三津ヶ浜のげんたろう (その2)

ぷうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蛮な所だ。

カテゴリ:今治(陸地部) > 波方

 11月27日撮影。
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 どうやら、波方ターミナル(丸いタンクが並んでいるところ)
へ向かうトンネルのようだ。シャッターが閉まっていた。
一般車両は進入禁止になっているようである。
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 この日、私が乗って行ったバイクである(FTR223)。
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 トンネルのところから、来た道を振り返ったものである。

 11月27日撮影。
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 畑に、「お頭の家跡」という説明板が建てられていたので・・・。
ここに海賊の頭領の家があったのであろうか。
ここ旧波方町(元今治市)の宮崎は古くからの海賊の根拠地
だった場所、などと言われているところである。
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 宮崎の海である。お頭の家跡から海岸へ出たところである。

 本日撮影。
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 ここは今治市波方の森上海岸にある石風呂跡です。
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 赤い実の付いた花と、
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 このような花が咲いていました。
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 石風呂跡の前あたりから海を見たものです。
私も良くはわからないのですが、ここから、大三島~関前諸島
~蒲刈諸島(広島県)が見えているのではないかと思います。
  
    関連記事   森上の石風呂

 10月30日撮影。
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 なみかた海の交流センターで屋外展示をしていたので・・・。
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 私は、焼玉エンジンという言葉を子供のころから良く耳にはしていた。
でも、実物(船から降ろされ動いてはいないが)を見たのは初めてである。
 
 私の父は船乗り(機関士)であった。父と船員仲間の人たちとの会話から
耳に入ってきたものだと思う。私は、父の乗る船にも良く遊びに行かせて
もらっていたように思う。父の持ち場の機関室にも入れてもらったことも
あるし、甲板(操舵室)のほうへも入らせてもらっていた。海や船とは
全く違った方向へ行ってしまった私ではあるが、やはり良い思い出、
いや、それだけではないような気もしている。子供の頃の印象とという
ものは強烈である。やはり親の仕事や家庭での振る舞いというものは、
子供に大きい影響を与えるものなのではないのだろうか。
 私の父は、子供たちには、基本的にオープンだったようにも思う。
やはり、私が幼いころにはパチンコ・競輪にも連れて行ってくれていたし、
船員さんたちが集まって花札賭博をしているところへも連れていってくれて
いた。上辺の良し悪しではなく現実を見せてくれていたのではなかろうか。

 10月30日撮影。
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 なみかた海の交流センター内に機帆船の模型が展示されていたので・・・。
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 今は機帆船を見かけることは少なくなったが、私が子供の頃は珍しい
ものではなかった。三津浜内港にも、たくさんの機帆船が出入りして
いたものだ。私の父方では3人の伯父が、それぞれ機帆船を廻していた。
三津浜港に寄港したときは、我が家に寄ってくれていたものだ。
 
 子供の頃一度、船に遊びに行ったときに、伯母(伯父と一緒に夫婦で
船に乗り組んでいた)が、カレーライスを作ってくれてスプーンがなかった
のか割り箸で食べさせてもらったことがある。雰囲気が普段と違っていた
からか、とても、おいしく感じたことを覚えている(というか忘れられない)。
昭和40年代に入ったくらいの頃だったのではないかと思う。
 機帆船を見ると、また機帆船と聞くと、・・・。
そう、どうしても今は亡き伯父・伯母たちのことを思い出してしまう私である。

 10月30日撮影。
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 旧波方町(現今治市)の波方港にあります。
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 今は廃止されましたが、以前は中四国フェリー(波方~竹原)の
発着港でもありました。そのフェリーの待合室をリニューアルして、
この「なみかた海の交流センターを開設したそうです。
 内部には、中四国フェリーの関する資料や、その他の船に関する
資料などが展示されていました。
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 波方港を見たものです。フェリーが廃止されて寂しい港に
なったものだ、と思いました。私は中四国フェリーを一度ですけど、
利用したことがあります。本州へ原付バイクで遊びに行った帰りに
「もう疲れたからフェリーで帰ろう!」と思い、竹原港から、ここ
波方港まで乗りました。約1時間で到着したと記憶しています。
 瀬戸内海のフェリー航路は、本四連絡橋が開通してから、
大きく減ってしまいました。陸で生活している人々は便利になったの
でしょうが、海で暮らしている人たち(船員・港湾関係者)は、職場が
少なくなりなりました。時代の流れ(社会の進歩)と捉えれば仕方が
ないのかも知れませんが、海のそばで暮らしてきた私のような者に
とって、やはり寂しさを感じずにはいられませんね。・・・。

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 なみかた海の交流センターの前には、「国立波から海上技術短期
大学校」の文字がみえました。この近くに学校があります。この学校で
海技免許が取得できるそうです。内航船員を養成する学校だと思います。
 ここ波方は海運の町。船員養成の学校が似合う町だ。そう思いますね。

 10月30日撮影。
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 旧波方町にある。海山城展望公園の駐車場である。
この日、私は、ここにバイクを止めて展望台へ上がってみた。
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 遊歩道がきちんと整備されていた。駐車場から、すぐである。
展望台は、お城のかたちをしていた。展望台入口には説明板もあった。
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 展望台からの眺めである。来島海峡大橋のほうを見たものである。
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 同じく、今治平野のほうを見たものである。
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 同じく、近見山のほうを見たものである。
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 展望台からは360度見渡せた。
展望台だから当然ではあるが、見晴らしの良いところだ、と思った。
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 帰りがけに遊歩道で写したものである。
つわぶきの花ではないかと思ったのだが・・・。

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 小部漁港の半島寄り(宮崎寄り)にある海岸である。
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 花崗岩地帯の砂浜。瀬戸内海の斎灘。
海の個性。浜の一生。無機の世界。
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 砂浜の背後の崖には石英の密集しているところがある。
花崗岩といってもいろいろ。人と同じで顔つきは皆違う。
場所により、石にも個性というものがあるのではなかろうか。
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 撮影したのは11日、台風の翌日である。漂着物も
多かったのかも知れない。「もの」が浜に流れ着くのは
自然現象である。しかし、漂着物の中には人が作った
「もの」、言い換えれば社会的な「もの」も多いように思う。
   
 浜を歩くにも、自然を見る眼と社会を見る眼、両目を
開けておけば、いろいろ楽しめるのではないだろうか。
そんなことも思ったのだが・・・。

 8月11日撮影。
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小部漁港沿いの集落の、ほぼ中央に位置している。
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 美保神社はえびす信仰の神様である。えびす様を
祀っている神社の名前は、恵比須・蛭子・三保など
いろいろであるが、内容は同じ「えびす信仰」である。
海の彼方からやってくる、魚や漂着物などに感謝する
「寄せ神」の思想である。古い昔には、魚が回遊してくる
ことや、台風などの嵐の後に流れ着くいろいろな漂流物
は神様からの贈り物だったのであろう。IMGP8113
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 龍神社も合祀されているようである。龍神社は「龍神信仰」
の神社である。龍神様も漁村では良く見られると思う。
えびすさまが集落の中にあるのに対して、龍神さまは集落の
はずれの岬の先端などに良く見られるように思う。
もしかすれば、この龍神様は、昔は別な場所にあったのかも
知れない、などとも思う。
   
 なお、龍神さまは雨や嵐、ひいては水の神様として
崇められているが、龍神信仰は浦島伝説にもみられる
ような古くからある海上他界の思想が始まりとも
考えられているようである。
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 社殿の裏には木村重五郎の碑が建っていた。
木村新兵衛の子孫にあたる人なのだろうか。・・・。
   
 千手観世音には二十九番と書かれている。
半島四国88ヶ所の一か所にあたるのであろう。
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美保神社の前の道に、このような道しるべが出ていた。

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 旧波方町にある小部漁港である。
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 漁港のほぼ中央部、集落側に美保神社がある。
美保神社などえびす神は漁業集落の中に祀られる
ことが多いそうである。寄せ神の思想である。IMGP8117
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 美保神社の裏の通りである。漁業集落では
細い道や路地は珍しくないのではなかろうか。
美保神社の近くには商店もあった。
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 美保神社の前の漁港風景である。
大きい漁港である。
この写真では全体像はわからない。
半島四国88ヶ所へんろ道の道しるべがあった。
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 小部漁港の遠景である。
集落の背後に広くはないが平地もあり、ここ小部は、
漁港として、また集落の場所としても恵まれている
のではなかろうか。そんなふうにも私は感じたのだが。

 ここは旧波方町宮崎である。
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 防波堤の付け根(表現が悪いかも<笑>)のところに
漁港修築記念碑が建っていた。この防波堤のものか、
それとも以前または別なものなのかも知れない、とも思う。
防波堤は立派であるが、記念碑はそれほどでもない。・・・。
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 防波堤では焚火をしてはならないそうである。
コンクリートが壊れるからだそうだ、
なお、ここは小部漁港の管轄になるようだ。
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 記念碑のところから防波堤の内側を見たものである。
波静かな港内に、いくつもの小舟が浮かんでいた。

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 旧波方町の小部にある。8月11日撮影。
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 木村新兵衛は、元は淡路水軍の統率者であったそうだが、
加藤義明とともに伊予にやってきて、ここ小部において
漁業開拓を進め、小部の発展の基礎を築いたそうである。
小部地区においては絶対に忘れてはならない人なのだ、と思う。IMGP8108
 現在の小部漁港である。新兵衛が漁業開拓に乗り出したのは
約400年前である。港の風景も変わっていることであろう。
漁業開拓を始めたころは、ここはどんな港で、そして、
どんな風景が広がっていたのであろうか。・・・。

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 七五三ヶ浦は梶取鼻と御崎神社のある烏鼻との
間にある海岸である。この七五三遺跡は縄文時代
前期から縄文時代晩期に至る遺跡だそうである。
この浜には古くから人が住んでいたようだ。IMGP8237IMGP8235
 この遺跡では、剥ぎ取り地層が展示されている。
アクリル板で保護されているようだ。こういう展示は、
確かに珍しいと思う。現地で剥ぎ取り地層が展示
されているのを見たのは、私は初めてである。
こういう展示も良いものだと思う。
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 縄文時代前期から、現在まで約5千年の月日が
流れているそうだ。ここに住んでいた縄文時代の
人々も、この松の生えた岩礁などを毎日眺めて
いたのではなかろうか。でも、5千年の月日である。
私にはよくわからないが、岩礁の姿も昔とは
変わっているのではないだろうか。・・・。
    
       * 8月11日撮影

 8月11日に旧波方町宮崎の烏鼻にある御崎神社に
寄ってみた。以下、神社の参道や境内のある石碑などである。
なお、御崎神社のことについては、
             三津ヶ浜のげんたろう(その2)
                              に載せてある。

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 この地区出身で太平洋戦争で兵隊さんに徴用され、
亡くなられた人が祀られているのではなかろうか。
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 宮崎地区の電燈のことが書かれている。
宮崎地区には戦前は電気は来ていなかったようだ。
戦後、この神社の御神木を切り出し売却し、
電気を引く費用に充てたそうだ。
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 これはいったい何だろう?良くわからない。
でも、神社にはあっても良さそうなものだとは思うが・・・。
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 たくさんの神様が祀られていた。
これも神社というもの一般の特徴ではなかろうか。
そんな気がする。・・・。
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 紀元は2千6百年・・・。
戦前の歌(軍国歌謡?)にもあったように思う。
国家と神道と天皇家との関係は如何なるもの・・・。
私は、そのことを、いつも思ってしまうのだが・・・。72041336.jpg

 この神社でも平成13年の芸予地震において
被害を受けたようだ。災害復旧に寄付者芳名である。

 8月11日撮影。
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 ここは旧波方町の宮崎である。
バイクで走っていたら、道路脇に案内板があったので・・・。
上の写真の山のようなところが城跡になるのだろうか。
来島水軍の支城だったそうである。
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 このすぐ前の海岸である。きれいな海だと思う。
宮崎城を拠点としていた来島水軍のつわものたちも、
この海を毎日見ていたのであろう。
彼らにとって海とは・・・。

 ここは旧波方町の宮崎というところである。
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 海の中といおうか、海岸に鳥居が建っていた。
鳥居の額には御崎神社と書かれていた。
鳥居の向こうに小山(岬)が見えている。
この小山(岬)のほうに神社があるのではなかろうか。
そう思ったので小山(岬)のほうへ行ってみた。
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 バイクに跨り、小山(岬)のほうへ走って行くと、
ほどなくで鳥居が見えてきた。
やはり神社は小山(岬)にあった。
この鳥居から中は車両進入禁止であった。
バイクを降り、参道を少し歩くと社殿が見えてきた。
思ったより立派な社殿である。そう、思った。IMGP8194
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 拝殿及び本殿である。神社の説明板もあった。
この神社には梶取鼻にあった香取神社と、
ここ烏鼻にあった烏明神が祀られているそうだ。
烏明神は農耕の神だそうで牛馬が祀られているとか・・・。
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 神牛が祀られていた。銅製だそうだ。
初代の神牛は太平洋戦争で徴用されたとか・・・。
この神社にも戦争の影が残っているようである。
戦争など、絶対にやるべきではない。
私は、そう思っている。
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 この神社からも、梶取鼻と同じく、木々に遮られて、
展望が良くなかった。ちょっと残念であった。
        
      *   8月11日撮影

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 御崎神社の参道入口の正面にある。
寝てはいるが立札には「山桃の叢林」と書かれてある。
歩いてみなかったが遊歩道のようになっているのでは
なかろうか。今度来た時にでも歩いてみようか。
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       *   8月11日撮影

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 梶取鼻の駐車場のところに森繁久彌さんの歌碑があった。
ここ梶取鼻の雰囲気を感じるのに良いのではないか、
そんなことを思った。ただ、昨日寄ったのであるが
梶取鼻からの展望は木々に遮られて良くなかった。残念。
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 昨日撮影。
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 梶取鼻の、すぐ下(あたり)の海岸です。IMGP8227
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 今が夏の盛り。
海水浴などして海と遊んでいる人たちがいました。
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 黒岩海岸(松山市高浜)にある四十島のような島(?)が
ありました。風光明媚なところだな、って思いましたね。IMGP8255
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 浜には、丸い礫(石ころ)がたくさんころがっているところが
ありました。丸い礫(石ころ)だから海から運ばれてきたのでは
ないかと思います。ここ七五三ヶ浦の砂浜では、ほとんど
礫(石ころ)が転がっていないところもあります。不思議ですよね。
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 説明板によれば、この付近は湧水が豊富で、
古くから人が住んでいたと言われているとか・・・。
もしかしたら、昔活躍した瀬戸内海の海賊たちも、ここに
住んだことがあるのかも、なんて思ったりしますが・・・。

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 梶取鼻へ行く道の途中にあった。
梶取鼻の駐車場までは、すぐのところである。
 
 ここ波方町は海に突き出た半島のようなところにある。
そしてこの地域のも四国八十八か所を模したミニ四国
があり半島四国88ヶ所というそうだ。
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 なお、この道しるべは、梶取鼻近くではなく、
小部集落の漁港沿いの道で撮影したものである。
     
     *  本日撮影

 今日、寄ってみました。
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 梶取鼻は瀬戸内海に突き出している岬です。
鼻(岬)からの眺めが良いのではないか、
と思いながら、林の中を歩いて行きました。IMGP8210IMGP8211
 すぐでした。少し歩くと白い灯台が見えてきました。
近寄ってみると「来島梶取鼻灯台」のプレートがありました。
昭和37年(1962)に、この灯台に火が灯ったそうです。
中には入れません。外から見るだけです。IMGP8213IMGP8214
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 さて、まわりを見回してみても、海が良くみえませんでした。
木々が繁りすぎじゃないかと思います。
木々がなければ絶景のはず、結局灯台を見ただけって感じ、
ちょっと残念でした。
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 駐車場にある説明板によれば、大昔から、ここは
海上交通の要衝で、のろしなどを上げていたそうです。
そう、ちょうどここが九州方面から来た場合、
来島海峡の入口という感じになりますので、
見張りをするには打って付けの場所だ、と思います。
昔は木々が伸びたら切ったりしていたのではないでしょうかね?
今のような状態だと海が見えませんので・・・。
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 今日は、このスクーターに乗りました。アドレス110です。
110ccのエンジンですけど、よく走ってくれますよ~~!!

 レンゲ畑のむこうに、小さな駅がありました。

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 無人駅です。波方駅です。

今治から、二つ松山寄りの駅です。

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 三津浜までは、740円ですね。

1時間ちょっとくらいは、乗るのではないでしょうか。

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             撮影は4月29日です。


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 今治市波方町森上にある石風呂跡である。森上は馬刀潟の

近くの集落である。

 この石風呂については説明板がなくなっていたため、

細かいことがわからない。困ったものである。しかし使われ方は、

この石をくり貫いた部屋の中で、シダや松葉など焼き、その上に海水で

浸したムシロを敷きつめ、蒸気を発生させ体を温めるものである。

今風に言うとサウナ風呂である。これは間違いない。ここ今治市の

桜井というところに石風呂があり、そのような使われ方をしている。

桜井では体を暖めた後、目の前の海に入って体を冷やしている。

たぶんここでも、目の前の海に浸かったのではないかと思うが、

石風呂前の甌穴のような潮だまりも気になるところである。

 日本においては、最初はこのような石風呂がお風呂であったそうだ。

今のお湯に浸かるお風呂は、江戸時代からだそうである。

石風呂は仏教と共に伝わってきた、と言われているそうだ。

そうする石風呂も6世紀頃に伝わったのであろうか。

病気治療が主目的であったらしい。

 石風呂は西日本特有のものであり、京都・三重が北限と言われ、

愛媛県などを含む西瀬戸地域を中心に分布しているということである。

特に山口県・大分県に多いらしい。

 石風呂は三津浜近辺にもあったそうである。港山と高浜1丁目に

石風呂跡があり、石風呂町にも場所はわからないそうであるが、

あったようである。たぶん町名の由来であろう。

 西瀬戸を中心とした石風呂文化、そのバックボーンは、何であろうか。

瀬戸内に広がる花崗岩であろうか。

それとも大陸から渡ってきた仏教であろうか。

はたまた全く別なものであるのだろうか。
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  馬刀潟集落の西の端にある、縄文時代の貝塚である。

愛媛県内ではそれなりに有名であるらしい。

 愛媛県の瀬戸内海側では、貝塚が珍しいそうである。

また、縄文中期の遺跡は、このあたり(高縄半島先端部)

にしか見つかってないそうである。

 この遺跡は縄文前期から縄文時代晩期までの遺物が

連続して見つかっているそうで、弥生時代の初めの遺物も

見つかっているそうである。

                                                   

 さて、この遺跡は海岸のすぐそばにあった。

私は、海岸べりに車を置いて、遺跡に向った。

少し低いような気がするな、私は少し不思議に思った。

 縄文海進の最高海水準の時に水没しなかったのであろうか。

今より3mほど海面が高かったといわれているのだがな。

縄文前期からこの遺跡で連続的に生活が営まれていたなら、

相対的に海面は上昇しなかったということになるのではないか。

もしそうだとするなら、瀬戸内海が外洋とつながっていなかったか、

縄文海進以降に地盤が沈降したか、のどちらかではなかろうか。

縄文海進時に瀬戸内海が太平洋とつながってないわけがないよな。

そうすると地盤の沈降かな。

 秋の日差しを浴びながら、そんなことを勝手に想像していた。 

                                       

注) この遺跡の正確な範囲や高さを私は知りませんので、あしからず。


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 高縄半島の先端の小さな入り江の面した所に馬刀潟(まてがた)

という小さな集落がある。ここは今は今治市であるが、この前に「平成の

大合併」以前は越智郡波方町であった。

 白岩鉱山跡は、この入り江の西海岸の先端付近にある。ペグマタイト

鉱山である。現地は今は池のようになっているが、これが露天掘りの跡

で、この中には竪抗もあるらしい。まわりには樹木が生い茂り詳しい

状況はわからなかった。

 ペグマタイトとは巨晶花崗岩といわれるもので、

鉱物の粒子の大きい花崗岩のことである。

石英や長石などの鉱物が大きく、石英などはガラスの原材料に

なったりしている。また、ペグマタイトは希元素鉱物を含みやすく

ウラン鉱物などはその代表格である。ウラン採掘で有名な岡山県の

人形峠もペグマタイト鉱山である。

 この白岩鉱山も、初めは石英と長石を採掘していたらしいが、

ウランを含んだ放射性ジルコンの変種鉱物「波方石」が発見された後、

ウラン鉱を目的とした採鉱を行っていたとのことである。

 ペグマタイト鉱床、これも花崗岩地帯の特色である。三津浜近辺の

丘陵地なども一連の花崗岩地帯(領家帯)であるが、ペグマタイト鉱山は

聞いたことはない。採鉱に値する鉱床に恵まれなかったのであろうか。

それとも、私の勉強が足りないのであろうか。

                                         

 今ふっと思ったが、もしかして高山の石英斑岩を採掘していたという崖

は、ペグマタイトが目的だったりして。戦時中にウランを探していたのかもよ。
んなことはないか???
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写真左)   鉱山跡の目の前の海

写真中・左) 鉱山跡近辺の花崗岩質の岩石の露頭              


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