見切発車

いつだってそう。ぼくはそうやって生きています。

近頃ツイッターを覗いていて「ネタバレ」というワードを頻繁に見かけますが、ふと、自分はこれまでネタバレの被害を被ったことがないことに気付きました。ただただ幸運に生きてこられただけなのか、はたまたネタバレに対する解釈が世間様と違うのか。
なんでそんなに敏感なんだろう?何がそんなに気になるのだろう?そもそもネタバレってなんだ?と色々と考えを巡らせているうちに、考察したくなったのでまとめることにしました。

「ネタ」とは

まずは世間様のネタバレの意味を解釈するために辞書から「ネタ」の意味を拾ってみます。

〜『ネタ』の解説 ねたとは「生活の糧」を意味する「飯の種」などに見られる『種(たね)』の倒置語(ハワイをワイハーというようなひっくり返していう言葉)で、古く江戸時代から的屋が商売の糧となる「商品」のことをねたと呼んだ。 ここから、各職業や商売において、店にとっての「商品」のように核(糧)となるものをねたと呼ぶ。
日本俗語辞書より〜


この意味をそのまま「ネタバレ」にはめ込んで考えてみると、「核(ネタ)バレ」です。言葉遊びになってしまいますが、多分そういう意味だろうと思います。
物語の核。ドラマフォールやクライマックスで起きる出来事、物語の仕掛け(ツイスト)や特異な構造、あるいは分岐点のことで、それは作品ごとに異なるでしょうが、とにかく作品が商品として成り立つ「最大の売り」をネタと呼んでいるのではないでしょうか。

それをバラされると、その地点で受ける筈だった衝撃をあらかじめ予想してしまい、1800円で得られるはずだった何かが大きく減退してしまう、故にネタバレは恐ろしいということなのでしょう。


わたしたちが観るのは「ネタ」なのか?


ネタバレに敏感な方々にとってやはりそれは死ぬほど重要なことなのでしょう。ぼくはネタバレに関して死ぬほど鈍感なので「バニーレイクは行方不明」であるとか、「勝利への脱出」などのネタやオチ(映画は漫才ではないのでこの言葉を映画に使うのが死ぬほど嫌い)を解説などで知った上で、観たいと思って鑑賞しました。

平気です。なぜかといえば、ぼくはネタやオチを観る為に映画を観ているわけではないからです。

漫才は先にネタやオチを言ったら身もふたもありませんが、映画が描くことは漫才とは全く違います。むろん、一部のジャンル映画が漫才のようにネタやオチを重視しているのも事実ですし、それを観に来る方が多くいらっしゃるのもわかっています。でも世界中の多くの方に愛される優れた映画は、ネタバレされたくらいで面白さは減退しませんし、それを描く為にも作っていません。

映画は「情感」である


映画の物語を簡潔に表すと「AがBをして(することで)Cになる(達成する)」になります。例えば「七人の侍」は「百姓が七人の侍を雇うことで野武士を撃退する」という話です。ネタバレですね(笑)
全ての物語が必ずしも上記に当てはまるとはいえませんが、物語の多くが変化を描いていますし、変化を切り取るために映画(映像)があるともいえます。

では実際、何が変化しているのか。利益をたくさん得たい人々の求める尺、90分〜120分で考えると、物語の開始から15分〜20分後に登場人物の置かれた状況が変化します。何かをしなければならなくなったり、同じ場所にいられなくなったりします。これがAです。

次に、全ての人に願望があるように登場人物にもこうしたい、こうありたい、ああなりたいといった願望があり、それが物語を進める推進力になります。置かれた状況と願望の食い違いや、意に反することをやらざるを得ない状況やそれをやりきることで願望が達成されるという出来事が発生します。これによって発生するのが感情の揺らぎ、つまり葛藤です。

この葛藤部分がBにあたり物語の中で最も長い時間(50分〜70分)を占め、それを超え解決に向かう最大の起伏部分がドラマフォール(谷)、クライマックス(山)でCに辿りつきます。それは達成されるのか、失敗するのか、挫折するのか、乗り越えるのかわかりませんがクライマックスの尻に来るのが物語の着地点です。

この一連の出来事の中心にはブレてはならない起動があります。それが人物の情感です。

ネタバレなんて思い込み



映画の流れる時間には情感が共に流れており、その上映時間中は登場人物という他人の人生に寄り添い、登場人物の人生という目を通して人生を追体験し、触れたことのない世界を知ることでエンドールが流れた時に無言の作り手の描こうとしたことが突き刺さってくるのです。

たかが出来事や仕掛けを知った程度でそれが失われる映画は、それに頼り過ぎているし、それがあろうがなかろうがエンドールの時には「晩ごはん何食おうかなー」です。

逆にいえばネタバレが重要な人はいずれにしたって、どんな映画を観たって「晩ごはん何食おうかー」が先に来るのではないでしょうか。
ネタバレに対して過度に反応する方々は潔癖症のそれのように、SNSには触れない方がよろしいかと思いますし、あらゆる情報をシャットダウンして、映画好きと迂闊にかかわらないようにすればいいのになーと思います。以上

日本国内で上映される海外作品の多くが、タイトルのニュアンスや意味だけならまだしも、意図さえも大きく改変された状態(ポスター含め)でパッケージングされています。

タイトルが「わかりやすく」ないとお客が入らないというのはきっと事実なのでしょう。お客が来ないと他の優れた映画を配給することもできませんから、否が応でもそうせざるを得ないのもわかります。

一方で、だからと言ってそれはそれで、邦題はただくっ付いているだけの事です。原題を調べることなんて、朝飯前なご時世でございます。ここで提唱したいのは「悪変は許せない!」ではなく、あくまで「邦題に惑わされず原題に目を向けて」ということです。その理由を三本の作品を通してご紹介したいと思います。

A Most Violent Year

邦題「アメリカン・ドリーマー 理想の代償」
原題「A Most Violent Year」

本作は昨年劇場公開された作品で、主演はStar Wars EP7でポー・ダメロンを演じたオスカー・アイザックです。

邦題は、「アメリカン・ドリーマー」だけならまだしも、「理想の代償」によって「物語がどうなるか」という説明までぶち込まれています。情報過多でとってもわかりやすい!

さらにアメリカン・ドリームではなくドリーマーにしていることからも、邦題は「主人公」の人生に特化したネーミングであることがわかります。偏屈な見方かも知れませんが、このタイトルは、延いてはタイトルを付けた方々は、アベルという主人公の選択や願望を擁護し、美化しているようにも受け取れます。

では原題はといえば、「A Most Violent Year」です。主語が不明瞭で、誰や何にとってのそれなのかもわかりませんし、劇中で肉体に対する暴力的なシーンは数えるほどしかありません。全体的に抽象的で曖昧です。

「これじゃー全くわからない!」ということで主語を明確にし、どういった結末の映画なのか、観る前にわかりやすくしたのが邦題なのでしょう。

でも映画をちゃんと観ればわかるように、これはNY、延いてはアメリカの「A Most Violent Year」です。下の画像をご覧になって頂ければわかるように、彼の身体に都市が重なって描かれています。

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つまり、アメリカのその後や弱者を切り捨てることで世界最強の国まで登り詰めたアメリカの本質的な部分が重なっているのです。さらにこの画像は、劇中のコアを成すシーンです。移民の国(主人公も移民)でありながら、移民や難民を拒絶し、切り捨てている今この瞬間のアメリカの姿勢さえも象徴しています。

こういった抽象的で曖昧な(抽象系)のタイトルは他にもコーエン兄弟の「No Country For Old Men」や「Burn After Reading」などがあります。具体的に何かを断定さず、観た人に考える「余白」を与えている類いのネーミングです。

Whip It

邦題「ローラーガールズ・ダイアリー」
原題「Whip It」

続いては、ドリュー・バリモアの監督デビュー作であり、若手俳優の中でも抜きん出た存在感を放つエレン・ペイジ主演の大傑作スポ根ムービーです。

まず邦題ですが、もう抜群にわかりやすくてキャッチーですね。ネーミングされた方にとって本作は、ローラーガールズのダイアリーな映画だったのでしょう。逆に言えばそういう映画でしかなかったとも言えますが。

さて原題は「Whip It」です。カタカナにするとホイップ・イット。このたった7文字に、驚異的なイメージがぶち込まれた超絶素晴らしいタイトルです。

Whipは「鞭で打つ」や「掻き乱す」「負かす」という意味があるようで、劇中でもこの技によって対戦チームを掻き乱し、勝利を掴みとります。とってもラブリーで素敵な技名ですが、タイトルが暗示しているのは上記したような「言葉の意味」ではなく、「技の繰り出し方」にあるように思います。

Whipは、小柄なエレン・ペイジが仲間に手を引っ張られ、放り投げられることで速度を上げ相手チームを抜き去る技のことです。この時、彼女を放り投げたチームメイトは減速し、彼女の背中にエールを送ります。「Whip It」はつまり、この関係性を示しているのです。

さらに付け加えますと、本作は主人公である娘と母の関係性が物語の中心軌道を担っており、主人公が母を越えようとすることがクライマックスで描かれます。そして母は主人公を「Whip It」します。友人も主人公を「Whip It」しています。はからずも初恋も彼女の人生にとって掛け替えのない「Whip It」でした。

たかが技、されど技で、実人生でぼくは誰かを「Whip It」できているだろうか、とか、ぼくが今この瞬間にここにいるのは誰かの「Whip It」があったからなのではないか、と考えさせてくれます。だから、間違ってもダイアリーではないのです。

劇中で登場しながら、その言葉の持つ関係性や動作などのイメージが先行する(心象系)タイトルは、日本だと橋口亮輔監督の「ぐるりのこと。」や吉田恵輔監督「さんかく」やイランのキアロスタミ監督の「Close Up」などがあります。

心象系は動きや関係性など、物理的なものを暗示しており、それ自体がとても普遍的なので、世界中に山ほどこの類いのタイトルの作品があります。

Gravity

邦題「ゼロ・グラビティ」
原題「Gravity」

各所で語り尽くされているのが本作なので、もはや何を述べても二番煎じでしょうが、それでも述べたいのは、本作はたった二文字がついただけで全く違う映画になってしまう、ということです。

「ゼロ・グラビティ」確かに、300歩譲って本作の95%は無重力の宇宙で進行しますし、わかりやすい見所も無重力によって引き起こされます。「Gravity」だと、「なんで宇宙の話なのにタイトルが重力なの?」と首を傾げて多くの観客が劇場に来なかったかも知れません。

ゼロをくっ付けた意図はわからなくはないのですが、だからといって本作は、無重力のすごい映像をアトラクションとして楽しむだけの一過性映画ではありません。

(結末についても書きますのご覧になっていない方は、読まないで下さい)

主人公の彼女は、地球にいる時点で既に「地に足付かない」日々を過ごしていました。ですから宇宙にいうよと地球にいようと彼女は「生を実感出来ない」日々を過ごしていた訳です。

そんな彼女にいくつもの「死」の恐怖が降り注ぎます。それによって彼女は初めて「死」に直面し、同時に「生」と向かい合います(文字通りのカットもあります)。というより彼女は、“あの日”以来初めて目を背けていた自らの内側と向かい合い、自分自身と対話するのです。

同時に映像では、「生命」を印象付ける臍の緒や卵子へ向かう精子、出産や母体の中の子どもといったメタファーの乱れ打ちで「誕生」を描いていきます。

「生」と対を成すのは「死」ではなく、「産まれてこない」ことを示すかのように物語は「再誕生(再出発)」へ突き進むのです。

最後に地球に不時着した彼女は、水を泳いで浜辺になんとかたどり着きます。砂に体を付け、土を握りしめ、産まれたばかりの生き物のようによろめきながら、力強く地に足つけ立ち上がります。

はい、Gravity!グラビティー!母なる大地に立ったー!

地に足付かない、生きているんだか死んでるんだかわからなかった彼女がついに、再び地に足付け歩き出したのです。歩くという行為は生きることシンボルですが、この何気ない一歩一歩が、そしてその足跡一つ一つが生きている証であることを強く実感させてくれます。まさにGravity!

湾曲表現を配した(直接・直情系)タイトルです。
これが最も多い類いのタイトルなのではないでしょうか。「Carol」のような人物の名前や「The Wrestler」などの職業、「Brokeback Mountain」などの地名、成瀬巳喜男監督の「乱れる」などの状況などもそうです。

その言葉の持つ意味や特色特性と、物語の内容を合わせ持った掛言葉(ダブルミーニング)でもあります。

だからゼロを付けると何が何だかわからなくなってしまいます。

タイトルと物語


タイトルは、映画の看板であり顔でもあります。観るかどうかに左右する重要な要素ですが、同時に、優れたタイトルは、観終わった後にこそ響くものです。

一本の編集された映画においてタイトルは、「どこに挿入されているか」も重要ですし、「どういう意味や意図があるのか」も考えれば考えただけ有意義な映画鑑賞を促進してくれます。そして何よりもタイトルは、シーンや台詞と同じくらいフィルムに焼き付けられた揺るぎない映画の一部なのです。悪変された邦題はそこにただ乗っかっているお飾りでしかありません。

このご時世、原題だけでなく、その言葉の意味も簡単に翻訳できます。周りを見渡せばネイティヴが話せる人もゴロゴロいますから、悪変された邦題に惑わされず、原題もチェックしてみてください。必ずやあなた自身の発見があるはずです。

今年は異常なほど邦画の豊作年でした。

「海街diary」と「岸辺の旅」を筆頭に、インデペンデントから「野火」や橋口監督待望の新作「恋人たち」などの傑作も公開されました。

そんな力強い作家性のある傑作は、口コミの力でちゃんと得られるべき評価を得ていると思います。

その一方で舌の肥えた映画ファンから軽視されがちな大作系エンターテイメント映画も今年は頑張っていました。

「映画 ビリギャル」
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なぜこれほど感動しているのか!
というのを、自分の中にある少ない映画論の引き出しを開けまくって解明しようとしましたが見つけれません。

本作には映画的な高尚さはほぼないと思います。自転車で爆走する夕景ショットなどは美しさはありますが、メタファーにはなっていませんし、彼女の心をシンボリックに浮き彫りにもできていません。

でも良いんです。

ぶっちゃけ情緒過多だと思います。でもいいいんです。

なめくさって「どうせいつものあれだろ?」というぼくのスタンスは、劇中でビリギャルの彼女を見下す大人たちの視点と重なり、自らを恥じます。

決め付け、見下し、思い込んだぼくの心を見透かし、「なめんな!」と一喝してくれた本作にぼくは感謝すら覚えました。

直情的に琴線に触れるどストレートなこの感触。どっかで味わったなと思ったら、隠れ大好き映画「いま、会いにゆきます」と同じ土井監督だからか!

うーん。恥ずかし気もなく愛おしい。

「バクマン。」
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すげーなー大根さん。
こんなやり方よく思い付く。

人を楽しませることが大根さんはきっと大好きなんだろうなーっと。
大根さんの「好き」の気持ちが、純度100パーで濃縮されている気がしました。

平面である漫画を実写という形で立体化させることに真摯にぶつかっているし、どうすれば映画的に豊かになるかも、考えて考えて取り組んだことも伝わってくる。

情熱だけじゃなくちゃんと論理も入っていて、反芻して楽しめました。

すごいなー大根さん。
応援せずにいられません。


「俺物語」
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これは嘘です。
でも理想郷だと思います。

不器用だけど誠実で慎ましく控え目で謙虚。もし誰もがこうであったなら、この世の中はずっとずっと素敵だと思います。

だからもう途中から涙がアレヨアレヨと。

どんなに理想論を謳っても、外見至上主義な社会は変わらないと思います。
即物的で拝金主義で、上っ面ばっかりが優先されるのが見栄と意地に囚われたのがこの腐敗した社会です。

この物語は、そんな腐敗や痛みをデフォルメしながらもちゃんと描いて、それに囚われず流されず自分の「好き」な気持ちに向き合うという心を美化して描いています。

美化しています!こんなのありえない!だからこそ信じたい!そう思わせてくれるのです(泣)

「ビリギャル」と「俺物語」は、テーマが普遍的に昇華している奇跡が起きている為に、映画的な高尚さなどどうでもよく思わせてくれます。

こういった優れた大衆映画もあるから、決め付けて「観ない」という選択ができませんし、観たことを誇らしくも思えます。

両方とももっと多くの「決め付けた人」にご覧になって頂きたいです。

今年もまもなく終わります。
例年通り、今年も多くの優れた作品を見ることができました。

「Star Wars : The Force Awekens」は今年の締め括り映画としてもう、ちょー、完璧でした。

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年内にあと二回くらいは見たいです。
新シリーズの幕開けとして文句ない人物たちをたくさん創造してます。

これまでSWを映画としてちょー面白いと思えたことはありませんでしたけど、今回で目が覚めたような気がします。

X-Wing、くっそかっけぇ。ふぉー!ってちゃんとなれて幸せでした。

今年もたくさん優れた作品にお目に書かれたので、既にDVD化されている作品を中心に簡単に紹介します。

「Mad Max : Fury Road」
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マッドマックスシリーズもSWシリーズ同様、全く世代ではないので、拝見するまでちょっと熱狂感とは距離がありました。

拝見することでその世界の魅力の虜になれるってのはやっぱり幸福なことです。

イモータン、フュリオサ、マックス、みんな魅力的な血の通った実在感のある人物としてスクリーンにちゃんと写ってました。

人間の細部(真実)が微細に描かれているからこそ、大嘘な物語が地に足着いた豊かな物語になるのではないでしょうか。


「Wild」
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邦題は長くてややこしいので思い出せませんが、ダブルミーニング以上の意味が凝縮されたタイトルの冠を被っているのが本作です。

昨年度の「Dallas Buyers Club」に続いて傑作を生み出したジャン=マルク・ヴァレ監督の表現領域はまだまだ底しれません。

特筆すべきは音です。音は嗅覚とも似ていて、そこには記憶が一緒に真空パックされています。
そんな人間の特性が映画の中で豊かに表現され、回想や彼女のトラウマと連結して描かれ、彼女の人間性、特徴を浮き彫りにしていました。

旅を普遍的な人生の困難さに象徴させて描いていることで、自伝的な物語を極私的で窮屈な話で終わらせていません。

自伝的な物語が続いているので今後のオリジナル作品に期待が膨らみます。

「Two Days, One Night」
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ダルデンヌ兄弟は一体何本傑作を撮れば気が済むのでしょう(笑)。

週末だけの物語ですが、そのプロットはまるでロードムービーのように多くの人生とすれ違い摩擦を起こします。

他者の人生を突っ撥ねる人。抱き締める人。同情しながらも、自らを優先させる人もいれば、困難な人生を生きているのに他者に手を伸ばす人もいる。

「あー人生を目撃している」という感覚はこれまでの顕著なドキュメンタリックな手持ちカメラを排しても相変わらずに感じれました。

一貫して人に寄り添うダルデンヌ兄弟。死ぬまで信頼します(笑)

「The Zero Theory」
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テリー・ギリアム監督の新作は、ギリアム印満載の傑作でした。

ゼロとは?人生とは?意味とは?
多くの問い掛けに溢れた本作は、ゼロと人生をかけ、その意味を主人公が紐解こうとします。

そんなもんはないんですよね。唯物論で語れば人生なんて、なんの意味もありませんし、生物学的に考えても高次な欲求を持つようになった人間に生物学的な生存理由は当てはまりません。

無意味です。だから作るのだ!とまるで抱きしめようとしてくれているラストシーンにぼくは涙が止まりませんでした。

最高です。

「激戦」
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大傑作でしたけど、あまり話題になりませんでした。
ダンテ・ラム監督の中でも抜きん出た傑作ではないでしょうか。

三人の登場人物が自らを越えるまで、というのが中心軌道です。それと総合格闘技が見事に合致して上がる上がる!

高揚感とカタルシスのマックス値は今年最強の作品です。

身体の美しさを映画的に捉えることにおいて、世界広しと言えどダンテ・ラム監督の右に出る監督はいないんじゃないかと思います。

超エンターテイメント映画ですが、その捉え方の美しさは芸術そのものです。もしかするとその芸術性が無意識下で興奮をもたらしたのかもしれません。

ストーリーはウェットですが、しっかり痛みも紡いだ作品ですので一過性のものではありませんし、是非多くの方に見て頂きたいです。



海外の作品はこれくらいで締め括りますが他にも「Whiplash」や「Foxcatcher」、「Still Life」や「The Tribe」なども素晴らしかったです。

全てレンタル可能なので是非とも御賞味下さい。

始めに言っておくべきことがある。

ぼくはウォリアーズファンだ!

と言ってもキャブスを貶したり、蔑んだりするつもりは毛頭ないのでキャブスファンの方には一意見として聞き流してもらいたい。

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第四戦のMVPは間違いなくスティーブ・カーHCだ。イグダーラが爆発したのも、カリーが復調したのもつまるところスモールラインナップを押し通したカーHCの手腕によるものだ。
第三戦までキャブスの適切なディフェンスによってウォリアーズらしさが完全になりを潜めていたのがまるで嘘だったかのように、試合を通して彼ららしさが蘇っていた。

明日迎える第五戦の勝利チームが優勝に王手をかけることになる。両軍ともに第五戦にかける思いはこれまで以上になることが予想されるが、鍵になるポイントをNBA観戦歴15年の素人が勝手に予想しようと思う。


○ディフェンス

スモールラインナップでは必ずサイズによるミスマッチが発生する。キャブスがそこを攻めない筈がなく、第四戦ではキャブスのC、ティモシー・モズコフに最終的に28点を許している。
しかし重要なのはどうやって取られたか、ではないだろうか。
モズコフにペイントで易易と決められた得点は実際のところ少なく、シュート確率も9/16の56%まで落としている。これはウォリアーズのディフェンスが上手く対応できた成果だったのではないだろうか。
問題なのは、インサイドにディフェンスが集中した際に外にボールが振られた際の得点である。こちらもローテーションが上手くいったように思える。キャブスは第四戦で3Pを計27本も投じているが成功したのは僅か4本。
ファイナル進出まで絶好調だったJR・スミスに至っては0/8である。こればっかりは浮き沈みの問題もあるが、同様にマシュー・デラベノバも2/9に抑えることができていることを考えるとやはり上手くいったと考えることができる。

ここまではウォリアーズの想定通りに行えただろうが最も重要なのは、リバウンドである。
ウォリアーズは、第四戦でモズコフとトリスタン・トンプソンに合計12本のオフェンスリバウンド(以下、OR)を許している。これを一本一本確実にフィニッシュされていたら得点差なんて瞬く間になくなってしまう。

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キャブスは負傷が重なり、ケビン・ラブの代わりにスタメンになったトンプソンが代役という名目を遥かに凌ぐ活躍をしている。
トンプソンのファイナル四試合の平均ORは、5.75本という驚愕の数字である。アトランタ・ホークスとのカンファレンスファイナル最終試合でも彼は、5本のORを記録しており平均5.75本という数字がウォリアーズのサイズ云々の結果ではないことを裏付けている。
さながらロッドマンのようなリバウンドの名手であることが既に証明されているわけで、大きな浮き沈みのあるシュート成功率とはことなるこの地道な能力をウォリアーズは一瞬足りとも油断してはいけない。

スモールラインナップ時、唯一いつも通りの仕事をされてしまったトンプソンのリバウンドを第五戦でどれだけ抑えられるか。重要である。

○オフェンス

ファストブレイクの機会の多さが彼ららしさを引き出し、勝利できた最大の要因なのは誰の目にも歴然だと思う。
レギュラーシーズンで最多のチーム得点力を誇った彼ららしさは、アップテンポなゲームによって活かされる。

セットプレイではサイズのミスマッチが起きているが、その一方でスピードのミスマッチも起きている。そこを見事についたアンドレイ・イグダーラの活躍は、攻守に渡って輝いていた。
全員が外からシュートが打てるウォリアーズに対し、スピードのミスマッチを恐れたキャブスのビッグマン2人、しいてはモズコフから多くの得点が取れたのも大きい。イグダーラが当たっているからペイント内にスペースが生まれ、ボールが良く回り、いい形で得点が量産できた。
素晴らしいゲームメイクだった。気がかりなのは、キャブスの第五戦での対応である。

○ベテラン勢

オフェンスとディフェンス、どちらが重要か問題。そんなのどっちも重要なのはわかりきったことだが、ぼくの考えではディフェンスの方が重要である。
ディフェンスから波を作ってオフェンスに活かし両チームとも2-2で勝利を掴んでいるわけだから、第五戦ではウォリアーズのオフェンスにキャブスがどう対応するかが鍵になってくる。

そこで着目すべきはマイク・ミラーとショーン・マリオンの存在である。

第三戦の1Q終盤で投入されたマイク・ミラーのアグレッシブなディフェンスと闘志漲るルーズボールへのダイブは、ウォリアーズファンのぼくでさえ感動させられた。



こういうワンプレーが均衡する試合で自軍に流れを引き寄せる。技術云々凌駕したベテランのボールに対する執着心。

一方、ショーン・マリオンは、ファイナルに入ってから全くプレイタイムを与えられていない。ウォリアーズファンのぼくとしては助かっているというのが正直なところだ。
全盛期をとっくに過ぎたとはいえマリオンはいまでもディフェンスの名手だとぼくは信じている。培った豊富な経験と衰えたとはいえまだまだ動ける瞬発力を侮ってはいけない。



こういうワンプレーができる能力はまだまだマリオンにはある。
スモールラインナップに対応してマリオンを投入するとオフェンスもディフェンスもキャブスに許容が広がるのは間違いない。
全盛期のような身体能力はないが、優勝を望む闘志は、きっと誰よりも強い。チーム優勝の為に年俸を下げ、プレイタイムを減らし自己犠牲を省みなくなったベテランに残されているのは、豊かな経験値とハートの強さだけである。この二つを持っているミラーとマリオンが多くのプレイタイムを得た場合、試合がまたも拮抗するのではないだろうか。

ウォリアーズとて同じで、先に動いたのはカーHCだった。
第三戦の3Q、ウォリアーズは最大20点差をつけられていた。そこで投入されたのはデヴィッド・リーだった。

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プレイオフに入ってめっきりプレイタイムが減り、大手雑誌には翌年のトレード要員と蔑まされたリーだったが、いざコートに立つと闘志溢れるプレイとチームに安定感を与え、4Qには1点差まで追い付く原動力となった。追いかける時間帯、多くのプレイタイムを与えられていたのは先発のグリーンやボガートではなく、ファイナル初出場のリーだった。

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最もチームに長くいるプレイヤーだからこそハングリーで、チームの為なら自己犠牲を厭わないリーのハートが第四戦でも15分という短いプレイタイムの中でも大きな貢献をチームにもたらしていた。
9得点、5リバウンド、そして3アシスト。たかが3アシストと思われるかもしれないが、オフェンスの起点になっていることを証明している。同チームのクレイ・トンプソンでさえ40分プレイして2アシストなわけだから、リーがいかに真ん中にいたかが透けて見えてくる。

ファイナルだからこそ、身体能力よりも重要な何かがある。それをベテラン勢が証明している。

○展望

互いに優れたオフェンス能力があり、それに対応する適切でハードなディフェンスを毎試合繰り広げている。
ここまで高次な水準で戦っていると差を生み出すのは、地道な一つ一つのプレーなのではないだろうか。

シューターを活かす優れたスクリーン、リバウンドを取らせないボックスアウト、ルーズボールに飛び付く闘志。全てスタッツとして記録に残らないが、残らないほど地道なプレーこそがチームに流れを引き寄せる。

デリーの闘志溢れるプレイによって連勝したキャブスが、明日の試合で闘志の塊であるマリオンとミラーを投入してきたらどうなるかわからない。

もはや、勝利を左右する最大の鍵を握っているのはキャブスのデイヴィッド・ブラットHCなのではないだろうか。カーHCのように、リスキーだが信頼する気持ち全面に押し出されたらこのシリーズは7戦までもつれるだろう。

今夜は寝れないぜ!

今年ほどNBAに夢中になったのは何年ぶりだろう。寝ても覚めてもNBAを考えてしまうこの熱中の度合いを思うと、前にあったのは2000-01シリーズだったような気がする。

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バスケを始めて勉強を兼ねてNBAを見始めた2年目の2001年は、レイカーズの黄金期の最中だった。全盛期のシャックことシャキール・オニールを誰も止められず、成長著しいピチピチの点取り屋コービー・ブライアントもいた。脇を固めるプレイヤーたちも優れ、監督はブルズを何度も優勝に導いたフィル・ジャクソンだった。
2001年のレイカーズはプレイオフに入ってからも圧倒的な強さで勝ち上がり、負け無しでファイナルまで登り詰め、休養をたっぷり取っていた。

その一方でイーストからファイナルまで登り詰めてきたのはフィラデルフィア・76ersだった。シーズン得点王とMVPを受賞したアレン・アイバーソンが率いるシクサーズは、レイカーズとは正反対にボロボロの満身創痍状態だった。

1stラウンドでは8位のインディアナ・ペイサーズを3-1で危なく倒したが、その後が大変だった。

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カンファレンス準決勝では全盛期のヴィンス・カーター率いるトロント・ラプターズと激戦を繰り広げた。交互に50点オーバーの活躍をする両エースの激闘によってシリーズの行方は全くわからなかった。第7戦でなんとかシクサーズは勝利し、カンファレンスファイナルに勝ち上がったものの続くカンファレンスファイナルの相手は、第二シードから勝ち上がってきたミルウォーキー・バックスだった。

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伸び盛りの3Pのスペシャリスト、レイ・アレンを筆頭にオールラウンダーな動きのできるオールスタープレイヤー、グレン・ロビンソン、ベテランで宇宙人っぽいサム・キャセールのビッグ3からなるバックスはシクサーズを追い詰めた。拮抗した末に7戦目でなんとか勝利したシクサーズだったが、間髪入れずレイカーズとのファイナルが待っていた。

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11試合で勝ち上がったレイカーズに対し、シクサーズは18試合も戦っていた。誰もがダメだと思ったが、第一戦を延長の末に勝利したのはまさかのシクサーズだった。あれは本当に感動した。
結局、その後の4試合連続で負け、優勝を逃したが、その年はレイカーズの年ではなかった。

満身創痍で戦うボロボロの小さな巨人アレン・アイバーソン。ベテランPG、エリック・スノウ。シーズン途中から加入した不器用な頑張り屋センター、ディケンベ・ムトンボ。6thマン賞にも輝いたヘンテコフリースローが記憶に鮮明なアーロン・マッキー。コービーに必死で食らいついたディフェンスのスペシャリスト、ラジャ・ベル。
飛び抜けた選手はアイバーソンだけだったが、個々がしっかり仕事をしてチーム一丸となって戦うシクサーズを誰もが応援した。


なぜこのようなチームは感動を生むのだろうか。
きっとそこには普遍的な意味がある。

ぼくは彼らに多くの可能性を教わった。
身長がなくてもできること、気持ちによって試合を傾けることができること、一人では無理でも周りの仲間を信頼することによって可能になること。
バスケだけの話ではない重要な何かがシクサーズの戦う姿の中には確かにあった。

熱中させてくれるプレイヤー、チームには普遍的なことが必ずある。
まるで人生において大切な何かを気付かせてくれるようなものがある。
だから何年経っても彼らの戦う姿は脳裏を離れない。そこにはバスケを超えた何かがあったからだと思わずいられない。
それは可能性を信じる心なのではないだろうか。

今年のウォリアーズのプレイはまさしくあの時の再来だ。だからぼくは目が離せない。目を離してはいけないとても大切な何かが、瞬間瞬間に詰まっている気がする。

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バスケを知らない人がウォリアーズの試合を観たとしても、きっと心に触れる何かがあるはず。だから気が狂いそうになるほど応援してしまう。まるで自分のことを思うように彼らを応援できることを心から幸福に思う。

これが熱狂だ。

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