貴重なお話なので転載させていただきます。


ナカムラクリニックさんのサイトより
https://note.com/nakamuraclinic/n/n50d5db821526
<転載開始>

GW連休の一日を実家への帰省にあてて、久しぶりに家族と会った。そこで、父からこんな話を聞いた。
「お隣の○○さん、先週ワクチンの3回目を打って、その2日後に亡くなったらしい。きのう旦那さんがあいさつに来られた」
僕も知っている人だった。近所付き合いの縁で、お好み焼きを一緒に食べに行ったこともある。旦那さんの話をまとめると、おおよそ以下のようになる。
78歳女性。高血圧、高コレステロール血症、糖尿病でそれぞれ薬を飲んでいたが、毎日元気に過ごしていた。4月28日ファイザー製ワクチンの3回目を接種した。翌日から強い疲労感があり、朝も起きれないほどだった。簡易血糖測定器で測ると、血糖値が200を超えていた。これはおかしいと思い、かかりつけ医に行き、血糖値を下げる処置(インスリン?)を受けた。帰宅後、ベッドに横になっていた。その次の日に死亡が確認された。
父「それ、ワクチンのせいで亡くなったんじゃないですか?」
旦那さん「ええ、私もそんな気がしています」
父「息子が、そういう遺族のために国を訴える活動をしています。訴えてはどうですか?」
旦那さん「いや、そんな。そういうことは考えていません」

父からのまた聞きだから、詳しい話は分からない。しかし、ワクチン死ということで間違いないだろう。家族もワクチンによる死亡だと感づいている。しかし、そのことで国を訴えるなんて滅相もないと思っている
こんな人が日本中に無数にいるに違いない。
ダメだよ、ちゃんと怒らないと。
遺族の無念を晴らすために、きちんと怒りの声をあげる。そして、国に接種との因果関係を認めてもらい、4420万円をきっちりいただく。もちろん、金をもらって解決、という問題ではないけれども、国の裏切りを黙って見過ごしてはいけないよ。

次に紹介する人を見習ってください。

ワクチン接種後に妻を亡くした50代男性に話を聞いた。
「自分でいうのも何ですが、私たちほど仲のいい夫婦はあまりいないんじゃないでしょうか。どこに行くのも一緒でした。私がいるところには妻がいて、妻がいるところには私がいる。友人からは“ニコイチ”って冷やかされてました。
妻が亡くなって、私、生きる気力がなくなりました。何をどうしたらいいのか分からなくて、自殺を真剣に考えました。
子供はいません。いれば、また違ったと思います。『この子のためにも生きないと』みたいに思えたかもしれませんが。
犬を2匹飼っていましたが、妻が亡くなった数日後、そのうちの1匹が亡くなりました。妻の後を追いかけるように。妻によくなついていた犬でした。
そして、私も追いかけたいと思いました。正直、今もその思いが消えません。

妻は昨年9月27日にファイザーワクチンの2回目を打ちました。そして10月9日に亡くなりました。接種から死亡まで2週間弱です。
打って以後、体調に特に変化はありませんでした。接種部位の腫れも痛みもなく、専業主婦として普通に生活をしていました。10月8日までいつもの妻でした。
持病に1型糖尿病があって、血糖値のコントロールには気を遣っていました。ほら、これ、妻が血糖値を記録していた手帳です。数値はずっと安定していました。
週1回エアロビクスをしていて、ときにはフルマラソンを走る。それぐらい活動的で元気でした。

10月8日夜の11時半、「そろそろ寝るね」と言って寝ました。いつも通りの妻でした。これが私と妻が交わした最後の会話になりました。
翌日9日、昼になっても起きてこない。見に行くと、冷たくなっていました。
救急車を呼びましたが、救急隊員は『すでに死後硬直が始まっていてどうにもならない』と。次に警察が来て現場検証があり、そこに来た医者が死亡診断書を出しました。
解剖は希望しませんでした。妻の遺体にメスが入るのが嫌だったので。それに、そのときは訴えることなんて頭になかったんです。
これが医者から出された死亡診断書です。
『死因:虚血性心疾患』

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現場検証のときに、私から妻の持病について説明しました。血糖値の手帳を見せ、「数字は安定していた。1型糖尿病のせいで突然亡くなるというのは考えられない」と。医者は納得していました。私、医者に聞いたんです。「ワクチンが原因で亡くなったとは考えられませんか?」
医者はこう答えました。「それはあり得ない」と。

私のなかではワクチンしか考えられません。そのときは黙って引き下がりましたが、もっと医者に食ってかかるべきだったかもしれない。
ワクチンのせいで死んだ。そう思っています。妻のことをずっと思い出して、毎日泣いて暮らしています。悲しみ、後悔、怒り、そういう感情が入り混じって、この感情をどこにぶつけたらいいか、分かりません
このまま泣き寝入りしたくはありません。それでは妻に申し訳ない。自分ができるのは、妻の死を広く伝えることです。
訴訟して、金が入って来るか来ないか、そんなことはどうでもいい。別に金が欲しいわけじゃない。ただ、分からせたいんです。知らしめたいんです。妻の死が、無駄死にであることが耐えられないんです
テレビなんかを見てても、政治家とかコメンテーターがいまだにワクチンを推奨している。許せない。可能であれば、そういう奴らを殺したい。それぐらいに腹が立ちます。
テレビの中の医者が「安全だ」と言っている。嘘です。今ならわかりますが、大嘘です。こういう嘘を堂々とテレビが言っていることが納得できません

そう、どれほどの犠牲者が出ていることか。
ワクチンの危険性を警告する声は「デマ」というレッテルを貼られ封殺されるが、ワクチンを「安全だ」と断言する正真正銘のデマはおとがめなしに放送されている
ワクチン遺族の感情を逆なでするようなこういう報道は、そろそろ終わりにしたほうがいい。

僕はこの男性の訴えに共感した。当然、こういうふうに怒らないといけない。当たり前じゃないの?逆に、なぜ身内をワクチンで亡くしておきながら、むしろ「恥ずかしい」とか「何か申し訳ない」とか萎縮しているのか?僕にはこちらのほうが理解しにくい。
鵜川さんによると、駆け込み寺にはすでに115人の接種後死亡相談が寄せられている。鵜川さんが「一緒に声をあげませんか?亡くなった方の死を無駄にしないためにも、ぜひ私たちと一緒に戦いましょう」そういうふうに言うと、ほとんどの人が「いや、それはちょっと」と尻込みする。一緒に声を上げるのは、わずか2割以下だという。

この男性がさらに続けた。
「去年11月に私の地元の先輩もワクチン接種後に亡くなりました。私より2歳上ですが、何の持病もない元気な人でした。ワクチンの2回目を打って、1週間高熱が出て、やっと熱が下がって、さて、仕事に行こうとなって、その日の夜にいきなり倒れて、そのまま亡くなりました。解剖したけど原因不明ということで終わりました。
私は妻の解剖を拒否しました。体にメスを入れてないんです。でも死因は虚血性心疾患となっています。なぜ分かるんでしょう?こういうのって、胸を開かないと分からないのではないですか?」

人生はすばらしい

ここ2年ほどはコロナ関係の記事を書いてばかり。でも別に、僕はそういうライター稼業じゃないですからね(笑)
本業は医者です。医者で、日々臨床現場で経験したことや思ったことなんかを文章にまとめる。そういうのをコツコツとやってきたわけです。
でもコロナ関係の情報発信が注目されて、フォロワーが急増し、本を出版したり、国を相手に裁判したり、全国各地を講演して回ったり。明らかに、人生が一変しました。
仕事だけじゃなくて、プライベートでも変化がありました。3年前、僕は一人暮らしでした。でも今、5人家族(僕、妻、ロン、ツモ、赤ちゃん)です
コロナで職を失ったりコロナワクチンで健康(あるいは人生)を失った人がたくさんいる中で、僕は逆に、多くのものを得た格好です。
しかしこういう変化を「文句なしにすばらしい」と肯定していいのかどうか、実はあまり確信がありません。開業当初、クリニックは閑古鳥でした。僕は患者に飢えていました。でも暇なおかげで、思う存分栄養療法の勉強ができたし、ブログ記事を念入りに推敲する余裕がありました。一人身で寂しかったけれど、誰の人生も背負っていない気楽さがあった。食うに困らない程度稼げればそれで十分。でも今はそうではありません。ありがたいことに多忙で、ブログを書く時間を捻出するのも一苦労です。食わせる家族がいるから、家計を支えないといけない。責任を背負うことになりました。
確かに、コロナをきっかけに僕は多くのものを得たけれども、コロナの前と後で、幸せの総量はそんなに変わらないような気もするんですね。

いずれコロナは終わる。僕にとって、いわば“バブル”がはじけるわけです。でもそれはそれで全然いいと思っています。
僕はこの2年間コロナ関係の記事ばかり書いてきました。それは、人々がそういう情報を求めていることが分かっていたからです。noteの管理画面で「ビュー」を見れば、どの記事がよく読まれているのか(あるいは読まれていないのか)が分かるのですが、バズる記事はコロナ関係ばかりです。
でも僕は思うのですが、すぐに役立つ情報は、すぐ役立たなくなります。刺身みたいなもので、鮮度が命。1年も経てばコロナ関係の僕の記事は誰も読まなくなると思う。
というか、実は僕は、自分の記事って読めないんです。恥ずかしくて(笑)
もちろん、文章を書いてるときは本気ですよ。一生懸命ウンウンうなって言葉を紡ぎだしている。しかしひとたび記事が完成して人目に付くところにアップすれば、もう見れない。開高健だったかな、「文を書くということは恥をかくということだ」と言ってて、まさにそういう感じです。
ただ、いくつか例外があります。「我ながら重要なことを言っているな」という記事があって、ふとしたときに読み返したりする。

コロナ前後の人生の変化を「文句なしにすばらしい」と肯定していいのかどうか、確信がない、と先に言いました。でも、我が子が生まれたことについては「文句なしにすばらしい」と断言したいんです。そう断言するためには、どうすればいいか?
恥ずかしながら、僕の過去記事を紹介します。
『実験』https://clnakamura.com/blog/1110/
『愛の必要性』https://note.com/nakamuraclinic/n/neb25eb75e0d0
「子供に愛情を注ぐ」とはどういうことか?この問いに対するヒントが、これらの記事にあるような気がします。

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赤ちゃんが泣いている。おなかが減っておっぱいが欲しいのか、それともオムツが汚れて気持ちが悪いのか。とりあえず、抱き上げてみる。

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すると、それだけで泣きやんだりする。肌の触れ合いとか注目とか、赤ちゃんが求めるのはミルクだけではないんですね。こんなことは世の母親なら誰でも知っていることなんだろうけど、僕は本当に無知だったな。というか、僕よりも犬のほうがよく分かっています

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ロン(2歳3か月)やツモ(8か月)が赤ちゃんに対してどう反応するか、不安がなかったわけではありません。犬のほうでは歓迎のつもりでも、力加減を知らないせいで、飛びついてしまっては一大事。慎重に引き合わせたところ、ロンもツモも、問題なく受け入れてくれた。
僕が風呂に入ってて、妻が台所で食事を作ってて、誰も赤ちゃんの相手ができない。そういうときに、犬が赤ちゃんのそばに寄り添ってくれる。しかも、ただそばにいるのではなくて、完全に赤ちゃんを「守る」意識なんですよ(笑)笑っちゃうんだけど、でも仮に本当に不審者が来れば、こいつらは赤ちゃんを守るために体を張ると思う。赤ちゃんが泣いていれば、顔をぺろぺろなめる。大事なことは本能で全部分かってるんですね。

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人間は本能が退化している。だから、知識で補うしかありません。
乳児はしっかり肌を離すな
幼児は肌を離せ 手を離すな
少年は手を離せ 目を離すな
青年は目を離せ 心を離すな

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これ、誰が言ったのか知らないけど、すばらしい教えだね。乳児は肌でものを考え、感じる。乳児期のスキンシップはこの上なく大切だ。

さて、赤ちゃんの名前をどうしようか。
僕は太陽こそがすべての源だと思っている。だから、名前に多少なり太陽を取り込みたいと思っていた。「日」とか「陽」とか「輝」とか。お日さんが持つエネルギーにあやかりたいなと。
一方、妻は「4月生まれだから桜稀(おうき)なんてどう?」
「おうき、か。医者的には嘔気をイメージして、ちょっとね。あと、生まれたのは4月後半で、桜としては遅くない?」
「いや、北海道はちょうど桜の見頃だし、別におかしくない」
などと、あれやこれやと議論した。

名前を決め、出生届を出し、あれやこれやの必需品(哺乳瓶、よだれかけ、オムツ、ベビーベッドなど)を買いそろえた。
こんなふうにして、ひとりの人間を家に出迎え、家庭が営まれて行くんだなぁと思いました。父親になって初めて、自分に子供が生まれて初めて、見えてきた感覚があります。

思春期のアイデンティティクライシス、っていうのがあるでしょ。僕はあれに完全にやられてしまって、高校生のときに「自分とは何か?」「人間とは何か?」「存在とは何か?」ということが不思議で仕方なかった。だから、大学には迷わず文学部に進学しました。大阪大学文学部ドイツ哲学科を卒業しました。卒論は『フッサールの現象学理念の解読』。でも当時小泉改革の真っ最中で、就職は超氷河期。「文学部卒じゃ食えねえよなぁ」と思って、勉強し直して医学部を再受験した、という経緯があります。だから、僕はもともと文系なんです。それも、「存在とは何か」みたいな、実学から一番遠い分野をやってました。一円の得にもなりゃしない分野で、学徒動員なら真っ先に戦場に送られるところ(笑)
十代から二十代前半は「なぜ生きるのか?」と真剣に悩んでいました。でも今は「どう生きるのか?」ばっかり考えてて、ずいぶん不純な、計算高い人間に成り下がってしまいました(笑)
当時書いた日記とか雑文を今読んでも、意味が分からない記述が多いし、意味が分かっても共感できない。あの当時の切実さと知的水準の高さで哲学することは、もう今の僕にはできないんですね。妙な医学知識はいっぱい増えましたが、哲学する能力はすっかり退化してしまいました。
先日、僕には自分の子供が生まれました。別の存在を、作ったわけです。自分の存在の意味も分からない自分なのに
不思議な感覚です。今ならあの、アイデンティティクライシスに悩んでいた高校生の頃に、もう一度戻れそうな気がします。哲学することに夢中だった十代の感覚に。

「人生はすばらしいのだ」と教えたい。
どういう子供に育てたいか、というのを折に触れて妻と話し合う。
「芸術系がいいかも。才能がないと厳しいかもしれないけど。自分の感性で生きていける子になって欲しい。ロジックでできることなんて、たかが知れてる。いわゆる“勉強”はあまりさせたくない」と僕が言うと、妻が
「2匹のゴールデンを“お兄ちゃん”にして育つんだから、犬の気持ちが分かる子になると思う。将来は訓練士にしたい」
すばらしいアイデアだと思った。警察犬の訓練士とか、収入はさほどではないかもしれないけど、犬とのコミュニケーションが仕事になるなんて、最高の人生じゃないかな。

というわけで、将来うちの子は犬の訓練士にすることに決めました(笑)

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<転載終了>