タマちゃんの暇つぶし さんのサイトより
https://1tamachan.blog.fc2.com/blog-entry-18361.html
<転載開始>
日本で発禁になった問題文書 <newsNueq-2179>より転載します。
貼り付け開始

 ★ 7月25日迄の公開:動画 ★

 禁書指定された体験記
 ~ 幕末を動かした英国の天才外交官 ~

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 https://in.prideandhistory.jp/nirk2_1907
( 西鋭夫の歴史講座 )


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 幕末のイギリスの通訳官:アーネスト・サトウ 著
 「 一外交官の見た明治維新
 1960/9/25:岩波文庫:上下巻
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  アーネスト・サトウの日記

 は、日本で40年間、禁書指定された。

  サトウに日本人の血は全く混じってない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6


 慶応2( 1866 )年、薩長同盟が結ばれた直後、
 横浜で発行されいる英字新聞 Japan Times に
 アーネスト・サトウは匿名で

  「 English Polisy:英国策論 」( イギリスの公式見解 )

 を発表。

 ・ 徳川将軍は大名たちの代表であり、
   日本全土を支配する存在ではない。

 ・ 日本は、天皇が中心となって大名をまとめ、
   天皇が諸外国と新たに条約を結び直すべきだ。

 ・ 今 改革を行い、徳川将軍を退かせたとしても
   国家転覆には当たらない。

 と、「 日本は天皇中心の体制になるべきである 」とした。

 この内容は、サトウの日本語教師をつとめた徳島藩士・沼田寅三郎によって
 翻訳出版され、京都・大阪のすべての書店に置かれた。
 西郷隆盛らも引用したとされ、「 明治維新の原型になるような一文 」ともされる。

 この内容で倒幕派は大義名分を手にした。

 ※ 薩長同盟は、徳川慶喜&幕閣の指示によって
   坂本龍馬が、西郷隆盛と桂小五郎( 木戸孝允 )に結ばせたもので、
   慶喜を首班とするアメリカ型の「 新政府体制 」を目指すものだった。
   が、このアーネスト・サトウの「 大義名分 」によって、
  「 明治維新 」はまるで違う方向性へと舵を切ることになる。
   これを僕は15年ほど前からずっと「 明治簒奪ニッポン政府 」と
   呼び続けている。
   現在の政府は、宗主国がエゲレスからアメ公にすげ変わっただけのことである。

 アーネスト・サトウが「 English Polisy 」を発表した頃、
 本国から在日英大使館には次の指示が降りる。

 ・ 日本に於いて体制の変化が起きるとすれば、
   それは日本人だけから始まったように見えなければならない。


現在の「 天皇制 」は、明治維新の「 明治新興宗教 = 皇国史観 」と云う
捏造された歴史の上に成立させた「 大日本帝国憲法 」を基本にした
「 日本国憲法 」と云う名の国際法違反のGHQ占領軍管理法のものである。

つまり、現在我々が「 政府 」と呼んでるものは政府などではなく
「 植民地代官所 」でしかないのである。
だ~~~~から、霞が関の糞官僚ドモやゴロ政治屋ドモ、
売国奴の巣窟なのは、アッタリマエの話なのだ。

そして、現在の「 天皇制 」は、エゲレスとアメリカが創り出したもの。
とも言えるのである。
だ~~~から、明治天皇以来、歴代の天皇は、
エゲレスからガーター勲章などと云う臣下の礼をとっているのである。

アッホ臭ァ~~~~~!!!!!!!!

 
 ジャパンタイムスは、1865年、英国人リッカビーが横浜で創刊。
   リッカビーもそうだったように記憶してるが、
   設立メンバーはみなフリーメーソンだ。
   フリーメーソンは、戦時中の犬養機関による上海ロッヂ襲撃と、
   1970年代のP2事件をもって、往年の力を失い( 力を移転させ )、
   現在は、ロータリークラブのような単なる親睦団体と化している。
   ので、高須のようなおちゃらけで日本代表が務まるのである。
   が、ウラの組織は厳然と存在していて、
   ダン・ブラウンの小説は、メーソンウラ組織からもたらされる
   知見を元に構築されている。


関連情報

  < newsNueq-2000:皇室に米国は深く入り込んでいる:象徴天皇のお務め >
  < newsNueq-1798:皇室を滅ぼしたい勢力の2つの策謀 >
  < newsNueq-1954:元号は天皇が決めるべき>
  < newsNueq-1784:新元号と新皇太子 >
  < newsNueq-1725:秋篠宮:大嘗祭 疑問発言と憲法第一条に潜む國體の大問題 >
  < newsNueq-1711:秋篠宮「 大嘗祭への公費支出に疑問 」 >
  < newsNueq-1500:安倍首相を内乱罪で告訴 >
  < newsNueq-1509:天皇と首相の抗争:憲法の制約から逃れる上皇の思惑 >
  < newsNueq-1258:小和田恒がハーグ国際司法裁判所を辞任 >
  < newsNueq-727 :アシュケナジー最高指導者が平成天皇に謁見? >
  < newsNueq-1829:ローマ法王11月来日と新天皇大嘗祭と天皇の金塊 >

  < newsNueq-226 :226は昭和天皇廃帝クーデターだった >
  < newsNueq-572 :昭和天皇の玉音放送:終戦日のある光景 >
  < newsNueq-586 :「 昭和天皇物語 」単行本化 >

  < newsNueq-600 :天皇と明治憲法のそもそも学 >
  < newsNueq-1700:天皇家を復興した最後の女帝:後桜町天皇と愛子さん >
  < newsNueq-2150:神武天皇のウカシの血原( 天下の悪法「 アイヌ新法 」) >
  封印史研究会10「 倭の卑弥呼封殺と、日本の天皇即位「眞床追衾」儀式の由来 」
  < newsNueq-131 :鳥居のルーツ >

                             nueq

貼り付け終わり、ニュークさん解説。


*これ試験に出ます。
 よく読んで理解しておきませうねw


アーネスト・サトウについて詳しいので転載しときます ↓

https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/629.html
2008/1/23
フリーメーソン-37  アーネスト・サトウ 
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Ernest Mason Satow (1843-1929)

アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系です。 彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。

それは、22歳のサトウが「ジャパンタイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に、 「徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない」 とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、 「イギリス政府は強制と流血に訴えると」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。

この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政府が発足しています。


アーネスト・サトウは、スウェーデン人の父と、イギリス人の母の間に、1843年にロンドンで生まれました。

1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月に英国駐日公使館の通訳見習として来日。  その直後の9月14日、生麦事件が勃発しています。  

当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国しており、1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会いました。

後に正規の通訳官及び書記官に昇進し、駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍、1883年まで日本に滞在してます。

1884-1887年、シャム駐在総領事代理、1889-1893年ウルグアイ駐在領事、1893-1895年、モロッコ駐在領事を経て、1895年7月28日、駐日特命全権公使として、1900年まで日本に戻りました。

日本滞在は、通算25年の長きに渡り、後にも先にも、これだけ日本語が出来、日本を愛した外交官はいないとまで言われている日本通のイギリス人でした。

彼が1866年(慶応二年)に横浜で発行された週間 「ジャパン・タイムズ」 に明治維新の原型となる一文があり、冒頭で紹介したように、イギリス政府による革命の宣戦布告に、徳川勢は浮き足立ち、維新勢力が勢いづき、明治維新という革命を成し遂げる事となりました。

日英同盟は、サトウが日本を去った2年後である1902年(明治35年)1月30日に、日本人で初めてイギリスのフリーメーソンとなった林董(はやしただす)駐英公使と、イギリスのペティ・フィッツモーリス外相により調印されましたが、親日家のサトウのロビー活動があったが故であったことも忘れてはなりません。

1900年(明治33年)、伊藤博文が4度目の首相の座に座りましたが、このときの在日英国公使がアーネスト・メーソン・サトウです。

ちなみに、林董が所属したロッジは、ロンドンの「エンパイヤー・ロッジ No.2108」で、1903年5月29日には第三階位となり、1904年にはロッジマスターにのぼりつめています。


貼り付け終わり、


<転載終了>