古来、日本には、個性や十人十色という考え方は全く存在していなかった。

谷知子「古典のすすめ」より
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古典文学の時代には、個性や十人十色とは全く逆の考え方が存在していました。それは、全ての物事に、一つの理想、型があるという考え方です。日本には、茶道・華道・武士道など、数多くの「道」の世界があります。道の世界は、理想、型と深く関わっています。例えば、茶道を例に考えてみてください。歩き方から座り方、手の動かし方、一挙手一投足にわたって、型をまずはたたき込まれます。自由にお茶碗を持って飲めばいいというものではありません。日本の歌舞伎なども同じです。型がなければ歌舞伎ではありません。型を完全に身につけた後、初めて個性が生まれるのであって、初めから自由きまま、勝手に振る舞うことは許されません。長い年月をかけて、研究されてきた結果、一番かっこよく、美しく、かつ力が発揮できる型があるのだという信念が、日本の道や伝統を貫く基本路線なのです。

理想の型は、和歌・連歌・俳諧においては、本意と呼ばれます。本意とは、景物や人間の本質、もっとも価値ある状態、理想的な姿を言います。自然においてもありのままを写生するのではなく、その姿が最も理想的な輝きを見せる状態を本意と言い、そこをとらえるのが文学や芸術なのです。しかも、個人が定めるものではなく、集団で形成し、共有する美意識です。

例えば、季節です。季節によって、感情が決まると言われたら、いかがですか?そんなことは人それぞれだというのが、現代人の発想でしょう。しかし、古典文学の時代は違います。例えば、秋は悲しい思いをかみしめる季節というのが本意です。人によっては、秋になると気持ちが明るくなるという方もいるでしょう。でも、これはお約束なのです。そして、悲しいから秋がきらいなのではなく、思う存分悲しむことができるからこそ、秋はすばらしい季節なのです。

本意は名所にも及びます。和歌に用いられる名所を歌枕と呼びます。それぞれの歌枕では、「フォトジェニック(写真映え)」が重視され、その土地を輝かせる定番の景物や意味がセットになっていました。例えば、山城国(京都府)の「小倉山」は紅葉、みちのく(東北)の「塩竈(しおがま)」は煙・霞というように。どうしてそういうお約束ができたのでしょうか。それは、歌枕ごとに異なる事情があり、一様ではありません。例えば、宇治(京都府)は、霧深く憂いに満ちた土地というイメージが本意です。その背景には、「宇治」が「憂し」の掛詞として詠まれるようになったという事情があるでしょう。つまり、音のつながりによるもので、実際に宇治が「憂し(つらい)」かどうかは関係ありません。

こうした本意は、和歌を詠むという行為だけにとどまりません。自然や人間の営みの理想的なあり方、規範と深く関わっていました。集団が共有する美意識とでも言いましょうか。雑多で混沌とした自然や人事を秩序だて、抽象化しようとする営み、これが本意なのです。そして、和歌や俳諧といった文学作品にとどまらず、人間の現実社会の行動規範と相互に深く関わっており、作品世界の理想と現実世界の理想に区別がなく、一つの方向性を示していたことを物語っています。

人はこのような型をどうやって身につけ、理想に近づいてゆくのでしょうか。それはやはりモデル、規範を見て、学ぶことから始まります。和歌でいうと、「古今和歌集」や「堀河百首」といった歌集が典型的な規範ですが、何も歌書に限りません。藤原俊成は、「六百番歌合」の判詞で、歌人はすべからく「源氏物語」を読むべきと教えています。