2006年05月17日

眠かったら寝る

最近実践しているのが、「眠かったら寝る」作戦である。
別に作戦というほどのことでもないが、眠くなったら眠さに抗う方向に頑張るのではなく、眠れる環境を作るほうに頑張ってみるという哲学である。

そもそも生物というのは眠っているのが本来あるべき姿で、活動するというのは何かを捕食するための行動である。食事以外の時間は全て睡眠にあてるのが、生き物として正しい姿だと俺は考える。
食べ物を得る・食べるという行為が特別なことではなくなってしまった先進国に住む人間は、もっと多くの睡眠時間をとるべきだ。

そもそも、眠いのを無理して起きていると、人間は段々機嫌が悪くなる。機嫌が悪いと、その機嫌が悪い状態をなにかのせいにして、悪者を作りたがる。世の中が良くならないのは、眠い人間が多すぎるから、というのも一因としてあるだろう。果たして今の世の中が悪い状態なのかどうかは分からないが。

何はともあれ、眠かったら寝るべきなのである。
自殺を禁じている文化でありながら、その一方で睡眠時間を削って何かを行うことを美学としてとらえる一面があるということが、最近俺には信じられなくなってきている。
眠いときは寝る。眠いのを我慢してやらなければならいことなど、何も無いはずだ(眠くなってはいけないことをするのなら、事前に充分な睡眠をとっておくべきだ)。
眠らない奴を罰する法律とかできると、とても平和な世の中ができると俺は信じている。

が、その一方で、俺は平和な世の中が正しいとは思っていない。

genu_ine at 02:31|この記事のURL日々の思念 

2006年05月09日

sakusakuを見ている

平日の朝は睡眠不足ぎみの呆けた頭でテレビをつけ、tvk(テレビ神奈川)でsakusakuを眺めるのが日課。もうかれこれ1年以上そういう朝を迎えているから、旅行に行くとかで神奈川県を離れると、どうも朝の迎え方が分からなくなる。


そんな訳で自分にとってsakusakuというのは単なるテレビ番組ではなく、日常の歯車になっている。当然、面白いから毎日観るのだが、単なる日常に過剰なスパイスが必要ないように、この番組にも過剰な面白さというのは必要ないのだ。


が、それにしてもsakusakuのここ最近のパワーダウンは最盛期(と自分が思っている時代)を知っているが故に、少々物足りなく感じてならない。
そのふてぶてしい外見通りに憎まれ口ばかり叩く増田ジゴロウと、鬼才・木村カエラのトークに、超越者たるご意見番・ゴイゴイの三者三様の語り口が面白い番組だったのが、今やそれらのパーツは番組から全てなくなってしまった。


失われてしまうのは時代の流れであるからして、残された者は常に新しいものを模索してゆくことを義務付けられてしまう。sakusakuはそれでも常に新しい面白さを模索し続けているが、やはり全ての面白さの根源が常に人である以上、「役者の格」というのは弥が上にも表面化してしまう。新MCの中村優も個性溢れる人物ではあるが、やはり木村カエラという異端と比べてしまうと、どうしてもキャラ負けしてしまっている。慣れの問題とは良く言うが、それでもやはり白井ヴィンセントよりも、益田ジゴロウの方が造形として優れている。


決して面白くない訳ではない。最盛期(と自分が思っている時代)と比べてしまうと、力不足を感じてしまうだけだ。あるレベル以上の面白さはまだ持っている。だから毎日観ている。
日常は起伏に溢れていても良いし、淡々と過ぎ去っても良い。自分にとってsakusakuとは日常なのだから、それでも継続してくれているだけ上出来かな、と思う。


genu_ine at 01:13|この記事のURL

2006年04月28日

個と群

大体のコミュニティは、ある程度大きくなるまでは千客万来にあらゆる人を受け入れるが、大きくなってしまってからは突然門戸が狭くなって、とたんに閉鎖的になる傾向がある。閉鎖的になるというのはつまり、外部の人が聞いても分からないような内輪ネタが多くなって、内部の人だけが楽しむ集団になってしまうということだ。


思うに、閉鎖的な集団というのは、それ一つが個になっているのではないか。
集団でありながら、同じような意思を持っているため、単純な個人よりも強い力で何かをすることができる。しかしながら、その行動はまるっきり個と一緒であり、他の思想を排除しながら意思を押し通す様は、個といっても差し支えがないような気がする。


要するに人はどこまで行っても、個であり続けたいと思っているのではないだろうか。
一人のままだと、その力はとても弱い。しかし任意の人間と一緒の組織にいると、自分の意思は反映されない。故に、自分と同じような考え方や、共通点を持っている人間との組織に所属することで、あたかも自分の力を増幅させているような感覚を持つことができる。そしてその場合、個が望んでいるのは、やっぱり個としての願望なのだ。
自分のワガママを通すために、同じようなワガママを持った人が集まっている、というのが普通の組織のあり方なのだろう。そしてそのワガママが通せるだけの力を組織が持ったら、もう力は必要ないため、門戸が狭くなるというのは当然の流れだろう。


夫婦というのがまずそうだし、そもそも民主主義というのが、その意識をルール化させたものだろう。良いとか悪いとかではなく、結局、ありとあらゆる問題を解決させるのは暴力なのだ。

genu_ine at 01:43|この記事のURL日々の思念 

2006年04月26日

共食い

人の身体は常に新陳代謝していて、日々作り変えられている。
その材料になっているのは、もちろん日々食べているものであって、良い身体を作りたかったら良い材料になるものをきちんと食べなければならない。というのは当たり前の話。

という所で思うのは、身体を作り変えるための材料として一番適しているのは、人間の肉体なのではないかという事だ。元々、人間の身体だったものを直接食べれば、これはもう他の追随を許さないほど完璧に、自分の身体は再構成されるのではないか、と思う。

が、実際の所、牛の肉骨粉を食べて狂牛病にかかっているように、その考え方はあまり妥当ではなさそう。もしかすると、遺伝子的に近いものを食べるのは、あまり良くないのかもしれない。野菜が健康に良いというのは、そういう事だろうか。


genu_ine at 02:25|この記事のURL日々の思念 

2006年04月23日

地元意識

誰しも親と誕生日を選ぶことはできない、などと言うが、生まれた場所というのも選択はできない。
人は移動する生き物なので、暮らす場所はいろいろと選択の余地はあるはずなのだが、それでも人は自分が生まれた場所・暮らしている場所に対して誇りを持っている場合が多い。
どんな場所でも、暮らしてゆくにはそれなりの苦労があるだろうし、その苦労を共有しているという所で、同じ場所に暮らしている人同士には連帯感が生まれ、それが地元意識として働いているのだろう。


住んでいる場所によって、人の性質が多少変わる事もあるだろうが、それでも人はそれぞれの個性があり、人それぞれ違う。よって、ある場所を指して、そこに住んでいる人全てが愚かだと非難するのは、全て間違いだと俺は考える。
一方で、そんな愚かな非難に対して腹を立てるのも間違いだろう。人間は住んでいる場所や、その土地の歴史で評価されるものではない。


往々にして、戦争というのはこの地元意識を上手に刺激されて起きているように見える。
人が一番守らなければならないのは自分の命であるはずだ。土地や魂を守るために命を落とすのは非常に馬鹿馬鹿しいように見える。俺はそういう武勇が嫌いだ。


人はどこだって生きてゆける。もし住んでいる土地で馬鹿にされるのなら、馬鹿にされた相手の土地に移り住んでみれば良いのではないかと思う。そうすれば、どちらも所詮人間なのだという事が分かるのではなかろうか。


genu_ine at 00:41|この記事のURL日々の思念 

2006年04月21日

親しくなる条件

他人と親しくなるための条件として、一般に気が合うとか、趣味が合うとかといったものがある。それらは勿論あるだろうが、それをもっと突き詰めていってしまえば、文化レベルと経済レベルが同程度の人、ということにならないだろうか。


もっと有体に行ってしまえば、「腹減ったからコンビニに行かない?」が通用するか否か。人によっては、コンビニの所が行列のできるラーメン屋だったり、高級フランス料理店だったり、すし屋だったりするだろうが、そういった提案が受け入れられない相手とは、もう根本的にお付き合いは不可能なのではないかと思う。
食に関した部分のみならず、もっと細かい所で、この人は何をどこまで追求する人なのか、という部分で相互解釈ができない人とは、一緒にいても楽しくないし、その人から何か得ようとは思えないだろう。


俗に、友人というのは大人になればなるほどできにくくなるらしいが、それは子供が個人で持っている文化・経済レベルがどれも似たり寄ったりだからではないかと思う。同程度の額のお小遣いを持ち、学校という閉鎖空間にずっといるのだから話が合って当然なのである。
100円玉を握り締めて、駄菓子屋で情報交換をしながら築き上げた友情というのは、恐らく永遠に続くだろうし、またそれ以上の友情というのは、生涯得られないものではなかろうか。


genu_ine at 01:57|この記事のURL日々の思念 

2006年04月20日

辻ちゃんのこと

あの日以来、将来無二を誓ったはずの相方と別れて一人で活動をしている辻ちゃんだが、少なくとも俺が目にしている範囲で言えば、その言動に何か変化があったようには見えない。
しかし、その相変わらず頼もしい姿を見て、一人でも何とかなる、と思ってしまうのは、そのまま加護ちゃんの存在意義を脅かすことになるので、あまり考えないようにしている。


辻ちゃんの行動の一つ一つには、見る者の意思や予想なんてものを凌駕する魅惑が沢山ちりばめられていて、その魔法の指先一つで沢山の人の心を一度に鷲掴みにしてしまう。
一人でいても、活躍の場面をセッティングしてもらえれば、どんな場所にもエンタテイメントをおこしてしまうのが辻ちゃんではあるが、その力は周囲に彼女が大好きな誰かがいると、大きく増幅される。特に、隣に加護ちゃんがいる時、辻ちゃんは文字通り無敵になる。その瞬間、辻ちゃんは人ではなく神になる。


加護ちゃんがいなくても、辻ちゃんは元気に明るく振舞っていて、もしかしたら、加護ちゃんの一件は、錯覚だったのではないかと一瞬だけ思えてしまうが、現実的に辻ちゃんの隣にはいるべき人がいない。
辻ちゃんは一人でも充分に魅力的なのだが、理想を言えば、その魅力は頼もしい相方によって大きく増幅されるのが本来の格好だ。


正直に書くと、辻ちゃんが一人で活動をしているのを見ると、それは片方の翼をもがれた鳥が一生懸命羽ばたこうとしている様子にすら見えてくる。少し痛々しい。
もしかするとそれは、「痛々しく思いたい」という自分の願望が現れているのかもしれないが、俺の好きなダブルユーというユニットが解体されて、そのパーツが別の用途に使われているのは本意ではない。
そんなことを毎日考えている。
そんなこともあったと、後から思い返して懐かしく感じる日がいつか来るのだろうか。


もしかすると、もうダブルユーというユニットを目にすることはないのかもしれない。
でも、俺は歌手でなかったとしても、二人が好きだということは変わりないし、あの二人以上に今後誰かを好きになることは、多分ないと思う。


genu_ine at 03:01|この記事のURLあの娘たち 

2006年04月18日

加護ちゃんのこと

あの日以来、毎日馬鹿みたいに加護ちゃんのことばかり考えている。
姿を見ることはなくなった日から、加護ちゃんを考えることが多くなったというのは、何だか皮肉なような気もする。


常識を逸するほどの才能を持った人を俗に「天才」と呼ぶが、さらにその枠を超えて物事の定義や本質すら変えてしまうだけの力を持った人は、ごく稀に「神」と呼ばれる。中国文学における杜甫や李白のような人のことだ。


よく加護ちゃんは辻ちゃんと対比して語れることが多いが、辻ちゃんはその神秘的な存在が既に神の領域に達しているのに対して、加護ちゃんはあくまで才人であると俺は思う。辻ちゃんは既に人を超えた神なのに対して、加護ちゃんはあくまでに人間なのだと、俺は捉えている。
しかし、前述の例を持ち出して考えるなら、加護ちゃんの末恐ろしい才能は、それまでのあの世界の常識を覆すものだったし、これからも加護ちゃんと肩を並べるだけの才能というのは、そうそうお目にかからないだろう(多分、俺が生きているうちは無理だと思う)。
加護ちゃんは辻ちゃんとは違った意味で、また神であったのだなと、最近気づいた。


神話の例を持ち出すまでもなく、神の行動というのは俗世間の人間に理解できるものではない。そしてそれは、善悪という単純な二元論で語られるものでもない。
神はしばしば人間に害をなすが、それは神の行動であるが故に善と捉えばならないと思う。もし、神の行動が人間のいうモラルに反していたとしたら、間違っているのはモラルの方だろう。
神は絶対的に正しいし、また正しいとは神の行動のことである。


加護ちゃんは神である。と、今の俺は信じている。
俺は加護ちゃんの行動は全て善だと思うし、加護ちゃんなら何をしても構わないとすら思っている。加護ちゃんの行動を咎めるものがあったとしたら、それは間違いだと考える。こういう思考を崇拝と呼ぶのだろうが、事実、俺は加護ちゃんを崇拝と同等のレベルで尊敬している。
だから俺にとって、今回の一件で一番悲しいのは、加護ちゃんの行動が人間の手によって否定されたということだけだ。自分の神が、人間のモラルによって罰せられたという事実が、とても悲しい。


もし、加護ちゃんがこの先歌手として、ダブルユーのメンバーとして復帰を果たせなかったとしても、加護ちゃんが加護ちゃんとして生きているならば、俺は加護ちゃんをずっと尊敬し続けられると思う。加護ちゃんが加護ちゃんである限り、その肩書きなどどうでも良いのだ。


ただ。
少し前、加護ちゃんのことを考えると、とても楽しい気持ちになった。
しかし今、加護ちゃんのことを考えると、とても切ない気持ちになる。
あの笑顔を思い出すたびに、失われたものの大きさに、絶望を感じる。