厳選生活宣言

いいものはいい。そんなモノたちにかこまれて生活したい

元慰安婦と夕食
<p> トランプさんは、韓国で11月7日の晩餐会の際、招待された元慰安婦に挨拶し、互いに抱擁し合ったらしい。もちろん、招待したのは韓国政府だろうが、アメリカ側との間で事前に合意してのことと思われる。</p>
<p> それに対して、日本の官房長官は「合意の着実な実施を求めていきたい」「日米韓の緊密な連携に悪影響を及ぼすような動き」として、不満を表明しているという。さらに、メニューにこの時期旬の食材とは言え「独島エビ」が振る舞われたことについて「いかがとおもう」と答えているらしい。ただ、独島エビについては、質問に答える形で述べたに過ぎないし、接待の仕方に口を挟むことについて若干の遠慮があったらしいが。</p>

<h2>独島エビ</h2>
<p> とりあえず、名物のように言われるなら一度食べてみたい。漁獲量が少なく、特に寒くなると貴重品であり、高級ずしの食材とされているらしい(一尾3000円ほど)というから、なおのこと興味がある。まあ、実際にはボタンエビみたいなものらしいが。</p>
<p> そんな高級食材だから、おそらく韓国側は狙ってやったものではないだろう。官房長官もいくら記者から水を向けられたからと言って、メニューの内容にまでコメントすべきではなく、大人の対応をするべきところだっただろう。</p>

<h2>告げ口外交?</h2>
<p> 元慰安婦の招待については、一部のネット上で「告げ口外交」などと言っているらしい。まあ誰かが言い出したのを繰り返しているだけなのかもしれないが、そんな思慮のない言葉を鵜呑みにする前に、もう少し考えてみたほうがいいのではないだろうか。</p>
<p> まず、「告げ口」という発想があまりに卑屈である。あくまでも国際社会では、各国が平等の立場にあることになっている。現実には、大国どころか超大国もある一方で、非力な小国もあるかもしれないが、おもての世界では対等に、堂々と意見をいいあう関係を目指すべきである。告げ口、などとまるで生徒が先生にするみたいに、アメリカという長いものに巻かれる、日本人の恥ずかしい発想が出てしまっている。</p>
<p> それに、「告げ口」ではない。告げ口はあくまでも相手が知らない場合に、かげで情報を伝えるものである。だが、アメリカはすでに慰安婦についてよく知っているし、実際アメリカのマスコミなどでも「性奴隷」という表現を使っている。むしろ知らないのは日本の方かもしれないくらいである。</p>
<p> さらに、韓国は「かげで」情報を伝えるようなことをしているのではない。公の、晩餐会の場でアピールしている。そのような場で行うことが果たして妥当なやり方なのかどうかについて意見はわかれるとしても、告げ口には当たらない。まるでコソコソと卑怯なやり方をしているかのように非難するのは間違いである。</p>

<h2>日本はどう受け止めるべきか</h2>
<p> 日本政府の側が、合意をきちんと履行せよというのはある意味当然だが、韓国の側と合意の解釈がずれている以上、この話は平行線になるだけである。かりに日本側の解釈が正当だとしても、韓国が慰安婦の歴史を世界に訴えることもまた納得できる。むしろ、政府が進んで、しいたげられた人を保護しようとする姿勢はむしろ日本も見習うべきとすら言える。それに対しては、別に虐げられた人の立場に立とうとしているのではなく、国内の世論に配慮しただけだろう、ある種のポピュリズムだ、というような批判もある。だとすれば、韓国の世論自体が虐げられたものの側立つというのだから、今度は日本政府ではなく、日本国民が見習うべきということになるだろう。</p>

 第48回衆議院選挙は、自民党の大勝に終わった。といっても、野党の混乱を狙って抜き打ち的に選挙をやった割には、自民党は290から284(281+追加公認3)に減らし、公明党は35から29に減らしているのだから、はっきりとした敗北である。

 さらに、予想以上の野党の混乱に加えて台風による低投票率(国民の無関心が命綱という与党という国なんだろう)という、明らかな与党有利の構図の中で、はっきりと議席を減らした。

評価は公正なのか

 これらを考えると、マスコミが大勝と評価するのはおかしい。小泉さんが郵政民営化国民投票であると言った2005年の総選挙では、小選挙区制の得票率は、自公合わせて49%であり、もし小選挙区をもって国民投票というのなら、実は小泉さんは負けている。もしあの時、「郵政民営化国民投票否決!」とマスコミが一斉に言い出したら、いまごろ郵政がブラック企業化することもなかっただろうし、本業ではプラスなのに、海外投資で失敗したために、はがき料金の値上げに尻拭いさせることもなかっただろう。もちろん、「改革の本丸」などウソばっかりだったじゃないかと後悔することもなかった。

 事実を見て自分で評価するというのは本当に難しく、一番身近なところでは、レストランの味に「ん?」と思っても「さすが三つ星」などと考えてしまうこともある。政治家の不倫など事実は同じでも、フランスのように評価にほとんど影響しない国もあれば、マスコミが面白がるのでつい、つられてしまうこともある。

選挙制度の歪み

 だが、さらにおかしいのが、現実の得票率と議席獲得率の差である。得票率から見ると、自民党を支持する人は38%しかいない。小選挙区では48%だが、これは比例区の公明党の票が選挙協力によって自民党に流れるだけで、自民党が支持されているわけではない。投票率53%と掛け算すると自民党は国民の5人に1人しか具体的な支持を得られていないということである。ところが、6割以上の議席を占有する。


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上の表は東京新聞2017年10月24日朝刊第2面より)

 民主主義というのは多数決ではない。だが、やむを得ず多数決にするときは、きちんと民意が反映されることが絶対の条件であるはずなのに、選挙制度の歪みを利用してのみ政権の生命が保たれている。これは、国民にとってだけでなく、自民党の中でまじめに仕事をしている人にとっても不幸だろう。森友・加計問題のように、税金を無駄遣いしてまでお友達に便宜を図るという税金泥棒のようなことをしても、選挙制度の歪みによって救われるのなら、まじめにやるだけバカバカしくなってくる。それが長く続くと、自民党の中にまともな政治家など一人もいなくなってしまう、というより1995年からずっとこの歪んだ選挙制度をとっているのだから、もうすでにいないかもしれない。

 憲法改正などと言う前にこの歪んだ構成の国会を、民意がきちんと反映された割合へと正してから考えるようにしないと、ろくでもない人ばかりの国会が、日本を全く誤った方向に引っ張っていくことになるだろう。今回の選挙がおかしい、などというと、ある種の負け惜しみのように思う人がいるかもしれないが、おかしいものはおかしいと言い続けるべきである。マスコミ等は、すぐに流されて大勝などというけれど、そんなものに乗せられてはいけないのではないか。

 民主主義においてはこのような選挙で大勝しても、不正選挙の結果というしかないように思う。

 「リベラルであり、保守である」。10月3日の枝野さんの演説で一番新鮮な感じがしたところはここではないか。

 だが、フランスでは当たり前のことで、フランスでは進歩派であることを左翼といい、リベラルとはどちらかというと右派を意味するらしい。フランスでの基準は別としても、歴史修正主義などは、ヨーロッパでは極右となるから、日本の自民党や希望の党、維新などは極右政党で、それを基準にしてリベラルというと普通の保守ということになる。

 だから枝野さんの言っていることは新しいようだが、フランスでは当たり前だし、日本のように政権党が極右の場合、リベラルで保守というのは、別の意味で正しいことになるのかもしれない。もちろん、枝野さんはそういう意味で言ったのでないだろうが。

枝野さんの意味するところ

 ここからはちょっとまじめに。

 枝野さんは、かつての日本について、一億総中流と言われた、経済的に平等で、互いに助け合う、おたがいさまの暖かい社会だったという。しかし、格差が広がり、貧困は自己責任である、というギスギスした、思いやりのない社会になってきた。あの明るかった日本、旧きよき日本を取り戻したい、という意味では保守であるが、そのためには格差を是正し、弱者に目を向けた政治でなければならない、という意味ではリベラルの仕事をしなければならない。

 だから、彼はリベラルとして仕事をする、然しそれは旧き良き日本を取り戻す保守でもある、そういう意味だろう。

実はその点、安倍さんも同じ

 安倍さんも旧き良き日本を取り戻そうと思っているから、主観的には同じく保守ということになるだあろう。同時に戦後レジームからの脱却と言っているから、現在の日本を改革したいという点でリベラルでもある。だが、その旧き良き日本とは一体いつを指すのかというと、彼の場合は戦前、つまり大日本帝国である。戦前の、列強に伍して戦争に明け暮れた日本こそが、安倍さんにとっての本来の日本である。戦後という枠組みを清算したいという彼の思いの先に、大日本帝国がある。自由民主党は、その意味では、改革政党としてリベラルであり、保守でもあるということなのだろう。

日本に『保守』のない哀しさ

 哀しいことに、保守が目指す、旧き良き日本とは何なのか、そのあたりがどうもよくわからない。

 内閣を事実上牛耳っていると言っていい『日本会議』などは、戦前の家制度などを旧き良き日本と考えるようだが、それとて、実際にはたかだか50年ほどの歴史を持つものに過ぎず、その上、日本人の生活や風習に根ざしたものではないどころかむしろそれに反するものを国家によって強制されたに過ぎないから、およそ伝統などと言えたものではない。なんだか日本には昔からあって、伝統として根付いていると誤解されているような制度でも、実は歴史の極めて浅い、強制された人工物だということになると、保守ってなんなの、ということになる。

 枝野さんは、戦後の一億総中流の時代、みんなが一緒に豊かになった時代を取り戻そうというし、安倍さんはもう少し前の大日本帝国。

 もっと前にさかのぼると、江戸時代には牢屋がカラになってしまうほど犯罪が少なく、時代劇などではしょっちゅうあったように描かれる斬り捨て御免など、江戸時代には誰もリアルタイムで知らなかったという、そんな時代だった。同じ島国であるイギリスは戦争に明け暮れていたが、日本は戦争など無縁な国だった。更に昔の、平安時代も全体としては死刑廃止世界記録を打ち立てるほどの国だった。

 日本において、この穏やかで平和な時代に共通するのは、遣唐使廃止や鎖国など、日本が日本だけで秩序を作った時代である。そう考えると、日本の本来の姿というのは、どちらかというと安倍さんよりも枝野さんが考えるような穏やかなものなのかもしれない。実はみな、犯罪の少ない、穏やかで平和な国、おもてなしの国というあたりにアイデンティティを感じているのではないか。

 今回の選挙は、ミサイルだ国難だ、この国を守るのだという人と、別な国を取り戻そうとする人、この価値選択の選挙とも言えるのではないだろうか。

 経済と国民生活について、枝野演説では次のように言う。

3Cと言われていた、カラーテレビ、カー・自動車、そしてクーラー・エアコン。最初は中流の中でもお金持ちしか買えなかったけれども、お隣うらやましいなと思っていると、いつの間にかほとんどのご家庭でそうしたものが手に入る、そうした時代でした、いつの間にかそうした日本社会はどこかに行ってしまいました。

 格差が拡大し、貧困が増大している。これで景気が良くなるはずないじゃないですか。年収100万の人は100万しか買い物できないんです。消費できないんです。年収300万の人が仕事を失って、非正規でアルバイトでパートで何とか食いつないで、年収100万になれば、結果200万だけ消費は減るんです。逆に年収100万の人がそこそこの給料の正社員になれて、300万になれば、増えた200万はほとんど消費にまわるんです。貧困格差は気の毒な人を助けてあげましょうという問題であると同時に、そんなことを放置しているから、いくら株価は上がっても景気は良くならない。

 格差が拡大をすれば、社会が分断をされます。社会が分断をされて、むしろ政治が対立をあおって、それで本当に日本の社会の未来は作られるんでしょうか。大きな政治の流れを変えていきましょう。

格差是正を正面から

 今までの政治は、格差の是正を本気で取り上げてこなかった。GDPや株価、成長戦略、などと「日本が勝つ」ことには熱心だったかもしれないが、肝心の国民目線での生活改善には熱心ではなかったというより後回しだった。

 おそらく、それを支えていたのは「トリクルダウン仮説」だったのだろう。要するに金持ちは儲けなさい、そうすれば、やがて国民の裾野の方まで恩恵が滴り落ちて(trickle-down)くるという。例えば、法人税を減税すると、それが投資に回って経済が活性化し、下の方まで潤う、ということになる。だが、この『トリクルダウン仮説』について、経済学者は概ね否定する。それどころか、実際に格差拡大の旗振り役をやってきたといえる竹中平蔵さんですら、トリクルダウンなんてありえない、と言い出す始末である。資本移動が自由であるいま、金持ちが儲けも期待できない、需要不足の国内経済に投資するわけがなく、カネは海外に逃げるのは目に見えている。

 そのことは海外の例を見ても明らかである。シティーグループの藤田勉さんは、マイクロソフト、グーグル、アップルが法人税の高いアメリカ、特にカリフォルニア州に本社を置き、同じくトヨタは法人税の安いアイルランドではなく、イギリスに現地法人を置いていると指摘されている(PDF注意)。つまり、企業にとって法人税はあまり重要ではないのだ。法人税の安いアイルランドにもいろんな節税用の拠点は置かれているらしいが、それらからわかることは、法人税を下げて企業を誘致しようとしても節税用の支店を呼ぶだけで、産業の活性化にはつながらず、むしろ空洞化をすすめるということである。結局、安倍さんのやっていることは、トマ・ピケティのいう、貧困国の戦略に過ぎない。わざわざ日本を貧困国の道へ向かわせているような状態になっている。

法人税を下げ、消費税を上げる政策ではダメ

 にもかかわらず、2015年、16年と毎年のように法人税減税を行い、この先もまだ安倍さんは法人税減税をやるつもりらしい。この政策は、企業からの献金で潤う自民党以外のほとんどの国民にとって害悪である。なぜなら事実上、過去の消費税導入、増税はいずれも法人税減税のために行われてきたからである。

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 グラフの出所

 これについては、法人税も実は一種の間接税であり、法人税分が上乗せされて、商品価格に転嫁されるのだから、消費税と法人税を対立するもののように捉えるのは間違いですよ、などという見解(というより、お金をもらって言わされているのだろう。曲学阿世の徒の典型である)もあるが、消費税は確実に8%取られるのに対し、法人税は法人の利益にかかるのだから、実際の法人の経済活動の0.1%ほどのコストアップに過ぎないという計算があり、私達は、消費税よりもぜひ0.1%の価格転嫁を甘んじて受けたいものである。

 冗談はさておき、消費税の結果、低所得者層までが増税に苦しみ、格差が広がっている。もし消費を上向きにしたいのならやるべきことははっきりしている。まず、法人税減税を見送り、むしろ増税すると同時に、消費税を5%に下げる、もしくは撤廃することである。

 なお、IMFは消費税を上げろと言っているそうだが、額面通りに受け取ることはできない。IMFには日本の財務官僚が多く出向しており、IMFを使って「国際機関が言っている」という演出を行っているフシもあるし、そもそもIMFが常に問題にするのは、財政赤字を放置して責任ある徴税を行わない経済運営であり、消費増税が答えではない。

日本が豊かだった時代を取り戻すには

 枝野さんが言うとおり、きちんと草の根からの視点を持つことである。非正規の人がどんなふうに苦しんでいるのか、母子家庭の貧困が先進国で一番ひどいのはどうしてか、それを考えていくことである。消費税が彼らにのしかかっていると思われれば、消費増税なんてできない。ではどこから徴税をして、責任ある財政規律を維持していくのか、法人税減税なんて今本当にできるのか、そういうことを一つ一つ考えていけば、実は大して難しい話ではない。

 政治家が企業からたんまりお金をもらいつつ、同時に自分の地位を確保し、日本経済を成長させ、その上で格差問題を解決する、などという方程式を同時に解こうとするから、複雑になるのだ。国民の生活を第一に考える政治家を選ぶだけで答えは意外なほど簡単に出る。

 枝野演説では、

民主主義というのは、選挙で多数決で選んで、選ばれた議員が多数決でものを決める、これが民主主義だと思っているから間違えているんです。みんなで話し合って、できるだけみんなが納得できるようにものを決めましょう、それが民主主義なんです。

 どうしても決められないときがあります。どうしても意見が食い違うときがあります。そのときに、ここまでみんなで話し合って、それでも一致しないならば、多数決で決めれば、少数の意見の人も、仕方がないですねと納得できる。この納得のプロセスが多数決なんです。

としている。

民主主義=多数決ではない

 枝野さんも言っている通り、民主主義=多数決と思っている人は多いかもしれない。一方で、いろんな考え方がある、とか、多義的な概念である、などと、知ったかを決め込んで、実は考えたこともないし、考えないようにしている人も多いかもしれない。本当はそんなに難しくない。

 一言でいうと、『民主主義=治者と被治者の自同性』ということである。権力を振るう側と、振るわれる側に分かれることはなく、みながそれぞれに権力者であり、同時にその決定に従うという意味になる。

 例えば無人島で一人暮らしをしていれば、決定者は自分であり、その決定に従うのも自分で、まさに治者と被治者の自同性そのものだろう。ただ、この場合、民主主義などという必要もない。

 次に仲良しグループで卒業旅行をしょうとして台湾と韓国に意見が割れたが、どうしても全員で行こうよとなると、多数決しかないように思える。だが、実際にはそうはならないだろう。たとえば台湾と思っている人が、どちらかというと。程度で、韓国の人は少数だが思い入れが強い、というような場合、行き先は韓国になる可能性もある。全員が気持ちよく行けるように話しあおうとするからだ。少しでも押し付ける側と押し付けられる側にならないようにしよう、そういう配慮が働くはずである。みんなで気持よく決めて、その計画に従おう、こういう精神自体が民主主義を支える基盤であるとも言える。

 ところが、もし台湾を主張する人が旅行社からなにかもらっていたりすると、グループ全体のことなど考えずに、自分の意見が通ることだけを考えて、いきなり多数決を主張するかもしれない。つまり、どれだけみながグループ全体のことを思っているか、で決定方法が変わってくることになるだろう。

 枝野さんが、民主主義を述べる前提として、

分断をされていた社会が、あの未曾有の災害の中で、お互いに助け合おう、支え合おう、そうした絆が生まれたはずでした。

と言っているのはそういうことである。みながそれぞれの意見を持って、だけど共通して日本のことを考えて政策論争をするならいい。だが、防衛関連産業の株を買っている人が防衛大臣になり、日本を守る、などと言ってみても、もともと民主主義が成り立たない。また、自分の権力維持だけが目的で、支えてくれる組織、特に狂信的な新興宗教の言いなりになって、そもそも話し合う気など毛頭ないような人が国会議員になっている限り、民主主義は成立しない。

おかしいと思うことが第一歩

 我々は、治者であり被治者であるどころか、権力行使をされる側にほぼ一方的に立たされ、それをおかしいと思わないように慣らされている。日常生活も常にそうである。生きていると命令しかされない。多少命令する立場になっても、それは上から降りてきた命令のメッセンジャーになっているだけである。

 例えば、市民生活を送っていても、ちょっと汚い格好をして歩いていると、警官に呼び止められる。義務はないと思っていると、警官が4人にも5人にもなって自分を取り囲む。。ものを考えるな、従え、そういう人間になれ、ということである。

 法定速度も、誰も守っていないどころか、本当に守ると危険運転にしかならないと思っていると、相手の気まぐれでいくらでも捕まえられる。見通しの良い直線道路で、何故か途中で法定速度が下がっており、捕まえやすいポイントを作って捕まえる。日本のためという意識や、国民を守ろうと言う配慮などない。組織の利益だけで動いている。

 カレル・ウォルフレンさんは、日本の警察は、制限速度については「自分たちが自由に決める権利があると考えており、スピード違反の切符を切るのは別に悪いことでも何でもないと思っている。あなたもそう思うだろうか?そうは思わないだろうと私は想像する。なぜなら、完全に馬鹿げているし、フェアでないからだ」(『人間を幸福にしない日本というシステム」p117)。日本人でも、外国で暮らした経験の長い人、例えば元F1レーサーの中島悟さんは、ドイツで運転しているとき、制限速度の標識を、日本にいるいつもの調子でほとんど無視してカーブに進入していったところ、車がスピンしそうになったらしい。ドイツでは、法律は国民を守るためにあるのか、と改めて驚いたという。

 この違いはこういうことだろう。諸外国には適正手続(due process of law)という考え方があり、自己が適切に代表されていないプロセスに依って不利益を受けるのはおかしい、と考えるらしい。ウォルフレンさんの「フェアでない」という言葉にそれが表れている。

 以前、自分たちの卒業式を自分たちでデザインしていた学校が、その自治的な決定方式を潰された話を書いたことがあった。卒業の当事者が次卒業式を作ろうとしてもその願いがかなわない、上からエライ人が命令したら、それに従わなければならない。まさに「自己が適切に代表されていないプロセス」によって、従わされることになる。適正手続からすれば、これをおかしい、となるわけで、外国人が指摘しても、日本人にはピンとこないところかもしれない。

 だが、なんだか知らないが、確かに選挙をして、エライ人が決まり、そのエライ人が命令するのだから民主主義というものだろう、と簡単に納得せず、おかしいと思うことが第一歩である。

 ちなみに、適正手続きは、日本国憲法にも定められている。だが、なかなかこういう観念は浸透しない、というより、教育の現場からしてその芽を摘み取るようにできている。

憲法第31条

 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

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