大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

キリスト教読み物サイト

日本神道のルーツは古代イスラエル宗教

キリスト教読み物サイトさんのサイトより
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/091shintou.htm
この記事の中に日本人は神道信者であるというのが書いてあります。
<転載開始>

日本神道のルーツは
古代イスラエル宗教

日本人が知らずに拝んできたものについて。
神社や祭に伝わる神道信仰のおおもと、ルーツは、
         古代イスラエル宗教にある。
(Ⅰ歴代誌15:12~29)


神社には、手前に拝殿があり、その奥に本殿がある。
本殿の中には、鏡や、石、剣、御幣などが置かれているが、
それらは神そのものとはみなされていない。それらは
「偶像」ではなく、神道の信者は、そこに降臨し臨在される
目に見えないお方を拝んでいるのである。

 かつてイエス・キリストの使徒パウロは、伝道旅行をしてギリシャにやって来ました。そこには祖先伝来の様々な宗教の礼拝所がありました。そのときパウロは、
 「あなたがたのしているのは偶像礼拝だ」
 と言って彼らを責めたてたのではありません。パウロは声高く叫んで言いました。
 「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう(使徒一七・二三)
 と。パウロは、ギリシャ人が昔から「知らずに拝んできた」おかたは本当はどなたかについて、語りました。天地を造られた聖書の神様こそが、あなたがたがこれまで知らずに拝んできたおかたなのですよ、と語ったのです。
 きょう私たちは、日本人が昔から知らずに拝んできたものについて、聖書から学んでみたいと思います。聖書は、日本人が知らずに拝んできたおかたについて、私たちに大切なことを教えようとしているのです。
 日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教があります。"神の道"と書く「神道」は、仏教が日本に入るよりはるか以前から日本に存在していた、日本人固有の民族宗教です。
 「神道」は「しんどう」ではなく、「しんとう」と読みます。神道は、神社や祭などを通して、昔から日本人の心に連綿と生き続けてきました。
 今日お話ししたいことは、とくに、この神道のルーツは古代イスラエル宗教にある、ということです。神道の起源をずっとさかのぼっていくならば、それは古代のイスラエル人たちが守っていた宗教に行き着くのです。
 その証拠について、いくつかのものをご紹介したいと思います。それによって、私たち日本人が持つべき信仰は本当はどんなものであるかも、わかってくるでしょう。


続きを読む

2014年に始まる「天のしるし」

再掲載です。2012年11月1日21:26

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/229tenno.htm
<転載開始>
ユダヤの祭の日に日食と月食がたて続けに起こる!
2014-15年のユダヤの祭の日に合わせて、日食と月食がたて続けに起こることが、天文学的データに基づいて明らかにされた!


皆既日食。2014-15年に日食と
月食が計6回、いずれもユダヤの祭の日に起きる。

 米国のマーク・ブリッツ牧師は、NASAのデータや他の天文学的データを調査した結果、
 「2014年4月~2015年9月のわずか約1年半の間に、ユダヤの祭の日に合わせて、『月食』と『日食』がたて続けに起こることがわかった」
 と発表し、話題になっている。
 ご存知のように「月食」は、月が地球の影に入り、月が暗く見える現象である。ただし皆既月食のときでも、月は真っ暗にはならず、暗い赤色にみえる。いわゆる「赤い月」の出現である。
 これは地球の大気によって、太陽の光のうち波長の長い赤系の光が屈折・散乱されて、本影の中に入るからだ。そのため月が血のように赤くみえる。夕焼けが赤く見えるのと同じ理屈である。
 一方「日食」は、太陽と地球の間に月が入って、地球からは昼間でも太陽が真っ黒に見える現象だ。「黒い太陽」の出現である。
 両方とも、まれにしか見られない。だが、それが今から約6~7年後の将来において、計6回、たて続けに起こるという。しかも起こる日が、いずれも「ユダヤの祭」の日に、驚くほど符合しているのだ。
 単に月食や日食が起こるというだけでなく、それらがすべてユダヤの祭の日にぴったり合って起こるというのは、いったい何を意味しているのだろうか。


次々に起こる月食と日食

(1)最初は2014年4月15日である。これは、ユダヤ暦5774年のニサンの月15日にあたり、ちょうどユダヤの「過越の祭」初日にあたる重要な日であるが、この日に皆既月食が起こる。
 ふつう「過越の祭」は、夜、満月の明るい光の下で行なわれるものだ。ところがその日、月は暗く、赤黒くなる。不吉な予兆ととらえられるに違いない。

(2)つぎにその半年後、2014年10月8日(ユダヤ暦5775年ティシュリの月14日)にも――これはユダヤの「仮庵の祭」の前夜祭の日であるが――この日にも皆既月食が起こる。
 「過越の祭」と「仮庵の祭」はユダヤの二大祭である。その両日とも、このように月食にみまわれ、月はまたもや赤黒くなる。

(3)またその半年後、2015年3月20日(5775年アダルの月29日)――「ユダヤの宗教暦の新年」の前日であるが――今度は皆既日食が起こる。新年が始まる前に、日は暗くなるのである。「黒い太陽」の出現だ。不吉なことの連続と、多くの人が感じないではいられないだろう。
 この「ユダヤの宗教暦の新年」とは、旧約聖書「出エジプト記」などが記している「新年」と同じである。「アダルの月」(第12月)の次の「ニサンの月」(第1月)に始まる新年をいう。
 新年第1月は、旧約聖書では「アビブの月」と呼ばれているが、のちにバビロニアの影響により、「ニサンの月」と呼ばれるようになった。第12月である「アダルの月」は29日までしかないので、その日はまさに宗教暦の新年の前日にあたる。


月食と日食の起きる日と、ユダヤの祭の関係

(4)さらにそれに追い打ちをかけるように、そのわずか2週間後の2015年4月4日(5775年ニサンの月15日)――ユダヤの「過越の祭」初日であるが――この日にも皆既月食が起こる。

(5)それで終わりではない。その半年後、2015年9月13日(5775年エルルの月29日)――これは「ユダヤの政治暦の新年」の前日にあたるが――この日に部分日食が起こる。
 ここで、ユダヤの「宗教暦の新年」とか「政治暦の新年」とかの言葉が出てきたが、じつはユダヤには「新年」と呼ばれるものが2つある。一つは、先ほど述べた出エジプト記などに記された新年(宗教暦上の新年)で、第1月(ニサンの月=アビブの月)から始まる。
 もう一つは、第7月(ティシュリの月 旧約聖書では「チスリの月」)から始まる「政治暦の新年」である。これは、天地創造を起源とする暦ともいわれ、今日のイスラエル人は、おもにこちらのほうの新年(ロシュ・ハシャナー)を祝っている。その前の月、第6月(エルルの月)は29日までなので、この日は、政治暦の新年の前日にあたる。
 すなわち、新年の祝日が始まろうとするその前日に、太陽は暗くなるのだ。

(6)そしてそのわずか2週間後の2015年9月28日(5776年ティシュリの月15日)――ユダヤの「仮庵の祭」の初日であるが――この日に再度、皆既月食が起こる。またもや、月は赤黒くなる。ユダヤの祭は、ことごとく月食や日食におおわれるのである。


続きを読む

日本神道のルーツは古代イスラエル宗教

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/091shintou.htm
これは重要なことかも
 「私は神道信者です」
 という自覚を持っていようといまいと、神道では日本人はみな神社の氏子とみなしていますから、みな神道信者ということになってしまっているのです。
 私などもクリスチャンですから、神道信者ではないつもりなのですが、神社のほうでは私を神道信者とみなしているのです。
 みなさんもそうですよ。本人の意向におかまいなしに、日本人であればみな神道信者ということになってしまっているのです。
 日本人として生まれれば、すぐに神道信者に登録されてしまっています。
 しかし逆に、神道では、日本人でなければ、だれも神道信者にはなれません。外国人は神道信者になれないのです。

<転載開始>
日本人が知らずに拝んできたものについて。
神社や祭に伝わる神道信仰のおおもと、ルーツは、
         古代イスラエル宗教にある。
(Ⅰ歴代誌15:12~29)


神社には、手前に拝殿があり、その奥に本殿がある。
本殿の中には、鏡や、石、剣、御幣などが置かれているが、
それらは神そのものとはみなされていない。それらは
「偶像」ではなく、神道の信者は、そこに降臨し臨在される
目に見えないお方を拝んでいるのである。

 かつてイエス・キリストの使徒パウロは、伝道旅行をしてギリシャにやって来ました。そこには祖先伝来の様々な宗教の礼拝所がありました。そのときパウロは、
 「あなたがたのしているのは偶像礼拝だ」
 と言って彼らを責めたてたのではありません。パウロは声高く叫んで言いました。
 「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう(使徒一七・二三)
 と。パウロは、ギリシャ人が昔から「知らずに拝んできた」おかたは本当はどなたかについて、語りました。天地を造られた聖書の神様こそが、あなたがたがこれまで知らずに拝んできたおかたなのですよ、と語ったのです。
 きょう私たちは、日本人が昔から知らずに拝んできたものについて、聖書から学んでみたいと思います。聖書は、日本人が知らずに拝んできたおかたについて、私たちに大切なことを教えようとしているのです。
 日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教があります。"神の道"と書く「神道」は、仏教が日本に入るよりはるか以前から日本に存在していた、日本人固有の民族宗教です。
 「神道」は「しんどう」ではなく、「しんとう」と読みます。神道は、神社や祭などを通して、昔から日本人の心に連綿と生き続けてきました。
 今日お話ししたいことは、とくに、この神道のルーツは古代イスラエル宗教にある、ということです。神道の起源をずっとさかのぼっていくならば、それは古代のイスラエル人たちが守っていた宗教に行き着くのです。
 その証拠について、いくつかのものをご紹介したいと思います。それによって、私たち日本人が持つべき信仰は本当はどんなものであるかも、わかってくるでしょう。

続きを読む

愛と誠 

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message010.htm
<転載開始>

愛のない誠は非力であり、誠のない愛は偽善である


せりにかけられる黒人奴隷(アメリカ)

[聖書テキスト]

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(マタイの福音書二三・二三)
 

[メッセージ]

 いまこの地球上の超大国といえば、やはりアメリカでしょう。アメリカは約二〇〇年ほど前に独立した、若い国です。アメリカの独立宣言に、
 「我々は次の事実を自明と信じる。すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の希求など、侵すべからざる権利を与えられている」
 とあります。「すべての人間は平等であり……」。ああ、何と素晴らしい言葉だろうか、と以前の私は思ったものです。さすがキリスト教国の独立宣言だ、と。
 たしかに素晴らしい面もあります。かつて、幕末の時代に勝海舟らがアメリカの視察旅行をしました。そのとき、アメリカは、一般の庶民であっても選挙で勝つなら大統領になれる国だと聞いて、たいへん驚いたという話があります。実際、白人の間での平等はかなり行き届いています。しかし「すべての人間は平等であり……」というこの独立宣言には、大きな偽善がありました。
 この独立宣言を書いたのは、トマス・ジェファーソンという人です。彼は後に第三代大統領になりました。ジェファーソンは、アメリカ先住民インディアンを大々的に迫害し、また黒人奴隷を一〇〇人以上も所有していたのです。最近、ジェファーソン家で働いていた奴隷の子どもが、ジェファーソンの子孫であるらしいことがDNA鑑定で判明して、一流科学雑誌にも発表されて話題を呼びました。


ジェファーソン像。「すべての人間は平等であり……」と宣言
したが、その「人間」には有色人種は含まれていなかった。

 そういうことを知りますと、「すべての人間は平等であり……」は、ただの美辞麗句に見えてくるわけです。「人間」という言葉には、黒人は含まれていませんでした。アメリカの先住民インディアンたちも含まれていなかった。平等な「人間」とは、単に白人だけを意味していた。一体このような偽善がまかり通る世界は、何なのか。しかも、それがキリスト教国といわれる国においてなされてきたのです。このように、
 「すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の希求など、侵すべからざる権利を与えられている」
 といいながら、大規模な黒人奴隷制を維持し、人種差別を行なってきた歴史があるのです。

続きを読む

アンドリュー・カーネギー

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/ando.htm
<転載開始>
巨富をつくり、それを人々のために生かした大富豪

 アンドリュー・カーネギー(一八三五~一九一六年)は、一時は米国における鉄鋼生産をほぼ独占し、アメリカ最大の富豪の一人となった人物である。
 しかし彼は、いわゆる「自分のために地上に宝を積む」(マタ六・一九)富豪ではなかった。自分の築いた富を、つねに社会に効果的に再分配することを考えた人物なのである。
 彼のその「富の哲学」は、今日も多くの人々に影響を与えている。彼が無一文の生活からどのようにして富を築き、また、それをどのように社会に還元していったかを、見てみよう。


「貧困を追い出してやる」

 アンドリュー・カーネギーは、もとはスコットランドからやって来た、貧しい移民の子であった。
 カーネギーは、正規の学校教育を一〇歳までしか受けていない。そのころ父が失業し、家庭が貧困の中に落ちこんで、学校へ行けなくなったのである。
 しかしカーネギーは、その貧困の中でも、決してくじけなかった。「もしできるなら、いつか貧困という狼を、家の中から追い出してやる」と彼は決意した。
 カーネギーが一二歳のとき、カーネギー一家は仕事を求めて、アメリカに移住した。カーネギー少年も、アメリカの紡績(ぼうせき)工場に、糸巻工の見習いとして就職した。
 そこで彼は、はじめて自分の労働で得た賃金を得た。一ドル二〇セントの週給を初めて手にしたとき、
 「私がどれほど自分を誇らしく思ったかは、どのようにしても言い表すことができないだろう」
 と彼は語っている。
 しかし、紡績工場で働きながら彼が最初に考えたことは、賃金を得ること以上に、「勉強の時間を得る」ことだった。毎日、厳しい労働時間のあと、彼は日曜日をもつぶして、簿記(ぼき)の勉強に没頭した。
 やがて、彼は紡績工場の事務員に抜擢された。しかし、そこで実際の企業経営の数字を見、簿記の知識をもって彼が気づいたことは、当時の花形産業であった繊維工業が、すでに時代遅れの業種になりつつあることだった。
 カーネギーはその後、一八歳になるまでに四度、転職を行なっている。
 四度目の就職先は、ペンシルヴァニア鉄道であった。最初の月給は三五ドル。これはアメリカの市民としては、一人前以上の収入だった。
 ペンシルヴァニア鉄道に就職して、しばらくたってのこと、日頃カーネギーを可愛がってくれていた上司スコット氏が、突然、
 「君はいま、五〇〇ドルの資金を調達できるか?」
 と尋ねてきた。
 「じつはアダムス通運会社という株式会社があるんだが、そこの一〇株の株式を持っている人が死んで、遺族に株式の処分を頼まれている。一株は額面五〇ドル、一〇株で五〇〇ドルになる。
 もし、その株を買うつもりはあっても資金が足りないということなら、不足分は私が立て替えよう。今のところ、毎月一%の配当をしていて、経営状態も健全な会社だ」
 という話だった。この話はカーネギーにとって、大きなチャンスだった。
 しかしカーネギーの家には、五〇〇ドルというような大金がないことは、わかっていた。けれどもカーネギーは、ためらわずに、
 「五〇〇ドルなら、何とかなります。ただし、少し時間を下さい」
 と言って、帰って両親に相談した。すると母は、
 「この家を抵当に入れて、五〇〇ドルはオハイオの叔父さんから借りましょう。私が明日にでも頼みに行きましょう」
 と言ってくれたのである。その家はもともとローンで買ったもので、親子三人の働きで少しずつ返済し、やっと自分のものになったばかりだった。
 株券は、こうしてカーネギーのものになった。やがてその配当として、五ドルの小切手が会社から送られてきた。友人の一人は、その小切手を見てこう言った。
 「アンディ(アンドリューの愛称)、素晴らしいぞ。君は資本家になったんだ!」


続きを読む

ノアの大洪水

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomemasu.htm
<転載開始>

大洪水以前の地球環境は、現在とは大きく違っていた


大洪水以前には上空に水蒸気層があった

 私たちは第一章で、原始地球が膨大な量の「水蒸気大気」におおわれたことを見ました。
 この「水蒸気大気」は、現在の大気の成分である窒素やアルゴン等も含みますが、その大部分は水蒸気から成っていました。これら水蒸気、窒素、アルゴン等は、地球を形成した鉱物からの「脱ガス」によって生じたものです。
 原始地球をおおったこの「水蒸気大気」こそ、聖書の創世記一・二で原始地球をおおったと言われている「大いなる水」でしょう。
 「はじめに神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」(一・一~二)。
 この水蒸気大気、すなわち「大いなる水」は、創造第二日になって、「大空の上の水」、「大空」、「大空の下の水」の三つに分かれました。
 「神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように』と仰せられた。こうして神は大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。・・・・第二日」(創世一・六~八)。

 最初にあった「大いなる水」(水蒸気大気)は、創造第二日において、「大空の上の水」「大空」「大空の下の水」の三つに分離したのです。
 「大空」は大気、「大空の下の水」は海洋のことです。
 では、「大空の上の水」とは何でしょうか。創造論に立つ科学者らは、それはノアの大洪水以前の地球上空に存在していた「水蒸気層」(water vapor canopy)のことだと考えています。米国ミネソタ大学の水力学博士であるヘンリー・M・モリス博士はこう述べています。
 「上の水は、現在空中に浮かんでいる雲とは異なります。聖書は、大空の上にあったと言っています。・・・・「大空の上の水」は、おそらく対流圏や成層圏の上で・・・・広大な水蒸気層を形成し、さらに空間へと広がっていたことでしょう」。
 ノアの大洪水以前の地球の上空には、膨大な量の水蒸気からなる「水蒸気層」が存在していたのです。
 じつは、この「水蒸気層」の考えは、これから述べる「創造論」の柱ともなる重要な概念です。
 「創造論」とは、生命は、進化によってではなく、おのおの独自に創造されて出現したと考えた方が、様々の科学的証拠をよく説明できる、とする科学理論です。創造論によれば、世界は計画に従って創造され、生物の各種類は、「種類にしたがって」(創世一・一一)おのおの独自に創造されて出現しました。
 この立場に立つ人々が創造論者であり、創造論者になる人は、科学者や知識人の間で次第に増えています。
 水蒸気層の考え、および聖書に記されたような世界的大洪水が過去に実際にあったことを認めると、これから見ていくように、地球の歴史の中で謎とされていた多くの事柄が、明快に解明されるようになります。
 以下、創造論の考え方を見ていきましょう。


続きを読む

利他的生き方

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message012.htm
<転載開始>
それが人生を永遠にする


イエスは利他的生き方を教えられた。
それが本当の自利の道だからである。


[聖書テキスト]
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイの福音書七・一二)


[メッセージ]

 今日の題は、「利他的生き方」となっておりますが、これは「利己的生き方」の反対を言ったものです。イエス様は、
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
 と言われました。これは、利他的生き方です。あなたの愛を待っている他の人がいます。あなたの愛を必要としている他の人がいます。だから自分にしてもらいたいことを、他の人にもそのようにしなさい、というメッセージです。そして、他人に利益になるようなことを考えることが、じつは本当は自分のためにもなるんですよ、という教えです。
 与えるならば、与えられる。相手の立場に立って、相手がこういうことをしてもらいたいと思うようなことをしていくなら、それが結局あなたに返ってくるのです。親切の押し売りではいけませんが、相手の立場に立って考える。そうすると、その人だけでなく、あなた自身が祝福されるということを教えています。
 「これが律法であり預言者です」。
 旧約聖書のはじめに「モーセ五書」というものがあります。創世記から申命記までです。これをユダヤ人は「律法の書」(トーラー)、または単に「律法」と呼びます。
 また旧約聖書の後半は、預言者たちの書が載っています。これをユダヤ人は、単に「預言者」とも呼びます。つまり「これが律法であり預言者です」とは、旧約聖書の教えの要約が、
 「何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
 という短い言葉の中にあるという意味です。これは積極的な行動を教えたものです。また一方では、その消極面つまり、
 「自分にしてもらいたくないことは、ほかの人にもしてはいけない
 ということも含んでいます。

続きを読む

人間の霊(魂)とは何ですか

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/069ningen.htm
<転載開始>
「霊」と「魂」は違うのですか?


 霊とか「魂」というと、「幽霊」などを思い起こす人も多くいます。しかし聖書において、「霊」あるいは「魂」は、どのようなものを意味しているのでしょうか。
 両者は、同じものを指しているのでしょうか。それとも別のものなのでしょうか。


「霊」とは?

 まず、「霊」(ヘブル語ルーアッハ、ギリシャ語プニューマ)から見てみましょう。
 「神は霊である」(ヨハ四・二四)
 とキリストは言われました。
 神は「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます」(エペ四・六)かたであり、万物に遍在し、なおかつ万物を超越しておられます。物質に束縛されていません。
 神が「霊」であるから、このようなことが可能なのです。神のこのような存在のしかた、つまりその"存在様式"を「霊」と呼びます。
 岩石や土などは「物質」という"存在様式"を持っていますが、神の"存在様式"は「霊」なのです。
 このように、「霊」は肉眼では見えませんが、存在の一つの様式を意味しています。それは物質とは全く次元を異にしているので、肉体の感覚で捉えることはできません。
 聖書によれば、人間も霊を持っています。ただし人間の場合、霊が活動できる範囲は、その霊が宿る肉体の内に限られています。
 人間の内に霊があることは、どんなことからわかるでしょうか。
 最近、臨死体験(near death experience)の研究が進み、人間は肉体の死後も、自分の肉体を離れて様々の経験をすることが明らかになってきました(レムナント出版刊「聖書にみる死後の世界」第四章を参照)
 また最近、大脳を研究する人々の中に、人間の内には無形の精神(霊)があることを認める人が増えています。
 たとえば、頭脳活動における神経接合期の機能に関する輝かしい発見によって一九六三年にノーベル賞を受賞したジョン・エクレス卿は、公然と唯物論的な考えに挑戦し、人間は肉体組織と無形の精神(霊)との両方からなる、と主張しました。そしてこう語っています。
 「もし人間の自己の独自性が、遺伝法則から説明できないとしたら、また経験から由来するものでもないとしたら、これは一体何から生ずるのだろう。私の答えはこうである。それは神の創造による。それぞれの自我は、神の創造なのである」。
 彼は、人間の内に神の創造による霊があって、それが人間の自我の個性・独自性をもたらしているとしたのです。
 また、カナダの優れた精神病理学者ワイルダー・グレイブズ・ペンフィールドは、頭脳の物質的構造を超えたところに非物質的精神(霊)がある、と唱えています。彼はその著「心の神秘」の中で、
 「(頭脳と精神の)二重構造という仮説が・・・・もっとも理解できるものだ」。
 と述べました。彼もやはり、物質的な頭脳と無形の精神(霊)とが互いに深くかかわり合って二重構造を形成している、としたのです。
 一九八一年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大脳生理学者ロジャー・スペリー博士も、こう述べています。
 「物質的な力、つまり分子や原子の働きからは、私たちの脳のモデルは描ききれない。それは部分のレベルであって、全体的レベルから部分のレベルをコントロールする意識というものを、考えなければならない」。
 彼のいう、全体的レベルから脳をコントロールするこの「意識」というものも、「霊」の考えに非常に近いものとなっています。


続きを読む

恐竜は最近まで生きていた

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/093kyouryuu.htm
<転載開始>
恐竜はなぜ絶滅したか。


メキシコ・アカンバロで発掘された恐竜土偶。
年代測定により、今から約4500年前のものと推定された。
まさに恐竜の形をしているのがわかる。
恐竜は、4500年前にも生きていた!?


 聖書の創世紀一・二一には、神は生物創造の際に「海の大いなる獣」をも造られたと記されています。
 大洪水以前の海には、海棲哺乳類のクジラだけでなく、シーモンスターとも呼ばれる海棲爬虫類プレシオサウルスなど、様々な巨大生物がたくさん生息していました。地上にも、恐竜をはじめとする多くの巨大な動植物が、生息していました。
 聖書中、ヨブ記四〇・一五~一九は、恐竜に関する言及と言われています。それは和訳では次のように記されています。
 「さあ、河馬(かば)を見よ。・・・・見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。これは神が造られた第一の獣・・・・」。
 この動物は、「河馬」と訳されていますが、原語のヘブル語はベヘモトで、「巨大な獣」の意味です。昔の聖書翻訳者は、中東の最も巨大な獣を「河馬」と考えて、こう訳したのです。しかし一七節に、
 「(その)尾は杉の木のように垂れ・・・・」
 と記されています。河馬の尾はあるかないかわからないくらい小さく、とても「杉の木」と比べられるものではありません。
 現在の世界で最も巨大な陸上動物であるゾウも、しっぽは細くて、小さなものです。ですから創造論者の多くは、この「ベヘモト」と呼ばれた獣は、カバでもゾウでもなく、恐竜の一種ではなかったか、と考えています。


     米国テキサス州の恐竜足痕(そっこん)
 発掘現場で、恐竜の巨大な足跡
 の中で無心に遊ぶ子ども。

 創造論では一般に、恐竜はノアの大洪水以前の時代から、少なくとも大洪水の少し後までは生きていた、と考えられています
 進化論では恐竜が絶滅してから六〇〇〇万年以上たってから人類が出現した、と主張されています。しかし創造論では、恐竜と人類は同じ時代に生きていた、と考えるのです。
 大洪水の時になって、恐竜もノアの箱舟に連れてこられ、その中に入れられました。
 ご存知のように、おとなの恐竜は体が大きいのですが、卵からかえったばかりの子ども恐竜は、数十センチの大きさに過ぎません。恐竜は、年をとるごとに、形はほぼそのままで、大きさを増していきます
 ですからノアは、箱舟におとな恐竜を入れず、子ども恐竜を入れたに違いありません。そのほうが、場所を取らなかったからです。


プレシオサウルスは、進化論者によれば7000万年前に
滅びたとされているが、本当は今も生きてる!? 
これは1977年に日本の漁師たちがひきあげた
巨大な動物の遺骸。漁師たちは写真をとったのち、
あまりの異臭のため遺骸を海に返した。科学者は、
これはプレシオサウルスではないかと述べた。
郵政省は、その記念切手を発行した。


続きを読む

日本古来の風習と古代イスラエルの風習

キリスト教読み物サイトさんより
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/071nihonkorai.htm
<転載開始>
両者はなぜこんなにも似ているのか。


(左)神前に供え物をするときは塩を添える(手前左が塩、
右は米、中央は水、奥の2瓶は神酒(みき)、他に野菜、
果物、海産物などが添えられる)。
(右上)水を浴びる禊(みそ)ぎの行(ぎょう)の一つ「振魂」。
(右下)飲み屋や料亭の玄関に見られる「盛(も)り塩(じお)」。

禊ぎの水と塩

 古来、日本には「禊ぎ」という風習があります。
 禊ぎとは、身体に付着した穢れを落とし、清浄にすることをいいます。禊ぎには、一般にや、が用いられます。
 たとえば、古い神社はたいてい、清流のそばにあります。これは参拝する人がそこで穢れを洗い流し、心身を清めるためです。禊ぎのためだったのです。
 神社によっては、海辺で禊ぎを行ない、滝に打たれ、井戸水を浴びて身を清めるところもあります。水浴(水垢離)は、ふつう冷水で行ないますが、近ごろの神社は多くの場合、浴場でそれを行ない、大社では一日中お湯が沸かされています。
 神社の境内にはまた「手水舎」というものがあります。"水飲み場"と勘違いしている人もいるかも知れませんが、これは参拝の前に両手に水をかけて清め、口をすすぐためです。手と口の禊ぎの場所なのです。
 このような水で身を清める「禊ぎ」の風習は、日本古来のものです。仏教では、一般にこうしたことはしません。
 禊ぎには、水のほかに、塩も用いられます。
 古来、日本では葬儀の後などに、その場を清めるためにをまく風習があります。葬儀に参加した人は、帰宅した玄関前でをかけてもらわないと家には入れない習慣があります(塩祓い)。
 近ごろは、葬斎場から出た所で、お清め塩が配られます。これらも禊ぎの一種です。
 穢れたものや、嫌悪する人が出て行った際に、そこに塩をまく風習もあります。神社では清めの式において、塩を散布します。


葬儀のあとに配られる「お清め塩」は、
塩をふりかけて穢れを祓うためである。

 相撲の際に、力士が塩をまくのも、土俵を清めるためで、禊ぎに由来しています。
 神前に供え物をするときは、器に塩を盛って添える風習があります。料理店などでも、客を招く縁起として、入り口に少量の塩を盛る風習(盛り塩)があります。
 日本では、古くからこのようなことが行なわれてきました。このような風習は欧米諸国にはありません。
 ところが、私たちは聖書を読むとき、この風習が今から三〇〇〇年以上も前に、古代イスラエルで行なわれていたものと同じであることを知り、驚きます。水についても、塩についても、これは古代イスラエルの風習そのままなのです。
 水については、たとえば旧約聖書・民数記八・六~七にこう記されています。
 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。・・・・」。
 神殿で祭司の役にあたるレビ人は、礼拝の奉仕にあたる前に、きよめの水をかけて禊ぎをしなければならなかったのです。また、
 「祭司は、その衣服を洗いその体に水を浴びよ。そののち、宿営に入ることができる」(民数一九・七)
 等とも記されています。古代イスラエルにおいても、水が禊ぎのために用いられました。
 古代イスラエルではまた、日本神道と同じく、死体にふれた者は「けがれた」者と呼ばれていました。そして、その穢れを祓うために、水が用いられました。
 「身の清い人が、ヒソプを取ってこの水に浸し、それを・・・・死人や墓に触れた者の上に振りかける(民数一九・一八)
 こうすることにより、死人に触れて穢れた人は清められる、とされたのです。
 ちょうど、日本で神主が榊の枝でお祓いをするように、古代イスラエルでは穢れを祓うために「ヒソプ」という植物の枝が用いられました。
 また、日本では神主はお祓いをするとき、、または塩の入った水塩湯という)を注ぐことがあります。ちょうどそのように、古代イスラエルでは、ヒソプに水を浸して振りかけたのです。
 禊ぎのための塩について、日本と同様、神前の供え物に塩を添える風習が、旧約聖書・レビ記二・一三に記されています。
 「あなたの穀物の捧げ物に、あなたの神の契約のを欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」。
 古代イスラエルにおいても、日本と同様に、人々は神前の供え物に必ず塩を添えたのです。また彼らは、土地を清めようとするようなときも、その禊ぎのために塩をまきました。士師記九・四五に、
 「アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた
 と記されています。
 また、わが国では明治維新前に、新たに誕生した赤児の産湯に、少量の塩を入れる習慣がありました。古代イスラエルでも、新たに生まれた赤児を塩でやわらかくこすり、水で洗い清める風習がありました。エゼキエル書一六・四に、こういう記述があります。
 「あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗って清める者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった」。
 古代イスラエルでも、日本でも、赤児の禊ぎのために水と塩が用いられたのです。
 このように、古代イスラエルと日本に共通して、「禊ぎ」という考え方がありました。そしてその禊ぎのために、古代イスラエルでも日本でも、同様に水と塩が用いられたのです。


続きを読む
プロフィール

genkimaru1

記事検索
タグ絞り込み検索
情報拡散のため1回ポチッとクリックお願いします。
人気ブログランキングへ
RevolverMaps
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ふるさと納税
最新記事
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
[ひふみ祝詞]
天津祝詞
祓祝詞
Amazonライブリンク
楽天市場