前回までのあらすじ
タバコは身体に悪いのだ
第13章
結局私が井上と会って分かったことは、この件はもう終わっているということだった。
被害届もなし。という訳で捜査も容疑者も聞き込みもなし…だ。
私はがっくりと肩を落として事務所に戻る。
すっかり陽は落ちていたが、相変わらずむしむしとした湿度だけは辺りに居座っており、熱中症で命を落とす人がいるというのも納得だ。
通りを歩いている人は皆、私も含めて早くこの暑い夏が終わればいいと思っているだろう。
蒸し暑くて不快で汗が止めどなく流れるこの季節になどもう用はない。
しかし、いざ季節が変わるとこの夏が恋しくなっているから不思議だ。
そんな事を考えながら、誰もいない事務所に入る。
幸い家事は苦手ではないし、一応事務所であるので部屋の中はかなり綺麗にしてある。
そんな生活感のない部屋に腰を下ろしながら、まずクーラーのスイッチを入れる。
節約の考えはとうにクシャクシャに丸めてゴミ箱の中に捨ててある。
クーラーの冷気が部屋に行き渡るまでの間に、服を着替え冷蔵庫の中身を確認する。
こんな日の終わりにはビールでもぐいっと一杯やれば最高なのだろうが、あいにく今の私にそんな元気はなく、食欲もなかったので冷蔵庫にあった冷奴に醤油を垂らし無心で胃に放り込む。
そんな寂しい食事を摂りながら私は今日のことについて考えていた。
もちろん静代さんのことである。
今でも静代さんに対する気持ちは変わっていない。むしろ、あんなことがあって、彼女を守らなければという使命感も加わり一層気持ちは強くなっている気がする。
しかし、一方で不安な気持ちもある。
井上の言った通り、もうこの件には関わらない方が良いのかもしれない…という気もするのだ。
もう私の手には負えないのかもしれない。
そんな思いもよぎってくる。
まさか、実の娘を刺すなんて…。
いや、違う。
静代さんは『自分で刺した』のだった。
私は苦笑しながら冷奴をつつく。
テレビも付いていない室内は何の音もなく、この部屋には私一人しかいないのだという事を改めて思い知らされる。
そんな事を考えた時、やはり浮かんでくるのは静代さんのことだ。
あの人が隣にいればさぞ楽しい食事になるだろう。
例え、今日のような晩御飯のメニューが冷奴だけというイカれた場合でも静代さんと一緒なら…。
そうなると私はやはり諦めることが出来ない。
私がこの件から手を引く…それは静代さんから身を引くということを意味するのだから…。
それだけは断じて容認出来ない。
私と静代さんは結ばれる運命なのだ。
しかし、その時心の中の意地の悪い部分が声を上げた。
どことなく井上の声に似ている気がする。
果たしてそうかな。
それは勝手にお前が思っていることだろう?
そうだろ?
それにだ。
お前さんよ。
そもそも何であの女が刺されたと思う?
この質問には思わず息が詰まった。
そんな事分かる訳がない。
あれは頭がおかしくなった母親がやったことだ。
はっはっはっはっは。
違う違う。
違うぞ。
お前さん。
心の中の声は今や実態を伴っていた。
声には人を小バカにしたような調子が混じっている。
なあ、兄弟。
本当は分かっているんだろう?
あの女が刺されたのはな。
お前があの女に電話したからだよ。
私は思わず後ろを振り返った。
しかし、誰もいない。
ここには私一人だけ。
気付くと尋常ではない汗をかいていた。
喉の渇きも我慢できない程で、私は急いで冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出しコップに注ぐ。
そして、それを一気に飲み干した。
一度に大量の水分を投入された身体が抗議の声を上げていたが、私は構わずもう一杯飲み干した。
そして、また考える。
こうやってすぐ頭で考えてしまうのが私の悪い癖だ。
しかし、考えずにはいられない。
私のせいなのか…?
私があの母親を刺激したから…?
そんな…………。
ならば、私が消えればいいのだろうか。
そうなれば静代さんが傷付くことはもうないのか。
私が消えればいいのか…。
考えていくうちに、段々とその考えが名案に思えてきたのだが何かが引っ掛かる。
何かの記憶が私の頭を刺激しているのだ。
本当にそれでいいのだろうか。
そうなると私はまた愛する女性を見捨てる事になるのではないだろうか…。
ふと、そんな思いが心の中に浮かんできたのだが、私は首をかしげた。
また…?
私は以前にも誰かを見捨てたことがあったのだろうか…?
最近では記憶が曖昧になっている。
暑さのせいか少し頭も痛い。
テーブルにはコップ一杯の麦茶と食べかけの冷奴が置かれている。
しかし、急に全てがどうでもよくなり、どっと疲労感が押し寄せてきて私はベッドに倒れ込んだ。
私は以前にも誰かを…。
しかし、思い出せない。
そして、ますます眠気はひどくなる。
普段ならば、きちんとシャワーを浴び、食事の後片付けなども済ませてから眠りに付くのだが、今やそれどころではなかった。
全ての細胞が眠りにつこうとしている…そんな感じだった。
そして、ゆっくりと目を閉じる…。
眠りに落ちる寸前、みちこの顔が浮かんできた。
そうだ。
みちこ。
私が初めて愛した女性。
何故一瞬忘れていたのか。
やはり暑さのせいか…。
そして、そのまま私は眠りに着いた。
今夜は夢を見ず朝まで死んだように眠っていた。
それから数日後、ようやく私は静代さんと面会することが出来た。
静代さんの容態も回復しており、面会の許可が下りたのだ。
受付にいくと、またあの高圧的な女性がいた。
相変わらずのショートカットに、今日は少しメイクが濃いせいもあって余計に近寄りがたい雰囲気がある。
よく街中で見かけるが声を掛けるのはどことなくためらってしまうようなタイプの美人だ。
一瞬、今日の所は退散しようかとも思ったが、話してみるとトントン拍子に話が進み、病室までの道順も丁寧に教えてくれた。
そうして、拍子抜けする程あっさりと私は静代さんの病室まで向かうことが出来たのだ。
日射しがたっぷりと注ぐロビーを抜け、エレベーターを上がり三階にある病室へ向かう。
だがどこか落ち着かない。というのも私は昔から病院という空間が苦手だった。
不自然なくらいに清潔に保たれた場所なのだが、確かにそこには死の影が潜んでいる。
そこに『住んでいる』人間と『訪れる』人間には決定的な違いがあり、健康体でいることがどうも悪いことをしているような気になってくる。
活気がある病院というのもおかしな話だが、どことなく重苦しい空気に私は早くもこの場から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
そんな逃げ腰の状態になりながらも、ついにお目当ての部屋にたどり着いた。
私は一度深呼吸し、思い切ってドアをノックする。
すると、数秒後『どうぞ。』という声が聞こえ(それが母親の声でないことにホッと胸を撫で下ろし)、私は中に入った。
病室はシンプルで、ここにも日射しがたっぷりと注いでいた。
静代さんはベッドに横になっていたが、心配していた程酷い状態ではなく真っ直ぐに私の方を見つめている。
突然の私の訪問に驚いた様子はない。
しかし、喜んでいる訳でもない。
表情からは上手く感情が読み取れないが、少なくとも私がここにいることに対してマイナスな感情はないように見える。
気付くとドアの前で棒立ちになっていたので、ゆっくりとイスに腰を下ろす。
その時も目配せをしたが、別に嫌がってはいないようだ。
そして、一息付きとにかく何か言わなくては…と思うのだが。
一体何を言えばいいのだろう。
こういった時の気の利いたセリフ…。
しかし、どうすればいい?
実の母親に腹をナイフでぶっ刺されたのに、自分で刺したと言い張って入院している人間に掛ける気の利いたセリフとは…?
結局、考えた末に出た言葉は『久しぶり。』だけだった。
病室に漂っていた緊張感のようなものは、相変わらず少し残っていたが静代さんが警戒心を解いたことで、ようやく私は一息付くことができた。
それからは、私もただ静代さんを見つめていた。
病衣に身を包み、髪は少し乱れ、化粧もしていない静代さん。
さすがに疲労の色は隠せないが、それでもやはり上品さは失われていなかった。
そして、私は改めて静代さんを綺麗だと思った。
美しい女性を前にした時の、少しこちらが気後れしてしまうような気持ちもあるのだが、落ち着いていて物腰も柔らかなので接しやすく、気軽に冗談も言いやすい。
まさに完璧な女性ではないか…。
それからしばらくお互いに見つめ合った後、静代さんは目を伏せ、それから視線を窓の外へ移動させる。
『久しぶり。
ちょっと痩せたんじゃない?
暑くてもご飯はしっかりと食べないとだめだよ。』
『静代さんこそ、お腹にでっかい穴空けたんだからしっかり栄養摂らないとだめですよ。』
咄嗟に出た一か八かの際どいジョークだったが、意外にも静代さんは可笑しそうに小さく笑った。
『やっぱり変わらないね。
安心する。』
その言葉を聞いて私は、てっきり私と静代さんとの間に埋められないような溝が生まれてしまっていたのではないかと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない…と明るい気持ちになった。
もしかすると、このまま関係も修復してあわよくば付き合うことも可能なのではないか…そんな期待も芽生えてきた。
そして、世の男性達諸君がよく陥る罠に私は気付くと嵌まっていた。
つまり、相手は私のことを悪く思っていないということを私のことを好きだと捉えてしまう…というものだ。
このトラップに引っ掛かって枕を涙で濡らした男達が一体どれほどいるだろうか。
とにかく今の私はまさにその状態だった。
そして、もう相手は自分のものだと錯覚していたのだ。
これもまたよく男性諸君が勘違いしてしまうポイントである。
『静代さん…一体何があったんです?』
これが踏み込んではいけない一線だと分かっていたが、私はどうにも我慢出来なかった。
何しろ私と静代さんはお互いに愛し合っているのだから。
そうだろう?
もし、本当に私のことを嫌っているのなら、病室に入れるだろうか。
嫌いならば、出ていけと言われるはずだ。
しかし、静代さんは笑っていた。
私の冗談に笑ったのだ。
これは非常に良い徴候だ。
そうだろう?
だったら、静代さんは本当のことを話すべきだ。
本当は何があって、本当は誰にやられたのか。
全てを打ち明けてもいいはずだ。
全てを包み隠さず。
愛し合っている二人に隠し事などありえない。
そう。
だって、静代さんは私のものなのだから。
こんなセリフを誰かに言われたような気がしたが、多分気のせいだろう。
しかし、静代さんはこの質問には反応せず、またしても窓の方を向いてしまった。
『分かりますよ。言いにくいですよね。
でも、僕は大丈夫ですから。
さっ、話してください。』
『何を話すっていうの?』
『だから、何があったのか…ですよ。』
『さっきから何を言ってるの?
ジャム君おかしいよ。』
その時、私は違和感に気がついた。
二人の間の歯車がうまく噛み合っていない…そんな雰囲気…。
私は全てを受け入れる用意が出来ているのに。
静代さんは相変わらず自分の殻に閉じこもっている。
何故何も言ってくれないのか…。
何故庇うのか…。
自分のことを刺した人間を何故庇うのか。
いや、それよりも何故私のことを見ようとしないのか。
私は静代さんのことだけを考えて、例えどんなことがあろうとも全てを受け入れて全てを愛そうと心に誓っていたのに…。
気付くと私は何かに苛立っていた。
得体の知れない何かに無性に腹が立っていた。
それは、この病室に無遠慮に射し込んでくる日光かもしれないし、窓際の花瓶に差してある色とりどりの花かもしれないし、あの母親なのかもしれないし、静代さんが私よりも母親のことを考えているからなのかもしれないし、今までの全てに対して…かもしれなかった。
『もう一度聞きますよ。
何があったんです?』
いつの間にか握り拳になっていた手を開いて、もう一度訊ねた。
何気ない雰囲気で質問しようとしたのだが、少し声が裏返って気持ちが昂っているのが丸分かりだ。
そして、そんな私とは打って変わって、静代さんは落ち着いた態度で私を真っ直ぐ見つめていた。
『別に…何も。』
その言葉が引き金となり、冷静で落ち着いた大人の会話は終わりを告げた。
『嘘だ!本当は知ってるんですよ!
静代さん…刺されたんでしょ!!!』
一瞬、静代さんの顔に傷付いたような表情が浮かんだが、すぐにそれは怒りの表情に覆い隠されてしまった。
『違う!!!お母さんはそんなことしない!!!
私とお母さんはずっと一緒なんだから!!!
お母さんは私がいないとダメだし、私もお母さんがいないとダメなんだからっ!!!』
お互いに熱くなっていて大声で叫び散らかしていたので、すぐにでも看護師か誰かがやってきてもおかしくなかったが、幸いにも病室には誰も入ってこなかった。
『何を言ってるんです!!!
静代さんだって分かってるんでしょ!!!
このままじゃダメだって…。』
『違う………
違う………違う。』
『僕と二人で生きましょう‼
でも、だからってお母さんと離れ離れになるわけじゃない!
たまに会いに行けばいいじゃないか!!』
『帰って…。』
『いいや!!あなたがうんと言うまでここを動きませんよ!
だから…………::
だから……
いい加減目を覚ませ、このクソッタレめ!!!』
『黙れ黙れ黙れ黙れええええええ!!!!!』
気付くと、窓際に飾ってあった花瓶が宙を舞い私の顔面に直撃し、その数秒後血相を変えてやってきた大柄な看護師に引きずられながら私は病室を後にした。
その間も何かを叫んでいたような気がするが、よく覚えていない。
花瓶が直撃した額は少し切れていたが、その病院で治療されることはなかった。
つづく。
タバコは身体に悪いのだ
第13章
結局私が井上と会って分かったことは、この件はもう終わっているということだった。
被害届もなし。という訳で捜査も容疑者も聞き込みもなし…だ。
私はがっくりと肩を落として事務所に戻る。
すっかり陽は落ちていたが、相変わらずむしむしとした湿度だけは辺りに居座っており、熱中症で命を落とす人がいるというのも納得だ。
通りを歩いている人は皆、私も含めて早くこの暑い夏が終わればいいと思っているだろう。
蒸し暑くて不快で汗が止めどなく流れるこの季節になどもう用はない。
しかし、いざ季節が変わるとこの夏が恋しくなっているから不思議だ。
そんな事を考えながら、誰もいない事務所に入る。
幸い家事は苦手ではないし、一応事務所であるので部屋の中はかなり綺麗にしてある。
そんな生活感のない部屋に腰を下ろしながら、まずクーラーのスイッチを入れる。
節約の考えはとうにクシャクシャに丸めてゴミ箱の中に捨ててある。
クーラーの冷気が部屋に行き渡るまでの間に、服を着替え冷蔵庫の中身を確認する。
こんな日の終わりにはビールでもぐいっと一杯やれば最高なのだろうが、あいにく今の私にそんな元気はなく、食欲もなかったので冷蔵庫にあった冷奴に醤油を垂らし無心で胃に放り込む。
そんな寂しい食事を摂りながら私は今日のことについて考えていた。
もちろん静代さんのことである。
今でも静代さんに対する気持ちは変わっていない。むしろ、あんなことがあって、彼女を守らなければという使命感も加わり一層気持ちは強くなっている気がする。
しかし、一方で不安な気持ちもある。
井上の言った通り、もうこの件には関わらない方が良いのかもしれない…という気もするのだ。
もう私の手には負えないのかもしれない。
そんな思いもよぎってくる。
まさか、実の娘を刺すなんて…。
いや、違う。
静代さんは『自分で刺した』のだった。
私は苦笑しながら冷奴をつつく。
テレビも付いていない室内は何の音もなく、この部屋には私一人しかいないのだという事を改めて思い知らされる。
そんな事を考えた時、やはり浮かんでくるのは静代さんのことだ。
あの人が隣にいればさぞ楽しい食事になるだろう。
例え、今日のような晩御飯のメニューが冷奴だけというイカれた場合でも静代さんと一緒なら…。
そうなると私はやはり諦めることが出来ない。
私がこの件から手を引く…それは静代さんから身を引くということを意味するのだから…。
それだけは断じて容認出来ない。
私と静代さんは結ばれる運命なのだ。
しかし、その時心の中の意地の悪い部分が声を上げた。
どことなく井上の声に似ている気がする。
果たしてそうかな。
それは勝手にお前が思っていることだろう?
そうだろ?
それにだ。
お前さんよ。
そもそも何であの女が刺されたと思う?
この質問には思わず息が詰まった。
そんな事分かる訳がない。
あれは頭がおかしくなった母親がやったことだ。
はっはっはっはっは。
違う違う。
違うぞ。
お前さん。
心の中の声は今や実態を伴っていた。
声には人を小バカにしたような調子が混じっている。
なあ、兄弟。
本当は分かっているんだろう?
あの女が刺されたのはな。
お前があの女に電話したからだよ。
私は思わず後ろを振り返った。
しかし、誰もいない。
ここには私一人だけ。
気付くと尋常ではない汗をかいていた。
喉の渇きも我慢できない程で、私は急いで冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出しコップに注ぐ。
そして、それを一気に飲み干した。
一度に大量の水分を投入された身体が抗議の声を上げていたが、私は構わずもう一杯飲み干した。
そして、また考える。
こうやってすぐ頭で考えてしまうのが私の悪い癖だ。
しかし、考えずにはいられない。
私のせいなのか…?
私があの母親を刺激したから…?
そんな…………。
ならば、私が消えればいいのだろうか。
そうなれば静代さんが傷付くことはもうないのか。
私が消えればいいのか…。
考えていくうちに、段々とその考えが名案に思えてきたのだが何かが引っ掛かる。
何かの記憶が私の頭を刺激しているのだ。
本当にそれでいいのだろうか。
そうなると私はまた愛する女性を見捨てる事になるのではないだろうか…。
ふと、そんな思いが心の中に浮かんできたのだが、私は首をかしげた。
また…?
私は以前にも誰かを見捨てたことがあったのだろうか…?
最近では記憶が曖昧になっている。
暑さのせいか少し頭も痛い。
テーブルにはコップ一杯の麦茶と食べかけの冷奴が置かれている。
しかし、急に全てがどうでもよくなり、どっと疲労感が押し寄せてきて私はベッドに倒れ込んだ。
私は以前にも誰かを…。
しかし、思い出せない。
そして、ますます眠気はひどくなる。
普段ならば、きちんとシャワーを浴び、食事の後片付けなども済ませてから眠りに付くのだが、今やそれどころではなかった。
全ての細胞が眠りにつこうとしている…そんな感じだった。
そして、ゆっくりと目を閉じる…。
眠りに落ちる寸前、みちこの顔が浮かんできた。
そうだ。
みちこ。
私が初めて愛した女性。
何故一瞬忘れていたのか。
やはり暑さのせいか…。
そして、そのまま私は眠りに着いた。
今夜は夢を見ず朝まで死んだように眠っていた。
それから数日後、ようやく私は静代さんと面会することが出来た。
静代さんの容態も回復しており、面会の許可が下りたのだ。
受付にいくと、またあの高圧的な女性がいた。
相変わらずのショートカットに、今日は少しメイクが濃いせいもあって余計に近寄りがたい雰囲気がある。
よく街中で見かけるが声を掛けるのはどことなくためらってしまうようなタイプの美人だ。
一瞬、今日の所は退散しようかとも思ったが、話してみるとトントン拍子に話が進み、病室までの道順も丁寧に教えてくれた。
そうして、拍子抜けする程あっさりと私は静代さんの病室まで向かうことが出来たのだ。
日射しがたっぷりと注ぐロビーを抜け、エレベーターを上がり三階にある病室へ向かう。
だがどこか落ち着かない。というのも私は昔から病院という空間が苦手だった。
不自然なくらいに清潔に保たれた場所なのだが、確かにそこには死の影が潜んでいる。
そこに『住んでいる』人間と『訪れる』人間には決定的な違いがあり、健康体でいることがどうも悪いことをしているような気になってくる。
活気がある病院というのもおかしな話だが、どことなく重苦しい空気に私は早くもこの場から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
そんな逃げ腰の状態になりながらも、ついにお目当ての部屋にたどり着いた。
私は一度深呼吸し、思い切ってドアをノックする。
すると、数秒後『どうぞ。』という声が聞こえ(それが母親の声でないことにホッと胸を撫で下ろし)、私は中に入った。
病室はシンプルで、ここにも日射しがたっぷりと注いでいた。
静代さんはベッドに横になっていたが、心配していた程酷い状態ではなく真っ直ぐに私の方を見つめている。
突然の私の訪問に驚いた様子はない。
しかし、喜んでいる訳でもない。
表情からは上手く感情が読み取れないが、少なくとも私がここにいることに対してマイナスな感情はないように見える。
気付くとドアの前で棒立ちになっていたので、ゆっくりとイスに腰を下ろす。
その時も目配せをしたが、別に嫌がってはいないようだ。
そして、一息付きとにかく何か言わなくては…と思うのだが。
一体何を言えばいいのだろう。
こういった時の気の利いたセリフ…。
しかし、どうすればいい?
実の母親に腹をナイフでぶっ刺されたのに、自分で刺したと言い張って入院している人間に掛ける気の利いたセリフとは…?
結局、考えた末に出た言葉は『久しぶり。』だけだった。
病室に漂っていた緊張感のようなものは、相変わらず少し残っていたが静代さんが警戒心を解いたことで、ようやく私は一息付くことができた。
それからは、私もただ静代さんを見つめていた。
病衣に身を包み、髪は少し乱れ、化粧もしていない静代さん。
さすがに疲労の色は隠せないが、それでもやはり上品さは失われていなかった。
そして、私は改めて静代さんを綺麗だと思った。
美しい女性を前にした時の、少しこちらが気後れしてしまうような気持ちもあるのだが、落ち着いていて物腰も柔らかなので接しやすく、気軽に冗談も言いやすい。
まさに完璧な女性ではないか…。
それからしばらくお互いに見つめ合った後、静代さんは目を伏せ、それから視線を窓の外へ移動させる。
『久しぶり。
ちょっと痩せたんじゃない?
暑くてもご飯はしっかりと食べないとだめだよ。』
『静代さんこそ、お腹にでっかい穴空けたんだからしっかり栄養摂らないとだめですよ。』
咄嗟に出た一か八かの際どいジョークだったが、意外にも静代さんは可笑しそうに小さく笑った。
『やっぱり変わらないね。
安心する。』
その言葉を聞いて私は、てっきり私と静代さんとの間に埋められないような溝が生まれてしまっていたのではないかと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない…と明るい気持ちになった。
もしかすると、このまま関係も修復してあわよくば付き合うことも可能なのではないか…そんな期待も芽生えてきた。
そして、世の男性達諸君がよく陥る罠に私は気付くと嵌まっていた。
つまり、相手は私のことを悪く思っていないということを私のことを好きだと捉えてしまう…というものだ。
このトラップに引っ掛かって枕を涙で濡らした男達が一体どれほどいるだろうか。
とにかく今の私はまさにその状態だった。
そして、もう相手は自分のものだと錯覚していたのだ。
これもまたよく男性諸君が勘違いしてしまうポイントである。
『静代さん…一体何があったんです?』
これが踏み込んではいけない一線だと分かっていたが、私はどうにも我慢出来なかった。
何しろ私と静代さんはお互いに愛し合っているのだから。
そうだろう?
もし、本当に私のことを嫌っているのなら、病室に入れるだろうか。
嫌いならば、出ていけと言われるはずだ。
しかし、静代さんは笑っていた。
私の冗談に笑ったのだ。
これは非常に良い徴候だ。
そうだろう?
だったら、静代さんは本当のことを話すべきだ。
本当は何があって、本当は誰にやられたのか。
全てを打ち明けてもいいはずだ。
全てを包み隠さず。
愛し合っている二人に隠し事などありえない。
そう。
だって、静代さんは私のものなのだから。
こんなセリフを誰かに言われたような気がしたが、多分気のせいだろう。
しかし、静代さんはこの質問には反応せず、またしても窓の方を向いてしまった。
『分かりますよ。言いにくいですよね。
でも、僕は大丈夫ですから。
さっ、話してください。』
『何を話すっていうの?』
『だから、何があったのか…ですよ。』
『さっきから何を言ってるの?
ジャム君おかしいよ。』
その時、私は違和感に気がついた。
二人の間の歯車がうまく噛み合っていない…そんな雰囲気…。
私は全てを受け入れる用意が出来ているのに。
静代さんは相変わらず自分の殻に閉じこもっている。
何故何も言ってくれないのか…。
何故庇うのか…。
自分のことを刺した人間を何故庇うのか。
いや、それよりも何故私のことを見ようとしないのか。
私は静代さんのことだけを考えて、例えどんなことがあろうとも全てを受け入れて全てを愛そうと心に誓っていたのに…。
気付くと私は何かに苛立っていた。
得体の知れない何かに無性に腹が立っていた。
それは、この病室に無遠慮に射し込んでくる日光かもしれないし、窓際の花瓶に差してある色とりどりの花かもしれないし、あの母親なのかもしれないし、静代さんが私よりも母親のことを考えているからなのかもしれないし、今までの全てに対して…かもしれなかった。
『もう一度聞きますよ。
何があったんです?』
いつの間にか握り拳になっていた手を開いて、もう一度訊ねた。
何気ない雰囲気で質問しようとしたのだが、少し声が裏返って気持ちが昂っているのが丸分かりだ。
そして、そんな私とは打って変わって、静代さんは落ち着いた態度で私を真っ直ぐ見つめていた。
『別に…何も。』
その言葉が引き金となり、冷静で落ち着いた大人の会話は終わりを告げた。
『嘘だ!本当は知ってるんですよ!
静代さん…刺されたんでしょ!!!』
一瞬、静代さんの顔に傷付いたような表情が浮かんだが、すぐにそれは怒りの表情に覆い隠されてしまった。
『違う!!!お母さんはそんなことしない!!!
私とお母さんはずっと一緒なんだから!!!
お母さんは私がいないとダメだし、私もお母さんがいないとダメなんだからっ!!!』
お互いに熱くなっていて大声で叫び散らかしていたので、すぐにでも看護師か誰かがやってきてもおかしくなかったが、幸いにも病室には誰も入ってこなかった。
『何を言ってるんです!!!
静代さんだって分かってるんでしょ!!!
このままじゃダメだって…。』
『違う………
違う………違う。』
『僕と二人で生きましょう‼
でも、だからってお母さんと離れ離れになるわけじゃない!
たまに会いに行けばいいじゃないか!!』
『帰って…。』
『いいや!!あなたがうんと言うまでここを動きませんよ!
だから…………::
だから……
いい加減目を覚ませ、このクソッタレめ!!!』
『黙れ黙れ黙れ黙れええええええ!!!!!』
気付くと、窓際に飾ってあった花瓶が宙を舞い私の顔面に直撃し、その数秒後血相を変えてやってきた大柄な看護師に引きずられながら私は病室を後にした。
その間も何かを叫んでいたような気がするが、よく覚えていない。
花瓶が直撃した額は少し切れていたが、その病院で治療されることはなかった。
つづく。