私は子供のころから口下手なので、
自分の心を的確に伝える事が苦手です。
しかし、偶然に、
私と同じ様に娘さんを亡くされた
お母様のブログを見つけたので、
ご紹介し、一部抜粋し、私も、全く同じであると
お伝えしたいと思います。
Kikiのアメリカ生活―
アリゾナとオハイオに暮らす日本人女性の日々―
というブログの中に私の気持ちがありました。
以下、その一部です。
娘が自殺し、私は娘に拒絶されたような気持ちで仕方がない。
私にとって娘は希望であり未来であった。
そういう意味で「必要」であり
「いつまでも共に生きてほしい」存在であった。
しかし、娘は死ぬ数週間前から
自分の存在価値を見出せなくなり、
生きる希望を見失い、
反対に誰からも必要とされず
かえってみんなの厄介ものになっていると感じ
苦しんでいたのではないだろうか。
自分と似たところがあって、
亡くなった娘は誰かの役に立つりっぱな人になることで
自分の存在価値を見出そうとしていたように思う。
親の離婚で「普遍」だと信じていた「愛」が
頼りないものだと感じたときから
自分自身の存在価値も
揺らいでしまったのかもしれない。
そういう意味で娘の死は親である
私の責任以外の何物でもない。
愛するわが子を死なせてしまった。
苦しんでいる時に救ってあげられなかった。
どんなに娘が大切な存在で愛していると言っても
娘の心には届いていなかった。
しかし、私に何ができたというのであろう。
一瞬たりとも目を離さず見張っていたら
娘は生きる苦悩から開放され
幸福な人生を送ることができたであろうか。
何日か何ヶ月か娘をこの世に
とどめておくことはできたかもしれない。
しかしいつ何時またいつものひどいうつ状態に陥り
人が変わってしまったように
なってしまうかわからなかっただろう。
娘だけではなく、家族も友人も、
そして彼女にかかわった全ての人が彼女を愛しながら
いつ失うのではないかという不安と、
救うことができない絶望感と無力感で生きていた。
あるものは疲れ果て彼女の元を去り、
また娘自身が愛を失うことを恐れ
手の届くところにある愛さえ無いと嘆いた。
愛する人に自殺されることは
その人からの究極の拒絶のように感じる。
「あなたは無能、私を救えない」と言われ、
そのチャンスさえ残してくれず、
逝かれてしまったような・・・。
この世の中にはどんなに大切に思っていようが、
どんなに愛していようが、
どんなにどんなに頑張ってもどうにもならないことがある、と、
娘の自死を目の前にして思う。
「頑張ってできないことはない。
死ぬ気でやればできないことなんかない。
できないのは頑張りが足りないから」と、言われて
大きくなったし、
自分もそうだと思って必死で頑張って生きてきた。
しかし、自分は神様でもスーパーマンでもないのだ。
悲しい、
悲しい事実だが
人にできることには限りがある、
どんなに頑張っても
この世の中にはどうすることもできないことがある、
その事実を否が応でも受け入れなければいけない。
そうでなければ、
「もし、あの時ああしていたら」
「もし、あの時すぐに電話をしていたら」と、
永遠に抜け出せないこの世の地獄に落ちて
過去の一点にとどまってしまったままになるからだ。
人は、本当に無力だ。
悲しいほど無力だ。
そして、おろかな生き物だ。
どんなに守ろうとしても守りきれないものがある。
悲しいことだが、それが事実。
それなのに私はその自然のありようを受け入れられず
「なんとかできたのではないか」ととどまる。
とどまってはいけないのだ。
失ったものは戻らない。
人は無力なのだ。
だから、今この手にあるものを失わないよう
必死で守らなければいけない。
「永遠」などというものは・・
存在しないのだから。
以上、私と全く同じ気持ちの部分でしたが、
世の中には、羨ましいくらい
自分自身の気持ちを正確に言える方々がおられます。
全文を読まれたい方は、ブログURLをご紹介します。
少しでも、自死遺族の皆様の心が安らぎますように・・
↓ ↓ ↓
https://phoenixazkiki.wordpress.com/2015/09/25/%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%8C%E7%A9%BA%E3%81%97%E3%81%84/

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自分の心を的確に伝える事が苦手です。
しかし、偶然に、
私と同じ様に娘さんを亡くされた
お母様のブログを見つけたので、
ご紹介し、一部抜粋し、私も、全く同じであると
お伝えしたいと思います。
Kikiのアメリカ生活―
アリゾナとオハイオに暮らす日本人女性の日々―
というブログの中に私の気持ちがありました。
以下、その一部です。
娘が自殺し、私は娘に拒絶されたような気持ちで仕方がない。
私にとって娘は希望であり未来であった。
そういう意味で「必要」であり
「いつまでも共に生きてほしい」存在であった。
しかし、娘は死ぬ数週間前から
自分の存在価値を見出せなくなり、
生きる希望を見失い、
反対に誰からも必要とされず
かえってみんなの厄介ものになっていると感じ
苦しんでいたのではないだろうか。
自分と似たところがあって、
亡くなった娘は誰かの役に立つりっぱな人になることで
自分の存在価値を見出そうとしていたように思う。
親の離婚で「普遍」だと信じていた「愛」が
頼りないものだと感じたときから
自分自身の存在価値も
揺らいでしまったのかもしれない。
そういう意味で娘の死は親である
私の責任以外の何物でもない。
愛するわが子を死なせてしまった。
苦しんでいる時に救ってあげられなかった。
どんなに娘が大切な存在で愛していると言っても
娘の心には届いていなかった。
しかし、私に何ができたというのであろう。
一瞬たりとも目を離さず見張っていたら
娘は生きる苦悩から開放され
幸福な人生を送ることができたであろうか。
何日か何ヶ月か娘をこの世に
とどめておくことはできたかもしれない。
しかしいつ何時またいつものひどいうつ状態に陥り
人が変わってしまったように
なってしまうかわからなかっただろう。
娘だけではなく、家族も友人も、
そして彼女にかかわった全ての人が彼女を愛しながら
いつ失うのではないかという不安と、
救うことができない絶望感と無力感で生きていた。
あるものは疲れ果て彼女の元を去り、
また娘自身が愛を失うことを恐れ
手の届くところにある愛さえ無いと嘆いた。
愛する人に自殺されることは
その人からの究極の拒絶のように感じる。
「あなたは無能、私を救えない」と言われ、
そのチャンスさえ残してくれず、
逝かれてしまったような・・・。
この世の中にはどんなに大切に思っていようが、
どんなに愛していようが、
どんなにどんなに頑張ってもどうにもならないことがある、と、
娘の自死を目の前にして思う。
「頑張ってできないことはない。
死ぬ気でやればできないことなんかない。
できないのは頑張りが足りないから」と、言われて
大きくなったし、
自分もそうだと思って必死で頑張って生きてきた。
しかし、自分は神様でもスーパーマンでもないのだ。
悲しい、
悲しい事実だが
人にできることには限りがある、
どんなに頑張っても
この世の中にはどうすることもできないことがある、
その事実を否が応でも受け入れなければいけない。
そうでなければ、
「もし、あの時ああしていたら」
「もし、あの時すぐに電話をしていたら」と、
永遠に抜け出せないこの世の地獄に落ちて
過去の一点にとどまってしまったままになるからだ。
人は、本当に無力だ。
悲しいほど無力だ。
そして、おろかな生き物だ。
どんなに守ろうとしても守りきれないものがある。
悲しいことだが、それが事実。
それなのに私はその自然のありようを受け入れられず
「なんとかできたのではないか」ととどまる。
とどまってはいけないのだ。
失ったものは戻らない。
人は無力なのだ。
だから、今この手にあるものを失わないよう
必死で守らなければいけない。
「永遠」などというものは・・
存在しないのだから。
以上、私と全く同じ気持ちの部分でしたが、
世の中には、羨ましいくらい
自分自身の気持ちを正確に言える方々がおられます。
全文を読まれたい方は、ブログURLをご紹介します。
少しでも、自死遺族の皆様の心が安らぎますように・・
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