厳選生活宣言

いいものはいい。そんなモノたちにかこまれて生活したい

 7月17日、日本とEUでEPA(経済連携協定)の合意が行われた。世界経済の3割を占める市場が、自由貿易(関税撤廃)に踏み出したということになる。

日本の消費者にとってのメリットは?

 例えば、フランス産のワイン一本(750ml)は、100円ほど安くなる。他にも、チーズやチョコレートなど10年位かかるとしても、10%ほどの関税が撤廃されていくという。

 小麦などの農産物も同様。

日本企業にとってのメリットは?

 自動車関税10%が即時撤廃され、他にもテレビなど、日本企業にとっては追い風となる。

日本の農業を含めてメリットはあるのか

 ツール・ド・フランスを見ていたら、沿道の景色が美しい。もちろんある程度はきれいなところを選んで放送しているだろうけれど。だが、人口などはごまかせない。地方であってもちゃんと地域社会が崩壊せずに、バランスよく国土が美しく保たれている。シャッター街など無縁に見える。

 どうしてそうなのかは明らかで、西欧先進諸国では農業に対する保護が徹底していて、農家の収入が1000万円だとすると、政府からの補助金が500万円から800万円くらいある。特にスイスは、平らな耕地など少ないから、その保護は桁外れに大きいらしい。それに対して日本は、160万円ほどらしい。

 その補助金は、それぞれの国が国土を美しく保つためだけなら別にいいのだが、農産物が輸出に回ることになると貿易相手国の農業を破壊する。アフリカや南アメリカはそれで国土が荒廃している。そういう国々も補助金を入れればいいではないか、とも思えるが、貧困な国(日本もそのひとつ、と考えるしかないだろう)では、そんな余裕はない。だから、自国農業の保護のために高率の関税をかける。インドなどでは100%以上の関税をかけて自国の農業を守っているという。さらにEUは補助金で保護すると同時に、平均18%の関税で自国産業を守る。日本は補助金が少ない上に、関税は平均して12%と、どの面から見ても保護されていない。だから、日本の地方都市はシャッター街ばかりになって、美しい国土などは夢のまた夢、その上森林や水田が手入れされないと、雨が降ったらとたんに災害が起こる。それを防ぐためにダムを作るが、ダムをつくること自体が本末転倒ともいえるし、災害時に放水するのであれば、一体なんのためにあるのか、という疑問もわく。

輸出で儲かるからいいじゃない?

 と思っていたら、必ずしもそうでもないかもしれない。日本車が売れる、と期待するのはいいが、すでに現地に工場はたくさんある(ポルトガル、スペイン、フランスなど)。すでに日本車が手に入りやすい環境があるとすれば、期待できるほどのメリットがあるのかどうか。その上、ヨーロッパでは、ディーゼルから電気への移行が図られており、どちらかというと現在も、そして今後も日本車の出番は少ない。

 テレビなども、液晶でもそうだし、今後伸びると期待される有機ELにしても、韓国どころか中国にも負けつつある。

 結局、今回の合意は、EUにとってのメリットは大きいが、日本にとっては、国土の荒廃を招くだけの、とんでもない合意となってしまうおそれがある。

自由貿易は常に善といえるのか

 ニュースをみていると、自由貿易が正しく、それを妨害するのは一時代前の重商主義であるかのように攻撃を加えることが多い。だが、自由貿易をそれ自体として目的化しても、もしそれが国土の荒廃や災害をもたらすのであれば、政治の役割は、まず何よりも国民と国土を守ることでなければならない。

 EUだけでなく、北朝鮮も、韓国も、アメリカも、政治家たちは本当に賢い。優秀なスタッフを揃えて外交をしている。

 日本は、自由貿易で一致した、などと手放しで喜んでいたら、ひどい目に会うかもしれない。

 ちょっと面白いツイートがあり、それは

正直に言う。
俺はベルギーを応援した。
日本が嫌いなわけじゃない。
安倍日本が大嫌いなだけだ。
安倍がサッカーを政治利用し、メディアが愛国を鼓舞し、日本はすごいと騒ぐのを観たく無いだけだ。
早く、以前のように、素直に日本チームを応援できる日が来て欲しい。

というもの。

 これに対しては、なんと偏狭な、安倍が嫌いだからといってサッカーを純粋に楽しむことさえできなくなるほど歪められている、反アベの人たちは、ここまでいっちゃってるのか、というような批判がある一方、意外にも賛成する意見も結構多いという。

あやかるのはみんな同じ

 安倍日本というが、外国元首だって同じじゃないか、メルケルさんだって、結構サッカーの応援や観戦をしているようだし、その報道もされている。ちゃっかりとドイツのサッカー人気にあやかっているではないか、といえばそういう気もする。だがイギリスのメイ首相のように基本的に冷ややかな態度をとっている人もいるから、ひょっとすると他の国の元首は多少のあやかりはあるとしても、基本は自分がサッカーが好きだったら騒ぐし、興味がなければ冷ややかなのかもしれない。

 魂胆が透けて見えるほどだとしたら、安倍さんに対して上のようなコメントが出てくるのは当然といえるが、それも単に安倍さんが嫌いだから、というに過ぎない。

日本人として

 よく安倍さんは何かで注目された人に祝意を表すとき、同じ日本人として誇らしい、というようなことを言う。純粋な賞賛や祝福とは別のものをぶち込んでくる。この違和感がもしわかりにくければ、メルケルさんが仮に、同じゲルマン人として誇らしい、といったらどうなるか、考えてみたらわかる。国際的に見て、もしよそがやったら、ナチス復活を思い出させるようなことを平気で言ってしまうのは不用意なのか、わざとなのか。

 不用意であるとすればリーダーとして不適格だし、わざとならば、政治家としても存在してはならないことになる。

 少なくともこういう人がスポーツを利用すると思えば、日本の活躍を純粋に喜べないという気持ちはわからないでもない。ツイッターの主自身は日本の活躍自体はうれしいし、祝福したいとおもっているのだろうが、雑音が大きすぎる、というところなのだろう。

国を愛して何が悪い?

 最近、このテの開き直りがよくきかれる。実際には最近ではなく、国を思うて何が悪い、という右翼の本も昔からあった。この土俵設定自体がある種のダマシに過ぎず、以前はこんな話に乗るほど思考能力の低い人はいなかっただけだ。最近は、自らおバカ芸人を公言する人が、売れ続けるためだろうか、愛国心を"最後の隠れ家"(「愛国心は悪党の最後の隠れ家」ということばから)としてしまっている。

 中には、自分は小さい頃から国を愛してはいけないと教わってきた、というつくり話をする人までいる。実際にはそのようなことを言う教員などおらず、仮にひとりいたとしても、「教わってきた」つまり、そういう教育の中にいた、などというのはありえず、悪質な、全くのつくり話である。

 愛国心が悪いなどという人はいない。問題は、誰が唱えるかということと、唱える時のシチュエーションだ。例えばアメリカはいい国だ、すばらしい民主主義の国だ、それを世界に教え広げなければならない、そういう大統領のもとで、しかも実際に”対テロ戦争”と銘打つ侵略戦争が行われようと言うシチュエーションで、一緒にアメリカ万歳を叫ぶことが何を意味するか、わからない人はいないはずである。誰が、どのシチュエーションで言うかによって、同じ言葉は全く違う意味を持つ。真冬に冷水を浴びると健康になる、ということが総論的に正しくても、その状況によっては人殺しにもなりうる。

 教団を思うて何が悪い、というのは教団が正しい方向に向かっている場合にいえるのであって、場面によっては破壊的な考え方にもなりうる。だから、いま教団のリーダーが誰で、自分たちをどこに連れて行こうとしているか、を議論することが大事であり、その議論をすっ飛ばして、教団を愛せよ、という強制がなされるときは、おそらく教団は間違った方向に進んでいる。いずれ、教団を愛することが仏教を愛することそのものだといえる時が来てほしい、本当に仏教に帰依し、メンバーを愛する信者ならそう思うのが普通ではないか。

 地下鉄サリン事件に関係したとされる、麻原彰晃をはじめとする死刑囚7人に対して死刑が執行された。オウム事件については、本当にサリンなのか、症状や液体の形状が違うではないか、とか、あんな俗っぽいリーダーが、崇高(?)な理想を追求して事件を起こすとは考えられない、動機が不明に過ぎる、などの批判があるらしいが、あまりに謎すぎてよくわからない。だから死刑についてだけ考えてみたい。

死刑=国家による殺人

 死刑は戦争と同じく、国家による殺人であることは言うまでもない。問題は、それが何かの目的のために是認される場合というものがあるかどうかだ。

 犯罪抑止に効果があるなら是認されるかもしれない。一罰百戎を額面通りに受け止めれば一人死刑にすれば100件の殺人事件、しかも死刑になるのは二人以上を殺害したときだから、200人以上の命を救えることになる。本当にそうなら、死刑制度に反対する人はいない。

 現実にはどうか、というと、死刑にそのような効果があるという研究はないらしい。

 アムネスティー・インターナショナルのページでも

国連からの委託により、「死刑と殺人発生率の関係」に関する研究が、たびたび実施されています。最新の調査(2002年)では「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」との結論が出されています。

ということらしい。

 しつけの効果がないのに子どもを殴る親がいるだろうか。中にはちょっとした子どもの行動に、殴らないと気がすまない親もいるかもしれない。頭がおかしい親、と思うのではないか。もしそうだとしたら、日本は頭のおかしい国、これが現在の死刑の現状というところだろうか。

 実際、安倍首相と法相が オウム死刑執行前夜の“乾杯”だそうで、死刑がうれしいのだろう。もちろん、そのうれしさは、肩の荷が下りたような気持ちもあるのかもしれないが。いずれにしてもうれしいのだろう。

死刑もやむを得ない?

 あれだけのことをやったのだから死刑もやむを得ない、という驚天動地の理由を述べる人もいる。右手で物を盗んだ人は右手を切り取られる制度があった。その時代に、それはやむを得ないことだ、という人がいたら、現代人ならどう思うだろうか。そんな不合理な制度に慣らされてしまって、時代のわくの中でしか善悪を判断できない人、と思わないだろうか。

そんなことを理由に人を殺すのか、そんな人たちなのか、と思われても、サッカースタジアムでゴミを拾うのだからまだ日本人は世界で尊敬される、ということだろうか。

内政干渉?

本件の重大性にかかわらず、EUとその加盟国、アイスランド、ノルウェーおよびスイスは、いかなる状況下での極刑の使用にも強くまた明白に反対し、その全世界での廃止を目指している。
死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である。日本において死刑が執行されなかった2012年3月までの20カ月を思い起こし、われわれは、日本政府に対し、死刑を廃止することを視野に入れたモラトリアム(執行停止)の導入を呼びかける。
われわれは、友人であり同じ考えを持ち、価値や原則を共有する日本を含めた、全世界における死刑廃止を引き続き積極的に追い求める。
われわれはそれを、建設的な精神を持って、また国連人権理事会の普遍的・定期的レビュー(UPR)の枠組みにおける勧告に則って行う

 こういうことに対しても、放っておいてくれ、という人もいる。だが、なぜそんなに消極的なことしかいえないのか。放っておいてくれ、ということ自体もはや他国への説明の自信を失っている。合理的な説明が出来ないということは、日本人の多くが、不合理の塊と思っている、イラン・中国を始めとする死刑実施国の面々と同じ扱いを受けるということでもある。だが、我々日本人には、それでも構わない、死刑をやり続ける、などという覚悟もなく、ただ状況に流されるように人が殺されるのを拱手傍観している、というのが正直なところだろう。

 アメリカで法律婚をしたにもかかわらず、日本の戸籍に婚姻が記載されないのは、立法に不備があるとして、映画監督の想田和弘さんと舞踏家で映画プロデューサーの柏木規与子さん夫妻が6月18日、国を相手取り婚姻関係の確認などを求めて東京地裁で提訴した。今年になって起こされた夫婦別姓訴訟はこれで3件目となる。
(中略)
今年1月には、ソフトウェア企業「サイボウズ」の社長、青野慶久氏ら4人が戸籍法上の問題を指摘して、東京地裁に提訴。また、2015年に最高裁まで争われた夫婦別姓訴訟の弁護団が5月、事実婚をしている7人を原告に、別姓の婚姻届が受理されないのは「信条」の差別にあたるとして、東京地裁と立川支部、広島地裁の3カ所で同時に提訴、第二次夫婦別姓訴訟を起こしている

弁護士ドットコムより

 このご夫妻は、ニューヨークで婚姻届を出し、6月6日、日本でその証明書を提出して婚姻届を出そうとしたところ、夫婦別姓のままでは戸籍が作れない、として受理されなかったという。婚姻関係の公証を目的とする戸籍法の不備であるとして、慰謝料20万円の支払いを求めて訴訟を起こしたという。

 想田さんは「僕らは独立した人格のまま、仲良くやっていこうという結婚観。同姓の方がしっくりくる人はそれでいいと思うので、僕らの欲求も認めてほしい」と訴えた。(朝日新聞より)

夫婦別姓を認めないのは日本だけ

 想田監督が結婚したアメリカ合衆国は言うまでもなく、現在でも選択的夫婦別姓を認めていない国は日本以外ほとんど存在しない。そのため、日本は国連の女性差別撤廃委員会から夫婦同姓の強制が問題視され、改正を求められているほどだ。夫婦別姓を認めた国で、それによって家族の絆が崩壊しているのかといえばそんなことはないし、夫婦同姓を強いている日本でも多くの夫婦が離婚している。

リテラより

 このことは、確か民主党の岡田克也さんが、安倍さんだったか自民党の議員に、先進国でこれを認めないのは日本だけなのに、どうしてそんなに頑ななのか、と迫るシーンをテレビで見たことがあるので、本当なのだろう。

家族制度が崩壊する?

 安倍さんは、「夫婦別姓は家族の解体を意味します。家族の解体が最終目標であって、家族から解放されなければ人間として自由になれないという、左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)。これは日教組が教育現場で実行していることです」(「WiLL」ワック2010年7月号)

と発言しているという(上記「リテラ」さんより)。

 安倍さんの頭の中では、日本以外の国はすべて家族が崩壊しており、共産主義のドグマに侵されていることになる。世界が共産主義国家に見える、例えばヨーロッパには右翼政権と言われる国もあるが、そんな国でも夫婦別姓を認めている。ということは右翼すら共産主義、おそらく極左に見えるのであれば、安倍さんは右翼から更に二段階右、つまりみずから極極右の立場を取るとおっしゃることになる。

日本の伝統か

 実は、家制度の歴史というのは明治31年の旧民法制定から敗戦までの50年弱しかない。しかも、明治5年にみなが名字を持っても、結婚するときは多くの女性が姓を変えなかったという。つまり、日本の文化、日本人が持っている感性が、実は夫婦別姓であるということである。これは、朝鮮や中国も夫婦別姓であることから見て、文化的に自然なことなのだろう。

 ところが、明治31年、日本の習慣、感性を無視、というより正反対の文化を強要する形で、女性は夫の「家」に入るものとされた。どうしてこのような、日本の文化や感性を無視するようなことをしたのか、について、家族法研究の第一人者である中川善之助さんは、あの時代は何でも西洋の真似をすればいい、という風潮だったので、キリスト教国の真似をしたのだろう、と言っておられる(以上、「日本の無戸籍者」井戸まさえ著より)。

 つまり、多くの右翼文化人や、極極右政治家である安倍さんが考えている日本文化とは異なり、夫婦同姓の強制は、日本の伝統でも何でもなく、たかだか50年弱、しかも強制されただけのものであり、むしろ日本の伝統を破壊するもので、その上、なんと猿マネだった、ということになる。

 ところが、猿マネなら、お手本である西欧諸国が夫婦同姓などとっくにやめているとすれば、お手本に合わせるべきだろう。それすらできない。

実は西欧自体も猿マネ

 日本がお手本とした西欧諸国、特に文化面ではイギリスだが、そのイギリスも、何かきちんと考えがあって、例えばキリスト教の教義や原則に従って夫婦同姓をしていたのではないらしい。BBCのサイトで言っていたのだが、妻が夫と同じ姓を名乗るのは、1066年(ノルマン人の征服)に起源があり、イギリスに乗り込んできたノルマン人の風習では、結婚したら妻は夫の財産の一部になる、とされていることから始まったものらしい。つまり、妻は夫の持ち物なのだから、持ち物に名前を書いておくように妻にもその名前タグがつけられたものだということだ。それを無反省のままずっとやってきただけであって、別にキリスト教は関係がないらしい。このことは、フランスの思想家ミシェル・フーコーも認めており、異民族の風習であったという(「性の歴史」)。

 だから、イギリスでも1000年前には何も考えないまま猿マネをしたということだ。アホだな、と思うかもしれないが1000年前なのだからやむを得ない面もあるだろう。だが、日本は、猿マネを猿マネした、のである。しかも900年後に。そして、1000年後である今も、日本は、「猿マネ」という言葉自体がサルに失礼なレベルにある。

なぜ家制度を必要としたのか

 明治維新は、なんの正統性もなかった。どの革命も始まりは暴徒により起こされる。だがフランス革命では、選挙制度を整備することによって、自分たちはただの暴徒ではなく、国民の意志に裏付けられた革命を起こしたという正統性を獲得した。だから、「近代市民革命の典型」と言われる。マルクスが「理性の革命」と賞賛するのは、理念のことを言っているのだろうが、日本人が注目すべきは、フランス革命はきちんと正統性を獲得したことである。

 もし、軍事力で首都を制圧し、単なる軍事的勝利を勝手に「天の意志」などと宣言するだけなら、古代中国王朝の交代と何も変わらない、というよりそれ以下である。近代では、「天の・・・」などという言い訳で支配の正統性を獲得することはできない・・・はずである。ところが、それをやってしまったのが日本である。

 近代国家へのレールを走り始めたのは、幕府による開国からであって、ゆっくりだが、列車「近代国家日本」号は進み始めた。ところが、その列車の運転席に無能な暴力主義者が入り込み、乗っ取ってしまった。全く鉄道の知識もなく、運転も出来ないただの暴徒である。「万機公論に・・・」などと言いながら、議会の召集も選挙も憲法も、人権宣言もなし。正統性は、暴徒たちの頭の中にだけある「天」しかない。

 この無能暴力集団によるクーデターを、日本の近代化の歩み、などと学校で習って、なんの疑問も持たない、なんともおめでたい私達は、愛すべき国民ということか。普通、クーデターがあって、軍事力を背景にして政治が行われ、何十年も選挙がなされない国を見たらどう思うだろうか、そしてその原則を自分の国に適用することはできないのだろうか。自分の姿だけは見えないのかもしれない。

 その後、自由民権運動に押されて、形式的な憲法や、人口のごく一部に限られた選挙を行ったが、内閣は民意から超然とする、などとうそぶき、多少デモクラシーが進んで国民意志の反映する首相が選ばれると、次々暗殺される。

 江戸時代の、当時世界最高の知性を持つ国民の中には、まともにそして合理的に考えれば、この国の制度は根本的に是認できない、正統性を持たない、と考える人も多かっただろ(以上の点については、明治維新という過ち に書いた)。

 そんなときに、日本はそういう西欧的な民主主義とは違う国で、言わば家族のような国なのだ、という非合理的な支配の説明が必要だった。若い世代、つまり明治の教育を受けた臣民なら、知性が低いから騙せる。

 天皇一家を理想の「家族」として、天皇・皇后を「国父・国母」とし、家長を頂点とする各家族のピラミッドを積み上げた大きなピラミッドが、「国」である。その頂点になるのが、国の家長である天皇ということになる。古代中国的発想というべきか。それは、国「家」などという言葉にもきちんと現れている。ちなみに「公」とは「大宅(おおやけ)」、つまり大きな家である。

 この誤解、洗脳を続けるには、家制度が必要である。うちでお父さんの言うことを聞くのと同じように天皇陛下の言うことを聞きましょう。これが日本の、支配の正統性ですよ、と。

 明治国家を理想とする人たちが、崩壊すると恐れる「家族制度」とは、これを表している。

時事通信の記事によると、

 自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内で講演し、少子化問題を巡り「この頃、子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」と述べた。子どもを持たない家庭を批判したようにも受け取れ、波紋を広げそうだ。

 同党の加藤寛治衆院議員が5月、新婚夫婦に3人以上の出産を呼び掛けていると発言し、批判を浴びたばかり。二階氏は講演で「皆が幸せになるため、子どもをたくさん産み、国も発展していこう」とも語った。

 貧困問題に関しては「今は食べるのに困る家はない。こんなに素晴らしい幸せな国はない」と言及した。

だそうである。

時事通信サイトより

この問題についてasahi.comでは、

 「二階先生では若いママの代弁はできない」野田聖子氏

 二階氏は、講演参加者から少子化対策について問われ、「食うや食わずの戦中、戦後、子どもを産んだら大変だから産まないようにしようと言った人はいない」とした上で、「子どもを産まない方が幸せ」というのは「勝手だ」とした。

 これに対し、国民民主党の玉木雄一郎共同代表は党本部で記者団に「特定の家族観、価値観を押しつけるのは間違っている。(自民は)まさにそういった古い価値観にとらわれたおっさん政党だ」と批判した。

という。

朝日新聞サイトより

勝手な幸せ

 二階さんが言うとおり、「勝手なこと」を考えた結果、その選択が行われるのだろうか。結婚自体できないと考える若者もいる中、産むか産まないかを選択できる、ある意味贅沢な層がどういう気持ちで選択をしているか、先日話題になった、世帯年収800万でも二人目は苦しいと考える人が7割ほどいるという記事を見ればその一端がわかる。

 0~1歳児の親で、金銭的な理由から「子どもをもっとほしいが難しい」と考える人は、年収400万円未満だと約91%、同800万円以上でも約68%いることが、ベネッセグループと東京大学の調査でわかった。

朝日新聞サイトより

 おそらく、昔なら産めなくはないが、今の学費を考えると、武装させてやるお金もないのに子供を産んで戦国の世に出すようなもの、というところだろうか。もし年収800万の現在の生活が保障されるとでも言うなら、産まないでもないだろうが、将来AIに取って代わられるかも知れず、東京オリンピックの無駄遣いがどう課税に跳ね返るか、地価が暴落すれば二束三文のマイホームにローンだけが重くのしかかるなどということはないだろうか、など不安は尽きないのかもしれない。

 そんな不安を考えると、しかもその不安が自分たちの生活というより、子供に十分なことをしてやれないかもしれないという親としては一番つらいものであるとすれば、産まないほうがいいのではないか、という話になるのは当然とも思える。

 こういう判断が、「勝手なこと」なのか、なかなか難しい。

幸せは国が決める

 我々は、幸せというのは、個人の価値観の問題と考えてきたし、少なくとも戦後は、概ねそういう教育で育ってきただろう。

 だが、二階さんは、子供を産むのが幸せであると考えろ、ということになるが、もしそうなら政治家というより宗教指導者の役割を担っていることになる。政治家であるなら、なぜ子供を持つことに対する不安があるのか、それを除去するためにどうしたい、ということを掲げるのが仕事で、個人の心の問題について注文をつけることはご法度というべきだ。

 仮に各個人にお願いするとすれば、教育費の問題はこういうふうに解決するので、安心してください、というのがせいぜいだろう。逆に、人の心を国のために捻じ曲げようとすればするほど、「あ、この国はもっと悪くなるんだな」という反応が出ることも恐れないといけない。戦争末期、政治家や軍人ががなりたてるほど、日本の敗色濃厚を、口には出せないものの、感じていたのと同じ話だ。二階さんの発言が問題かどうかというより、日本の将来の空恐ろしさを感じる。

こんなに幸せな国はない

 ああ、そうですか、といいたくなる人も多いだろう。東京都の23区内ですら、夏休み明けに生徒が登校すると、すっかり痩せたね、という小学校があるという。つまり、栄養を夕食に頼っているのだ。確か、安倍さんも、子ども食堂を取り上げて、君はひとりじゃない、などと言ったが、子ども食堂などは、食べるのに困る家があることを示す例の典型ではないのだろうか。安倍さんが子ども食堂の話題に触れたということは、政府内で子供の貧困を掴んでいるということだ。もちろん、子ども食堂が急増していることも知っているだろう。

 知っていながら、誰も困っていない、と発言するということは、つまり政府は、今までも、そして今後も無策を続けますよ、と公言したということだろうか。こんなに仕事をしないで、自分がたらふく食えるとしたら、「こんなに素晴らしい幸せな国はない」とは、誰にとって?、と聞きたくなる。

戦中・戦後はどうだったのか

 戦中について、「子供を産んだら大変だから生まないようにしようと『言った人はいない』」とはどういう根拠でいえるのだろうか。こういう、「昔はこうだった』という話を根拠なくいう人は、『「昔はよかった」と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考える』 大倉 幸宏 著 や 『戦前の少年犯罪』管賀 江留郎 著 などを読んでみればいい(リンク先のブックレビューだけ読んでも最低限どういう状態だったかがわかる)。具体的な新聞記事で、どういう事件が起こっていたのか、人々の心がどれほど荒んでいたのか、奇妙に現在進行しつつある事態と合致していることに驚くだろう。全く何も知らないで想像だけで物を言ってはいけない。

発想の転換を

 子供を産む、産まないという、人間として最も基本的な自己決定権というのは、人権の中でも根本といえるものだ。人権を理解しないから、憲法のほうを自分の好みに変えようと言うのもわからないではないが、それをしても国が維持できるほど甘くはない時代に入っている。人権を抑圧する国は、教育、科学技術とありとあらゆる面で世界に遅れを取り、誰も幸せに慣れない。航海術のイロハも知らない船長に船の基本的な航路を決めさせ、大船に乗った気になり、ボクはこの船が好きだ、と言っている状態が今の日本かもしれない。

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