日々の思念

2006年05月17日

眠かったら寝る

最近実践しているのが、「眠かったら寝る」作戦である。
別に作戦というほどのことでもないが、眠くなったら眠さに抗う方向に頑張るのではなく、眠れる環境を作るほうに頑張ってみるという哲学である。

そもそも生物というのは眠っているのが本来あるべき姿で、活動するというのは何かを捕食するための行動である。食事以外の時間は全て睡眠にあてるのが、生き物として正しい姿だと俺は考える。
食べ物を得る・食べるという行為が特別なことではなくなってしまった先進国に住む人間は、もっと多くの睡眠時間をとるべきだ。

そもそも、眠いのを無理して起きていると、人間は段々機嫌が悪くなる。機嫌が悪いと、その機嫌が悪い状態をなにかのせいにして、悪者を作りたがる。世の中が良くならないのは、眠い人間が多すぎるから、というのも一因としてあるだろう。果たして今の世の中が悪い状態なのかどうかは分からないが。

何はともあれ、眠かったら寝るべきなのである。
自殺を禁じている文化でありながら、その一方で睡眠時間を削って何かを行うことを美学としてとらえる一面があるということが、最近俺には信じられなくなってきている。
眠いときは寝る。眠いのを我慢してやらなければならいことなど、何も無いはずだ(眠くなってはいけないことをするのなら、事前に充分な睡眠をとっておくべきだ)。
眠らない奴を罰する法律とかできると、とても平和な世の中ができると俺は信じている。

が、その一方で、俺は平和な世の中が正しいとは思っていない。

genu_ine at 02:31|Permalink

2006年04月28日

個と群

大体のコミュニティは、ある程度大きくなるまでは千客万来にあらゆる人を受け入れるが、大きくなってしまってからは突然門戸が狭くなって、とたんに閉鎖的になる傾向がある。閉鎖的になるというのはつまり、外部の人が聞いても分からないような内輪ネタが多くなって、内部の人だけが楽しむ集団になってしまうということだ。


思うに、閉鎖的な集団というのは、それ一つが個になっているのではないか。
集団でありながら、同じような意思を持っているため、単純な個人よりも強い力で何かをすることができる。しかしながら、その行動はまるっきり個と一緒であり、他の思想を排除しながら意思を押し通す様は、個といっても差し支えがないような気がする。


要するに人はどこまで行っても、個であり続けたいと思っているのではないだろうか。
一人のままだと、その力はとても弱い。しかし任意の人間と一緒の組織にいると、自分の意思は反映されない。故に、自分と同じような考え方や、共通点を持っている人間との組織に所属することで、あたかも自分の力を増幅させているような感覚を持つことができる。そしてその場合、個が望んでいるのは、やっぱり個としての願望なのだ。
自分のワガママを通すために、同じようなワガママを持った人が集まっている、というのが普通の組織のあり方なのだろう。そしてそのワガママが通せるだけの力を組織が持ったら、もう力は必要ないため、門戸が狭くなるというのは当然の流れだろう。


夫婦というのがまずそうだし、そもそも民主主義というのが、その意識をルール化させたものだろう。良いとか悪いとかではなく、結局、ありとあらゆる問題を解決させるのは暴力なのだ。

genu_ine at 01:43|Permalink

2006年04月26日

共食い

人の身体は常に新陳代謝していて、日々作り変えられている。
その材料になっているのは、もちろん日々食べているものであって、良い身体を作りたかったら良い材料になるものをきちんと食べなければならない。というのは当たり前の話。

という所で思うのは、身体を作り変えるための材料として一番適しているのは、人間の肉体なのではないかという事だ。元々、人間の身体だったものを直接食べれば、これはもう他の追随を許さないほど完璧に、自分の身体は再構成されるのではないか、と思う。

が、実際の所、牛の肉骨粉を食べて狂牛病にかかっているように、その考え方はあまり妥当ではなさそう。もしかすると、遺伝子的に近いものを食べるのは、あまり良くないのかもしれない。野菜が健康に良いというのは、そういう事だろうか。


genu_ine at 02:25|Permalink

2006年04月23日

地元意識

誰しも親と誕生日を選ぶことはできない、などと言うが、生まれた場所というのも選択はできない。
人は移動する生き物なので、暮らす場所はいろいろと選択の余地はあるはずなのだが、それでも人は自分が生まれた場所・暮らしている場所に対して誇りを持っている場合が多い。
どんな場所でも、暮らしてゆくにはそれなりの苦労があるだろうし、その苦労を共有しているという所で、同じ場所に暮らしている人同士には連帯感が生まれ、それが地元意識として働いているのだろう。


住んでいる場所によって、人の性質が多少変わる事もあるだろうが、それでも人はそれぞれの個性があり、人それぞれ違う。よって、ある場所を指して、そこに住んでいる人全てが愚かだと非難するのは、全て間違いだと俺は考える。
一方で、そんな愚かな非難に対して腹を立てるのも間違いだろう。人間は住んでいる場所や、その土地の歴史で評価されるものではない。


往々にして、戦争というのはこの地元意識を上手に刺激されて起きているように見える。
人が一番守らなければならないのは自分の命であるはずだ。土地や魂を守るために命を落とすのは非常に馬鹿馬鹿しいように見える。俺はそういう武勇が嫌いだ。


人はどこだって生きてゆける。もし住んでいる土地で馬鹿にされるのなら、馬鹿にされた相手の土地に移り住んでみれば良いのではないかと思う。そうすれば、どちらも所詮人間なのだという事が分かるのではなかろうか。


genu_ine at 00:41|Permalink

2006年04月21日

親しくなる条件

他人と親しくなるための条件として、一般に気が合うとか、趣味が合うとかといったものがある。それらは勿論あるだろうが、それをもっと突き詰めていってしまえば、文化レベルと経済レベルが同程度の人、ということにならないだろうか。


もっと有体に行ってしまえば、「腹減ったからコンビニに行かない?」が通用するか否か。人によっては、コンビニの所が行列のできるラーメン屋だったり、高級フランス料理店だったり、すし屋だったりするだろうが、そういった提案が受け入れられない相手とは、もう根本的にお付き合いは不可能なのではないかと思う。
食に関した部分のみならず、もっと細かい所で、この人は何をどこまで追求する人なのか、という部分で相互解釈ができない人とは、一緒にいても楽しくないし、その人から何か得ようとは思えないだろう。


俗に、友人というのは大人になればなるほどできにくくなるらしいが、それは子供が個人で持っている文化・経済レベルがどれも似たり寄ったりだからではないかと思う。同程度の額のお小遣いを持ち、学校という閉鎖空間にずっといるのだから話が合って当然なのである。
100円玉を握り締めて、駄菓子屋で情報交換をしながら築き上げた友情というのは、恐らく永遠に続くだろうし、またそれ以上の友情というのは、生涯得られないものではなかろうか。


genu_ine at 01:57|Permalink