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2024年04月12日

村上春樹「アフターダーク」

 実に18年ぶりの再読となるのは村上春樹さんの「アフターダーク」である。当時は実験的要素の強い作品だと思っていたけれど、いまふり返ってみれば、異端的存在にある。これまでこれほど尖がった立ち位置にある作品はほかにない。

 作風の幅を一生懸命広げようとしていたことがわかる。三人称、現在形文体、わりにリアリズム、時間経過の遅さ、閉塞的な空間のなかでの人間ドラマ。脚本的で映像的で、いちばん映画に近い存在かもしれない。そういえばなんでだれもドラマ化しようとしないのだろう。

 ちなみに本名を明かさず追われた身だ、と登場人物が告白するシーンがあるのだけれど、そこを読んでむかし観たドラマの「アフリカの夜」を思いだした。そういえばむかしもそれを思いだしたことも思いだした。ドラマ的ベタ展開として、よくあるといえばよくあるのかもしれないけれど。

 というわけで、クールで尖がっていて狂っていてダークで、かっこいい小説ともいえる。普段村上春樹の小説なんて読まないぜ、といっているひとなら好きだといってくれるのかもしれない。逆にいえば、ハルキストの受けは悪いかもしれない。あまり抒情的ではなく、可愛げがない小説だから。これが大長編になると、悪人の心の闇がねっとりと描かれたり、錯綜する世界が交ざりあったりするのだろうな、という気もする。そうなるともっとハルキワールドっぽくなるのかもしれない。しかしたぶん、そういうものからも切り離したものを書こうとしたのではないだろうか。自分色を落とした、自分の書きたいものを。


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2024年04月07日

村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」

 この一冊すべてが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の解説本である。だいぶむかしに読んだきりなので、あまり内容は憶えていないが、それでも微かな記憶を辿って読むことはできた。村上さんが「海辺のカフカ」を書いたあとの著書なので、ところどころ「海辺のカフカ」を対峙して書かれていたのも興味深かった。そうか、カフカくんは15歳でホールディンくんは16歳かあ、といったような。年齢によって行動様式の説得力が変わる、とのこと。なるほど。たしかに「海辺のカフカ」の冒頭に、15歳でなければならない、といった文章があったっけ。

 前作と今作を読んで、いままで村上さんの翻訳本に注目して読んでいなかったのだけれど、今度まとめて読んでみようかな、と思ってリストを見てみれば、かなりの長大なものでただ驚く。おれ、いっぱしのアメリカ文学研究者になれるんじゃないの、なんて。


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村上春樹「海辺のカフカ」

 村上春樹さんの「海辺のカフカ」はたぶん単行本文庫本が出たときそれぞれ読んで以来、読んでいないのではないか。となると、もう20年近くのブランクである。当時もけっこうな衝撃を持って読んだのだけれど、時系列に沿ってあらためて読み返してみても、やっぱり衝撃である。

 まず村上さんの文章の変化である。比喩を多用した地の文は影を潜め、会話を通じたコミュニケーションで個性的ないい回しを楽しんでいる。そしてより世界観は超現実的に。SFといいますか。それでもやっぱり読後感は村上春樹ワールドなのだ。不思議ですね。

 ひとが孤独なときでさえ、まったく関係ないと思われるひとでもちゃんと見守ってくれている、といることが伝わってきた。すなわちひとはひとりじゃない、ということ。そしてそのつながりはすべて「メタファー」でつながっているので、すべてが明かされるわけではなく、壮大な物語も個人に収斂されるというわけではないので、いろんな可能性を残したまま、答えはすべて個人の解釈に委ねられている。それすなわち、読者個人の解釈による物語として心に残るということ。含みを持たせるといいますか。すごいですね。自分にもそういうひとがいるのかなあ、なんて。


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2024年03月20日

アリアナ・グランデ「イエス、アンド?」、テイト・マクレー「グリーディ」

 最初動画サイトで観てはなんとなく心に残り、そうしているとジムで毎回聴くようになった。大ヒットですね。ということで買ってしまったのはアリアナ・グランデさんの「イエス、アンド?」である。はっきりいって、いままでアリアナさんのことを気にも留めていなかった。瘦せすぎを揶揄されていることさえ知らなかった。

 甘い声にキャッチーなサビ。でもこの曲の聴きどころといえば、ぼくのなかではリズムの音である。とくにサビまえの変調子で盛りあがるところ。このリズムトラック、生のドラムスでやればいいのに。そして大サビまえの「why」とつぶやくところ。これもまたキュートですね。

 ちなみに歌詞は「自分の道を進みますけれど、それがなにか?」というような自己主張の歌である。よく代弁してくれたわ、アリアナ! といった共感を生んでもいるのか。それほど鬱憤がたまっているのか。怖いですね。

 つづいてはテイト・マクレーさんの「グリーディ」。こちらは昨年の秋には出ていた曲だということで。半年かかってぼくの耳に届いたということで。ちなみにぼくの知らないひとだった。カナダの歌手で、Z世代に人気だという。いつも思っているのだけれど、Z世代ってなに? 若者でよくない?

 昨年よく聴いたシザさんやマイリー・サイラスさんのようなちょっとぶっきらぼうな、しゃがれた声の持ち主で。こういう声が一種のトレンドなのか。こちらもキャッチーなメロディ。でもやっぱりこの声で歌われるから引っかかるんだろうなあ、とも思う。

 そしてこちらの歌詞は「あんたなんかの誘いに乗るもんですか、調子に乗るんじゃないよ、ふん」といった感じだ。モーガン・ウォーレンさんの「ラスト・ナイト」の純粋さに比べたら、男なんて甘いもんだと身に染みるものです。やっぱり恋愛に関しては、女のひとのほうが一枚上手だと。男はこれくらい夢見がちで無邪気なほうが可愛げがあるのかもしれないですね、なんて。


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村上春樹 柴田元幸「翻訳夜話」

 この本を2年まえに読んだときには、ぼくはポール・オースターさんの作品群を追っていたころであって、その流れのなかで「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」が読みたくて読んだといった感じだった。今回は村上春樹さんの作品群を追っていたらここに行き着いたという。

 だから今回は、村上さんの文章の書きかたに関する部分が印象に残った。そして柴田さんの書きかたとの対比があって、村上さんの書きかたが一般的には正解というわけではないのだということも。ぼくなんか、村上さんの文章にそれこそ若いころから浸っているから、村上さんの文章が日本語のスタンダード文章になっているわけで。こうして時代は変遷されていくものなのでしょう。

 ぼくとしてはジャン=フィリップ・トゥーサンさんと村上春樹さんと小西康陽さんが三大文章神様としてぱっと挙げられるのだけれど、三人ともシンプルな言葉で文章を紡いでいるのにそれぞれ独自の文章というものがある。それぞれの違いを述べよ、といわれてもよくわからないのだけれど。追求したらこういう本ができあがるのかな、と思うのだけれど。まあ、追及するタイプじゃないのでね。

 ちなみにオースターさんの「4321」、いったいいつ和訳してもらえるんですかね。


geno1132 at 15:50|Permalink

2024年03月17日

村上春樹「シドニー!」

 もう24年まえにもなるんですね。シドニーオリンピックの思い出といえば、高橋尚子さんが金メダルをとったことくらいしか覚えていない。あと柔道ですかね。逆にいえば、そうか、あれはシドニーか、といった程度で。ぼく自身それほどオリンピックに興味はないけれど、札幌でやったら面白いんじゃないですかね、お祭り騒ぎで、といった程度の関心だ。札幌ではあいにくやらないけれど。オリンピックが熱烈に好きだ! といったひとはあまりぼくのまわりでは見ない。札幌市民の熱意はファイターズが好きだ! というものよりは低いように思う。もしやっていたら当日からいきなり熱意爆裂になっていたのかもしれないけれど。コロナ禍がなければ。

 というわけで、東京オリンピックの汚職事件が尾を引きずるいまとなって、村上さんの「シドニー!」を読む。冒頭の有森裕子さんの試合中の描写がまず素晴らしい。息遣いといい、レース中の試合の駆け引きといい、名文としかいいようがない。リスペクトという言葉がぴったりあてはまる文章だ。

 そして本文。村上さんはオリンピックに興味がないようだけれど、それでも興味のないものにこれほどの文章が書けることがすごい。だからオリンピックが好きなひとが読んだら、たとえハルキストと呼ばれるひとでさえ、気に入らないだろう。ぼくのオリンピック熱はもしかしたら村上さんより低いかもしれない。東京オリンピックの閉会式をたまたま見ても、なにも心に残らなかった。ふーん、って感じで。清水ミチコさんが大竹しのぶさんの無垢っぷりに驚いたと書いているのを読んで、そういえばそういうこともあったな、という程度だ。でも市井の関心ってその程度ではないだろうか。

 東京オリンピックの失敗(あれは失敗だろう)を知っているぼくからしてみれば、シドニーオリンピックの当地の熱気がすごいものに感じる。ぼくはあのとき東京にも札幌にもいたけれど、ぼくのまわりではだれも盛りあがっていなかったと思う。すべてはメディアのなかのできごとだった。巨大な張りぼてのなかの、非現実的な舞台装置なのだ。それを日常に降ろしてこられなかったから東京オリンピックは失敗した。札幌市民の機運も高まらなかった。形は違えど、すでに予見していたような本でもある。

 この本のなかの名文をひとつ。退屈さを通して感銘(のようなもの)を。退屈なオリンピックを我慢して観つづけたなか、キャシー・フリーマンさんや高橋尚子さんの優勝の場面に立ちあい、村上さんはものすごく感動している。こういうのって、人生にも通ずるところがあるのかもしれない、なんて。でもこういうくすくす笑ってしまう文章って、小説ではやっぱり難しいんですかね。

 そういえばこんな写真を撮っていたことをいま思いだした。東京オリンピックのマラソンを札幌でやったときのものである。

オリンピック













五輪


geno1132 at 02:21|Permalink

2024年03月09日

村上春樹「村上ラヂオ」

 安西水丸さんとの村上朝日堂シリーズはパソコンの場に移して、新たにコンビを組んだのは大橋歩さんだった。ほぼ日のインタビューを読むと、大橋さんは安西さんとクラスメイトだったそうで。安西さんの推薦でもあったのだろうか。「村上さん、そろそろおれとのコラボももういいんじゃない? それよりもさあ、いい絵を描くやつ知ってるんだよねえ。古い友だちなんだれどさあ」なんていっていたりして。インタビュー記事を読むと、そんな感じがする。面倒見よさそうだし。それともたまたまかな。

  というわけで「村上ラヂオ」である。安定感の村上エッセイである。ほっこり丁寧な文章のなかで、ときどきブロークンな言葉が混ざるのがピリリとした刺激で。それこそ柿ピーのような黄金比が確立されている。しかし同じようなことを紀行文でも書いていたりするのだけれど、文章のタッチが変わっているから、タッチもソフトな感じがする。器用な作家である。求められている文章がわかっているというか。いやはや。


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2024年03月08日

村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

 この短編集以降から、村上さんの短編集は連作モードになる。ひとつのテーマをもとに生みだされる短編たちということで。これは雑誌連載時「地震のあとで」というタイトルで発表されたものたちであるが、その地震というのは阪神淡路大震災であり、間接的には地震の2か月後に起こった地下鉄サリン事件も含まれているようにも思う。というわけで、短編集のタイトルは「神の子どもたちはみな踊る」である。このタイトルはジャズのタイトルの引用だと思うが、折りしもオウム真理教の関連事件を想起させるものでもある。

 小説の肌あいとしてみれば、不穏な空気が通底に流れている。いつ湧き起こるとも限らない暴力の影を感じる。その不安定で理不尽な地面のうえで、神の子どもは無心に踊るのだ。

 今回再読して「かえるくん、東京を救う」の短編が一番ぐっと来た。人気のある短編だとは知っていたが、自分のなかではそれほどまでには残っていなかった。しかし今読んでみて、目立たないひとびとがそれぞれにヒーローであり、それぞれに自分の「かえるくん」がいて、そんな自分たちのためにだれかが人知れず戦っているという。ちょっと村上さん的「パーマン」のような。こういうストレートな話というのは、今までにあまりなかったかもしれない。


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2024年03月04日

村上春樹「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」

 この本はぼくが酒を飲むようになったころに読んだ本だ。手のこんだ装丁で、文章そのものよりも、雰囲気を楽しむような本だ。飛行機の機内誌のような。そこに出てくる酒はそのころぼくが飲んでいたようなジントニックとか梅酒とかビールとか、そういう大衆臭さがなく格調高く、大人びていて非日常の世界だった。仕事を忘れて飲むには、そういう非日常に飛びこむのがちょうどいい。そんなわけでぼくはバーに入り浸り、マスターに愚痴を背中に向かってつらつらと述べる日常を送っていた。20代前半のころだ。

 そうなるとボウモアが飲みたくなる。読んだからには飲みたくなるのだ。同じことを「ハリーズ・バー」を読んだときマティーニを注文していたのだが。にやにやしながらマスターはぼくのまえにさしだす。どう?

 正露丸の味がする。ぼくは嘘偽りない気持ちでそう答えた。今でもそう思う。ネット検索をかければ「正露丸 ボウモア」でかなりの数がヒットする。しかしそれがまたうまい。たぶん正露丸を溶かしたってこういう味にはならないのだろうけれど。滋味深く、スモーキーな香りとアルコールの刺激が舌と鼻をくすぐる。トワイスアップで飲めば、ずっと親しみ深くなる。そうしてアードベックに行き着く。いまだにずっとファンである。むかしよりずっと酒量は減っているのだけれど、それでもたまに飲みたくなる。シングルモルトを飲むときには氷を入れない。これもこの本から学んだことのひとつである。

 村上さんの本について書こうと思っていたら、ぼくのボウモア体験記になってしまった。しかしこの違い。これも格の違いですかね。正露丸て。胃腸薬といっしょにされちゃたまんないね、とアイラ島のひとたちに怒られるかもしれない。ということで、公式的には「磯くさい、潮っぽい(本文より引用)」ということで。

 ちなみに装丁は文庫本より単行本のほうが好みです。なんて。


geno1132 at 00:44|Permalink

2024年03月03日

黒柳朝「チョッちゃんが行くわよ」

 最近黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」とその続編を立てつづけに読んで、そこで描かれるお母さんの様が生き生きとされており、これは「チョッちゃんが行くわよ」を読まなければということで手にとった。いわずもがな、これは70歳を過ぎてから! 初めて刊行された黒柳徹子さんのお母さん、黒柳朝さんの自伝エッセイである。

 そして驚いた。電光石火の行動力、肯定的思考力、徹子さん以上のものだった。そしてとても愛情深く、慈悲深い。まるで女神のよう。自分でいうのと他人がいうのとでは違うこともあるけれど、その点はすでに「トットちゃん」で折り紙つきである。ちょっと魅力的すぎませんか? ちなみにこの本、ミリオンセラーになったそう。そりゃあ、朝ドラにもなるわな。

 いまの時代は徹子さんの本で続編を含めてトモエ学園だけではなく、戦争体験の話も語られているから、大人と子どもでの視線の違いを比較できるのもおもしろかった。もちろん被っているストーリーもあるのだけれど、被っていないストーリーもあったりして。子どもといえど、それはもうきちんとした、親とは違う人格を持っていることがわかるし、親は親で子どもとは違う俯瞰の視線を持っていることがわかる。小説ではよくある手法ではあるが、エッセイでここまで物語としてしっかり構成されているのは、あまりなかなかないかもしれない。

 どうしても有名人だから徹子さんの話が多くなりがちだけれど、ほんとうは子どもたちのエピソードを均等分に書きたかったんじゃないかなあ、と本を読み終え閉じたときに思うのである。


geno1132 at 23:50|Permalink