タマちゃんの暇つぶし さんのサイトより
https://1tamachan.blog.fc2.com/blog-entry-16907.html
<転載開始>
天皇家を復興した最後の女帝:後桜町天皇と愛子さん < newsNueq-1700 >より転載します。
貼り付け開始


< newsNueq-1509:天皇と首相の抗争:憲法の制約から逃れる上皇の思惑 > で
行政調査新聞の内容をお伝えしましたが、すぐにその中で触れられている
後桜町天皇のことに触れようとしてなかなか書くタイミングも暇もなく、
ようやく書けることに。。。。。。    
                (^o^)ゞ
ってことで1700号記念です♪


では、復習で行政調査新聞から今回のポイント部分を、

 新聞報道によると陛下は、平成22年の参与会議の際に
  「光格天皇の事績を調べるように」と宮内庁に伝えたとされる。

 天明年間に日本中が大飢饉に襲われ、京都の御所の周りを7万人もの窮民が取り囲み、
 天皇に五穀豊穣祈願を行うよう要望した(御所御千度参り)。
 窮民に対し、後桜町上皇(女帝)は、3万個のリンゴを配らせたが、昼前になくなってしまう。

 初代神武天皇から第62代村上天皇までは「天皇」だったが、
 以降第63代冷泉(即位は967年)から後874年間、
  「天皇」という号は与えられず「院」とされてきた。
 光格天皇も即位時点では「光格院」だった。

  実際には第41代:持統天皇から「 天皇 」が使われたわけで
   神武 ~ 天武は、「 天皇 」ではない。
   天武には諡として「 天皇 」号が初めて使われ、
   在位中に「 天皇 」号を使いだしたのは持統から。
   と、されているが、持統は実在するわけではなく、
   唐の則天武后が投影されたもの。
   もちろん、天武も実在しない。

  「光格天皇」の号が世に出たとき、江戸の庶民大衆はたいへん戸惑ったという。
 それまで900年近く「天皇」という言葉は使われず、
  「禁裏」「主上」と呼ばれていたためだ。

光格 ~ 仁孝 ~ 孝明天皇と閑院宮系の天皇が3代続き、
その後はご存知、南朝の大室明治天皇に引き継がれた。

閑院宮家が次に表に登場するのが、昭和天皇の時代。
大日本帝国陸軍の全権を握った陸軍参謀総長:閑院宮載仁親王。
その息子が木戸幸一:侍従長で、昭和天皇を戦時中幽閉した張本人。
木戸家( 桂小五郎以降 )は実に不思議な家で、
当主はすべて養子で、奥さんは外部からもらっている。
つまり、歴代まったく血の繋がりのない不思議な家である。

そして閑院宮家は、男系がなく、断絶。
ながら女系は健在で、現在バッキンガム宮殿の真向かいに邸宅を構えている。
ってことは、、、、、、


さて、本題に戻るとしよう。
実は幕末期、天皇っていうか、「 院 」のなり手がいなかった。
そんな天皇家を復興したのが、最後の女帝117代後桜町天皇。
「 国母 」とも呼ばれている人です。
「 明治維新 」はここに始まったと言っても過言ではありません。


  BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
「国母」と称される後桜町天皇
  ~ 現代皇室にも影響を与えた最後の女帝、その功績 ~
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  https://bushoojapan.com/tomorrow/2016/08/04/81800

 < 抜粋 >

 元文五年(1740年)8月4日は、後桜町天皇が誕生した日。

   8代将軍吉宗の時代。
    ヨーロッパでは、マリア・テレジアがハプスブルグ家を継承した年。

 可愛らしい諡号ではありますが、
 ”後”桜町天皇は女性で、お父上の桜町天皇は男性という、
 なかなかややこしい事情があったりします。
 どうでもいい話ですが、後桜町天皇の前後は桃園天皇・後桃園天皇なので、
 やたらとピンク色をイメージする諡号が多い時代でもあります。
 

 ■ 複雑な事情を経て天皇となることに

 女性の天皇というのは、基本的に「中継ぎ」で立つものです。
 つまり、「天皇が薨去した際、すぐに跡を継ぐべき人がまだ幼いので、
 その間しばらくお仕事をしてください」という立場になります。

 まだ5歳だった桃園天皇の皇子・英仁親王がすぐ即位するよりも、
 22歳の後桜町天皇が一度位に就いたほうが良い、ということになりました。


 ■ 後桃園天皇は22歳の若さで崩御 光格天皇を擁立する

 後桜町天皇は8年間の中継ぎ期間をそつなくこなし、30歳で上皇となります。
 そしてその嫌な予感通り、後桃園天皇は22歳の若さで崩御してしまいました。

 後桜町天皇は、新旧の関白らと相談し、
  「欣子内親王と他の宮家の男子を結婚させて、皇統を保つ」ことに決めます。
 この男子が、閑院宮家の六男、のちの光格天皇でした。

   閑院宮家は当時は傍系で、幕府側では棚ぼたラッキーな皇子と見ていた。
    が、和歌他の学問に秀でていた後桜町上皇が学問を薦めた為、学問好きに育った。
    この学問好きが倒幕運動の要となってくる。


 ■ 尊号一件で光格天皇を優しく諭し、事態は収拾

 光格天皇は、まだ9歳。
 図らずも、後桜町天皇は再び幼い新帝を導くことになりました。
 このとき後桜町天皇は40歳ですから、まさに親子のような雰囲気だったことでしょう。

 この方の影響が最もうかがえるのは、“尊号一件”の時だと思われます。
 光格天皇が「私の父が宮家の人間だからといって、摂関家より格下なのはおかしい」
 として、松平定信と対立した事件。
 後桜町天皇は優しく「称号や身分を高くすることよりも、
 貴方様の御代が長く続くことが、お父上に対する一番の孝行ですよ」と諭しました。


 ■ 幕府も気を遣うほど能力が高かった

 天明八年(1788年)の京都大火のとき、
 京都の町が80%も焼けてしまいました。
 
 内裏や御所も例外ではなく、後桜町天皇は仙洞御所を出て、
 青蓮院というお寺に仮住まいすることになります。
 そして、母である青綺門院が隣の知恩院に移っていました。
 幕府がこの間に廊下を作って、気軽に母子の行き来ができるようにしているのです。
 

 ■ 光格天皇の血筋を通して、現代の皇室へ

 自らの血を残さないのが女帝のならいです。
 しかし、後桜町天皇の教えは光格天皇の血筋を通して、現代の皇室に伝わりました。
 そのことから、後桜町天皇を「国母」と称することもたびたびあるようです。



東大医学部の芸術作品:試験管ベイビー:愛子さん、
お母さんの雅子は、オックスフォード出身で、その親父の小和田は詐欺師。
雅子と小和田親父との間には血縁関係はないとの噂もあったりするが、
MI6は、浩宮の女性の好みを徹底調査。
120%理想にかなっていたのが、害務症で当時NY勤務の雅子。
一番町の英国大使館でダンスパーティを開催し、
浩宮と雅子出逢いの場を造った。
MI6の目論見通り、浩宮は雅子に一目惚れ。
で、その後はみなさんご存知の通り。

と、なると、MI6のこの後の目論見は解りますね?
愛子ちゃんが、オックスフォードの毛唐を好きなれば、
愛子ちゃんが後桜町天皇以来の女帝となって、
場合によっては実権はエゲレス毛唐の手に。
ってことも考えられ、もちろん生まれたハーフの男児が
第128代天皇になるってことも考えられるわけです。


さてさて、第126代修験道天皇の采配が見ものとなります。

 
                              nueq


貼り付け終わり、ニュークさん解説。


*驚きビックリの < newsNueq>1700記念号でしたw

<転載終了>