エスペラント
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いいものはいい。そんなモノたちにかこまれて生活したい
NHKの番組「日曜討論」の中で、日本共産党の藤野保史(やすふみ)政策委員長が、防衛費について、人を殺すための予算、と発言し、最終的には撤回したらしい。撤回したのならもう話としては終わりなのかもしれないが、私は、どうして撤回したのか不思議に思う。想像するに、だが、問題になったのは、自衛隊は平和を守っているのに何を言う、ということなのだろう。だが、自衛隊は人を殺す装備を持つという手段によって平和を守る、という関係になっているのだから、人を殺す、ということも正しいし、平和を守るということも正しく、どちらかが間違いということにはならないと思われる。
例えば死刑は、人を殺すための刑罰だが、それによって、治安を守る刑罰でもある、という関係になる。だから、人を殺す、ということも正しいし、皆が安心して暮らせる社会を作る制度だ、というのもどちらも理屈としては正しい。ただし、現実には、後者の方、つまりそれで治安を守られるかどうか、つまり効果のほどについては議論があり、日本以外の先進国はそれを否定している。アメリカも国としては死刑制度を置いていない。ということは、確実に言えるのは、2つのうち前者、つまり人を殺すための刑罰、の部分だけということになる。
コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする
マッキンゼー、デロイト・・・コンサルの持ち込む理論もチャートも改革も、実は何の意味もなかった・・・・
前代未聞!気鋭のコンサルが内幕を暴露した全米騒然の問題作!
とまあ、最近多いパターンだが、あまりに表紙にいろいろ書かれていて、どれが書名なのかちょっと悩むタイプの本。
だが、中身は衝撃的で考えさせることが多い。これを読むとコンサルティング業全体が、だんだん詐欺師集団に見えてくる。いまでは「山師」というとウソ八百を並べるインチキアドバイザーだが、もともとは、鉱業国家(例えば石見銀山などは世界の銀市場を左右すると言われていた)である日本になくてはならない専門職アドバイザーだったわけで、こういう人たちは時代によって評価が変わるのか、それともやがて新興宗教の教祖のようにメッキがはがれるのか、いずれにしてもこっちがしっかりして利用する立場であることを認識していなければならないのだろう。
自分でやるときは自己責任だが、専門家のアドバイスを受けるときは安心して任せよう、ではなく、そんなときも自己責任、くらいに思っていないと大変な目にあう、最初に知っておかなければならない点はこれだろう。
こういう話が出ると、自分はその点大丈夫、という反応がありがちだが、意外に、子供を塾に通わせるようなとき、全面的に委ねるタイプの親は多い。それ以上に、塾に左右されて、志望校などもいつのまにか塾のいいなり、「超難関校対策特訓講座はとった方がいいですよ」などと割高の講座まで受講させられ、経営戦略に絡め取られてしまう。だが実は、塾もある種のコンサルだ。
教育を専門にしているのだから任せる気にもなるし、成績アップという利害が親と塾側で一致しているから、よもや変なことはするまい、と信頼するのだろう。だが、例えば、徳川家康のことが好きな子供がいて、いろいろ調べたりするようになったとしよう。お母さんは、「やる気になったのね」と思って、この機を逃すものか、と塾にやる。最初はいいかもしれないが、塾は成績をあげさせるため「徳川家康だけが歴史じゃないから、室町時代も勉強しなさい」と言って平均的に歴史の点数をあげようとする。明らかにこれは合理的なやり方だ。そしてそれはさらに続く。「歴史だけが社会じゃない」「社会だけが勉強じゃない」と段々に広がって行って、最初に興味や好奇心を持ち始めた子供を潰してしまう、ということがよくある、というよりその可能性の方が高い。
じゃあ、家康ばかり調べる子供をそのまま放っておいていいのか、であるが、時間が経つと、たいていの場合、家康に飽きて他のことを調べ始める。その興味は歴史以外に広がることもある。それを待ち続けるには忍耐が必要だが、おそらくそっちの方が子供はできるようになる。もちろん、塾の方もそういうことはある程度分かっているのだが、四半期ごとに結果を出さなければならない社長やコンサルと同じで、そんなことをしていたらクビになってしまう。つまり、大きくは両者の利害が一致するはずなのだが、親の利害は塾よりも長期であることが多い。
そういう特性を考慮した上で、例えば「この子、まず机に座るということができないんです。だから、すぐに成績がどうとは言わないんですけど、規則的に勉強できるようにしてやろうと思うんです」というような親の意向を伝えておき、その線に絞って指導してもらう、というようなことをすれば、親なら甘えてゴネる子供でも、塾に行ってみんなが座っていたら、その程度はできるようになり、少しずつ勉強の癖がついていく、ということもあるかもしれない。ただし、これはこういう業界との付き合い方についての例え話であって、私自身は子供を塾に通わせるのは全面的に反対である。塾に通わせるという段階で、親は勉強が何であるかを全く理解していないのではないか、とすら思う。このことはまたどこかで書きたい。
家電で、いらないものの代表は、食器洗い機だろうと思う。少なくとも私の身の回りで、肯定的な評価をしている人はいない。結局汚れが落ちないとか、時間がかかりすぎるとか、使っている人でも乾燥だけという。実際、家電量販店の売り場を見ても、かつては各社からいろんな機種が出て、デモ機や販売員の声で賑わっていたのに、今はひっそりと売場の隅で、生きた化石のように一つ二つあるだけだ。乾燥機能だけの食器乾燥機の方が明らかに多い。
それなら、もう書かなくても答えが出ているようなものなのだから、わざわざ、いらないものの代表などと書く必要がなさそうだが、それはそれなりに理由がある。そのために、今までの歴史を振り返ってみる。
私の記憶では最初に家庭用食洗機が流行したのは、相当昔のことだ。男女雇用機会均等法のころだったか、画期的な製品として一部で流行したのだが、そのときはお茶碗についたご飯つぶが落ちないという評判で、ちょっとしたブームで終わってしまった。
その後、日本経済が「失われた10年」と言われたころ、女性が外で働けるというより働かなくてはならない時代にあって、今度の製品は本当に実用レベルであるかのように売りだされた。
水流が強くなり、高温洗浄、その上節水であることがアピールされ、大手家電メーカーが次々新製品を発表した。しかし、やはりご飯粒は残るし、使い方の面倒さも結局変わっていなかった。例えば、汚れのひどいものは予洗することになっていたが、手洗いならすでにその段階で作業は終了している。
ほとんど騙されたようなものだったためか、すぐにブームは去り、ほとんどの家では捨てられるか、仮に残っていても食器乾燥器として使われる程度になった。で、その後のことは量販店の売り場を見ればわかる。
問題は、そのうち忘れた頃に再度発売され、無理にブームを作り出すかもしれないということだ。ほとぼりが覚めた頃なら、前回感染せず、免疫のない人は買ってしまう。だからこうして書いているのである。
そんな食器洗い機でも、メリットが全くないわけではない。それはそれで書いておいたほうがいい。
手荒れにはいい
人によって、手荒れの程度もいろいろなので、他人にはよくわからない。
例えば、電動車いすは必要な人には絶対に必要だろう。また、立つことも難儀に見えるほどの体重の方が使う、スクーターのような乗り物は、本人としてはない生活は考えられない。いくら周りが「そんな問題じゃないだろ」と思ったとしても、絶対に手放せないという答えしかない。
ザルの汚れはよく落ちる
手洗いでも丁寧にやればいいのだが、それが嫌だという人にはいいのかもしれない。
洗った後食器の雑菌
雑菌は食洗機の方が少ないと言われる。
ただし、これはメリットかデメリットか微妙で、子供がアレルギーになりやすいのは、食器洗い機を使う家庭の方らしい。それに、食器洗いにスポンジを使わず、布巾で拭かないで自然乾燥という家は、手洗いでも雑菌は少ないだろう。
そもそも最近は清潔指向の行き過ぎも指摘されており、手洗いで普通程度に清潔になっていればそれ以上に神経質になる必要もない、という人もいるし、そういう考えは、抗菌、抗菌といつも言っている人には我慢できないかもしれない。
場所をとる
売り場で見たらコンパクトに見えるが、実際に台所に置いてみると、存在感が半端ではない。調理スペースが潰され、料理の効率も悪くなる。一番痛いのは、子供が料理を手伝おうとしても、その作業スペースがなくなることだ。
汚い
その存在感は、体積だけではない。給水、排水のパイプ、さらに電気のコードが入りみだれる。給水パイプは、水栓周りをぐちゃぐちゃにしてしまうし、排水パイプは、流しに向けて垂れ下がっていて、見栄えのいいものではない。その上、それらのパイプ類は買った時には真っ白なのだが、水垢なのか何なのか、結構汚れてくる。つまり、大きくて汚い、ということだ。そして恐ろしいのは、そのデメリットにも慣れてしまうこと。他人から見て食器洗い機のある台所は、相当雑然としていて汚いのに、本人は慣れっこになってしまっている。
ビルトイン型の場合であれば上に書いたようなことからはかなり解放されるが、魔法はない。食器や調理器具の置き場が減り、なんだかあちこちにいろいろ置かれた雑然とした台所になる点は同じ。
時間
手洗いの方が圧倒的に短い。工夫次第だが、10分もあれば終わる。人によっては料理中にあらかた片付けもしてしまう人がいる(それこそ料理名人、と教えている料理学校もある)。
食器洗い機では、食器のセット、予洗いですでにそれくらいかかっている。加えて1回の運転50分、だが1回でなど片付かないから2時間、または3時間位かかる。
音がうるさい
食洗機の音は結構うるさい。騒音というほどのことはないけれど、食事のあと、フィンランドのように、家族がリビングでそれぞれ読書したり勉強したりする静かな時間をすごす、というような知的な家庭では、相当気になるだろう。もし2時間、3時間かかるなら、静かな時間は訪れない。
どうせ手洗いは必要
そして、最も大事なことは、食洗機を使っても手洗いから逃れることはできないということだ。和食器や中華鍋など、結局食器洗い機があっても手洗いからは解放されない。汚れのひどいものは予洗いが必要ならやはり手洗いの段階がある。普通、道具を買うときは、これで何かから解放される、と思って買うだろう。例えばパンをこねるときに力がいるとか、指に生地がくっつくとか、そういうことから解放されることを期待するし、パン焼き器は実際それに応えてくれる。ところが、食器洗い機はそうではない。
極めつけはコストである。メーカーは食器洗い機の一番のメリットだと強調する。本当にそうだろうか。メーカー側の主張(手洗いとの比較)によると・・・・
食器洗い一回あたり、食器洗い機では・・・
電気代:18円
水道代:2.5円(手洗い:21.5円)
ガス代:10円(手洗い:40円)
合計30.5円(手洗い61.5円)(こちらのサイトを参照させていただいた。)
実際には、ほとんどの家で、いきなり温水が出るわけではないので、温水になるまでに捨てる水とガス代を入れれば、32円というところだろう。洗剤が5円で37円。それが朝2回、夕方3回、食器洗い機を動かすとして、1日185円ということになる。そして、食器洗い機が6万円で10年使えるとすれば、1日16円。一日のコストは合計200円である。年間73,000円使うことになる。
手洗いのコスト
こちらのほうが高いんだと主張する人はいる。本当の手洗いのコストはいくらか。
私の場合、油汚れのひどい時は、ヤカンでお湯を沸かして使うのだが、それが一回2円。すすぎの際に流す水は、使っても7リットルなので、水道代は2円。粉石けんは1円なので、1回5円。朝夕で10円となる。手洗いのほうが圧倒的に安い!
食洗機との1日の差は190円、一年で7万円の差となる。さらに、ウチの場合すすぎに使った水は貯めておいて庭にまくので、水使用量は、限りなくゼロに近い。また、夏は、最初にお湯を沸かさず、水のみで洗うことも多い。
最近では、意外とコスト高であることを認識したのか、メーカーによっては、乾燥機能は使わず、自然乾燥にするとコストが押さえられるなどという。そうすると、1回目に洗い終わった食器をどこか別の洗いかごに移し、2回めの食器をセットしなければならない。一体どれだけの手間とスペース、時間が要求されるのか。
実は、食器の手洗いは、いろんな工夫の余地がある、というより、私は、工夫しようと考えること、その機会が与えられること自体もメリットだと思っている。
まず、手洗いが嫌がられる理由のひとつはあのスポンジにある。確かに、見るからに汚い。こまめに乾かして、日光を当てるという人もいるが、いつもできることではない。そこで私は、夏みかんなどが入っている赤いネットをハサミで適当な大きさに切り、それをスポンジ代わりにしている。ほとんど力を入れないでご飯粒なども落ちるし、終わったあともすぐに乾いて清潔だ。それでも気になる人はネットを使い捨てにしてもいい。
食洗機を使うと頭も使わなくなる。そのうえ、手で作業する機会というのは何でも貴重なことと思ったほうがよいのではないか。ときには左右の手を変えて洗ってみる。これは極めて脳によいと言われている。
さらに、ご飯粒が落ちているかどうか、フライパンの表面がザラザラではないか、と指でなぞるのも、いつもと違う手でやってみる。やってみると、意外にどちらかの手の感覚が鈍いこともわかる。こっちの手はあまり使ってなかったんだな、とそういうとき改めて思う。そんなことを続けていると、食器や鍋の表面にあるザラザラ、ヌルヌルなどそういう感覚を敏感に感じるようになる。食洗機は、そういう脳の感覚を鈍らせてしまう。いくら便利な面があったとしても、ボケるというのではあまりメリットが感じられない。
上でも書いたが特に冬はヤカンで2リットルほどのお湯を沸かして(油汚れを落とすためだけなので、50度くらいで十分)、洗いおけに入れる。洗剤(うちの場合粉石けん)をいれて、みかんネットで泡立てる。これは、洗顔などの時に石鹸を泡立てる方法として、すでにやっている人も多い。
そこにつけ置きすべき食器だけを入れる。ごはん粒のついたお茶碗など。数分おいておけば、さっと落ちる。洗い終わった食器は、水道の蛇口の真下に重ねておく。すすぎは、水を細く出して、上からシャンパンタワーのようにそそぎ、石鹸を落としたら終わり。一応、その水をためて測ってみたところ、食洗機3回分ほどの食器でも大体5リットルくらいだった。石鹸液の方に2リットル位使っていたので、使用した水は、7リットルくらいだ。時間は10分ほど。
真冬でも冷水で洗うのか、というと、すすぎはそう。だが、洗うお湯は最初50度で、最後の方は40度。お風呂くらいの温度で洗う。すすぎの水は、冷たいけれど、積み重ねた食器の上からシャンパンタワーのように水を注いでいるので、ほとんどの食器がそれだけでほぼすすぎ終わっていて、それほど水に触らない。それにまたすぐに次のを洗うために温水に手を浸けることになる。それを交互にするので、終わるとむしろ手はポカポカしている。
BSの番組か何かで知ったベトナムの高僧の名前だ。ベトナム戦争当時、祖国がボロボロにされ、知り合いもたくさん失う中、怒りという感情と向き合うことの大切さを説いた。怒りは何も生み出さないこと、だから怒っている自分を静かに見つめ、自分の進むべき道を冷静に探るという、過酷な体験から人生の意味を見続けてきた人だ。
その人は、日常の動作、例えば歩くということなども自分を見つめる瞑想の機会と考えていて、食器を洗うということもそう。それを知ってから、食器洗い中の自分の動作に集中しながら、例えば指で洗い残しを探す指先の鋭敏さを感じながら作業するようにした。確かに貴重な瞑想であると思う。
ティク・ナット・ハンは、さらにせっかくの瞑想の時間なんだから、ゆっくり洗えという。そうまでは思わないが、そんなことを考えるようになってからは、いい時間の過ごし方をしているというのは感じる。
最近ではこのような瞑想のことをマインドフルネス瞑想などというらしい。作業している自分を意識しながら、丁寧に食器を洗う。そうし始めてから、日常の他の動作も少しずつ変化してきたように思う。ティク・ナット・ハンは、アメリカのIT企業や、連邦議会でもマインドフルネスの指導をしたらしいし、今ではマインドフルネス瞑想というものが全世界的に認知されつつある。
とりとめもなく脱線しながら書いてきたけれど、結局ああいうブームに乗せられて物を買うと、金銭的なことだけでなく、ゴミを増やしてしまう。
わたしは、これほどデメリットだらけの家電製品が他にあるのか、と不思議になる。
ネット上で食洗機が便利だと言っている人は、家族が誰も手伝ってくれず、孤独で不幸な人なんだろうな、と思う。食後、みんながテレビを見て笑っている中、お母さん一人が、孤独に食器を洗う。その構図では、食器洗いというのは、苦行だろう。
食後、お母さんの苦労も知らず家族がリビングでバラエティーなど騒々しい番組を見ていれば、食洗機の騒音に気づかないが、みな読書や勉強する家なら、食洗機の音はうるさい。便利と言っている人がいたら、だいたいどんな家庭か想像がつく。
我が家では、家族総出で片付け作業に当たる。食器を下げ、テーブルを拭く人、犬のご飯の準備をする人、お茶の準備をする人、残り物を冷蔵庫にしまう人、洗い物をする人。だいたい全員の作業が10分以内に、同時に終わる。家族揃って、そのあとテレビを見る、でもいいし、みんなで本を読む、子供は宿題をする、でもいい。食洗機の問題は子供のしつけの問題であり、また家族の問題そのものだと思う。
トヨタは、この十数年間、毎年、1,000億円から6,000億円もの配当を支払っています。ベースアップがなかった年でさえ、約3,000億円の配当金を支払っているのです。7万人の従業員に対して、1,000円のベースアップするためには、わずか8億円ちょっとの支出でいいのです。つまり、トヨタは、8億円の支出さえ渋ってきたのです。従業員に1万円のベースアップをしても、80億円ちょっとで済みます。毎年、数千億円の配当を支払ってきた企業体力からすれば、毎年80億円の支出などわけはないはずです。株主に対しては、毎年、毎年、数千億円の配当金を支払っているにもかかわらず、従業員の賃金に対しては、数億円の支出さえ渋る、どれだけケチな会社か、ということです。
必読の書、などとと言われると、なんだか義務付けられたみたいで不愉快な気がするのだが、そういう言葉を使う人の気持ちもわかる、そんな本だ。2014年に「群像」という雑誌に連載されたものらしい。ということは構想は2013年頃か。だとしたら、安倍政権誕生直後に、2016年の今か、さらにその先を的確に予言した本ということになると思う。「血筋だけが取り柄の三代目首相」とまで書いているのだから、いくら小説とはいえ、いい加減なことはかけない。相当な知識、調査と洞察を持って書いた本で、軽々しく扱えない気がする。
主人公は、なんと「星新一」。もちろん、「気まぐれロボット」などで有名なあのSF作家の名前を使わせていただいた、ということなのだろう。父親が何かのコンサルタントをしているというものの、すぐに謎の失踪をとげる。そこに現れたのが、父の友人であるという「宗猛」。エミールと家庭教師のように、少年は育てられていく。だが、父、母ともに、彼に愛情を注がなかったためか、自己のアイデンティティーを失い、解離性人格障害となり、彼の体に7つの人格が共存し、代わりばんこに現れるようになる。そのまま人格が分裂していくか、それらを使いこなしてより大きな能力を発揮するか、星新一は後者の道を選び、その能力を発揮してやがて政権の中枢に入り、首相に近づいていく。
一方、もう一人の主人公である、「血筋だけが取り柄の三代目首相」は、それほど能力もなく、その毛並みだけで周りから担ぎあげられ、首相になる。だが、また彼にも解離性人格障害の症状が現れ、驚くべきリーダーシップを持った新たな人格が、アメリカとも堂々とわたり合い、中国に対して一歩も引かぬ強硬さをみせ、まさに戦後レジームの総決算を始める。
だが、本当にそれは、リーダーシップなのか、むしろ彼は何かに乗っ取られているのではないか、彼の中で2つの人格の戦いが始まる。それは、国家の暴走、自殺をギリギリのところで食い止めることができるかどうかの戦いとなる。そのたたかいに失踪を遂げたはずの父、宗猛、星新一が、最終的に自分を取り戻せるかを賭けて参戦する。まさに「虚人」たちの戦いである。
今の日本もまた、国自身が本当に自分を取り戻せるのかの瀬戸際にある中で、この作品ではそれが個人の解離性人格障害に投影され、実はひとりひとりの問題でもあることが浮かび上がらせる。無謀な戦争であることがわかっていながら、出口戦略のないまま、あとはドイツがなんとかしてくれると、まさに自分を見失って、かつて戦争を始めた日本。一番勇ましい人間が一番無責任だった歴史を再確認させてくれる一冊だ。アメリカの学校でも、たいてい歴史は太平洋戦争までで、ベトナム戦争あたりから「あ、時間数が足りないから、あとは自分で読んでおくように」と、都合の悪い歴史は教えないらしい。歴史を忘れた国がどうなるか、よく教えてくれている。この本でも、日本はアメリカの後をついていっている、と書かれるが、その意味するところは極めて深い。
最後の最後まで息をつかせない。幻に終わるかもしれない、最後のシーンに向けた首相の演説が、日本の首相の口から発せられるなら、愛国心など文科省が教えようとする必要は一切なくなることだろう。
登場人物が、星新一、宗猛である一方、武田とか上杉とかになっていたり、首相に至っては松平定男と、時代がバラバラなのに気を取られる。戦国武将は、好戦的なグループを表し、星新一らは著者のおふざけか、それとも私が読み切れてないのか。
松平定男は、普通考えればあの寛政の改革の松平定信か。彼は、ペリーよりもずっと前に、ロシア船が現れたとき、開国やむなしと考え、窓口である長崎に回ってくれれば通商を認める、といった。
幕府のメンツを守りつつも、なんとも不甲斐ない、玉虫色の対応をしたのだが、実はそれは幕府の書かれざる憲法をまもったとも言える。その書かれざる憲法とは「とにかく戦争を避ける」ということだった。その後、こんどはロシア船が長崎に現れた時には、すでに松平は政権を去っていたので、またゴリ押しの強硬派が「国家の威信」を守ってロシア船を追い返してしまった。もし松平がいて、あのとき開国していたら・・・。
その話を聞いてから、起きてすぐに掃除をすることにした。しかも、話によると朝は脂肪の燃焼効率がいいらしい。朝なら夏でも涼しいし、冬なら体があたたまる。体が目覚めながら脂肪が燃焼し、部屋がきれいになり、力がつく。朝食はおいしく、うまくすれば人生が変わる。その海軍大将に、だまされたと思って何日か過ごしてみるのもいいかもしれない。ある程度その生活に慣れてしまった今となっては、私はこの機会を機械に奪われたくない。
人類とともにあるほど、根が深い感情。本腰を入れて対処法を考えるべきかもしれない。著者はまず、羨望というものがなければどれほど楽か想像してみる。考えてみれば、そのような感情など、結局自分の不幸となって返ってくるだけのものだ、と。理性でわかっていても止めることは難しいかもしれないが、まず理性でわかろうじゃないか、ということらしい。
これは、認知療法のように、冷静に論理的に物事を考えていくと、自分の考えがバカバカしくなっていくという解決方法かもしれないが、これができる人はもともと知的で心との良い人なのかもしれず、ちょっと私には荷が重そうだ。
ご近所の奥さんのご主人は、イケメン、一流大学卒で一流会社勤務。その奥さんが自慢そうに話していると、家に帰って、ついつい夫に「だれだれさんところって、・・・なんだって〜〜〜」と嫌味ったらしく話してしまい、後になって自己嫌悪に陥る。そういうときはこう考えてはどうか、と著者はいう。そういう男は金もあるしモテるから浮気とか、場合によっては妻の座も危なくなるかもしれない、実は幸福じゃないんじゃないか、と考える、イソップの「キツネとブドウ」作戦。また、同級生が有名人になっているものの、大変なプレッシャーの中で押しつぶされそうになっているらしい、とか。
著者は、この考え方は危険をはらむと考えているようで、扱いが難しいことも意識しておられるようだ。たしかに、私だと、そう考えることが新たな妬みを生み出し、妄想の中の相手の不幸に酔いしれそうで怖い。
最近流行の考え方は、マインドフルネス認知を使う方法だ。例えば羨ましさのようなものが生じた時は、ぼんやりと「あ、おれ今羨ましがってるなー」と自分の感情に向き合う。その気持ちを否定や肯定しようとすると、心の中で炎上するかもしれないので、そのまま放置する。そのうち、なんだかちょっとバカバカしくなってくる、というものだ。それ以上に、ティク・ハット・ナン(ベトナム生まれの仏教僧)のように、一つ一つの動作の感覚(いま呼吸をしていることなど)に気持ちを集中し、生活をマインドフルネス化すると、そもそも、心があちこち邪念の園をかってに散歩しない。ただ、私自身もこれについては修行中(別に仏教徒ではない)なので、またなにかうまく行くようになったらそれについて書いてみたい。
実は、著者は、自己愛の強さ、がどこから生じるかについて特に書いていらっしゃらなかった。私は、「褒める子育て」にあるような気がしている。子供の数も減り、親の愛情が集中する中で、子供の一挙手一投足に親の目が光っている。子供は親の目を意識し、すぐに親から「できたね、偉いね」とフィードバックがあるため、褒められるために行動するような傾向がある。自分を認めて欲しいという感情そのものは自然なものだとは思うが、羨望と同じで、行き過ぎるのも問題なのだろうと思う。これについては、最近流行のアドラー式の子育てが参考になる。そのうちまた書こうと思う。
子供に対してはそんなふうに意識をするとして、自分に対してはどうだろうか。やはりここは日本人なのだから、親鸞のように、人と比較するような心を捨てる、という方向に正解があると思う。ただ、比較そのものは有用な認識で、動物にしても、相手が自分より大きいかどうか瞬時に判断することは、生存戦略として有用どころか不可欠な能力だ。逆に動物にはその能力以外はないかもしれない。例えば色の明るさを絶対的に判断することなどできず、周りと比べて、白に近い灰色とか黒に近い灰色とか判断して、実は同じ明るさであることなど気づきもしないし、もちろんそれでいいのだと思う。問題は、その比較を評価と結び付けないところになるのではないだろうか。例えば、人の姿形を見ても、優劣ではなく、ただの違いや個性に過ぎない、というふうに考えることもできるはずだ。理性で考えることを否定したばかりで矛盾しているようだけれども、