スキマでジャムジャム

前回までのあらすじ

チキンを落としたのだ。





第21章
私はしばらくの間状況を呑み込むことが出来ず、ただただその場に立ち尽くしていた。
一体どういうことだ?
これは一体…何の冗談だ?
振り返ってまず人がいたことで心拍数は最高潮に達したが、立っていたのは頭のおかしい狂人ではなく可愛らしい女性……。

というわけで先程まで感じていた恐怖が一気に消え去り、安堵感が押し寄せてくるはずなのだがどうにも状況がよく分からない。違和感ばかりが込み上がってくる。

この女は一体何者だろうか…。
何が目的なんだ…。
どうして私を尾行していたのか。
いや、そもそも一体どうやって追い付いたんだ?

そういった現実的なことを目まぐるしく考えながらも、実は私の頭の中のほとんどの考えを占めていたのが(彼女からはとても良い匂いがするぞ…。恐らく石鹸の匂い。私の1番好きな匂いだ。)だった。


そんな石鹸の香りをふんわりと漂わせる不思議な女性は臆する様子も一切見せず堂々と私の前に立っている。
(そもそも見た目が完璧な女性が臆する必要などどこにある?)



『仕事の依頼よ。何でも屋さん。』



そう言って彼女は私を置いてすたすたと歩いていく。
もしや、付いて来いということだろうか。彼女は一切こちらを振り向かない。
しかし残念ながら知らない人には付いていくなという幼い頃に母親から授かった教えを今も忠実に守っている私にとって、その行為はまったくもって無意味だ。
誰がこんな訳の分からない女になど付いていくものか。
そもそもこいつのせいで私はクリスマスのチキンを失ったのだ。
クリスマスに食べるチキンがこの世でどれだけ価値のあるものなのかあいつは分かっているのだろうか。
チキンとピザとドーナツは1年に一回食べるのが最上の幸せであるとよく母親は言っていたが正にその通り。
そんな一年に一度の楽しみをぶち壊しにされたのだから、とにかくもうここは家に帰るに限る。
静代さんにはどうにか上手いこと言い訳をして、コンビニかどこかで代わりのチキンを買うしかない。
もちろん静代さんは残念がるだろうが、いつまでも過去の事にうじうじとこだわるタイプではないので(私とは大違い。)恐らく今からでも楽しいクリスマスを過ごすことが出来るだろう。

しかし、気付くと私は彼女の後に付いてのこのこと歩き出していた。
『母親の教えも石鹸の香りには叶わない。』これもまた世の中に数多く存在する真理の内の1つだ。













『悪いがもう何でも屋は廃業するんだ。足を洗って年明けからは普通に働くつもりなんでね。』




暖房の効いた店内はとても居心地が良く、美味くもなく不味くもないホットコーヒーをすすりながら私は目の前の女を眺める。
何か言い返してくるのかと思ったが少しこちらを窺っただけで何も言わない。
というよりもあれから彼女は一言も口にしていない。
一体全体何なのだこの女は…。
歳は見た目では判断が付きにくく、まだ10代にも見えるし私と同じくらいにも見える。
店の中だというのに相変わらずサングラスを掛けたままなので表情や仕草などが読み取りにくいが、どこか余裕たっぷりの雰囲気でそこが少し腹立たしくもあり、どこか妙に惹かれてしまう部分でもある。


彼女は目の前にあるホットココアを退屈そうに眺めながら、まるで私の言葉など聞こえなかったかのように意味深な笑みを浮かべている。


『おい、いいか?私はもう辞めたんだ。何でも屋を。私の言っている意味は分かるか?一応日本語で話をしてるんだが!
だからもうあんたの依頼は受けられない。そもそもどこの誰だか分からんようなやつの話なんか聞いてられるか!というかお前のせいでクリスマスのチキンが台無しになったんだぞ!あとで弁償しろよな!!ふざけるなよ!くそったれ!』


気付くと私は席から立ち上がっていた。まるでドラマだ。
そして、怪訝そうにこちらの様子をウェイターが窺っていることに気付いたので、何でもないという風に目で合図を送り再び席に着く。

するとおもむろに彼女が口を開く。



『そう…。でもみちこのことについて…だったら引き受けるんじゃない…?』


『はっ?』

その時の驚きをどう表現したらいいのか分からない。
例えるなら、ある日急に親から明日からグアテマラで暮らすことになったと言われたくらいの衝撃だ。
正に青天の霹靂。
しかし、確かに目の前のこの女は『みちこ』と言った。

そして、みちこというのは私が昔付き合っていた、私がこの世で最も愛していた女性。
その名前をさっき会ったばかりの素性の全く分からない女が口にした。
これは一体全体どういう訳だろう。

私は彼女が何か訳の分からない言語を話したかのように目を真ん丸にしてしばらく思考を停止させていた。

いや……。

いやいやいやいや。


待ってくれ。

おかしい。

こいつは一体何の冗談なんだ?

今こいつは何て言った……?
みちこ……だと?

何故こいつがみちこを知っているんだ?
いや、いやいや。
あり得ない……。


おかしい…絶対におかしい…。

ちょっと待て……。

いやいや、おかしい…。


なんだ………。




こいつは………。




こいつは一体何者なんだ………?






『おまっ………………』



『みちこがどうして死んだか知りたくないの?』


またしても驚愕の一言。今がもしボクシングの試合中だったならば私は確実にノックアウト。次に目を覚ますのは病院のベッドの上だ。



『待て待て。ちょっと待ってくれ。お前は一体誰なんだ?どうしてみちこを知っている?』



先程飲んだホットコーヒーが胃の中でぐるぐると音を立てて回っている気がする。もう少し分かりやすく言い換えるならば気分がとても悪い。
一体何がどうなっているのか分からないことだらけだ。
この女はみちこの存在だけでなく、みちこが死んだことまで知っている。
どういうことだ?
みちこの死を知っているのは、私とチーズとみちこの身内だけのはず……。
それともみちこには私の知らない知り合いがいたのだろうか……?


『その質問に答える必要はない…。今はね。

さっ、やるの?やらないの?』




サングラス越しでも彼女がこちらをじっと見つめていることは分かる。
私は一体どうするべきかと悩む振りをしながらも、実はみちこの名前が出た時点で私の答えは決まっていた。
静代さんには申し訳ないが、今年のクリスマスの予定はキャンセルだ。




『詳しく話を聞かせてもらおうか。』




『ふふ。やっぱりね。
私の依頼はシンプルよ。私は情報を渡す。あなたは調べる。それだけよ。』



『一体何を調べるんだ?』



『ふふ。さっきも言ったでしょ。
みちこがどうして死んだのか…よ。』



先程からあまりにも自然にみちこの名前が出ていたので忘れていたが、やはりこの場でみちこの名前が出てくるのは明らかにおかしい。違和感の塊だ。
しかし、どういう訳かこの女はみちこを知っている。
一体なんだというんだ?今日はクリスマスだろ?
カップルが一年で一番はしゃぎ回るクリスマスの筈だ……。
何故私はこのショボい喫茶店でさっき会ったばかりの女とこうして向かい合っているんだ?
おかしい…。
絶対におかしい。
しかし、みちこの名前が出た以上このまま引き下がる訳にはいかない。




『だからさっきから何を言ってるんだ!みちこは病気でっ…』




『そうね。でも本当にそうかしら?』


まるで会話の流れを完全に彼女に掌握されているかのようだ。
彼女だけが私の知らない何かを知っていて、私は完全に手の上で転がされている。
しかし、不思議と悪い気がしないのは何故だろうか。


『どういう意味だ…?』



『私だって全てを知っている訳じゃない。
だからこそあなたに真相を暴いてほしいの。』




『真相………?』






『あなたはみちこが死んだことについてどこまで知ってる?』



この質問には私も思わず息を呑んだ。
正直な所、みちこが死ぬまでの数週間というもの私は精神的にかなり参っており、記憶もかなりあやふやな部分がある。控えめにいってもかなり滅茶苦茶な状態だった。今よりも恐らく20kgは痩せていて時間の感覚もなくただひたすらに目に見えるものをぶっ壊したいという衝動に駆られていた。
だから、みちこが病気で死んだということも恥ずかしながらチーズから聞かされて初めて知ったくらいだ。


『だから、つまり…その…みちこは病気で……』



『って聞かされたのよね?』



徐々に話の行き着く先が見えてきた。
この女が何を言いたいのか……。



しかし、そんな馬鹿な話があるか……?


『まさか………』



『その可能性を考えてみたことはある?』



『馬鹿な!俺たちは友達で……。
まさか……そんな……。』









チーズがみちこを殺した……?
こいつはそう言いたいのか?


まさか、そんなことはあり得ない…。
そうだろ?どうしてそんなことをする必要がある?

友人の恋人を殺すなんて……そんな……。
そんなことは今まで思いもしなかったので、急に頭をガツンと殴られたような気分になる。


しかし、曖昧な記憶は自然と私が最後にみちこを見かけた時に遡る。
あの時、みちこはチーズと公園にいた。
そして、私が声を掛けようとするとみちこはどこかへ消えてしまったのだ。
あの後もひどく精神的に参ってしまい、それからのことはよく覚えていない。
チーズから話を聞くまでみちこは生きていると思っていたし、正直今だって実感があまり沸いてこない。

だが、だからといってチーズが殺したとは思えない。
そもそも動機がないだろう。あの二人は仲良くやっていたし……。
そりゃ、最後を看取ったと言っているくらいなんだから、それはもう………かなり親しかったのではないか。



『確かにみちこは病院にいた…。
でもね。みちこが死ぬ数日前に病室で言い争うような声が聞こえたっていう話もある。

あと……。』



『あと……なんだ?』




『チーズはみちこを愛していたんじゃないかしら?』




何を馬鹿なことを!と鼻で笑いたいのだが何故かそう出来ない。不思議と納得してしまう自分がいる。本人からそう聞いた訳でもないし、もちろんみちことチーズが付き合っていたとも思えない……。
のはずだが、何かが引っ掛かる。
私は何かを忘れている。それは恐らく意図的に記憶を封印したような…そのような類いの忘れ方だ。
何しろあのときは混乱していたし、記憶も曖昧で控え目に言っても正気を失っていたのだ。

しかし、何故かこの女の言葉はすーっと胸に入ってくる。
何故だろうか…。




『でも…だったら尚更おかしいじゃないか。
チーズがみちこを…仮に愛していたのならどうしてその愛しているみちこを殺すんだ?』




『ふふ。そうね。
そこをあなたに調べて欲しいの。
みちこの死の真相を……ね。

悪い話じゃないはずよ。
報酬だってきっちり払うし、うまくいけばあなたは真実を知ることが出来る。』


そう言って彼女はじっと押し黙る。
私に考える時間を与える為だろうか。
つくづく癪に障る。
しかし、この沈黙は効果的ではある。
何故なら私の中で今ほぼ答えが出たのだから。
それとも彼女と初めて会ったときからこうなることは決まっていたのだろうか。
何か大きなこと…そして恐らく何か悪い結果をもたらすことに巻き込まれるようなそんな予感はしていた。


私はゆっくりとホットコーヒーを飲み干す。
もうホットではないがとりあえず時間を稼ぐためだ。
あまりにも早く結論を出すとまた相手を調子づかせてしまい主導権を握られてしまう。






時刻は夜の11時。静代さんはもう眠っているだろうか。
帰ったら何と言い訳をしようか。
原付にはねられたことにしようか……。

そんな子供じみた言い訳に静代さんは笑うだろうか。
それとも本気で怒るだろうか。
そうなると初めての喧嘩になるな…。
静代さんは怒るとどんな顔をするのだろうか。
想像出来ないが、恐らく静代さんは怒るよりも悲しむ人のような気がする。
そう考えると胸が痛む。
だから早く帰らなければ………。


しかし、まだこいつには聞きたいことが山程ある。
何故みちこを知っているのか。
何故みちこが死んだことを知っているのか。
そして、私とみちこの関係性に着いてもどこまで知っているのか。

そして、何よりも私以上に何らかの情報を握っている筈なのに何故自分で調べようとしないのか…。
どうしてわざわざ私に調査させようとしているのか……。

考えればきりがないが、ここまで来たらもう考えても仕方ない。
とりあえず、分かっていることはこの女はみちこを知っていて私に接触してきた。
今はそれで十分だ。


私だって一応、今までに色々な修羅場をくぐり抜けてきた訳だし(特に最近は彼女の母親に脇腹を包丁で刺されたくらいだ。)いざとなったら何とかなるだろう。
とりあえずは様子を見てみることにしよう。


『よし、分かった。
ただし1つ条件がある。

あんたの名前を教えてくれ。』





『茜よ。』


一瞬で嘘だと分かったが、特に何も言わない。
それに名前以外でもこの女は嘘を付いている。
それくらいは刑事でもない私でも分かる。
しかし、重要なのはこいつがみちこを知っているということ……。

今はそれでいい。
いずれこいつの正体も暴いてやる。


それにしてもどうにもキナ臭い流れになっていることは否定できない。
この女からは危険な香りがぷんぷん漂ってきており、本能の部分ではこんな依頼を受けるのはやめておけと警告を鳴らしている。
そして、恐らくこれは正しい。この女に関わるとろくなことにならない。

しかし……。




『よし。分かった。
一応引き受けはするが、私も年明けから忙しいので恐らく調査に時間はあまり割けないと思う。
それに調べたって多分何も出てこないさ。』


この言葉は自分でもかなり嘘臭いものに聞こえたが仕方ない。
これ以上下手に出る訳にはいかない。
自尊心というのは意外と自分の中で大きな部分を占めているのだと気付いた。
というよりも、もしかしたら私の中身はそれで満たされているのかもしれない。
自尊心の塊……。自分が傷付くことを異常に恐れる小さな人間。

でも、誰にだってそういう部分はあるはずさ。
そうだろう?





『ふふふ。そうね。
そうだといいけどね。


それじゃあね、便利屋さん。
何か分かればこの番号に電話して。
私の方でも新しい情報が入ればその都度教える。』



『便利屋じゃなくて、何でも屋だ……。


それじゃあな。茜……。』




それから私は喫茶店を後にする。
会計はきっちり二人分精算させられた。


あの性悪女め。


外はやはり凍える程寒い。
しばらく辺りを見回してみたが、もう茜はいないようだ。
その事実に内心ホッとしているのかガッカリしているのか自分でもよく分からないまま歩き出す。
夜道はどんよりと暗く人気もない。
それからふと夜空を見上げる。
何かがこれから始まる…そんな予感。
そして、その時確かに私は聞いたのだ。
平凡な幸せへと続く階段がガラガラと崩れ落ち、地獄へと私を誘う死神の足音を。

もちろん振り返っても誰もいない。
落としたチキンは結局見当たらない。
そして、私は愛する静代さんが待つ部屋へと帰る。
まだ石鹸の香りがふんわりと私の周りを漂っていた。







つづく。











前回までのあらすじ

秋になるともう夜は寒いのだ。



第20章




一体どこで何を間違ったのか。
ふとした時に考える…もしあの時こうしていれば、もしあの時こうしていなければ…。
しかし、いくら悔やんだ所で時間は巻き戻らない。
過去は頑としてその場を去ろうとせず、現実を私に突き付ける。
もし、このお話が皆が大好きで有名な昔話や童話だったなら最後はめでたし。めでたしで私と静代さんは末永く幸せに暮らしていたはずだ。

もしこれがハッピーエンドを迎えるお話であれば…………


私はこんな狭い監獄で壁を見つめながらボーッと毎日を過ごすことなどなかったはずだ。




一体何を間違ったのか………。
どこから歯車は狂ったのか…………。



暗闇を見つめながらじっと考える。
ここでは考える時間だけはたっぷりとある。
逆にいえばそれしかない。



とにかく私は考える。
歳を取ってからあんなにも早いと感じるようになった時の流れがここでは遅々として進まない。
毎日規則正しい生活をしているので身体は健康だが、頭の中はぐちゃぐちゃでいつも同じことが脳内を駆け巡る…。





一体…どこで…何を間違ったのか…………。



分からない…。




それともそもそも私の運命はジェットコースターのように上昇を続け最高点に到達した瞬間まっ逆さまに落ちていくように設計されていたのだろうか。


だとすれば私の人生の設計士は相当ひねくれた奴に違いない。

運命の人に巡り会えたと思ったら、次の瞬間には監獄で1人うずくまっているなんて……。


それではあまりにも虚しすぎる。


しかしそう考えると少し合点がいくような気がしないでもない。
何故ならば私は昔から何か良いことが起きると必ずその次に何か悪いことが起きるのではないかと常に思っていて、良いことがあってもあまり素直に喜ぶことが出来なかったからだ。


そして、間違いなく私は人生の最高点に到達していた。
静代さんと結ばれてお互いに何一つ不満もなく毎日が楽しくてしょうがなかった。
思春期の学生だろうが少し下っ腹が出てきたおじさんだろうが恋愛をしている時のあのウキウキした気持ちは変わらないのではないか。
つまり、それくらい私は見事に浮かれていた。
静代さんのする話なら何時間だって聞いていられたし、自分がどれだけ静代さんのことを想っているかということを何度だって語って聞かせることが出来た。


そんな幸せな日々………。

間違いなく私の人生の中で最良の日々。



やることがない私はまた過去に身を委ねる。
そしてまた考える。

あの時一体何が起きたのか……。



そうすると自然に私の思考は静代さんと初めてクリスマスを過ごした年へと遡る……。








季節は冬を迎え、世間はクリスマスムード一色。
街はきらびやかにライトアップされ、いつもよりカップルの数が増えているような気がするのは気のせいだろうか。
年末へ向けて人々はどこかせわしなく、テレビから繰り返し流れてくるクリスマスのCMに心を踊らせウキウキとしている。

もちろん、私もそのうちの一人だ。
クリスマスへ向けて恋人と浮かれに浮かれまくっていた。
そして街を歩く時も、一人身の時のあの奇妙な後ろめたさのようなものはなく堂々と私は街中を闊歩していた(俺はお前らとは違うのだという歪んだ優越感も少し忍ばせて)。


そんな正に幸せ絶頂の瞬間…。
それに加えて、ついに井上から仕事を紹介してもらえることになったのだ。
どんなツテを頼ったのか分からないが、電子部品の営業の仕事をやってみないかということで私は二つ返事で了承しすぐさま面接に向かった。

会社自体はそこまで大きいという訳ではないが社長の人柄も良く、向こうも一目で私を気に入ったらしく話はトントン拍子に進み、年が明けたら来て欲しいということになった。

この報告には静代さんも大層喜び、涙を流しながら何度も何度も抱きついてはキスの雨を降らせた。
少し大袈裟なのではないかと思ったが、気付くと私も涙を浮かべていてそのまま抱き合いながら眠りに付いた。

そして、静代さんの強い希望で翌日マスターの店でささやかな就職祝いパーティーを開催することになった。
当然マスターもとても喜んでいて、名前は忘れたがかなり値の張る酒を奥から持ち出してきた。
そして、そのタイミングで井上も合流し会は大いに盛り上がった。
静代さんと井上はその日初対面だったが馬が合うらしくお互いバーボンをクイッと一杯やりながら何やら楽しそうに話しており、そんな様子に少し嫉妬の虫が疼いたが井上と静代さんは長年の友人のような雰囲気で話しておりそこに何か私が心配するような空気は存在していなかった。


というわけで私はマスターと向かい合いながら、いつものようにバーボンに口を付ける。
珍しくこの日はマスターもお酒を飲んでおり、心なしかいつもより上機嫌だった。

『それにしてもあの時マスターのアドバイスを聞いておいて正解だったよ。』


『いえいえ。あっしはただ…旦那に幸せになってもらいたかっただけでさ。大したことはしてませんぜ。』



『いやっ、ほんとに感謝してるんだ。
長年俺の友達でいてくれて…。
話しにくい過去の話もしてくれて…。』


『へへっ。その話はもう忘れてくだせえ。』

マスターは恥ずかしそうに目を伏せて、新たなお酒を取り出すために奥へ引っ込んで行った。


そして、そんなマスターの後ろ姿を眺めながらある強烈な違和感が私の身体の中を駆け巡った。
それは何ともいえない嫌な味のする感覚で一瞬私は酔いが一気に覚めて冷水を浴びせられたような気分になったものだ。


一体なんだ…。
この感覚は…………。


一気に冷静になった頭で思考を巡らせる。

そしてマスターが奥から戻ってくる。


『旦那。こいつは上玉でさあ。
遠慮しねえでぐいっと一杯やってくだせえ。』


そう言って差し出してきた片方の手には小指がない………。



マスターの過去。

そうだ。



マスターの壮絶な過去………。



あの教訓は何か………?



マスターは私に静代さんにもう一度アタックしろと言ってくれた。
それは結果的に正しかった。
間違いなく正しかった。
そうだ。私が感じた違和感はこれではない。



重要なのはマスターの過去…。



私は息をするのも忘れて必死に頭を動かしていた。



一人の男が運命の人に出会い、真っ当に生きようと誓ったその直後その『運命の人』に騙されていたと気付く……。




この話の教訓は…………?


この話の教訓…………………。



一人の男が運命の人に出会い、真っ当に生きようと誓ったその直後……………………………。




『なーに難しい顔してんのーーーー!!』




私の思考は突如現れた酒臭い息によって中断を余儀なくされた。
振り返ると顔を真っ赤に染めた静代さんがニヤニヤしながら私に抱きついていた。



『おうおう!こんな綺麗な女ほっといて何辛気臭ぇ面して飲んでやがるんでい!!』


井上の方もかなり出来上がっているらしく、少し足下が怪しいようだ。


何か答えが出かかっていた所を邪魔され、少し不快に思ったがそれを全面に表に出すほど私は子供ではない。

お得意の愛想笑いを浮かべて二人を見返す。



『はっはっは。
すいません。少しお腹の調子が…。』


『糞なら早く行ってこい。
バカ野郎!!かっかっかっか。』


『ははは。すいません。』



適当な嘘を付いて適当にその場をごまかし、再び私は会話の輪の中に入っていった。
先ほど浮かんできた考えは嫌な予感だけを私の頭にベットリとこびりつけ、すっと消えていった。


それからも宴会は深夜まで続き、井上がもう自分の足では立つことが出来なくなった頃お開きとなった。
井上はそのままソファーに崩れ落ち、マスターもテーブルに突っ伏して鼾をかいていた。


私の肩に寄りかかりスヤスヤと寝息を立てている静代さんは相変わらず美しかったが、何故か今まで程私の心を浮き足立たせることはなかった。

この事実にはショックを受けたが、アルコールのせいだと自分に言い聞かせ私も目を閉じてそのまま夢の世界へと旅立っていった。





夢の中では先ほどの宴会がまだ繰り広げられていた。
私はマスターと話をしているのだが会話の内容が全く入ってこない。
マスターも楽しげに話しているのだが何故か目が一切笑っていない。


そして、後ろを振り返ると井上と静代さんが抱き合いながら熱いとろけるようなキスをしていた。
井上はほとんど全裸のような状態でひたすら静代さんの唇を貪っている。
静代さんの方もそれに身を任せるといった形でどこか申し訳なさそうな表情を浮かべてはいるが拒絶もしない。


そんな様子を呆然と眺めながら私はバーボンをくいっと一杯あおる。

『へっへっへ。旦那。だから言ったでしょう。女を信用しちゃ駄目だって。あっしの話聞いてたでしょう?旦那も指切り落とされたいんですかい?へっへっへ。』


相変わらず目だけは一切笑っていない顔でマスターが語りかける。
そんなマスターの言葉も今の私の耳には一切入ってくることはなく私はただ井上と静代さんの様子を眺めていた。


『井上さん…。ダメよ。ジャムさんが見てる。』




『かっ!バカ野郎。あのタコは気付きゃしねえよ。
それに女を寝取られんのにゃ慣れてるはずだ。
かっかっかっか。』



そして、静代さんの服を剥ぎ取る。
静代さんは顔を真っ赤に染めながら井上に身を預ける。
それから二人はどんどんとヒートアップしていき、静代さんは私が聞いたこともないような声を上げていた。
耳を塞ぎたいのだが、何故かその光景に釘付けになり、私はまたしてもバーボンをくいっと一杯やりながら静代さんの綺麗な背中を眺めていた。
酔っ払うと全身が赤くなるタイプなんだなと場違いに呑気なことを考えながらマスターにお代わりを頼む。


『へっへっへ。旦那。
だからあっしの言った通りでしょ?
ねえ。
旦那。ねえ。

へっへっへ。』











目を覚ました私はすぐさまトイレに向かい胃の中の物を全てリセットした。














そして待ちに待ったクリスマスがやって来た。
といっても朝起きたら靴下の中にプレゼントが入っているような年齢でもないので特に何かがあるわけではないが、こういった特別な日に特別な人と過ごす事が出来るということが私にとってはすごく嬉しかった。


外は冷たい北風が吹き荒れ、雪こそ降らないもののどんよりとした雲行きだったので日中は二人でもぞもぞと布団にくるまって過ごした。

そしてようやくのそのそと布団から這い出し家事を済ませる。洗濯機を回し溜まった洗い物を片付ける。古臭い固定観念など私は持ち合わせていないので家事は分担制で私は洗い物、静代さんは食事、掃除という風に協力し合って暮らしていた。

そんなことをしていると辺りはすっかり暗くなっており、私は急いで予約していたチキンを取りに向かった。
恐らくクリスマスで一番忙しいであろう某有名チェーン店は私の予想通り人でごった返しの状態で人混みの苦手な私は静代さんの為だと言い聞かせひたすら我慢の時を過ごした。


そして、駅前から寒さに震えながら部屋に向かって早足で歩く。
月の出ていない夜道は暗い。この辺りは街灯も少なく男の私でも少し不安な気持ちになる。
そしてそんな気持ちのせいなのか誰かから見られているような気がしてきた。
強烈に誰かの視線を感じる…。
背後を誰かが尾けているような気がするのだ…。
まあ、こういった想像は大抵恐怖心から来る思い過ごしで思い切って振り返ってみると誰もいないのだが。


今回は違った…。
いつもの馬鹿げた妄想ではなかった。


私が意識し始めてからずっと足音が着いてきている。
明らかに誰かに尾けられている…。

私と歩調を合わせ一定の間隔を空けてついてくる。
後ろを振り向いた訳ではないが(断じて怖がっている訳ではない。)確信がある。
これは何らかの意思を持って私の後ろを歩いているのだ。


そして
その時ふと最近の井上のたまに見せる妙な表情を思い出し私はハッとした。
もしかして、私はずっと誰かに監視されていたのだろうか…?



そして井上はそれに気付いていたのではないだろうか………。



どうだろうか。

しかし…。


一体誰が…?



一瞬玉代の顔が浮かんだが、彼女はもう死んでいる。
静代さんとお葬式を仕切ったし、先週墓参りも行ってきた。


では一体誰だ…。






分からない。

それとも私の考え過ぎだろうか。

たまたま駅からずっと帰り道が同じ人がいるだけか…?
その可能性もある。
というよりもそれしかないのでは…?


こんなしがないフリーター男を尾行する人間がどこにいる?



しかし心臓は恥ずかしながらバクバクと破裂しそうな程に鼓動を刻んでいる。



一体どうすればいい…。

このまま距離を保った状態で歩き続けるか…?
しかし、そうすると住んでる所がばれてしまうのでは…?
いや、そもそももうばれているのか?


だったらどうする?


どうすればいい?



警察に電話か…?
助けを求めるか…?


しかし、一体何と言えばいい?

『今夜道を歩いているのですが、後ろの人が多分私を尾けているので助けて下さい。』

とでも言うのか?


間違いないなくいたずらだと思われる。




色々と考えた挙げ句に試しに立ち止まってみることにした。
振り向くという選択肢がないのならば(断じて怖がっている訳ではない。)立ち止まるという選択肢が一番答えを知るのにふさわしいはずだ。
これでそのまま後ろの人間が私を追い越して行けば単なる帰る方向が同じだった人間ということになる。


そして意を決して靴紐を結ぶ振りをして立ち止まってみた。
凍えるような寒さや部屋で待っている静代さんのことなど今は全て忘れて全神経を背後に集中させる。


そして、しばらく耳を澄ませてみたのだが足音が聞こえてこない…。

何故だ…?
何故お前も立ち止まる…?


ということはやはり…。


やはり相手は……………………………。






この時点で私の思考回路はショートし、せっかく買ったチキンを地べたに置いていることなどすっかり忘れて全速力で走り出した。
そんな状態でも部屋に戻ってはまずいという考えを持つだけの余裕はあり、ひたすら右に左にとジグザグに走り続け見知らぬ公園にたどり着く頃には肺が潰れそうになっていた。




そしてフラフラとベンチに倒れ込み夜空を見上げる。
ここまで来ればもう大丈夫だろう。
こんなに全速力で走ったのは、昔行った心霊スポットでどこからともなく人の声がしてきた時以来かもしれない。
あの時も無我夢中で走った。
額の汗をぬぐいながら懐かしい思い出に浸っていると、先ほどまで私を苦しめていた北風が今ではとても心地いい。
それからもしばらく呼吸を整えた後、ようやく部屋に帰ることにした。
そしてそこでチキンがないことに気付き、地団駄を踏みながら生まれて初めて使う汚い言葉で先ほどのストーカー野郎を罵倒した。
散々怒りを爆発させた後、ついでにアパートから怪訝そうに私を眺めていた中年女性に中指を突き立ててめぇは俺のチンポコでもしゃぶってろ!と捨て台詞を残し帰路に着いた。



ずいぶんとがむしゃらに走ったので最初は少し迷ったが、徐々に知っている道に出て来て少しずつ歩くスピードを早める。

すると、その時また背後から足音が聞こえてきた…。



まさか…………。



冷たい汗がすーっと背中を流れ、私は一瞬身を固くする。
これじゃ本当のストーカーじゃないか……。


先ほどまでの荒れ狂うような怒りは鳴りを潜めて、またしても心の中の臆病な部分が顔を出す。


どうすればいい。

また逃げ出すか……?


臆病な人格は即時撤退を命令したが、挑戦的な人格がそれに異を唱えた。






待て待て。

逃げ出してどうする?


また追い付かれるのがオチだろう?



それにやはり先ほどのチキンの借りを返さなくてはならないぞ…。




そうして20%の闘志と80%の臆病さが入り交じった感情でついに私は振り向くことを決意した。







『わっわ私に一体ぁ、な、何の用だっはぅ!』





すると、そこにはナイフを持った黒いジャンパーに黒いズボン、そして帽子を目深に被ったプッツリいかれちまっている変態野郎…ではなく鮮やかな金の髪をショートヘアーにまとめた夜なのにサングラスをかけている不思議な(そして恐らく綺麗な)女性が立っていた。




つづく。






前回までのあらすじ

知らぬ間にフルーツが置かれていたのだ。



第19章



うだるような暑さもようやく落ち着きを見せ季節が夏から秋に変わろうとしていた。
陽が落ちると少し肌寒くなり鈴虫やコオロギの鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
そして、さらに金木犀の香りがふんわりと漂い本格的に秋の到来を告げている。

ここは住宅街にぽつんと存在している小さな公園。どこの街にでもある遊具の少ない寂れた公園。
雑草が至るところに生えていて、砂場には空き缶が転がっている。
少し大人びた近所の中学生なんかももうあんな公園で遊ぶのは恥ずかしいなと内心思いながらどこか懐かしさを掻き立てられる…そんな不思議な場所だ。

そして、その公園で大の大人が二人錆びたブランコをギコギコ揺らしながら難しい顔をして佇んでいる。
私の隣でこちらが心配になる程の咳をしながら尚もタバコを吹かしているのは私が最近よくつるんでいる井上という男。
職業は刑事だと言っているがどう見てもチンピラにしか見えない。
今日はくたびれたダークグレーのスーツにクラッチバックという出で立ちで相変わらずオールバックに撫で付けた髪型はどう見てもチンピラにしか見えない。
こんなナリで言動も荒っぽいが意外と面倒見は良く、細かな所にもよく目が届く。
なので概ねは良い人間だということが出来るだろう。
でなければこんな風につるんだりはしない。

そんなチンピラ男は夕陽が沈んでいくのを渋い顔で見つめながら指を火傷しそうな程短くなったタバコをせっせと吹かしている。
タバコを吸っていない方の手には缶ビールを握りしめており、そろそろ砂場へ投げ捨てるだろうなと私は見当を付けている。
もちろん井上が今勤務中であることはいうまでもない。




『で、新しい仕事は見つかったのかよ。』



『いえ。まだ…です。』


『そうか。まっ、あんまり焦らねえことだ。』



気が付くと井上の両手は空になっていた。
しかし、特に私は驚かない。
それにしても風が冷たい。もう何年も経験しているはずなのにいつまで経ってもやはり秋口の夜風は寒い。
何故だろう。
人間は環境に適応して進化していくのではなかったのか。
それとも環境がそれを超えるスピードで変化しているのか。
確かに年々夏は異常な程暑くなり冬場は身体の芯から凍える程寒くなっている気がする。
それとも私が年を取っただけだろうか。
寒さが本当に身に染みるようになった。


こんな寒い日は部屋に帰って静代さんと鍋でもつつきたい気分だ。
ガスコンロに火を付けてお互いの好きな具材を無造作に鍋に突っ込む。
灰汁を取ることも忘れてホクホク言いながら白菜やら椎茸を頬張る。誰が何と言おうと肉は豚肉だしウインナーも入れる。そして〆は雑炊だ。
静代さんはご飯と生卵の組み合わせが理解できないというタイプなので私だけ卵雑炊にする。



こんなことを言うと驚くだろうか。
しかしこれが事実である。
私は静代さんと同棲を始めたのだ。

そう。



私が静代さんと一緒に暮らすようになってからの日々はまさに夢のような瞬間だった。
何もかもが新鮮で毎日が驚きの連続だった。お互いの好きな食べ物、本、映画、場所…挙げればキリがない。そんな小さなことを発見しては喜び合いお互いの仲を深めていった。
私は相変わらず何でも屋の仕事を続け、静代さんはパートの仕事に出掛けた。
定食屋を再開することも一瞬議題に上がったのだが、静代さんは今まで料理を作ったことがないことに加えて本人もあまり乗り気ではなかった。


『料理ではきっとお母さんには敵わないと思うの。

誰かを笑顔にして…幸せにするってものすごく難しいことだから…。

私は多分それを与える側の人間にはなれないと思うんだ。』



この言葉には私も思う所があり、無理に静代さんを説得することはしなかったが、その美しさと同様にもしかしたら料理の才能も…という可能性もやはり捨てきれなかったので一度肉じゃがを作ってもらった。
結果は良くも悪くも家庭的な味といった所で私も特に何も言うことが出来ず、珍しくその日の食卓は静まり返っていたことを覚えている。

何だかんだと言いながら内心少しショックだったのか、これで料理も出来ちゃったらちょっと完璧過ぎるでしょと笑いながら強がっていたので、それ以外にも抜けている点を何点か指摘すると脇腹を軽く小突かれてしまった。

そんな幸せな毎日。
心が通じあっている二人でしか成立しない心地よい空間と時間…。

私達は大いに楽しんだ。
元々休みがあってないような仕事だったので、静代さんのパートの休みに合わせて二人で色々な所へ出掛けた。

話題のテーマパークに行って1日中はしゃいだりする日もあれば美術館やお寺なんかに行ってゆっくり過ごす時もあった。
そして憂鬱な雨の日となれば二人で昼までぐっすり寝てそこからダラダラと過ごす。
先週の休みの日などもちょうど雨だったので借りてきたストレイトアウタコンプトンを観てNWAの成功と衰退に思いを馳せイージーEに黙祷を捧げた。


もちろん恋人としてのスキンシップも私達は時間をかけてゆっくりと楽しんだ。
手を繋いだときの少し鼓動が高まって嬉しいような恥ずかしいような甘酸っぱい感覚。
静代さんの透き通るような髪を優しく撫でながら抱き締めたときの暖かくホッとする温もり。
そして女性特有の柔らかく包み込まれるような何ともいえない安心感。
私はそれら全てを静代さんと共有し、話し合い見つめ合うことでお互いの秘密を探り合った。
そこでも驚きの連続。


そして…ついに私達は結ばれる。
何と驚くべきことに(喜ぶべきというべきか)静代さんは初めてだった。
寒さが理由ではなく小刻みに震えている静代さんを優しく抱き締め私は静代さんの中に入っていった。
静代さんは一瞬苦しそうな声を上げたが、すぐに落ち着きを取り戻しゆっくりと私に身を任せる。
そんな感動の瞬間を迎えながら、何故かその時私の脳裏に浮かんできたのはみちこだった。

私は静代さんと初めての夜を過ごしながら、頭の中ではみちこのことを考えていたのだ。
これは大変な裏切り行為であるといえるのだが、私の頭の中に次々と浮かんでくる映像をどうしても止めることが出来なかった。
いつも笑顔だったみちこ…。
私の初恋の相手…。

今でも忘れることが出来ない初恋の相手と今の恋人を重ね合わせることはやはり罪なことだろうか。
そんなことを思いながら私はゆっくりと静代さんの中で果てていった。
そこで静代さんの目に涙が浮かんでいることに気付き不思議に思ったが、気が付くと私も大粒の涙を流しておりそのまま二人で抱き合いながら眠りに付いた。

朝起きたときも得体の知れない罪悪感は消えず妙な気分だったが、のそのそと起きてきた静代さんからうなじにキスをされ再びスイッチの入った私達はまた愛を交わした。
昨夜とは違いゆっくりとお互いの身体の相性を確かめるかのように長いこと私達は愛を交わし合った。
そして、やはりまたその時もみちこの顔が浮かんだ。
静代さんとキスをし、細い身体を優しく抱き締め、程よい大きさで張りのある胸にむしゃぶりつき、魅力的で吸い込まれそうな瞳を見つめながら私は頭の中でみちこを考えていた。みちこのことを抱いていた。そして幸せと虚しさと罪悪感を抱えながらまたも絶頂を迎えた。
荒い息を吐きながら窓から見える景色を眺める。
なんて事の無い住宅街。しかし、恐らく今まで一番多く見てきた風景。


私は一体何をしているのか。

私は………
私は一体誰と寝たのか。



そんな混乱した気持ちを隠すように私は静代さんを抱き締めそのまま再び眠りに付いた。顔は何故か恐くて見ることが出来なかった。


しかし、だからといって私と静代さんの関係に何か影響があったという訳ではない。
私が強烈にみちこのことを思い出したのは、その時だけでそれ以降はそんなこともなくなっていた。

そう。


過去は過去。
確かに一般的に男性の方が過去にこだわりやすいと言われているが、いつまでも引きずっている訳にはいかない。
今現在を生きているのだから。

そういう訳でそれからも私達は働き遊び愛を交わし世間一般のカップルのように毎日を過ごした。

そして、そんな順調な生活を送っていく内に私の中でムクムクとある気持ちが育ってきた。
何でも屋のようなその日暮らしの不安定な仕事を続けていていいのだろうか。
まあ、これからも私一人で生きていくのならば問題は無かったろう。
しかし、今は一緒に生きていきたいと思う人がいる。
幸せな家庭を築きたいと思う人がいる。
そうなるとやはり仕事を変えなければならないのではないか。
しかし、今までまともに働いたことのない男が今更真っ当な仕事に付けるだろうか。
このような思いがぐるぐると頭の中を駆け巡り、元から考え込むタイプの私はどうしようもなくなり今日もこうして井上に話を聞いてもらっているのだ。


確かに静代さんはあなたさえいてくれればそれで十分だと言ってくれている。
この世に二人さえいればそれでいい。
愛し合う二人がいればそれだけで世界は良い方向に回っていく。
静代さんはそう信じている。

だがそれは間違いだ。
何事も決め付けてかかるのは良くないが、これだけは例外だと言える。
恋に落ちた瞬間の魔法が解けて現実的に物事を見なければならなくなった時に必ずこの問題が大きな壁となって立ちはだかるはずだ。
(そして現実的になるのは女性の方が恐らく早い。)



だがどうしていいか分からない。



どうしようもないことなどこの世に腐る程あるが、その中でも質が悪いのが『若さ』だ。
もう絶対に戻らないし、その時の楽しさを知っているだけに余計に腹立たしい。
そしてこの『若さ』も他と同様に失ってから初めてその重要性に気付くのだ。
とにかく、今までまともに働いたことのない30を超えた老いぼれを雇ってくれる会社というのはなかなか存在しなかった。
そして、ずるずると時間だけが過ぎていく。
貴重な時間が…。










『さーて。そろそろ行くわ。実は今仕事中なんだよ。かっかっか。』


と言いながらまた新しいタバコに火を付けて、美味そうに煙を吐き出す。
そして、また苦しそうに咳をする。

以前に一度だけ、このままじゃ肺がんにでもなって死んでしまいますよと忠告した時があったのだが、一服の出来ねえ人生なんてもう死んでるようなもんだろうが!と説得力があるのか無いのかよく分からないことを言われ、それからは井上の健康状態に関しては沈黙を貫くことに決めた。



『知ってますよ。というか仕事してる時あるんですか。井上さん。』



『ばっきゃろ。暇人のお前と違って【大人】は色々とやることがあんだよ。』



そして、また辛そうに咳をしながらブランコから立ち上がる。携帯灰皿などというハイテクな物をこの男が持っている筈もなく、吸殻をまた砂場に投げ捨てる。
そして、身支度を始めたが不意に動きが止まる。それからどこか警戒したような雰囲気で辺りを注意深く眺める。
この妙な動きはここ最近一緒にいる時に何度か見かける。


『なあ…。おめえさんよお…………。』


井上は私ではなく、遠くの方を見つめながら何か考え事をしているような顔で尋ねる。
そんな様子を眺めながらやはりこの男は刑事なんだなと実感する。立ち振舞いが一般のそれではない。どこがどう違うのかと具体的に説明することは難しいが、常に周りを警戒し観察を怠らない。
一見何も考えてないように見えるが、こちらがドキッとする程本質を付いた意見を言うことがある。
この男には何かが見えているのだ。正解にたどり着く為の道筋のような物が。
もちろん常に見えている訳ではないだろうし、いつも正解とは限らないだろう。
しかし、限りなく高い確率でこの男は真実にたどり着く能力を持っているのではないかと思う。

そんな生粋の刑事が辺りを警戒しながら話し掛けてくると、こちらもやはり緊張せざるを得ない。
鼓動が少し早くなりじんわりと手汗が出てくるのを感じる。


『………………なんですか?』



しばらくの沈黙。
相変わらず井上はこちらを見ない。
しかし、徐々に警戒の色が解けていくのは感じられる。






『やっ…………


やっぱり何でもねえや。』



そして、私に背を向けてすたすたと歩き出す。
まるで先程のやり取りなど一切なかったように公園を出ようとする。



そして、取り残された私は考える。
考えるのは得意だ。
頭の中では常に何かを考えている。
もし自分の考えをタイプする人間が頭の中にいたとしたら過労で死んでしまう程常に何かを考え続けている。
言葉の洪水だ。たまにこの言葉が脳内から溢れ出して外に漏れているのでは…と馬鹿げた妄想をするときがあるくらいだ。



そして、この時に考えていたのはこんな事。


『こういう場面ではもう少し踏み込んで聞いた方がいいのだろうか。』

である。


ここまで勿体ぶられたら普通は何なのか気になる。
それが人間というものだ。
好奇心というものは厄介で身を滅ぼすこともあると分かっているのに目の前にちらつくとつい飛び付いてしまう。

しかし、ここでまた考える。

言うのを止めたということはどういうことなのか。

気が変わったのか、元から大したことではなかったのか、それとも全く別の理由なのか。



とにかく、何を言おうとしたにせよ何も言わなかった…これが重要なのだ。
そして、こういった場合は恐らく詰め寄っても絶対に教えてくれないような気もするのでいつも私はこう答えるようにしている。








『そうですか。
ではまた。』









つづく。




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