大摩邇(おおまに)

日常の気になる内容を転載させていただきます。 ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと) カタカムナウタヒ 第5首 ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ 第6首 ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ (3回) 第7首 マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ (3回)

江戸時代

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス

しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html
<転載開始>
元治元年(1864)3月にフランスの新公使ロッシュが日本に着任した。この人物は、前任のド・ベルクールがイギリス追随であったのに対し、イギリスと対抗しようとする姿勢で臨んでいる。

ロッシュ
【フランス公使 ロッシュ

鈴木荘一氏の『開国の真実』にこう解説されている。

ロッシュは、着任早々、幕府首脳陣に対し、
『アヘン戦争がはっきり示しているように、イギリスは工業製品の市場を拡大するためには他国を侵略して顧みない。これにひきかえフランスは天然の資源に富み、芸術・科学もそうであるように、軍事上でも偉大な、しかも正義を愛する国である』
と公言した。
当時57歳、老練な外交官ロッシュの指摘は、宣伝臭があるにしてもなかなか鋭い。
ロッシュは、就任早々から大見得をきってイギリスと一線を画し、イギリスに対抗した独自の対日政策を打ち出したのである。
当時、アメリカは南北戦争の終盤で対外的意欲はなく、ロシアもクリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に負けたのち農奴解放問題など国内矛盾を抱えて対外的覇気は無く、世界の覇者イギリスに対抗しようという『元気印』はフランスぐらいだった。しかもフランスには『条約の締結相手であり日本の正統政府である徳川幕府と親交を深める』という大義名分があった。
また当時、対日貿易はイギリスが圧倒的なシェアを占め、フランスはアメリカ、オランダにも劣後していた。フランスにとってこの改善も課題だった。

とくに貴婦人が装う高級絹織物で世界一の生産量を誇ったフランスは、我が国の東日本で産出される高品質の原料生糸や蚕卵紙の独占的確保を希望した。…
フランスは貴婦人の為の絹織物工業という平和産業に必要な原料生糸を我が国から輸入しようとし、イギリスはわが国へ人殺しの道具である武器を輸出しようとした。
こうした通商政策の相違が、イギリスとフランスの対日政策の対立となったのである。」(『開国の真実』p.289-291)

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江戸時代屈指の名君”上杉鷹山”とは その①

るいネットさんのサイトより
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=319545
<転載開始>
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するということで、やる気の大切さを説いたことば。これを教訓として江戸時代莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態の米沢藩を復活させた上杉鷹山という男の正体とは!?

リンク

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■上杉鷹山とは
鷹山は、寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれました。

宝暦10年(1760年)、10歳で米沢藩8代藩主重定の娘幸姫の婿養子となりました。14歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識を磨き、その後の藩政改革に役立てています。

鷹山は17歳で家督を相続しますが、当時の米沢藩は莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態でした。この困窮した藩を立て直すには相当な決意が必要だったわけですが、藩主になった鷹山は、決意を表す誓詞を春日神社、白子神社に奉納しています。

また白子神社に奉納した誓詞には、大倹約を行って米沢藩を復興することを誓っています。

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保科正之 ~心に青雲の治世

心に青雲さんのサイトより
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/436133576.html
<転載開始>
 先日、舛添都知事が勝手に都有地を韓国学校に実質上くれてやる決定をなしたことについて、どうぞ都庁へ抗議メールを送ってほしいとお願いした。
 舛添は昨年秋、ロンドンとパリへ職員を多数引き連れて総額5000万円もの大名旅行をやって、都民の反発をくらってもいる。2014年度 6回の「海外出張経費」は、合計約1億8000万円にも及んだ。
 政府と関係なく勝手に、媚韓外交、媚中外交をやって、なにさまのつもりだろうか。

 その傲慢、乱費、開き直りは目にあまるものがある。
 つまりは、民主主義はこういう無様なことにもなる。都知事選挙で舛添に投票した人たちは、何も考えず、テレビで有名な人だからいいか…という低度で投票したにちがいないのである。
 どうしたって衆愚政治に落ちる。

 さて、今日は東京都のぶざまさの口直しに江戸の昔話でも書いてみましょうか。保科正之の話である。以前にブログで発表したものを大幅に書き直してある。
 言ってみれば彼が東京都の初代都知事のようなものであった。というのは、歴史好きな人なら常識であろう。そして彼もまた「心に青雲」を抱きつづけた人間であった。

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田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html
<転載開始>
天明4年(1784)3月24日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、その8日後に死亡している。
田沼意知は天明3年(1783)に若年寄に抜擢され、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、34歳という若さで命を奪われてしまった。

イサーク・ティチング

Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。
「江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、『田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである』と書き残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E7%9F%A5

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江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した

しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-392.html
<転載開始>
Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

この記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ内容にかなり近いのだが、よくよく考えるとおかしな解説である。前半の文章ではこの政策によりわが国が「孤立状態」になったことを匂わせておきながら、後半では「実際には孤立しているわけではなく」と矛盾していることを述べているのだ。

Wikipediaの記述を読み進むと、こうも書かれている。
「『鎖国』という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年~1806年)が、1801年成立の『鎖国論』」(写本)において初めて使用した。…実際に『鎖国』という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及する時期は明治時代以降である。」

分かりやすく言うと、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の時代には、「鎖国」という言葉が存在せず、この言葉が本格的に使われようになったのは江戸幕末期に「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に「鎖国」という言葉が広まったということなのだ。

学生時代に「鎖国」を学んだ際には、教科書に「鎖国令」という言葉が使われて、Wikipediaにも第一次から第五次まで五回に分けて「鎖国令」が出たことが解説されているのだが、実際には、江戸幕府は「鎖国令」という名の布令を一度も出していないのである。

では、家光の時代に出されたという五回の「鎖国令」とは、いったいどのような内容であったのか。上記のWikipediaの解説ではこう記されている。

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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

しばやんの日々さんのサイトより
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html#comment686
<転載開始>
前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。

キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペインはイギリスとの戦争(英西戦争)の真っ最中であり、国内ではネーデルランド(オランダ)の反乱が続いていて、わが国を攻めるどころではなかったと思われる。

しかしわが国に滞在していた宣教師たちは、秀吉の死を、日本に再びキリスト教を広める好機だと捉えて布教活動を活発化させたことが記録に残されている。五大老の筆頭であった徳川家康は、当時はキリスト教に比較的寛容であったことから、秀吉が出した『伴天連追放令』は有って無きがごとくのようだったという。

日本切支丹宗門史

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江戸時代の庶民の生活の資料が少ない。維新政府が意図的に欧米劣等感を払拭するために、資料を抹消する。

るいネットさんのサイトより
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=292572
<転載開始>
リンク
名なき仙人の綴る物語

【記事引用】

 江戸時代の生活暮らし

~江戸時代の庶民の生活と暮らし~

 1.江戸時代の知られざる真実
①江戸時代の建物・文化・暮らしに謎が多い理由
■江戸時代のことは、わかっていないことも多いそうですね。

 「文化/庶民の生活・暮らし/建物」等、江戸時代の生活のことはTVにもでてきますが、本当は‘間違い’もあるそうです。
 江戸時代のことをちゃんと調べてみると、江戸時代から残っている文学書をもとに、現代の人々が想像を付け足して、「江戸時代の庶民の生活はこうだったと思われる。」という風に【想像上の江戸時代】を作り上げている場合もあるそうです。

 明治以降の文化や建物、庶民の生活ぶりなどは、現在でも資料などが多くあり、正確にわかるそうですが、江戸時代に関しては資料や建物なども残っておらず、謎も多いそうです。

 例えば、江戸時代の子供達の学びの様子(寺子屋や教科書系)なども、わかっていない部分もあるそうです。

では、なぜ江戸時代の文化や建物、庶民の生活ぶりを記録している資料等が、現在には多く残っていないのでしょうか?

 江戸時代は、そんな昔のことではありません。
 明治時代と江戸時代は隣り合わせなのに、明治時代の資料は多くあって、江戸時代の資料等が少ないのは、おかしなことです。

 明治は最近のことで、江戸時代は大昔のことのように思われていますが、江戸時代の最後の日(1868年5月3日)と、明治時代の最初の日(1868年1月25日)は、そんなに変わらないのです。
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会津の悲劇「二十一人の墓」と家老・西郷頼母

英考塾さんのサイトより
http://eikojuku.seesaa.net/article/367163435.html
<転載開始>

2013年06月22日

会津の悲劇「二十一人の墓」と家老・西郷頼母



幕末、とどめようのない時代の激流の中、「会津藩」は絶望的な戦いへと追い込まれていった。

そして、新政府軍との戦火に包まれる会津若松城。



男たちばかりでなく、女も子供たちも立ち上がった会津。

「白虎隊の墓」は、自決した少年たちを弔うためのもの。そして、その墓から3kmほど離れたところには「二十一人の墓」があり、今も多くの人々が供養に訪れる。



その「二十一人の墓」は、会津戦争における女性たちの悲劇の一端を物語る。

祀られているのは、会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)の妻や娘ら21人の女性たち。2歳の幼子から77歳の老女を含む西郷一族の女たちである。



なぜ、彼女らは死なねばならなかったのか?

西郷家の女たちが皆死んだ一方、当主である西郷頼母は、明治の世まで長く生き延びる。

なぜ、頼母は生きねばならなかったのか?





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ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。

英考塾さんのサイトより
http://eikojuku.seesaa.net/article/229320816.html
<転載開始>

2011年10月07日

ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。


モンゴル帝国が日本を襲ったのが「元寇」。

そして、ロシアが襲ってきたのが「露寇」。

日露戦争(1904)に先立つこと100年前、北海道の各地がロシアに襲撃される事件が相次ぐ。これらを称して「露寇事件(1800年代初頭)」という。



時は江戸に文化・文政年間の「化政文化」という町人文化が花開いていた頃。

ロシア特使「ニコライ・レザノフ」という人物が、日本との通商を求めて「長崎」を訪れる(1804)。

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レザノフはロシアの外交官であると同時に、米露会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の経営者でもあった。

米露会社はロシア皇帝の勅許をえた国策会社(利益の3分の1は皇帝のもの)であり、アメリカのアラスカを植民地として交易を行なっていた(毛皮など)。

この米露会社の泣き所は「食糧」。北方における食糧確保は困難を極めていたため、レザノフは日本との通商により食糧調達を試みようとしたのである。



長崎に現れたレザノフとの交渉を担当したのは老中「土井利厚」。

対応に苦慮した土井は、儒家「林述斎」に意見を求めた。

すると述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。ちなみに、この林述斎は、のちにアメリカの黒船・ペリーが来航した際に対応した「林復斎」の父である。

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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

しばやんの日々さんのサイトより
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/165/
<転載開始>
毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。
子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。

Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは
「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。
ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」とある。

物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。

『忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。

子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。
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