池田敏雄著「囲碁ルールについて」(英語版)の囲碁ルール試案の5つのルールの簡単な解説。

中国式Iは本質的に王銘エン九段が「週刊碁」で連載していた「純碁」と同じです。原始囲碁ルール。盤上にある石の数がそのまま得点になる。コミ無し純碁では終局時に盤上にある石の数が多い方の勝ちになる。

中国式IIは通常の中国ルールとほぼ同じ。盤上の石の数と地の総和で勝敗を決するルールです。数学的には原始囲碁ルール(=純碁=中国式I)に「二眼を持って活きた石はそれ以後囲まれても盤上から取り除かれなくなる」というルールを付け加えたものと同値。

通常の中国ルールでは最後に残った駄目の個数が奇数個ならば先着した方が日本式の感覚では1目得することになり、最後に残った駄目の個数が偶数個ならば不必要な手入れを自分の地に入れても損になりません。中国ルールでは白と黒の得点の総和が19×19に等しくなるのでセキがないとき白と黒の得点差は必ず奇数になってしまいます。だから中国ルールでは5目半と6目半のコミの違いが勝敗にほとんど影響しなくなってしまいます(現在の中国ルールでの互先のコミは7目半)。

中国式IIIはこれらの欠点を解消した中国ルールです。解消の仕方は極めて簡単。盤上への最後の着手が黒(先手)だったときに白の得点を1目増やすというルールを付け加えるだけ。極めて面白いことに中国式IIIは次の日本式Iと得点計算が同値なルールになります。

日本式Iはセキの中の眼や一方ダメも得点とみなすことを除けば日本ルールとほぼ同じです。ただし通常の日本ルールと異なり、(仮)終局図で珍形や棋力が原因で石の死活について対局者双方が合意できない場合には(仮)終局以降の盤上での戦いで決着を付けることができるように工夫されています。

まず、両対局者の連続したパスで仮終局になります。仮終局図における死活で両対局者が合意できない場合には仮終局後に「終局までに対局者双方が同じ数だけ盤上に石を置く」という仮終局後のルールのもとで決着を付けることになります(パスしたい場合には盤上に置かれるはずだった自分の石をアゲハマに追加する)。仮終局後に盤上に置かれる石の数が白黒双方同じなので何も事件が起こらなければ得点の差は不変なまま。自分だけが一方的に自分の地に手を入れて損をせずにすみます。極めてシンプルな解決策。

日本式IIはセキの中の眼や一方ダメを得点とみなさない通常の日本ルールとほぼ同じです。日本式Iとの違いはセキの中の眼と一方ダメに関わる得点計算法の違いだけ。日本式Iと同様に仮終局図での死活で合意できない場合には盤上での戦いで決着を付けることができます。

ここからはぼく自身の考察。

池田試案における日本式ルールは「両対局者の連続したパスで仮終局とし、それ以後も打ち続ける場合には終局までに両対局者が盤上に同じ個数だけ石を置かなければいけない」というルールが追加された日本ルールに他なりません。しかし、この意味での仮終局図は日本伝統の無駄な着手が一切省かれた「美しい終局図」にはなりません。

たとえば池田試案の日本式ルールの仮終局図におけるダメの個数が奇数だと、仮終局後に盤上に置かれる石が白黒同じにするというルールによって、仮終局後に先着した側が1目得してしまうことになります。仮終局図で必要な手入れがされてなかった場合にも問題が発生します。池田試案の微妙な点を理解していない人は池田試案の日本式ルールの仮終局図はダメ詰めと手入れがすべて終わった局面だと思っておいた方が無難です。

このように池田試案の日本式ルールの意味での仮終局図は通常の日本ルールにおける「美しい終局図」とは全く異なります。最近では棋聖戦第3局終局図では、半目勝負であるにもかかわらず、右上の境界線が確定されていなかった。「美しい終局図」の実現にはもう一工夫必要になります。

答は簡単です。白と黒のどちらが先着しても得点の差が同じになる局面ではパスをしても結果に影響しません。両対局者の棋力が十分に高く、無駄な着手で棋譜を汚したくなかったり、時間の無駄をしたくなれば、そのような局面で両者がパスしたくなるに違いありません。そのような局面で終局しても良いことにすれば「美しい終局図」が実現されます。ただし、そのような「美しい終局図」におけるパスパスによる終局と日本式IIルールの意味での「仮終局」を混同しないようにしなければいけません。

「美しい終局図」を可能にした池田試案の日本式ルールではゲームの流れは以下のようになります。

1. 通常の対局。両対局者の連続したパスで終局壱。(両対局者が間違いを犯していなければこの意味での終局図は白と黒のどちらが先着しても得点の差が変化しない局面になっているはず。無駄な着手が完全に省かれた「美しい終局図」)

2. 終局壱後に死活などについて両対局者が合意できなければそのまま打ち続ける(すぐにパスしても構わない)。両対局者の連続したパスで終局弐。(実用的にはこの意味での終局図はダメ詰めと手入れがすべて終了した局面だと思っておいて困らない。)

3. 終局弐後に死活などについて両対局者が合意できなければさらにそのまま打ち続ける。ただしその後は両対局者は盤上に同じ個数の石を打たなければいけない。盤上に石を打たずにパスをする場合には自分の石をアゲハマに追加する。両対局者の連続したパスで終局参。(この意味での終局図では盤上のすべての石は活きているとみなされ、機械的に得点を計算するアルゴリズムが存在する局面になる。これは原始囲碁の終局図に近い。)

この方式が普及すれば終局手続きにまつわるトラブル(特にインターネット上での対局では死活や手入れでもめて不愉快なことになる場合があるようだ)をほとんど無くせると思います。

池田試案の日本式ルールを採用すれば終局手続きで相手に理不尽なことを言われたら盤上での戦いでやっつけることによって解決することができます!

関連ツイート

P.S. コメントは受け付けない設定にしてあります。上のリンクをたどればわかるようにツイッターにいます。

追記2012年2月7日 背景の説明

このブログ記事に関連した発言をツイッターの #囲碁ルール タグでしています。(こちらも見て下さい。)

「美しい終局図」にこだわってみた背景の説明。ドイツのJasiekさんによる International Go Rules Forum の第3回会合 (2005年7月、日本)レポート第4回会合 (2005年10月、韓国)レポートで「日本(棋院)代表」が何を言っていたかを知ることができます。「日本囲碁規約1989において死活は部分的に判定されること」と「無駄な手を完全に省略した終局の美」について語っていたようです。特に日本伝統の「美しい終局図」へのこだわりが強いことがわかります。そこで、この記事では、池田囲碁ルール試案の日本式IもしくはIIを採用すれば、死活を部分的に判定するようにしなくても、日本伝統の「美しい終局図」が可能になるという事実を説明しています。

率直に言って、現在の日本棋院ルール(日本囲碁規約1989のこと、これを「日本ルール」とは呼びたくないし、呼ぶべきではないと思う)で定められた死活判定の仕方は碁の原理原則を無視した内容になっており、碁の美しさを殺してしまっていると思う。

囲碁における可能な手はパスもしくは盤上の空点に石を打つことのどちらかであり、

  1. 石を打つことによって囲まれた相手の石は盤上から除去される(石の除去)。
  2. 自分の石が相手の石に囲まれるように(囲まれたかどうかの判定は相手の石の除去後)石を打ってはいけない(自殺手の禁止)。
  3. 同形反復は禁止される(同形反復の禁止)。

という3つのルールで定義されます。これは碁の宇宙の物理法則のようなものです。この単純な物理法則だけから驚くほど複雑な現象が碁盤の宇宙に生じるわけです。実際に碁を打つとこれらの物理法則が本当によくできた法則であり、単純で美しいことを納得できます。これが碁の原理原則です。

ところが、現在の日本棋院ルールでは「対局の停止」後の「死活確認の際における同一の劫での取り返しは、行うことができない。ただし劫を取られた方が取り返す劫のそれぞれにつき着手放棄を行った後は、新たにその劫を取ることができる」(第七条-2)と碁の原理原則とは異なる別の物理法則を設定してしまっています。その上、日本棋院ルールの条文は曖昧で不完全です。それらの欠点を無くす努力をするとどれだけ複雑で汚ないルールになってしまうかについては Jasiek さんの囲碁ルールのウェブページで Japanese 2003 ルールについて調べればわかります。死活を部分的に判定できるようにするためには「部分的」という概念の正確な定義が必要になるのですが、結果的にものすごく面倒なことになってしまっています。

さすがにこれはひどいと思ったので池田囲碁ルール試案を紹介しようと思ったのです。池田氏は、碁の原理原則を保ったまま、パスの役割や得点計算法を工夫することによって合理的な囲碁のルールを作り上げています。

日本棋院の囲碁のルールは1949年に制定された日本棋院囲碁規約以降着実に悪化して来ています。決して進歩ではない。この事実は日本国内で碁を打っているだけなら意識せずにすむことですが、海外の囲碁ファンが日本の囲碁のルールのことをどう思っているかを調べてみると、ひどく評判が悪いことに気付きます。これは日本の囲碁ファンとして非常に残念なことです。池田囲碁ルール試案の日本式ルールを採用すれば無駄な着手を完全に省略した美しい終局も含めて完全に合理的に正当化できるのに!

ちなみに、日本棋院囲碁規約が定められた1949年10月まで本因坊秀哉名人時代の日本棋院内規が活きており、劫材の数に関する全局的な判断によって終局時に手入れを省略できるようになっていました。その本因坊秀哉裁定は日本棋院囲碁規約以降は日本棋院内部で否定されてしまいました。

さらに、「取らず三目」は三目の地になるという本因坊秀和裁定は日本棋院囲碁規約の日本棋院判例ではそのまま活きていました。しかし現在の日本棋院ルールでは「取らず三目」に関する本因坊秀和裁定は完全に否定されています。

この流れは果たして「進歩」なのか?「伝統」を守っていることになっているのか?

これに対して、池田囲碁ルール試案の日本式ルールでは本因坊秀哉判定がそのまま再現され、手入れで解消不可能な劫材が存在しないという仮定(「劫尽くし」が可能という仮定)のもとで「取らず三目」に関する本因坊秀和裁定も再現されます。同じく「劫尽くし」が可能だという仮定のもとで「隅の曲がり四目」も無条件死になることも再現されます。「劫尽くし」の仮定のもとでの歴史的判例の再現性はかなり高い。

これはある意味当然のことです。本因坊家の偉大な棋士たちの裁定は必ず碁の原理原則と関係しているはずです。池田ルールは碁の原理原則を重視しているので「劫尽くし」の仮定のもとで歴史的判例の再現性が高くなるのは当然のことでしょう。 (もちろん重要なのは歴史的判例よりも碁の原理原則の方。)

「劫尽くし」の仮定が成立しない稀なケースでは再現されるとは限りませんが、それは碁の原理原則に基けば当然のことです。そのことに違和感を感じている人は碁の原理原則よりも人為的に勝手に作られた規則の方が優先すると思っていることになります。