東雅夫イチオシの、話題と期待の作家たちに、
人生や好きな本を語っていただく新コーナー【ホラーな作家たち】。
第2回にご登場いただくのは、
第1回『幽』怪談文学賞短編部門大賞を受賞された宇佐美まことさんです。


 宇佐美まことです。自己紹介というほどあらたまった、またきちんとしたものではないのですが、思いつくまま、私が今まで読んだり書いたりしてきたもののお話をさせてください。
 私は2007年に第一回『幽』怪談文学賞をいただいて、受賞作『るんびにの子供』を含む短編集でデビューさせていただきました。これは、人の一生にそっと寄り添うような、ささやかだけれどしんと怖い怪異を描いた物語でした。この短編は、私自身の幼少期の思い出――墓地とひと続きになった仏教系の幼稚園、平べったくて何もない田園地帯――が下敷きになっていなす。
 そこに当たり前に存在していたべったりと濃い闇、水の音、風の音、湿気、土の匂い、小動物の蠢く気配、何かが人知れずダメになっていく気配……。もしそれらの中に怪異が混じっていたとしても、それをより分けるのは困難であり無意味でした。ただ五感はかなり鋭敏だったと思います。
 ラヴクラフトは「恐怖は人間の最も古い最も強い情感だ」と言いましたが、恐怖を感じることこそが、人間を今日まで生きながらえさせてきたのです。原初の時代、自然の脅威から身を守るために人は自分の五感を伝ってやってきたものに恐怖心を抱くことによって、無防備にそれらに身をさらすことを避けてきたのです。私たちは、現代において鈍らせてしまい、またないがしろにされている恐怖する心に今こそ磨きをかけねばなりません。これが私が怖いものに惹かれる理由だといえば少々大げさですが、幼少期の環境が今の私の核をかたちづくったということは確かだと思います。
 もう一つ、この環境が私に与えてくれたものが空想する力です。私だけでなく、40年、50年前の子供は何もないところからモノを作りだす天才でした。あの頃の環境と読書体験は、私に空想力をもって変幻自在に形を変える術を与えてくれました。先日、第三回の怪談文学賞を受賞された岡部えつさんから、「宇佐美さんが書く小説って男性が主人公のものが多いですね」と言われました。自分では意識していなかったのですが、そういえばそうです。
 『るんびにの子供』に収録してある短編のいくつかは男性が主人公だし、三作目に書いた『入らずの森』も、鬱屈した感情を抱え込んだ男性が、山深い土地にわだかまる不定形の異形のものに同調し、取りこまれそうになる話です。私が自身を、男でも女でも大人でも子供でもないと認識しているのだろうと思います。つまりは私の中身は、未だ曖昧で定まらないということかもしれません。
 その私の読書体験についてお話します。私がダークサイドに足を踏み入れる(?)きっかけとなった本を一冊挙げるとしたら、ポオの『黒猫』でしょうか。忘れもしない、中学二年の時のテスト期間中でした。これ以降、私はポオとブラッドベリによって幻想と怪奇の世界へズリズリズリッと引きずり込まれることになるのです(いや、大喜びで頭からダイブしたというべきか)。


 ホラーの帝王スティーヴン・キングの洗礼も受けましたが、私がキングに惹かれるのは、小説そのものよりも、彼自身の生き方とか考え方なのです。それはキングが書いた自伝的エッセイ『死の舞踏』と『小説作法』を読んだことが大きかったと思います。私は本を読んでいて、気になるくだりがあるとメモしておく癖があるのですが、この二冊には特に感銘を受けた言葉が多かったように思います。
 たとえばキング曰く「私は生まれつき闇夜と賑やかな死体が好きなように出来あがっている。認めないと言われれば、肩をすくめるまでの話だ。私にはこれしかない」。私は今日に至るまで「何でそんなに怖いものとかが好きなの?」と問われるたび、うまく答えを返せませんでした。しかし、キングのこの一文ときたら! これほど明快に私の気持ちを代弁してくれたものがかつてあったでしょうか!




 とはいえ、読書に関してはホラーや怪談ばかりを読んできたわけではありません。雑食、大食の外来魚のごとく、大口を開けて何でも食らいつく濫読を重ねてきました。今も時折読み返している本は、トマス・H・クックの『緋色の記憶』です。これはクックの記憶三部作のうちの一冊です。三冊ともがどれも美しく、妖しく、恐ろしい物語ですが、特に『緋色の記憶』が持つ人間の性の哀しさ、業の深さには慄かずにはいられません。私は常々、どんな怪異よりも人間が恐ろしいと思っている一人なのですが、まさにそれを如実に表した小説です。
 ここからも一文引用させてください。
 「人の哀しいでたらめ、突拍子のなさ、人間の生が作りだす不可解な密林」


 古い本だけでなく、もう少し最近の、日本の土壌で生まれたしんと哀しくて怖い本も紹介します。小池真理子さんの『水無月の墓』、森見登美彦さんの『きつねのはなし』、三浦しをんさんの『むかしのはなし』、道尾秀介さんの『鬼の跫音』、荻原浩さんの『押入れのちよ』。これら小説の根底には、死の情景が静かに流れていると思うのです。生きている私たちが結局たどりつく恐怖とは「死」なのだと語ったのは、やはりキングだったのかもしれません。日本人というものは、死を忌み嫌うのではなく、近しいものとして受け入れて日常を過ごしているような気がします。だからこそ、ここに怪談文芸なるものが生まれたのではないでしょうか。最後に、そうして語り継がれてきた諸国奇談を現代によみがえらせた『怪談列島ニッポン』をおすすめしておきます。その土地土地に束の間現れては消えていく淡い怪異に惹きつけられることでしょう。










 真正面から見ていると平穏で明るいものも、角度を変えてみると全然別のものに見えてくることがあります。あるいははからずも入ってしまった亀裂から、得体のしれないものが溢れだしてくることもあります。それまで確固としたものの上に立っていたと思っていたのに、実はそれは錯覚で流砂の上で不安定にバランスをとっていただけだったとしたら?
 私はざっくりと切り取ったものを掲げて「ほら!」と切り口を見せたいのです。誰もが持っている暗い感情―憎しみ、嫉妬、怨恨、狂気、憤怒、嫌悪感、猜疑心―はやがて異界のものと呼応しあい、混じり合い、奇怪な音楽を奏で始めます。ある時を境にして、日常は非日常に、現実は幻に、正は邪に、くるりと反転するのです。
 油断していてはいけません。異界はあなたの足下にぱっくりと口を開けているかもしれませんよ。
usami.JPG
宇佐美まことの本