大人ミーティングにて、ジイジ(当時はいさどん)が僕に語りかけた言葉を思い出しました。この日、僕は完全に壊れていて、大人ミーティングでは、そんな僕の話題となり話を振られましたが、僕は話すことを断りました。以下はそんな僕に向けてのジイジの言葉です。


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話すことがないというのはあなたの都合であって、そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。

今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、それをやらないといつまでも超えることは出来ません。今、何をやれという具体的なことは何も言いません。ですが、あなたのその姿勢では問題です。きちんと向き合い超えていく。それが覚悟というものです。一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。ですが、それは本当は逆なのです。日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。このあなたの本質が変わっていないのは、覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。

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上記の言葉を受けて、僕はムキになって「心は見ていく」と発言し続けました。それは完全に反発と言えるもので、みんながそんな僕を制止した後、ジイジは以下のように語りだしました。

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冷静に見ていくというところで、なんでそういう反応になるのか?そういう反応もしっかりとチェックしていかなければならないのです。

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。それは矛盾を創ります。そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。そして、常に問題を意識して生きるのです。毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、これはある意味、組織みたいに見えます。そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。ところが、僕にはもう一つの目線がありました。それも強制的に示される目線です。そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、理に適った方に行かなければなりません。そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。理に適った方を選んでは自分を否定していく。その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、それはすごいバカなことをやっているのです。それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。そこまでやるんだ。その想いが自分を強くしてくれます。なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。


※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

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あれから丸3年が経ちました。僕はこの3年間、自分の感情と向き合い、感情を見通してきました。このブログはそういう自分の成長の記録とも言えます。最近、「なかのんはもう自我を超えていますよね」なんて言ってくる人にも出会いましたが、そういう人には以下のように答えています。

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自我は浮かんでは消える波のようなもので、それは生きている限りずっと続くもの。平静なトキに大丈夫と思っていても、波が来たトキにどうなるかは分からない。未来は未知。それが宇宙の法則だから「先のことは分からない」というのが本当だと思う。

確かに波を乗りこなしてきた自負はあるし、自信もつけているけれども、これから先、今まで経験したことがない波に出会うこともあり得るから。そしてその波に飲み込まれないとも限らない。

まぁ分からないよね。

でもこれは恐れているわけではなくて、飲み込まれたら飲み込まれた状態から自分を取り戻し、そこからその感情の波を見通していくだけ。だから何でもいいんだけれどもね。

とにかく自我は「これで超えた」というものではなくて、絶えず向き合う必要があるもので、それを通して学びを深めていくものだと思っている。そしてどんな波に出会ったとしてもそれを学びに変えていこうと思っている。

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心の道を歩むとは、自分の感情を超え続けることだと思っています。浮かんでは消える感情の波から離れて、自分を見通すこと。そして、自分の感情を他者の感情と同じに扱っていくこと。それが客観性への道であり、これからもずっと僕が歩み続ける道です。

2015年10月2日、当時の僕は自分の想いをとことん追求することを選んでいました。そしてその結果、壊れていきました。それは一つの決断ではありましたが、これは心の道ではありません。心の道は未知なるもの。想いは追求するものではなく手放すものです。心の道を歩む覚悟とは、自らの感情を離れる覚悟であり、想いを手放す覚悟です。

かくご

カタカムナで見ると、宇宙最極小微粒子である「カ」が自由に転がり出る(9)こと。転がり出る先は統合(10)であり、それは現象化を意味します。そして「カクゴ」と「コ」に濁点がついているのは、自我の濁りであり彩りです。覚悟は各人に委ねられているのです。そして、僕の覚悟は心の道、想いを手放すことによって生まれる現象化、それをいただくことが心の道を歩むということです。僕はこれからもずっとその未知なる道を歩んでいきます。



<転載終了>