見切発車

いつだってそう。ぼくはそうやって生きています。

映画を観ながらモヤモヤしている10代の方に読んで頂けら幸いです。

このモヤモヤというのは、いくつかの状況がありますがそのうちの一つは、映画を観終わって抱いている感情を月並みな言葉でしか表現することができず、挙げ句、技術的な点ばかりを指摘することに終始してしまう状況を指しますが、ぼくも高校時代にそういったもどかしさを感じていました。
また、非商業映画を観て楽しみたい気持ちはあるのに、退屈してしまう状況もモヤモヤにあたると思います。どちらも、ぼくは高校時代にその状況を越えたいと願っていました。

技術指摘は客観視点

評論家も技術の指摘は当然しますが、それに終始するような評論家の文章は往々にして面白くありません。
なぜなら小説や絵画、音楽に映画などの表現は、技術を通して人や情動を描きます。逆にいえば、人や情動を豊かに描くための手段としてのみ技術は存在します。はっきりいって、技術に背いたとしても人や情動は描くことが可能です。批評にあたって、「あのシーンのあの移動カットがすごい」は物語についても語っていませんし、鑑賞者の心も反映していないので全くナンセンスですが「あのシーンのあの移動カットよって次第に人物が小さくなるのは、人物の心の状況を象徴しており素晴らしかった」とすれば、心がちゃんと反映されています。

技術の指摘をするのは、物語のどの情動に自分自身の心が動いたのかをちゃんと理解したあとでいいはずです。

商業映画とそうではない映画とは

商業映画とは何か、というとハイ・コンセプトであることがまず挙げらます。「街中にゾンビが溢れ、それから逃げる話」とか「宇宙から来た巨悪を集まったヒーローが撃退する話」などのように一行で簡単にどんな話か他人に伝えられるような作品を指します。
そういった作品の多くはジャンル映画と呼ばれます。SF、ホラー、サスペンス、スリラー、ミステリーなどなど。一言で言える映画は往々にしてジャンル映画であり、商業映画です。なぜジャンルがくっつくだけで商業映画になるかというと、一定の集客が見込めるからにほかなりません。日本で最も大きなジャンルは「怪獣映画」ではなく「アニメ映画」でありまた「少女マンガ原作映画」です。観客として的になっているのは、子どもとそれに付きそう親と中高生といえます。

売れない映画にお金は出せないので、そういった映画が増えるのは必然的です。

では商業映画と対を成すのは何か?お客の入りにくいノンジャンル映画だといえます。ソフトストーリーとも呼ばれます。
優れたノンジャンル映画の多くは、芸術映画と呼ばれるように観客の歩み寄りによって完成します。絵画が、どういう意味やメッセージがあるか噛んで含めるように伝えてこないように、芸術映画も鑑賞者の想像力を信じています。

ルールもわからずクリケットを楽しめないように、歴史やルールや文法を全く無視して芸術映画は理解できない、というのが現実です。芸術映画は商業映画とは異なり、完全に監督の思想や理念や願望によって縁取られた作品です。監督は何を言いたいのか、どうしてこういう結末にしたのか、なぜ突き放すような物語にしたのか。いろいろと考えれば理解できることは多いはずです。

説明してくれない作品たち

芸術は個人の主張や願望を直接的にいうのではなく、鑑賞者に想像してもらうことによって完成するようにあえて「空欄」を作っています。1から10まで説明されらものは、右から左へ出ていってしまうものなので、監督によっては1しか描かないものもざらにあります。
「理解できない」「わからない」「退屈」などという感想に至ってしまうのは至極真っ当ですが、一方でその「空欄」の埋め方がわかっている人が観ると「大傑作」であるとかパルム・ドール受賞に至るのです。なぜならその「空欄」は10が限界ではなく、100にでも100,000にでもなり得るからです。

この「空欄」の埋め方は、100人いれば100通りあります。もっとわかりやすくいうと、あなた自身をはめ込めるだけでいいのです。

映画を評価しようとするのではなく、映画の一部になるかのように物語の中に自分を探せば自ずと映画は観るものに歩み寄ってきます。

「気付く」という言葉が、高校生だった当時の自分にはとても大切だった。
それを理解した当初は継続してまるで雷に打たれたような衝撃と、
生きていることの実感のような多幸感があった。

右を見ても左を見ても上を見ても、もちろん下を見ても
気付くことは尽きること無く溢れていた。
あの頃、「なんで?」が口癖なこども時代を
無自覚に終わらせようとしていたのかもしれない。

「気付く」ことに気付いてから倍の時間が経ったけど、
気付いている人はそう多くない事実は、
当時感じた感触と場所や管渠が変わってもそう変わらない。

「気付く」ということは、感じるや思うというような直感的な反応の
もう一層別の所にある神経に辿り着いて全身に広がる。
例えば、つま先薬指に血液が流れているのを感じる瞬間の感触に近い。
一度、気付いてしまうとあかの他人の痛みが
自分の痛みのように感じられてしまうこともある。

地球上のありとあらゆる人は、当たり前だが0.01%以下のことにしか気付けない。
ほぼ何も知らないし、知れないし、何にも気付けないし、気付いていない。
高校生の時にそれに気付いて、謙虚にならざる得ないと肌で感じた。
無知の知は後に知った言葉だけど、先人にはすごい人がいると
尊敬という感情にも目覚めた。

読書をする最大の理由は、他者の思考を頭の中で反芻することで
自分の実感に同化させることにあると思う。
他者の思考回路が自分の中に埋め込まれるような。
そうすることで、思考する癖や習慣が身につく。

自己啓発本やビジネス本のような記憶することに
重きを置いた本は本質が違うのでいくら読んでも多分気付けない。
私利私欲と気付くは相反していて、使う神経もきっと違う。

文章の胆略化の果てに絵文字で済ます文化。
なんの意味もない映像の垂れ流しにのめり込む流行。
便利は人から情感を削いでしまう。

巨大な耳をつけてもみんな裸の大様だから気にもとめない。
そんな世界に限りなく等しい。

面白いという曖昧な概念

「面白い」という概念は、概念の域を絶対に越えない。
「美味しい」や「楽しい」、「嬉しい」や「気持ちいい」と同じく、
その人の育ってきた境遇、環境、欲望や信念によって異なるもので、
全く普遍的なものではない。

それでも多くの映画人が、世界中の全ての人に楽しんでもらえるよう、
あるいは何かが届くように映画を作っている。チャップリンもその一人だし、
黒澤明だって西部劇のように時代劇を撮って世界に受け入れられようとした。

法則性を越える魅力

「面白い」とは「好き・嫌い」同様、絶対に主観的なものだが、
一方で「優れている」は客観的で普遍的になり得る。
「優れた」脚本の書き方として3幕構成や、起承転結などの
道筋はほとんどの映画がその線を辿っているし、それの法則性はいくつかある。

そんな法則性の中で最も大切にすべきだと思っているのが「人物の造形」だ。
人物をしっかり描く、というのはあらゆる指南書に書いてある。

救いようのない卑劣なやつでも、可愛げのないやつでも、
無慈悲で狂っていたとしても、人間として描かれてさえいれば
映画としては全く問題ない。映画は善悪を問うものではなく人間を描くものだ。
それを描けていれば、構成が破綻していようが映画としては成立するし、
それだけを描くことに特化した優れた作品はソフトストーリー、
ノンジャンル映画として昇華して映画祭などで多くの賞を受賞している。

どんなふうに描かれていようと構わないが、魅力的でなければならない。
魅力というのは主観的だがそれを描こうとした時には、そこに作家性が宿る。
「魅力的な人物の造形」においては法則性や規則性はない。
そんなもんは下らない自己啓発本を読めばわかるし、映画は
多様であるから美しく、社会や世界もそうだ。

可能性を魅せる魔法

作り手が魅力的だと信じて疑わずそれを描き続ければそこには、
映画において最も大切なものが宿る。

それこそどんなにお金をかけたアクションシーンより、
手間隙かかったラブシーンより、
心震える瞬間が画面に宿る。

人間は、機械ではないし、やらなければならないことだけを
やって生きるものではない。
時にすべてを捨て、犠牲を払い、受け入れ、理解し、
弱くなったり強くなったりして、そして人生は続く。
前後左右、斜め、あらゆる次元を超え、人間の可能性は無限だ。
それを信じられた瞬間は、ぼくは震えながら面白いと感じる。

映画を観れば観るほど、映画という媒体は哲学を昇華させるのに適した媒体だと痛感する。

そもそも、日本には哲学を勉強するという仕組みが義務教育課程にないので、哲学とは何かを考えたことがある人はほとんどいないと思う。むろんぼくも学校教育の中では学んでいないし、哲学者の名前や思想や考察も多くは知らない。でも、哲学について考えれば考えるほど、哲学とは知識のことではないことを実感していく。

「哲学」という言葉は曖昧だが、ラテン語の「philosophia」にすると具体的になる。「Philo」とは「愛する」の意味であり、「Sophia」は「深遠な物事や道理を知り、考え、理解し、判断すること」を指す。簡単に言えば哲学は「知ることを愛し求めること」であり主体的な活動で、ただ知ることに留まるものではない。

それのどこか映画と関係するのか。
偉大な小津安二郎監督は「映画の終わりは始まりでもありえる」と言い、溝口健二監督は「映画は反射だ」だとおっしゃった。つまり優れた映画作家は意図的に映画を「鏡」のように作り、「鑑賞後の観客の中で映画が続くこと」を目的として作っている。パルムドールを受賞する作品のありようは往々にして鏡だ。

優れた映画を観終え、登場人物や物語について考えることは哲学に等しい行為だ。

哲学をすることも映画を鑑賞することも、つまるところ観客の主体性なしには完結し得ないのだ。

デル・トロちゃんの「シェイプ・オブ・ウォーター」がアカデミー賞において最も名誉ある監督賞と作品賞をダブルで受賞した。エイリアンもETも、ゴジラもジョーズも取れなかった怪物・怪獣映画が一年間で最も優れた映画として選ばれたことを心底嬉しく思う。

なぜ上記したような作品がこれまで受賞できなかったか考えると、それはただただ「偏見」という言葉に尽きると思う。真面目ではない。文学的ではない。大衆的である。それこそまさに外見の「皮」で判断されるかのように、本質や内面は見落とされてきた。

そもそもアカデミー賞さえも商業的な映画祭であって「ジャンル映画」が選ばれないのは全くもって筋が通っていなかった。三大映画祭のとくにカンヌ映画祭のような「パルムドール受賞」=「世界に意思を発信する」ことがメインであるなら「ジャンル映画」は過不足が多すぎる。ゆえにコンペに選ばれないのも不満はない。

しかしアカデミー賞は、夢やロマンを見世物にする全ての商業映画を平等に扱うべきだ。ジャンル映画もノンジャンルも、怪獣も人間も宇宙人もLGBTQもみな一緒であるべきだ。国も人種も、生まれ育った環境や言語も関係ない。パルムドールよりも世界中のすべての人が、アカデミー賞の作品賞の方が手に取るチャンスがある。「シェイプ・オブ・ウォーター」は世界中の虐げられ、差別を受けている人の味方で、普遍的な愛の物語だ。

これからもたくさん生まれるであろう怪獣映画たちに新たな道を切り開いたデル・トロちゃんの功績を讃え、全く関係のないぼくだけど世界中の人に届くことを切に願う。

イジメの本質的な原因は、籠に多種多様の人格を強制的に閉じ込めることにあると思う。

子どもでさえ同じ虫だからといって、カマキリとバッタを同じ籠に入れたりしない。
力が全てだと思いあがっているやつ、傲慢で卑怯なやつ、
根暗で弱虫なやつ、愛嬌があって他人に好かれるやつ。
いろんなやつがいる。それは、混ぜるな危険、だ。

人には性質というものがあって、類は友を呼び、群れになって行動する。

それならわざわざ閉じ込める必要はなくて、
アメリカの学校や、大学のように、
クラスではなく授業ごとに教室に行くようにすべきだ。

それでも、交わってはいけない種類はいるけど、閉じ込めるよりはよっぽどまし。
イジメは、子ども同士で発生する。大人の付け入るすきはない。
大人の世界には大人の世界があり、子どもには子供の世界がある。
大人はいつになったら、その遠い記憶を思い出すのだろう。

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