ETV「隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録」(NHKを見た。

 イラク戦争などで有名になった、戦争による米軍兵士のPTSD(心的外傷後遺障害)だが、日本でも太平洋戦争時に多くの兵士が精神障害を追っていた、その記録。

どんな症状なのか

 当時、臓躁病(ぞうそうびょう)と言われたこの精神障害だが、軽いものでも悪夢にうなされ、「死ね」という声が聞こえる幻聴、自分が殺した犠牲者が出てくるような幻覚、さらに身体症状では、コップをまともに持てないほどの震え、さらに手足が痙攣してまるで死ぬ間際の昆虫のようになってしまう発作が起きたり、手足がガクガクして歩くこともできない人もいる。

 人によってはある程度回復することもあるようだが、そんな人でも何十年もして、敵が攻めてきたと真夜中に起き上がって叫んだりすることもあるという。

どうして明らかにならなかったのか

 こういう症状については、第一次世界大戦のシェルショック(砲弾病)としてすでにある程度わかっていることだった。だが、日本でも同様の症状があることを認識していながら、「皇軍兵士には皆無」であるとしていたために、言ってしまったことに合わせようとするあまり、完全に抹殺しようとしたのだろう。実際、治療に当たっていた病院では、終戦後カルテを全部償却するように命令されたという。だが、心ある医師たちがカルテを密かに持ち出し、ドラム缶に入れて地中に隠し、やがて日の目を見ることになったという。

犠牲者の多くは中国大陸で

 日本の戦域は広範囲に及んだが、8000人のカルテのうち、4000人以上が中国でしかも比較的北の戦線に多いという。だが、ニューギニアなどでは兵士の多くが戦死したり餓死したり自殺したりと、救出して病院に収容するなどということ自体ができない環境にあったという。つまり、中国の北部という比較的日本に運びやすい地域での患者が収容されたのは当たり前で、現実には南方の戦線では、この何百倍もいたかもしれない。実際、中国の戦線では、日本軍の支配地域は点と線を結ぶようにではあるが、一応本土から繋がっており、その細い線を通ってなんとか輸送が可能だった。その細い戦場を移動するときですら、いきなり物陰から銃声が聞こえてきて、敵の銃弾が、鉄製の水筒に当たって命拾いした、という恐怖の中で、やがて発症することがあったという。しかし、南方ではおそらく点と点でしかなかったから、補給も援軍も来ない恐怖の中で雨あられのように降ってくる敵の艦砲射撃を受けて発祥が少なかったとは思えない。

こっちは攻めていくだけ

 中国大陸では、中国人側は自分たちの家族を、故郷を守るために、彼らなりに大義を持って戦っていたが、ある元日本兵は「こっちは攻めていくだけ」。一体何をしているのか、なんのためにやっているのかもわからないまま、毎日恐怖の中を過ごす。昨日まで田舎でのんびり畑仕事をしていた人がある日そんな環境におかれ、自分の子と同年代の子どもまで殺す。そのことが頭にこびりついて離れない。

 そんな人が無情な殺人鬼になれる理由は、理不尽で絶え間ない軍隊内でのリンチだろう。アメリカ軍兵士に関して言えば、人を見て引き金を引ける兵士は20%しかいなかったというが、それがまともな人間だろう。それを狂った殺人鬼に仕立て上げなければならないのが戦争だとすれば、日本軍兵士は、リンチによる絶え間ない暴力で人間性を変えられ、その結果自分の子供くらいの小さい子を殺して、戦後も何十年も苦しみ続ける。その上、戦争になんの大義もないとなれば、苦しみは何倍にも膨れ上がる。

戦後はどんなふうに扱われたか

 そこまでの犠牲を出してしまった戦争。国がしたことに対して国がなんとか責任を取ろうとしたのか。実際には、全く人格の変わってしまった元兵士をケアする人もいなければ制度もなく、家族が引き取ることもできず、結局病院に収容されて何十年も入院したまま。実際に病院で世話した人によると、この国だからこんなことが起こるのではないか、という。そういうことは隠され、なかったことにしてしまう。誰にも知らせないままひっそりと闇に葬りたい、そんな人たちの生き残りは早く一人残らず消えてほしい、というあたりが本音なのかもしれない。

戦争は総力戦というより総被害戦

 戦争と言えば兵士たちの戦いをイメージするが、近代以降は、国民生活を完全に巻き込んで、何もかも総動員される総力戦となった。さらに第二次世界大戦では、空襲など市民が直接被害者になる場面が出てきた。兵士たちとその家族だけが犠牲になるのではなく、市民も国土も何もかも奪われる。

 特に、自分たちの国土に攻め込まれた側の市民の被害は目を覆いたくなるほどだが、一方で攻め込んだ側の兵士、そして生き残った、その意味では勝ったはずの兵士たちにすらこのようなことが起こっている。20年ほど田舎で穏やかに育った少年が、たった数年の従軍体験から、どこを撃たれるでもなく帰ってきて、戦後60年間を病院で、日常生活すらままならない日々を過ごす。家族は、この子は一体なんのために生まれてきたのか、と思う。

戦争を語り継ぐというけれど

 戦争に至るプロセスから学ぶこと、実際の戦争で戦死よりも餓死のほうが多かったこと、太平洋上では軍人よりも民間人のほうが犠牲が多かったこと、空襲のこと、原爆のこと。唯一本土で行われた陸上戦である沖縄戦。

 戦争は怖い、忘れてはいけない、語り継ぐ必要がある、とはわかっていても、一体どれだけの局面があるのか、一体何科目を履修すれば語り継いだといえるのか。だいたいのことを知っていたつもりでも、また何か戦争の新しい局面を知るたびに、戦争のことを何も知らなかったな、とすら思う。

 いつまで反省、謝罪を続ければいいのか、などというけれど、その前提として知ることすらできていないのに、どうしてそんなに、「はい、これでおしまい」と言いたがるのか。残念ながら、学ぶべきこと、語り継ぐべきことは無限にありそうで、ただありがたいことに、それを続け、二度と同じことが怒らないようにしようと思い続けていれば、もう誰も反省しろ謝罪しろなどと言い続けないような気もする。