大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

不思議館

アトランティス伝説-2

この他、近年になって、アトランティス文明の名残りと思しき海底遺跡発見のニュースが寄せられているが、主なものをピックアップしてみると・・・
 1968年には、バハマ諸島のビミニ島沖数メートルの海底で、石を敷き詰めた人口の道路が発見された。
 この海底道路は全長1.2キロほどもあり、かなり大きな石を敷き詰めて造られていた。
 ビミニ沖では、この他に巨大な港を思わせる壁のような大きな石材やアーチ型をした石、大理石の石柱なども発見されているのである。
 1975年には、凹凸模様をした石の装飾品らしきものまで引き上げられている。
ビミニ諸島で発見された海底道路
 同じく、バハマ諸島のアンドロス島沖16キロの海底には、ストーンヘンジのような巨石が輪になっているのが発見されている。
 キューバ沖の海底には、巨大な都市らしき跡が、発見された。
 プエルトリコ北部の大陸棚では、フランスの深海潜水艇によって、階段らしきものが刻まれているのが発見されている。
 こうしてみると、確かに、このカリブ海域には、はるか昔に、水没した大陸があったのかもしれない。しかし、果たして、これがアトランティス大陸であったのだろうか?
 一方、アトランティスが地中海にあったとする説も、近年になって、にわかに信ぴょう性を高めてきた。アトランティスが地中海にあったと主張する説は、アメリカのホール、ギリシアのマリナトスなどによって裏づけされ、かなり有力視されている。


 20世紀の初めまで、クレタ島は、さほど、重要な所とは見なされてはいなかったが、イギリス人エバンズによって、次々と遺跡が発掘されると、クレタには、ギリシア人が野蛮人だったはるか以前より、高度な文明を持っていたことがわかったのである。
 彼らは、サントリン島とクレタ島こそ、アトランティスだったと主張している。
 アトランティスは、大掛かりな地殻変動で滅んでいったわけだが、果たして、このミノア文明も、大変よく似た滅び方をしているのである。
 何よりも、ミノア文明が、牡牛を崇拝し牡牛を生けにえに捧げていたという事実は、アトランティス伝説の場合と非常に酷似しているのである。

 ミノア文明には、牛にまつわる話が多く、ミノタウロス伝説が有名であるが、アトランティス伝説にも、牡牛に関する話が詳細に書かれており、奇妙な一致を見るのである。

 また彼らは、サントリン島の大爆発が、この文明を一瞬に死に至らしめ、同時に聖書で名高い数々の奇跡を起こしたのだとも言う。モーゼのエジプト脱出の時、海が割れた話も、その時の大噴火の影響で説明出来るとしている。でも、本当に、それは可能なのであろうか?


 サントリン島は、地中海でも有数の火山である。この島では、良質の陶器の破片、フレスコ画、人骨などが厚い火山灰の中から発見されている。人骨はかなりの高温で焼けただれた跡があった。これらの遺物を炭素14法で、年代測定したところ、紀元前1410年頃のものだと判明した。
 サントリン島は、過去においてもたびたび噴火を記録しているが、起源前1410年頃に起こった大噴火は、特に、ケタ違いに大きなものであったと想像されている。
紀元前1千5百年の大爆発で、中央が陥没して5つの島に分裂したサントリン島
 では、どの程度の大噴火であったのだろうか?

 大噴火の記録では、19世紀の終わりにクラカタウ島が大爆発した時の記録が残されている。クラカタウ島は、ジャワとスマトラ島の中間にある、スンダ海峡に横たわる火山島で、その大爆発は、近世の火山噴火史上最大と言われているものである。爆発時には、高さ30キロにまで火山灰の柱を立ち上らせ、最後に耳をつんざく大音響とともに、島のほとんどは消し飛び、海底に3百メートル近いくぼみをつくった。大量の海水がドッとこのくぼみに流入し、数十メートルの大津波が起こり、スマトラとジャワを襲った結果、これらの沿岸は、元の形がわからぬほどに変わってしまったということである。津波は、世界を一周し、各地に甚大な被害を持たらした。


 人間だけでも3万5千人が死んで、海岸の植物は、根こそぎすべて津波に持ち去られて姿を消してしまった。軽石は何メートルも層をなして、海面を漂い、船の航行は不可能になった。世界中にまき散らされた粉塵は、太陽をおおって丸3年間、赤褐色にぼやけて見えたと言われている。それは世界の気象にも影響を与え、日射時間の短縮は、世界各地に深刻な冷害を引き起こしたのである。

 かくも凄まじいクラカタウ島の大爆発であるが、最近の調査によれば、紀元前15世紀に起こったサントリン島の噴火は、これをはるかに上回る規模であったということが判明している。 具体的に言えば、クラカタウ島大爆発の数倍以上、水爆1千個分の爆発エネルギーに匹敵すると言われているのだ。これは、現在、理論上考えられる最大規模のマグニチュード8.6クラスの巨大地震が百回来るのに等しいものである。要するに、サントリン島の大噴火は、これまでに地球が誕生して以来、起こった最大規模の天変地異の一つであると考えてよい。

 凄まじい大爆発は、紀元前1410年のうだるような暑い真夏の日に起きた。この大爆発によって、サントリン島の中央部は一瞬にして落ち込み、カルデラ状となり、半径10キロの円い島は5つの小さな島に分裂してしまった。
 この島から25キロ離れたアナフィ島には、実に2百メートルを越す巨大津波が押し寄せてきた。さらに津波は、百キロ南方にあるクレタ島にも、約30分後に到来してきた。その後も、津波は、ギリシア沿岸、地中海各地を次々と襲った。クレタ島のクノッソス宮殿は、この時の大地震と大津波で完全に破壊されたのである。大地震と直後に起きた火災で崩壊し、その後に到来した大津波で、止めに等しい大被害を受けたと思われる。
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アトランティス伝説-1

不思議館さんのサイトより(長文の為2部に分割いたしました)
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_s.html

<転載開始>
アトランティス伝説
~空想か実在か?謎に包まれた巨大文明を探る~
 今より9千年もの昔、ヘラクレスの柱と言われたジブラルタル海峡のはるか彼方、大西洋上に豊かで肥沃な大地を誇り、地上の楽園と 称された帝国があった。その帝国は、海の神ポセイドンが創設したと言われており、アトランティスと呼ばれていた。

 アトランチスの首都アクロポリス(神殿のある都市)は、輪の形をした巨大な運河によって三重に取り囲まれている壮麗な一大水の都であった。これらの運河は外洋とつながる水路とつながっていたので、外から来た船は、水路を伝って自由にこの中に出入りすることが可能だった。その水路は巨船でさえも楽々と出入りさせられるほどの大きさであったという。
 3つの輪の形をした運河はそれぞれ城壁に囲まれていて、一番外側の輪は、幅が90メートル、深さ30メートルほどあり、多数の船が停泊出来る港になっていた。水の輪同士は無数のトンネルで結ばれており、船はそのトンネルを通って他の輪にも行くことが出来き、さらにアクロポリスの中心部にまで行くことが出来る構造になっていた。
 巨大な輪の運河に取り巻かれたアクロポリスには、たくさんの建物があり、それらは、この地下で産出された石で造られていた。
 石には主に、白、赤、黒といった種類があり、建物はこれらの色とりどりの石を組み合わせて造られており、簡素ながらも人々の目を楽しませていた。
 中でも、とりわけ、目立って人目を引くのは、何と言っても中心部に立っているポセイドンをまつる壮大な神殿とそれを取り巻く多くの宮殿であったろう。
中央に巨大なポセイドンの神殿を従え、三重の運河が周囲を取り囲むアトランティスの首都、アクロポリス
 これらは、周囲を黄金の塀で囲まれ、一面を銀でおおわれ、金色をした小さな塔がたくさん連なり、屋根の内側には象牙をふんだんに使い、金、銀、スズ、高純度のオリハルク(記述に登場する謎の金属)などの貴金属を惜し気もなく使って飾り立てられた見事なものばかりで、これらの建築物こそ、アトランティスの最高技術と芸術とが結集された一大傑作と言ってもよかった。
 このアクロポリスのある島の南方には、広い平野が広がっていた。
 その規模は、東西530キロ、南北350キロほどあり、その周囲を深さ30メートル、幅180メートルの全長千8百キロもある堀が取り巻いていた。
 堀からは多数の運河が縦断しており、運河と運河の間には水路も設けられており、この発達した網の目のような治水のお陰で、年2度の収穫が約束されていた。
アトランティスのアクロポリス、中央には、ポセイドンの神殿がある。

 神殿内には、ポセイドンの巨大な黄金の像が安置されていた。ポセイドンの像は、百人のニンフに囲まれて、6頭のペガサスの引く戦車を駆る姿であらわされ、優に天井まで届く巨大さであった。神殿の外には、アトランティスの歴代の王と王妃をあらわした黄金の像が林立していた。


 この平野は、また10の地域に区分されていた。その一つの地域には、王がいて、これを統治していた。従って、王は全部で十人いることになり、その中から、王の中の王がいて、全体を取り仕切っていたのである。さらに、一つの地区は6万の区画より成り立っており、有事の際は、この区画より、16名の陸兵と4名の水夫を差し出すことが義務付けられていた。従って、一つの王国だけで、1千2百隻以上の軍艦と1万台以上の戦車を持っていることになり、アトランチス全体では、その十倍の規模になるというから、とてつもない軍事力だったわけである。


 アトランティスの十人の王は、5年か6年の期間ごとに、ポセイドンの神殿で会合する習わしがあった。そして、その場で、統治上の問題、種々の裁判などがとり行なわれたのである。その際、実に、奇妙で何とも不思議な儀式が催されるのであった。

 アクロポリスの神殿内には、牡牛が放牧されていたが、その中の一頭を捕らえて生けにえにするのである。牛は、神殿内にあるアトランティスの律法が刻まれている青銅の柱のところにまで引き立てられて、そこでのどを切られるのである。そして、流れ落ちる牡牛の血潮でおきての文字が染められた。それから、生けにえとなった牡牛は火に投じられる。それとともに、王たちは、酒に生けにえの血を注いだ血酒を飲み交わして、自らの潔白を誓い合う。日没とともに、王たちは、濃紺の大礼服に着替えて、灰と化した生けにえを取り囲んで、輪になって裁判をとり行うのである。判決の結果は、夜明けに黄金の板に刻まれて奉納される。

 ・・・これは、プラトンの書いた著書の中で、謎の文明アトランティスについて述べられた下りである。プラトンは、ギリシアの哲学の祖と言われたほどの聡明な大人物であった。

 彼は、紀元前590年に、ギリシアの大政治家ソロンが、エジプトを旅行した際に、神官たちから不思議だが真実に違いない話を聞いた内容に興味を持った。
 ソロンは、その時の会話を書き留め、後代のために物語として書き残そうとしたが果たせなかった。結局、20年経ってから、プラトンがソロンの代わりに記述したというわけである。
古代ギリシアの哲学の祖プラトン

 プラトンの話は続く・・・ヘラクレスの柱の西方に存在したアトランティス帝国は、その強大な軍事力にものを言わせ、海の彼方の大陸をいくつか支配し、やがては、その侵略の矛先を地中海にまでおよぼそうとしていた。

 しかし、ここでアテネのみは、敢然と、この強大な軍隊に立ち向かい、孤軍奮闘するのである。9千年前のアテネは大帝国であり、アトランティスの軍隊と互角に渡り合うことが出来る唯一の国家であった。そして、アトランティスとアテネ軍との間で決戦が行われ、ついに、アテネ軍は、アトランティスの軍隊を破ったのである。

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謎のシュメール文明

不思議館さんのサイトより
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14.html

<転載開始>
           
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謎のシュメール文明
~神々からの贈り物か?その起源と繁栄の謎~
 紀元前5千年頃、後にメソポタミアと呼ばれるユーフラテス河の沿岸地帯に、ある農耕民族が住み着いた。彼らの住み着いた土地は、耕作や放牧に適しており、近くの湿地帯では、魚と鳥が常に豊富に得られるという生活するには理想的な環境だった。
  その農耕民族は、ウバイド人と呼ばれ、その後、千年以上もそこに住み着き、泥でレンガをつくって街や神殿をつくり、その後のメソポタミア文明の基礎をつくることになった民族である。彼らの有能で進取性に富んだ気性は、まもなく、この地を中近東で最も繁栄した地帯に押し上げていった。ただ、彼らは、文字を持たなかったので、詳しい記録を残すことはなかった。
 ところが、紀元前3800年頃、どこからかシュメール人と呼ばれる民族がやって来ると、信じられない大変化が起こった。文明の一大ブレークとも言うべき現象が起きたのである。メソポタミアの地は、わずかの間に、前例のない大繁栄を記録した。そして、空前とも言える政治権力が打ち立てられたのである。それは、美術、建築、宗教は言うに及ばず、社会機構、日常の細かな慣習から楔形文字の発明に至るまで、それらは、すべて、彼らシュメール人の成せる画期的偉業であった。世界最初と言われる船や車輪つき戦車なども、この頃、シュメール人によってつくられたのである。  
    
 この後も、彼らは、エリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュと言った高度な都市国家を次々とつくり上げていった。
  それらは、都市としては世界最古のもので、今日、我々は、この文明をメソポタミア文明と呼んでいる。
 ウルの都市予想図、中央にジッグラドが見える。 
   
 これまで、シュメール人に関することがらは、全くと言っていいほど何も知られていなかった。しかし、20世紀になって、次々とシュメール人の都市国家が発掘されるにつれて、次第に彼らの社会や風習が明らかにされていった。それにつれて、シュメール人の謎は一段と高まった。
    イギリスの考古学者レオナード・ウーリーは、当時、彼らの首都であったウルを発掘したが、大量の金銀、おびただしい宝石類、恐ろしく精巧な装身具が次々と出土し話題となっている。
 また、それと同時に、あらゆる分野におけるシュメール人の優れた業績が明るみにされていったがそれらは驚くべき内容だった。 
   それによると、彼らは、紀元前3800年前後に、優れた文化を携えて突然と登場したことがわかった。 
レオナード・ウーリー
1880~1960
 高度な医学、法体系、慣習などがあり、彼らは、スズと銅を微妙な配分比率で混ぜ合わせて青銅をつくるという合金技術すらも知っていた。医学では白内障での水晶体の混濁部分を除去すれば直るということやその手術方法も知っていた。また、彼らの法体系は画期的なもので、労働者、失業者を保護する法律などがあり、裁判ではすでに陪審員制度がとられていたのだ。議会の二院制もしかり。これらは、現代の法体系に生かされていることは周知の事実である。 
     シュメール人の都市は、神聖国家と言うべき社会だった。その中心には、ジッグラトと呼ばれる巨大な建造物が建てられていたことが知られている。
 ジッグラトというのは、階段式ピラミッドとも呼ばれ、その規模は、奥行き60メートル、幅45メートルほどの基底部を3層に構築した巨大な聖塔のことである。その地上20メートルの頂上には祀殿が建てられていた。 
 ウルのジグラッド、発見当初(上)再原図(下)
    祀殿には、それぞれの都市の主神が祭られていた。エリドゥでは、エンキ(地の神)、ウルクではアヌ(神々の父)とイナンナ(豊穰の女神)の2神、ウルの場合は、ナンナ(月の神)という具合にである。
 ジッグラドがエジプトのピラミッドと根本的に異なる点は、ピラミッドが王墓だったのに対してジッグラドは主神をまつるためのものであった。   
 さらに、ウルの王墓を発掘してみると、殉葬が行われていたことが判明した。その様子は、実に衝撃的な光景であった。王の墓では、武装した兵士や家臣団が、隊列を組み戦車を従えたままの格好で、きちんと並んで死んでいたのである。一方、王妃の墓では、多くの侍女が正装して、楽器を持った楽士たちとともに何の取り乱したふうもなく横たわっていた。あたかも、彼らは隊列を組み、儀式用の衣装をまとい、頭飾りや見事な金銀の装身具をつけて、今まさにパレードでもするかのような華やかさで、そのまま土中に埋もれていたのである。そこには、苦しんだり死を恐れた様子は微塵も見られない。 
  古代中国の殷(いん)王朝でも、殉葬が行われていたことが知られているが、それはゾッとするほど残酷な儀式だった。数百人の奴隷が無惨にも首を斬り落とされて一か所に投げ込まれていたのである。恐らく、数珠つなぎにされ、逃げることも出来ずに引き立てられ、有無を言わさず斬首されたとしか思えぬものであった。しかし、ウルの王墓では、自ら進んで毒杯をあおって死んだとしか思えないのである。恐らく、数百人のお供、侍女、家臣団、多くの兵士が、きちんと列を成して一斉に毒をあおったに違いない。まさに戦慄すべき死の儀式を想像してしまう。来世の信仰がないと言われるメソポタミアで、なぜこのような形の殉葬が行われたのかは今もって謎である。
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