映画について深く知りたくてもなかなか知識として得られなかった中学・高校生の頃、最もよくわからずもやもやしていたのが「脚本と演出(監督業)の線引き」だった。
脚本にどこまで書いてあって、監督は何をする仕事なのか。
もし、それについてモヤモヤしている中高生がご覧になっているなら、その方の為に脚力わかりやすく説明したいと思う。
脚本がやれる線引き
まず、脚本には「目に見えない」ことは書いてないし、書くことができない。
例えば小説で「わたしにはどうしていいかわからない」というようなことが書いてあったとしても、それを脚本に何の気なしにいれるのは描くことは美しくない。入れるとしたら「ナレーション(N)」として入れるが、それを入れるには物語上の必然性が必要になる。例えばもうすでに死にかけの登場人物の断末魔の回想であるとか、その物語自体を劇中の登場人物が伝記として書いているなどの俯瞰(上から見下ろすような神の目線)した物語でなければ、あまりにも都合が良すぎてしまう。
「心の声が聞こえてしまう」というリアリティを一度入れたら貫かなければならないし、一度入れたら全てが透明化されてサスペンド(緊張感・引っ張る力)が失われてしまう。
脚本の仕事は、いかに「視覚的」に物語を進めるかが重要になる。ただ、これは映画に限ってであり、日本のTVドラマは全く本質が違う。それはまた別の機会に。
監督がする仕事
では監督の仕事は何か、と考えると「目に見えないことを視覚的に紡ぐ」ことだと思う。
脚本に具体的に描かれていない心を、目で見て感じることができるようにするのが監督業だ。
映画を観ていて、セリフとしては何も言っていないのに表情や仕草だけど共感したり情感を激しく揺さぶられたりした時、それを感じられたのは監督の演出にほかならない。筋道立てて論理的に観客がそう感じられるよう積み重ねるのが演出だ。というか、「目に見える・聞こえる」全ては監督のジャッジによって出来上がったものなので、全てが監督の仕事と言っても過言ではない。
以上。
脚本にどこまで書いてあって、監督は何をする仕事なのか。
もし、それについてモヤモヤしている中高生がご覧になっているなら、その方の為に脚力わかりやすく説明したいと思う。
脚本がやれる線引き
まず、脚本には「目に見えない」ことは書いてないし、書くことができない。
例えば小説で「わたしにはどうしていいかわからない」というようなことが書いてあったとしても、それを脚本に何の気なしにいれるのは描くことは美しくない。入れるとしたら「ナレーション(N)」として入れるが、それを入れるには物語上の必然性が必要になる。例えばもうすでに死にかけの登場人物の断末魔の回想であるとか、その物語自体を劇中の登場人物が伝記として書いているなどの俯瞰(上から見下ろすような神の目線)した物語でなければ、あまりにも都合が良すぎてしまう。
「心の声が聞こえてしまう」というリアリティを一度入れたら貫かなければならないし、一度入れたら全てが透明化されてサスペンド(緊張感・引っ張る力)が失われてしまう。
脚本の仕事は、いかに「視覚的」に物語を進めるかが重要になる。ただ、これは映画に限ってであり、日本のTVドラマは全く本質が違う。それはまた別の機会に。
監督がする仕事
では監督の仕事は何か、と考えると「目に見えないことを視覚的に紡ぐ」ことだと思う。
脚本に具体的に描かれていない心を、目で見て感じることができるようにするのが監督業だ。
映画を観ていて、セリフとしては何も言っていないのに表情や仕草だけど共感したり情感を激しく揺さぶられたりした時、それを感じられたのは監督の演出にほかならない。筋道立てて論理的に観客がそう感じられるよう積み重ねるのが演出だ。というか、「目に見える・聞こえる」全ては監督のジャッジによって出来上がったものなので、全てが監督の仕事と言っても過言ではない。
以上。