カテゴリ:今治(陸地部) > 大西
星の浦海浜公園
星之浦海浜公園バス停
旧大庄屋井出家のクスノキ
天水瓶のある旧大庄屋井出家
JR「大西駅」
大西駅の駅舎である。旧大西町(現今治市)にある。
駅舎の中に入ってみた。この駅は無人駅である。
この駅に特急列車は停車しない。停車するのは普通列車のみである。
先日、私は、この駅から乗車した。三津浜駅までの運賃は660円だった。
ホームへ出てみた。
今治方面で隣の駅は波方駅、松山方面で隣の駅は伊予亀岡駅である。
駅には歩道橋(跨線橋)が設置されている。
向かいのホームだけでなく線路の向こう側にも行けるようになっていた。
歩道橋の上から、今治方面を見たものである。
同じく、松山方面を見たものである。
同じく歩道橋の上から海側を見たものである。
海側には新来島ドック関係の施設が目立つ。
鉄筋コンクリートの集合住宅も、新来島ドックも社宅や寮のようである。
同じく、山側を見たものである。この写真ではわからないが、
大西駅あたり(山側)が昔からの町場であったようだ。
歩道橋上で写真を撮って、歩道橋を下りる時に気が付いたものである。
タクシーの案内板が建てられていた。
駅舎の前から正面を写したものである。
駐輪場のところには、大西町の案内地図が建てられていた。
こういう地図は、他所から来た人にとってはありがたいものだ、と思う。
ところで、先日、大西町の広域農道のループのところで、
私の原付バイクが動かなくなった。ここ大西駅まで歩いて押してきて、
この駐輪場にバイクを置かせてもらって、電車で家へ帰った。
バイクは、翌日に義兄が車を出してくれて、我が家まで運んでもらった。
そう、大西駅は私にとっては忘れられない駅の一つになったようにも思う。
関連記事 兄ちゃん、ありがとう!!
金比羅神社と本龍院
品部川河口(大西)
新来島ドック(大西)
サークルK大西脇店
星浦公民館
越智岩太郎翁記念碑
旧大西町(現今治市)の星浦にある。
越智岩太郎は、江戸時代末期に有木池を建設した人だそうである。
ところで、有木池は、どこにあるのだろうか?
一度、見に行ってみたいものである。
関連記事 菅金助君碑
碑の前の道路である。山のほうを見たものである。
同じく、海のほうを見たものである。
碇掛天満宮
菅金助君碑
五郎兵衛大師
大山八幡大神社
国道196号線を松山から今治方面へ向かっていて、
旧菊間町から旧大西町に入ってすぐのところ、左手にある。
神社の社殿は小高い山(丘)の上に建てられている。
上り口のところの鳥居である。
この鳥居の脇(右)に説明板も設置されていた。ありたいことである。
鳥居をくぐり、歩いて石段を上がって行くのが普通だと思うが、
私は脚(足)に不安がある。したがって、石段の左にある車道を
バイクで上がって行った。もし、車道がなければ、社殿まで私は
上がって行かなかったのではないかとも思う。脚の悪い人やお年寄り
にとって車道があるということは、助かるというかありがたいことだと思う。
拝殿である。扁額には大山八幡大神と書かれていた。
社殿の後ろにある本殿である。
拝殿の手前、拝殿に向かって右手にある境内社である。
天照皇大神と大国主大神が祀られているそうだ。
拝殿の左手にある境内社(?)である。
ここには、いったい何が祀られているのだろうか?
私には、わからなかった。
JR切符(大西~三津浜)
十天堂(大西)
大西から玉川へ向かう県道沿い近くにあります。
坂になる手前あたりの左手ですね。
パッと見た目、普通のお地蔵さんなのですが、御堂の名前が・・・。
なるほど・・・!(@_@)!
ところで、このお地蔵さんがここにあることを、私は知りませんでした。
昨日は原付バイクが走行中に突然エンジンが止まっちゃって・・・。
仕方なく、バイクを押して歩いていて、このお地蔵さま(十天堂)に
出会いました。もしかして神様に導かれたのかもぅ~!(^^)!。
バイクですかぁ?エンジンが掛からないので大西駅の駐輪場に
置いて、電車(JR)で帰宅しました。今日、修理道具を持って、
大西駅へ行き、バイクを整備したいと思っています。
はてさて、直りますかね~???
そうそう、バイクが止まったのが広域農道のループのところでした。
ですので、バイクを押して、けっこうな距離を歩きましたね~(笑)。
鴨池海岸公園
大西~玉川間の峠
重茂城跡登り口
明堂さん
大西から玉川に抜ける道を原付バイクで走っていたら・・・。
峠への上り道のところで、このようなものが目に入ったので・・・。
バイクを止めて、このような坂道を降りてみました。
小屋のところを左に曲がると(道なりです。)・・・。
道は石段となり、そのまま上がってゆくと・・・。
お堂がありました。はい。「明堂さん」です。
お堂には額が2つ掲げられていました。
どちらも明堂菩薩と書かれていました。
このお堂は、1338年に亡くなられた尊真親王の冥福を祈って
建立されたものとのことです。1338年は後醍醐天皇による
建武の新政が倒れて、足利尊氏による室町幕府が開かれた年
だったのではなかったでしょうか。この後、南北朝の動乱が
しばらく続きました。当時の伊予国、特に河野氏の治めていた
高縄半島一帯は、どのような状況だったのでしょうかね???
お堂を見ながら私は、そんなことも思い起こさせてもらっていました。
境内には、その他、小さなお堂もありました。
お百度石には温泉郡睦野村の文字がありました。
睦野村とは忽那諸島の睦月島・野忽那島にあたるのでしょうか?
忽那諸島を治めていた忽那水軍も南朝方として知られています。
境内及び、その近くから玉川へ抜ける峠道(県道)を見たものです。
この道を上がっていったところ、峠の頂上付近に重茂山城跡があります。
広域農道のループ
若いもん山(金毘羅山)
菊間から今治へ向かって、広域農道を原付バイクで走っていると、
こんなものが目に入ったので・・・。せっかくだから、登ってみた。
この案内看板のところから今治方面を見たものである。
この道が広域農道である。
同じく菊間方面を見たものである。
案内看板通りに、広域農道の脇の坂道を・・・。
広域農道から600mだそうである。私は原付バイクで登ったが、
歩いても、それほどかからない、と思う。
坂を少し上がったところから見たものである。
広域農道、今治方面である。
同じく、菊間方面である。
途中分かれ道のところには、このような道しるべが・・・。
道に迷うことはまずない、と思う。
道しるべの近くから山のほうを見たものである。
ここは高縄半島である。花崗岩質の山である。
山の削られているところでは「真砂土」を採取しているのであろう。
同じく道しるべの近くから海のほうを見たものである。
私も良くはわからないが遠くに浮かんでいる島々は、広島県呉沖の
蒲刈諸島ではないかと思う(違っていたらごめんなさい。)。
山頂手前の駐車場である。トイレも設置されているので安心。
話は逸れるが、止めたバイクのすぐ後ろにキノコが生えていた。
駐車場から山頂までは、すぐである。
登り口には、このような説明板が設置されていた。
てこてこ歩いて行くと・・・。あっという間に山頂である。
標高は127.6m。三角点のある山である。
展望所として、すっきり整備されていた。
登ってきて良かった。そんなことを思いながら・・・。
360℃の展望がきく。以下、西から北~東~南の順に・・・。
けっして高い山ではないが展望は素晴らしいではないか!!
ところで、昔の若いものは、こういう場所に集いて遊んで語って・・・。
昔は、村のしきたりや付き合いの仕方など、また仕事や人生のこと
などを、こういう形で学んでいたのであろう。それに比べ今の世は・・・。
で愛、ふれ愛ロード
古寺地蔵尊
旧大西町(現今治市大西町)の新町にあります。
大西駅の近くです。
「火よけのお地蔵さん」とか「古寺のお地蔵さん」とか
呼ばれているそうです。
藩政期にはこのお地蔵さんのところは、
松山藩の処刑場だったそうです。
貞享年間(1684~1688年)に、
凶作にあえぐ農民の生活を思い、
年貢の軽減を直訴した、この地区の庄屋さんも、
ここで斬首・さらし首に処されたそうです。
今とは違います。江戸時代のこと、
お上の言うことには、逆らえない時代だったのでしょう。
しかし農民たちは、命を懸けて直訴したこの庄屋さんを称え、
ひそかにお地蔵さんを祀り、弔ったそうです。
お地蔵さんは今日まで残り、
お話も今日まで語り継がれています。
この庄屋さんの行動が、正しかったから
なのではないでしょうか。
時の権力の法律は、守らねばならないものでしょう。
しかし、時と場合です。
人としての正しい生き方、というものもあるでしょう。
権力の法律というものには、
時代的制約のあるものがあります。
ここのお話とて今の時代で考えれば、
とても残酷なことでしょう。
人としての正しい生き方というものは、
一つの時代だけでなく、
時を越えて通ずるものなのではないのでしょうか。
では、どのようなものが、人としての正しい生き方なのか。
基礎的なことから考え、やってゆくこと、
共に働き、働くものの立場で、ものを考え生きること、
このあたりが、基本的なことではないのでしょうか。
自分以外の人やものを思いやる、
ということなども、この中に入ってくるのではないでしょうか。
九王地蔵堂
大西の九王にある地蔵堂である。
1721年(享保6)に建立されたようである。
享保の大飢饉が1732年(享保17)なので、
それより10年ほど前になる。
当時、お地蔵さまのお堂を建てる、では
藩の許可が下りなかったようである。
そこで、お葬式の焼香場で申請、知恵である。
説明板によれば、ここ旧大西町九王は、
今治藩領ではなく、松山藩領だったようである。
私は、大西町は平成の大合併まで越智郡だったので、
今治藩領だと思っていた。いままで知らなかった。
なお、九王の龍神社などで行われている継獅子は、
松山地方では見られないものである。
県内では、今治地方独特の伝統芸能である。
入り口のところの塀の上に、座っていた。
菊間瓦で、できているのであろうか。