除染作業員達は、危険手当て等もあり、暴力団達からピンハネされているとはいえ、1ヶ月の給料は普通のサラリーマンとは比べ物にはならないぐらいにもらっている。

     金はあるけれど遊ぶところが少ない被災地では、夜、スナックで呑み歩くしかストレスを発散させる術がない。

     しかし、酒が入れば次に出てくるのが性欲で、あろうことか呑んでいたスナックの入り口の鍵を勝手に掛けてしまい、スナックの女性従業員を犯すという事件が多発。

     また、白昼、中学生の女の子が全裸で泣きながら街中を歩いているところを地元住民に助けられるという事件も起こり、除染作業員による中学生の女の子の強姦という、とてもやりきれない事件も起きてしまった。

     また、除染作業員の殺人事件や死亡事故が続いて起こり、世間的に除染作業員=暴力団関係者、またはそれに類似した存在と認識されるようになり、それに対して危機感を感じた政府は新たに採用する除染作業員を身元のハッキリした者で、身体検査でなんの異常もない者、刺青や小指の欠損などがない者に限定するなど、雇用の際に厳しいチェックを求めるようになった。

     東日本大震災から5年が経過した今、以前より除染活動は少なくなってきて、避難区域も徐々に解除となってきてはいるものの、あとしばらくは除染作業は続くものと思われる。

     しかし、毎日のように大なり小なりの除染作業員による事件、事故は起きている。

     それを政府や東電は決してマスメディアでは発表しない。

     暴力団の癒着も、県外の人達には、あまり知られていないのも事実だ。

     今、福島県いわき市は、まさに治外法権、無法地帯と化している。

     現地の人間しかわからないことがまだまだたくさんある。


    http://r-zone.me/2016/07/post-1604_2.htmlより転載

    神津連合会長、希望の原発政策批判 30年ゼロ「幅を狭めた」 東京新聞 2017年10月28日 衆院選の結果について話す神津会長=水戸市で  連合茨城は二十七日、水戸市内で定期大会を開いた。 出席した連合の神津里季生(りきお)会長が会見し「時期は特定していないが、将来的には原子力エネルギー依存から脱却する。一方、地元住民の同意が得られれば再稼働もありうる、というのが連合の統一認識」と説明した。  その上で、支援した希望の党が公約で「二〇三〇年までに、原発ゼロ」と掲げたことを批判。「小池(百合子)代表の周辺が、いたずらに政策の幅を狭めた」と希望の公約を批判した。  神津会長は、東海第二原発の再稼働の是非を巡り、県内の公認候補で、賛否が分かれた点に「(三〇年までと期限を切ったことで)候補者間の意見が違うように見られてしまい、希望が失速した一因になった」との見解を示した。  その上で、民進党が掲げていた、三〇年代の脱原発についても「ハードルが高いと思っている」と指摘し、「廃炉技術の確立や再生エネルギー普及など、きちんとした裏付けを伴う工程表を政治の責任で確立していくことが必要」とした。

    帰還後の福島:「おかえりなさい浪江町」ではない、「さようなら浪江町」だ

    人影がない帰還後の浪江町

    人影のない町での「おかえりなさい」

    私は富岡町に一人でずっと残っている松村直登(まつむら・なおと)さんの案内で、富岡町と同じく今年3月31日に帰還宣言をした浪江町を訪れた。松村直登さんは、原発事故後もずっと避難せずに富岡町に残り、動物たちと暮らしてきた男性で、その暮らしを私はドキュメンタリー映画「ナオトひとりっきり」という作品にし、この4年間、取材を続けてきた。

    浪江町は富岡町の3倍以上の面積があるが、帰還が許された地域は、わずかその3分の1程度。富岡町と同じく、全体の人口の約1割が帰還しているというが、町の中心には、ほとんど人影がない。富岡町より早く4月に鉄道が再開し、駅もオープンしているが、ほとんど無人のままだ。商店街もほとんどシャッター通りのままで、富岡町よりさらに荒涼とした雰囲気がある。町役場の前に掲げられた「おかえりなさい浪江町」という看板が、むなしく見える。

    帰還後の富岡町の様子については、先に公開した私のレポート「帰還後の福島:富岡町ーみんな帰ってこない、でも大地とともに生きる」を見ていただきたい。https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamuramayu/20170728-00073661/

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    後5年、牛たちが生きている間に原発を終わらせる

    松村さんの友人で、浪江町に原発事故後も残り続けている吉澤正巳(よしざわ・まさみ)さんの牧場を訪ねる。吉澤さんは震災前から、原発から20キロ圏内にあるこの場所で、牧場を営んできた。原発事故後、政府の殺処分命令と避難勧告を拒否し、ずっとここに牛たちと残り続けてきた。現在も300頭近い牛たちと暮らしている。「経済動物ではなくなった牛たちを生かしておくということは、牛飼いから見たら馬鹿げたことかもしれない。でもこの牛たちを生かしておく意味があるんだ」と語る吉澤さん。原発事故から6年間、寄付金や無料提供の飼料と、ボランティアの手助けで、なんとか牛たちを生かしてきた。牧場の名前を「希望の牧場」と改め、牛たちを「原発事故の生き証人」として生かしてきた。吉澤さんには、さらに目指していることがある。「この牛たちは後4、5年ほどで、ほとんどが死に絶えるだろう。原発事故から10年経って、この牛たちが生きている間に、なんとか原発をなくしたい」と熱く語る吉澤さん。しかし吉澤さんの顔には、松村さんと同じく疲労の影が滲み出ている。いつ終わるのか先が見えない戦いの中、生き生かしていくことの重圧を二人の姿に感じた。

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    「おかえりなさい浪江町」ではなく、「さようなら浪江町」

    浪江町で活動するだけでなく、渋谷にも月に一度は訪れ、反原発を訴えてきた吉澤さん。その歯に衣着せぬ物言いで、町の人たちとも何度も対立してきた。富岡町と同じく、年寄りしかほとんど帰還していない浪江町の状況に、「町の未来はない」とずばり語る吉澤さん。「元の町に戻るなんてことありえない。ここでもう一度、農業や酪農ができますか?年寄りが死んで、人口が減り、財政が成り立たなくなり、やがて浪江町は、双葉や大熊町と合併させられて、『ふたばみらい市』みたいな名前になるでしょう」と町の未来を語る吉澤さん。「町の人たちに怒られるけど、私ははっきり本当のことを言うんだ。これは『おかえりなさい浪江町』ではなく、『さようなら浪江町』でしょう。私たちは、表向きの復興にごまかされるんじゃなく、現実を直視しなくてはならない」吉澤さんの言葉には、この双葉郡の人たちが晒されてきた様々な不条理に対する怒りがこめられていた。

    「原発事故が終息していないのに、帰還が本当に可能なのか?」その疑問を抱えて、今回、私は富岡町と浪江町を訪れた。4年間、この地域に通い続けて、どこよりもこの地域が急速に変化してきた様子を見つめてきた。表向きには町は再建しているように見える。しかし、人々が置かれている状況は何も変わっていないという印象を受けた。松村さんが数年前に予測したように、戻ってきているのはやはり年寄りたちばかりだった。原発事故前のように、年寄りたちは自分たちの田畑を耕し、その恵をいつくしみながら、しあわせに生きている。若い人たちは帰ってこないが、他所からきて住みついた若い作業員たちはいる。吉澤さんが言うように、この地域が元に戻るということはありえないだろう。私たちは「復興」という言葉の現実をしっかりと理解しながら、別のかたちで歩み始めたこの地域を見守っていくしかないのかと思う。

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    【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

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