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2015年08月

「からだ占い」

本日は、先日出会った山口さん親子とランチをご一緒しました。


その際、「からだ占い」なるものをしていただきました。


すると私は「正義感と反骨精神の人」だそうで、詳しくは、


「あなたは自分の取り込んだ情報をどんどん分けてとことん理解・分析していきます。 その情報処理能力は半端ではありません。
それだけ自分に与えられた情報を詳しく分析していくと自分の中でふつふつと湧いてくる正義感に行き当たるのではありませんか?それを行動に移して実践していくのがあなたです。
自己犠牲をいとわないあなただからこそ、自分の中に湧いてくるその感情を外に出すことが肝心です。その発信こそ、様々なデータに裏付けされたあなたの自信から出てくる言葉なのです」


だそうな。
良く言わせていただけるならば、(パソコン用語で表現するなら)ほかの人より少々CPUの(演算)能力が高いということなのでしょうか。


そう言えば、最近、(とある講演会の後「なにか質問はありませんか?」と言われたので)私としてはごく普通の分析・判断の元、ごく当たり前のことを(礼を尽くして)聞いたのですが、すると、目の前にいた爺さんから

「頭でっかちだ」
「ネガティブだ」
「わしの山に来たら一発分殴ってやる」

などと言われ、隣にいたおばさんからは

「学者風情レベルの浅知恵だ」

などと(くちびるふるわせるような勢いで)罵倒され、散々な目にあったことがありました。


「なんでこの人達はこんなことを言う(反応を示す)のだろう…」


とまったく理解できなかったのだけど、本日その答えをいただけたようで、スッキリしました。


「要するに彼らのCPUの処理能力の問題なのだな」


と。

こっちにとっては普通の演算も、彼らにとっては処理能力の限界を超えてしまい、「頭でっかち」になってしまうのでしょう。


しかしそのとき、私が彼らの言うことを真に受けてたら、本当にその時点で文字通りの「ネガティブ」な世界に入り込んでいたでしょう(ま、そんなやわではありませんが)。


そう考えると本当に「教育」って大事だなぁと思います。
その人にどんなアドバイスをするかで、180度真反対の方向へ(その人を)向けて(導いて)しまいうるわけですから。


自分から見て「理解できないこと」を、簡単に排除・否定すべきでは少なくともないのだなぁと、反面教師としての学びをいただけました。


 

日本人と『私』。

よく

「日本人は主体性がない」
「日本語には主語がない」

と言われます。
料理の注文をする際も、よく日本人は 「私も同じやつを」 と言ったりします。

このような日本人の姿勢を、西洋人は個性、自我がないとみなし、極端な場合 「日本人は統合失調症である」 と口さがなく言ったりします。

それから日本語には『私』を表す言葉が数多く存在します。

「俺」「おいら」「自分」「あっし」「わたし」「ボク」「手前」 「我(われ)」「うち」「あちき」「わたくし」「小生」…

英語では『私』は I 以外ありません。

これはなぜなのか…。

実は日本人にとって『私』とは、2人称の中でしか存在しないのです。 つまり『私』の存在(位置)は、目の前にいる相手との関係性によって決まるのです。だから同僚に対しては「俺」、目上の人に対しては「わたくし」といったように、相手との関係性の中で自身の呼び方を変えます。 時には『私』という言葉自体を使わずにコミュニケーションを取る。

では、それはなぜなのか?

それは、「(相手との)調和・融合・共感」こそが、日本文化(日本人のメンタリティ)の核心にあるから。
※「じゃあそれはなぜか」と言われれば、(詳細は割愛しますが)それは完全母音言語である日本語の影響と言えます。
だから、(社会生活・コミュニケーションにおいては)まず相手を中心に置き、時に『私』を消す(譲り合う)ことによって、無用な対立を避け、調和を優先し、実際に平和な社会を作り上げてきたのです。これは(決して恥ずべきものでも他文化に比べ劣るものでもなく、むしろ)日本人の類まれなる優れた「知恵」と言えるでしょう。 
※対する西欧社会では、封建的な「搾取と被搾取の関係」が長く、搾取する側からの独立と自己主張が重視され、その結果としての(他の誰にも束縛されない自由なる)『私』という概念が発達した。

しかしながら、日本人の中に、全く『私』がないかというと、それもまちがいなのです。
「万葉集」「古今集」など、名だたる古典の和歌集には、「われ」という言葉が数多くあらわれます。

「われは恋ひなむ」
「われは死ぬべし」
「われ物申す」
「われは忘れず」

こうみると、 「日本人には自我がない」 などとは到底言えないでしょう。
社会的な制約を離れ、個人的に恋や死(つまりは「もののあわれ」)を考え、語るとき、日本人はしっかりと『私』を心の中心において、自身とその思いを表現してきました。 つまり日本人は「日常生活の場(=「け」)」と「個人的な場(=「はれ」)で『私』をしっかりと使い分けてきた。それは日本人ならではのあくまでも「知恵」であり、決して「無個性」の故ではありません。

ただ日本人にとっての『私』は、もっぱら自身の心の内側の中においてその存在を表し、それを「歌」の世界で私たちは表現してきた。 この日本人独特の自我・個性の(柔軟にしてしなやかな)使い分けと表現の仕方・手法は、対立と闘争、混乱の歴史を繰り返してきた西欧と比べ、よほど”文明的”なのではないでしょうか。

このような日本人の長い間に積み重ねてきた歴史をわからず、単純に(西欧的な目で)

「Identity crisis(アイデンティティ・クライシス=「自我の危機」)だ」

などと、日本と日本人を評するのは、「浅い」と思うのです。

 日本人には日本人の自我がある。むしろその自信(と「正しい日本人にとっての自我」)を取り戻すことこそ、本当の『私』を私たちが見つけられる出発点になるのでないでしょうか。


蛇足ですが、日本の武道、特に剣道などでは、たとえ勝負に勝っても、ガッツポーズなどの大げさに自身の勝利を喜ぶような仕種を厳禁します。もしそれをすると、「勝ち」が取り消されます(大相撲でも、外国人力士のガッツポーズがよく問題視されたりします)。
理由は「負けた相手に失礼だから」です。勝負においてさえ、負けた相手を気づかう。それが日本人なんですね。
このような武道の伝統も、日本人にとっての『私』に対するとらえ方がわかると、日本という国の精神性の高さをより感じられる一例として理解できます(そう考えると、最近のオリンピックの柔道などでの、日本人自身がピョンピョン飛び跳ねて自身の勝利を喜ぶ 姿は、「?」と感じてしまいます)。












 
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