1月14日(土)、19時よりNHKBS1で放映された100分の番組の感想。

 内容を一言で紹介すると、次のようなもの。広島・長崎への原爆投下は、トルーマン大統領が決断したとされている。実際、トルーマンは戦争の早期集結のために決断し、その結果多くのいのちが救われたと言っている。ところが、アメリカの歴史学者たちが調べたところによると、実はトルーマンは明確な決断をしておらず、事実上軍の暴走とも言える行為だったという、衝撃の番組だった。

番組に従い時系列でまとめると

1942年 軍主導でマンハッタン計画始動
 ルーズベルトのもとで行われていたが、ルーズベルトは原爆の実現は不確定なものであると考えていた。あくまでも通常兵器で勝つことを考え、原爆は仮に完成すればその段階で使用を改めて考える、程度の認識であった。歴史学者は、その当時は「想像上の兵器」であっただろうという。
 軍の責任者、レスリー・グローブスは、大統領は原爆にあまり興味を示さず、進捗について尋ねられることもなかったという。その結果、軍は秘密裏にこの計画をすすめるようになっていた。

1943年5月
 軍だけで、最初の投下目標が検討される。日本軍基地のあったトラック諸島、東京などが候補にあがる。軍内部で、具体的な投下に向けて着々と計画が進行していたことがわかる。

1944年12月
 軍は投下のスケジュールを決める。一発目は7月、二発目は8月。その後、1945年内に17の原子爆弾を量産して順次落としていく、というもの

1945年2月
 テニアン島に、B29の滑走路、原爆の積み込み設備が作られる。他にも、原爆の組立工場、生産ラインができる。

   4月 ルーズベルト急死
 トルーマンが副大統領から大統領になる。
 急死だったために、引き継ぎもなく、いきなりの重圧が突然トルーマンの方にのしかかる。彼は日記の中で、戦争の状態も知らないし、外交の自信もない、軍が自分をどう思っているかわからないと書いている。
 グローブスが、何も知らないトルーマンについて原子爆弾についての経過報告書(どのような爆弾なのか、予算はいくら位かかっているか、などの24ページの資料)を見せるが、トルーマンは報告書を読むのは嫌だという。グローブスは、この計画について任された、黙認された、このまま進行してよいという趣旨である、と考える。
 グローブスは、トルーマンを評するが、原爆に関する限りでは「彼はそりに乗った少年のようにただ滑り落ちていくだけ」の存在であったという。

   5月
 グローブスは、投下目標について、京都を主張するが、陸軍長官のスティムソンは、京都については不承認という。スティムソンは、その日記によると、市民を無差別に殺すことは、いまアメリカに向けられている国際社会の評価を一層下げることになる、と懸念していたことがわかる。

   7月
 グローブスは再度、京都に軍事施設があるとして、第一目標として主張するが、スティムソン及びトルーマンは、意義がないとして却下。このあたりで軍の危うさに気がついていたと考えられる。

 7月25日 原爆投下指令書
 広島、小倉、長崎、新潟のいずれかに、最初の原子爆弾を投下すること
 二発目以降は、準備ができ次第落とすという内容。これが投下の直接の根拠になった。
 だが、トルーマンは指令もしていないし、そもそもこれに関与していない。

 

 8月6日 広島に原爆投下

 人類史上、市民の頭上に落とされる最初の原子爆弾が、広島に投下される。
 トルーマンは、ポツダム会議からの帰路、船の上で報告を聞くが、あくまでも軍事目標に落としたものとして国民に発表。
 その後、ワシントンに戻って、広島の破壊状況を写真で見て、こんな破壊行為を行った責任は大統領である自分にあると言ったという。


 8月9日 長崎に原爆投下
 長崎に、二発目の原子爆弾が投下される。
 トルーマンが広島の写真を見て後悔を始めた時には、テニアン島では次の準備が行われており、半日後に投下された

8月10日 トルーマン、原爆投下停止の決断
トルーマンはこれ以降の原爆投下を中止すると決定。ここで初めてトルーマンの意志が明確に働いたことになる。

トルーマンは原爆投下に明確な決断をしていない

 これは、この番組を見て初めて知った。具体的に投下を命令したのは7月25日の「原爆投下指令書」だが、これについてトルーマンが承認した形跡、さらに言えば投下の是非について検討した形跡もないという。トルーマンは、あやふやな態度を取っていたが、投下されてしまうと、「米軍兵士の死を避けるため、自国の兵士を救うために自分は原爆投下の決断をした」と発表した。

 自分の責任であることを痛感していたのかも知れないし、リーダーシップのない大統領とみられたくなかったのかも知れない。いずれにせよ自分の責任であることを明確にした点は、リーダーの資質ともいえるが、いずれにしても明確な決断をしていないという事実は変わらない。軍の危うさに気づきながら曖昧な態度をとり続け、最終的に軍の暴走の結果、原爆投下が行われた、ということになる。

原爆投下の必要はなかった

 この番組を見て再確認できたことは、通常兵器で日本軍は壊滅状態にまで追い込まれており、すでに列島は孤立状態にあったのだから、全く投下の必要はなかった、ということ。海軍のニミッツ、空軍のルメイ(東京大空襲はど、日本の市民に対する無差別空爆を主導した)など、軍の中枢も必要なしと言っていたところだったのに、事実上軍の暴走を止められなかった、正しくは、軍の中でも、特別な機関を作って、コントロールもしないままでいると、それが一人歩きをしてしまった、ということだろう。

 だが、責任者グローブスの心の中では、もはやアメリカ軍の優位や勝利などの思考を超えて、原爆そのものが制御しがたいほどに成長していた。彼は、終戦が近いことを知って、なんとか戦争中に落とす、と考えており、もはや戦争終結のためではなく、原爆を落とすこと自体が目的になってしまっている。彼は、これだけの予算を使って、完成したのにその成果があげられなかったことになったら、あとからどんな追及を受けるかわからないから、と言っているのが、おそらくそれだけではないだろう。やってみたいとは思わないのか、ここまで育ててきたものがどんなものか、見たくないのか・・・、そんなささやきが彼には聞こえていたように思える。

誰が悪いのか

 もともと原爆開発を丸投げにしたルーズベルトが暴走を許したとも思えるが、彼が生きていたら自らその暴走を止めた可能性もある。だが、急死したにしても、その前にとにかく暴走を許してしまっていたのは、ルーズベルトである。それにルーズベルトがヤルタ会談に参加した際、闘病中だった彼は、自分の存命中に戦後世界の道筋をつけておこうと考えていた。当時の映像を見てもそう長くないように見受けられる。その意味では決して急死ではなかったはずで、何らかの引き継ぎもできたはずである。

 トルーマンは、終戦間際の4月(5月にドイツ降伏、8月に日本)という時期に、副大統領から大統領になり、あまりに突然で引き継ぎもなかったと言うことだが、それまでも副大統領だったのだから、米政府の中枢にいたはずである。突然代打を命ぜられた選手が、いま試合が何対何で、走者がどの塁にいることも知りませんでした、というものでもないようにおもわれる。
 軍にバカにされているかも知れないなどと、腰が引けている者に大統領職を引き継がせるとは、神様が何といういたずらをしたのか、と嘆きたくなる。まあ、歴史的な事件は、あとから見れば不運の重なりで起こるもので、例えば豪華客船タイタニックの沈没も、あと30秒氷山の発見がはやいか、30秒遅ければあの事故になっていなかったというから、いっそう心が痛む。

日本政府の責任の重さ

 あまり話を広げすぎると何が問題かわからなくなってくるけれども、原爆投下を避けるために日本側ができることもたくさんあった。米軍の沖縄上陸段階(1945年4月)ですでに本土決戦が開始しているのに、どうして終戦の決断ができなかったのだろうか。いやいや、それは結果論だろうと言われそうだが、日本は1944年には、日本はアメリカの原爆開発を知っていた。しかも、原爆についてはマッチ箱一つでニューヨークが吹っ飛ぶと戦時中の少年雑誌にすら書いていたくらいだから、わかっていたはずだ。突然想像もしなかった新型爆弾が降ってきたわけではない。

 もっと言えば、戦争が避けられなかったのか。太平洋戦争は、元をたどれば、いいところを見せたかった一人の愚か者が、2ヶ月で中国を制圧してご覧に入れます、などと始めた火遊び(日中戦争)から始まった。それが手を引けなくなり、ただの意地で続けていたところ、アメリカから、それやめろよ、と言われて逆ギレしただけの戦争である。資源小国日本が追い詰められてやむなく開戦に踏み切ったものでもなく、まして大東亜共栄圏を作ろうという大義から行ったわけでもない。米軍の暴走で原爆を止められなかったトルーマンが間抜けであるかのように書いたけれど、日本人としては他国がどうこういう前に自分の姿に気をつけたほうがいいのかもしれない。

予告されていたのではないのか

『原爆投下は予告されていた』古川愛哲(講談社)という本によると、米軍は広島にビラを撒いたりして、原爆投下の予告をしているという。だが、当時、ビラを拾ったらそのまま「見ないで、読まないで」憲兵などに渡さなければならず、ちらっとでも見たら、ただでは済まなかったという。憲兵がそれほど配置されていなくても、町内会などを通じて徹底した監視が行われていた。
 8月5日にはボイス・オブ・アメリカという米軍放送でも放送しており、十分市民を避難させられたはずである。米軍は、原爆の破壊力を知りたいと思っていたものの、空襲を受けていない都市に落としたいとは思っていたものの、直接的に一般市民を殺そうと思っていたわけではない。

 現在、町内会は老人たちの暇つぶしクラブとして存続し、よくテレビでも、住民同士のトラブルになっていることが話題になる。
 だが、町内会はもともと古来から日本にあった住民たちのつながりを基礎とした集まりではなく、1940年に戦争遂行目的のために作られた、いわば国による監視の末端組織だった。だから、当時、自主的に都市部から少し郊外に避難しようとしても、そういう人に対して配給などを通じて町内会は徹底的にいじわるをした。現在の町内会は違うんだといっても、その認識を持っていなければ、今後また同じ役割を果たす可能性もある。
 例えば凶悪事件を起こした宗教団体の幹部が逮捕され、指導者は交代してが、その指導者が事件の歴史にフタをして信者に教えようとしない一方、「教団は生まれ変わりました。現在は違います」と言っても信じる人はいないだろう。それは外部の者から見て、その教団を信じたくないというバイアスが働くからであり、内部の構成員は信じたいというバイアスが働いているからである。諸外国が日本の危険性を指摘するのはこういう理由であり、その諸外国をいつまでもしつこい、と非難するのもこういう理由だろう。

文民統制ができるアメリカ

 なんだか書いていて悲しいことばかりなのだが、ただ、8月10日になって、ともかくもトルーマンが今後の原爆投下を中止する、といえばそれでピタリと止まったこと。遅すぎる決断、と番組では言っていたが、満州事変などを経験した日本では、むりろうらやましいくらいだ。シベリア出兵(1917年〜1924年。ロシア革命に干渉し、何万人もの軍隊を繰り出して日本が行った戦争。シベリアに傀儡国家も建設した)も、「平民宰相」といわれた原敬が止めようとしてもなかなか止まらなかった。最終的には、日本の民主主義が一度だけ軍部に勝利した歴史的事件といわれるようになったが、原敬は暗殺される。多くの政治家はそれ以降腰が引けてしまい、日本はテロリストに屈する国になってしまった。もちろん、「明治維新という過ち」という本によると、日本はテロリストが作った国ということになるのだろうから、大正デモクラシーで国民に移りかけた主権がテロリストに返されただけかも知れないが。

 戦後は大丈夫、そう思いたいが、日本は2年前武器輸出を解禁し、その政権の防衛大臣が軍需産業関連株を身内に持たせている。一方の自衛隊の人たちは、本当に戦争になるとは思っていないだろうから、軍部が抑制気味で、むしろ文民が前のめりになって暴走する国になってしまっている、というのが正直なところだろう。

原爆投下目標としての京都

 全国およそ100都市について、東京を始めとして、大きい順に空襲が行われていった。京都と奈良は空襲の被害を受けていない。これについては、文化財があるから空襲しなかった、さすがアメリカ、といわれたこともあったが、それは戦後アメリカの占領をスムーズにするためのプロパガンダに過ぎなかった。たが実際は違う。京都は原爆の威力を調べるためにあえて温存され、空襲を受けなかった。奈良は、大きい都市から順に数えていっても、空襲の順番が回ってこなかったから難を逃れたに過ぎない。

 この番組によると、軍は最後の最後まで京都原爆を落としたがっていたが、トルーマン政権は承認しなかった。京都には、軍事施設がなく、軍事的な意味がないということだった。この番組でもやはり文化財説は出てこなかった。まあ結果として文化財が残ったことについてはよかったと言えるのだが。

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