前回までのあらすじ
ジャムはニヤリと笑ったのだ。
第26章
初めはほんの軽いバイト感覚で計画に関わった。
茜の気持ちも痛い程分かったし、騙すのはよく知らない男。それに報酬も悪くない…。
なので特に深くは考えなかったし簡単な仕事だと思った。
しかし、1つ誤算があった…。
それは雅美という人間が生来人を騙すような人間ではないということだ。
あまりに早く答えを教えると怪しまれるので信頼関係を築いてからという茜の忠告を忠実に守り雅美はジャムとある程度親しくなろうと思っていた。
まあ、つまりここでいうある程度とはあくまでも顔見知り程度の関係だ。
道で会えば会釈くらいはするし、世間話程度の話はする。
しかし、絶対にお互いのプライベートな話はしないような関係が理想。
コミュニケーション能力の高い雅美には朝飯前のはずだった。
だからこそ茜は雅美に目を付けたのだ。
だが結果的に二人は友人になってしまった。それもかなり親しい間柄の。
気付くと雅美の中でジャムという人間が身内になってしまったのだ。
そして本来悪い人間ではなく、情に厚い雅美は一瞬ジャムに真実を打ち明けようか迷ったのだが、結局は黙っていることにした。
そんなことをしたらせっかくの報酬がパーになるし、何より茜にバレたらどうなるか…。
茜の冷たい瞳を思いだし、雅美は身震いしながら自分のアパートに帰る。
どうか神様…何も起きませんように…。
どうか悪いことが起きませんように…。
無駄な祈りだが罪悪感を和らげる為に祈りを捧げる。
いつもの寂しい一人暮らしのアパート。
彼氏とは2年前に別れた(それもかなり酷い別れ方)。
少し借金もあるので今回の報酬で完済し新しい人生を始めよう…。
そうなれば多分私の人生も上向くはず。良い男を掴まえて幸せな家庭を築くんだ。
そんな妄想に浸りながら台所に先ほど買った野菜を並べていると不意に声を掛けられ思わず雅美は飛び上がった。
さらにそのせいで、せっかくの雅美お気に入りの惣菜チキン南蛮を床に落としてしまった。
『まさかあんた喋ってないわよね。』
茜だった…。
どうやって部屋に入ったのか、何故この部屋にいるのか雅美の中で様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
そして色々なことを考えすぎて、茜が何を言っているのか全く分からなかった…。
私はちゃんと役目を果たしたはず…。
混乱した頭で床に落ちたチキン南蛮を眺める。
今から録画していたアメトークを観ながら野菜スープとこのチキン南蛮を食べるはずだったのに…。
などと場違いな事を考えているとふと昔の記憶が蘇る。
『もし私のこと裏切ったら死んでもらうからね。』
最初に話をもちかけられた時茜はそう言っていた。
もちろん雅美もその時は冗談だと思ったが、何度か会う内に茜のあの時の言葉は本気だったのだという事が分かったのだ。
実際に何かを見た訳ではないし、何かをされた訳でもないが茜の瞳がそう語っていた。
裏切ったら殺す…と。
茜は完全に狂っていた。
背中にびっしょりと冷や汗をかいていたがあくまでも冷静にいつも通りに話しかけようと努める。
怯えてはだめ…。ここで弱みを見せたら何をされるか分からないよ…。心の中の妙に大人びた冷静な声に励まされ雅美は大きく深呼吸をする。
しかし恐ろしくて後ろは振り向くことが出来ない。
『え?何いってんのさ。私は計画通りにやったよ!あいつはもう殺る気満々になってるって!』
『ふうーん?』
そう言ったきり茜は押し黙ったままだ。
何の沈黙なのか?私の言ったことを信じていないのか?それともそもそも私の事など最初から信用などしていなかったのか?
まだ外は寒いのに雅美は冷や汗をどっとかいていて今ランニングから帰ってきたみたいだ。
『それで?』
『え?』
『あなた…それでいいの?』
一瞬何を聞かれたのか分からなかったので思わず今度は雅美が押し黙る。
どういう事だろう?茜は私に何を聞きたいの?
『今からあいつは地獄に落ちるけど、あなたはそれで…いいの?
まさか情が沸いて今更あいつに本当のこと言ったりしないわよねえ?』
急に肩に手を回され、雅美はひっと少女のような悲鳴を上げる。もし今本当に雅美が少女だったら間違いなくパンツをおしっこで盛大に濡らしていただろう。
しかし今はもう立派な成人なので何とかこらえる。
だがこの緊張状態も長くは保たない…。
すると不意に腰に何かの感触を感じた。
冷たい無機質な何か…。初めは何か分からなかったがすぐにそれが銃口だと分かった。
『あなたは何も知らない…そうでしょ?』
吐息が耳にかかり、全身に悪寒が駆け巡る。
だめだ…殺される。
こいつは狂ってる…。
私は間違っていた…。
あの時こんな計画に関わらなければ…。
こんな奴に関わらなければ…。
私はここで……。
脚はガクガク震えているが、何とか首を縦に振ることが出来た。
声など出したら悲鳴を上げてしまうだろう。
そしたら私の身体に風穴が空いてしまう。
それはまだ困る…。いつかはこの身体も年老い朽ち果ててしまうだろうが、こんな所では嫌だ。
『だったら今日中にここから消えなさい…。
うんと遠くにね。
次私がこの街であんたを見かけたら殺してやるから…。
いい?
絶対に殺してやるからね…。
それもじっくりと…。
ふふ。
この世に生まれてきたことを後悔するくらい酷い目に遭うからね…。
分かった?』
それだけ言い残し、茜は去っていった。
しかし扉が閉まってからも雅美は動けなかった。
もしかしたらまだ近くにいるのではないか…?
まだ扉の外にいるのではないか…?
そう思うと恐ろしくて動くことが出来ない。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
さすがに先程の金縛りが解けてゆっくりと雅美は辺りを見回す。
大丈夫…。誰もいない。
それからしばらく立ったまま静かに泣いた後雅美は急いで荷物をまとめた。
茜の言われた通り、横須賀を出て北海道に行った。
何故かはよく分からないがそこならば安全だという気がしたのだ。
あれから茜やジャムがどうなったのかは知らないし、知りたくもない。
そのことは記憶から消し去った。それには大変な労力が必要だったし、少しセラピーの力も借りたが何とか雅美は持ち直した。
最初は慣れない環境や茜に対する恐怖でいっぱいいっぱいだったので何も考えることが出来なかった。
頼れる人もいないし、住む所も見つからない。
そんな状態だったのでジャムがその後ニュースに出ていたことなど知る由もなかったし、結局それからも知ることはなかった。
それから雅美は素敵な男性と廻り合い、2人の子宝に恵まれた。
幸せを絵に描いた様な家庭を築き、横須賀での出来事は心の深い所の一番奥に鍵を掛けてしまっておいた。
もちろん夫には言ってないし、一生話すつもりもなかった。
ところがある晩、夫とベッドで最高の愛を交わしていた時のこと(ちなみにこの時のセックスで一人目の子供を授かる。名前は光一。)。
夫が雅美の髪を撫でながら雅美の中に入ってきた時、一瞬雅美は全てを打ち明けてしまおうかという気になった。
恐らくこの人ならば全てを受け入れてくれるだろう…と。
しかし、結局雅美は言うことが出来なかった。
せっかくの幸せを手放したくないし、何よりあれはもう終わったことだ…。
生きていれば誰にだって他人に言えないことの1つくらいあるはずだ。
それに…もしかしたら何もなかったかもしれないじゃないか。
確かに私はジャムにウソを付いた。
だがよく考えればそれだけだ。
それだけであんな……死人が出るような事が起きる訳ないじゃない。
そう思うと急に気分が楽になってきて、雅美は何度も絶頂を迎え夫に抱き付き歓喜の叫び声を上げた。
そして結局雅美は82歳になって子供や孫達に囲まれながら息を引き取るまで誰にもあの話はしなかった。
茜の…あの冷たい瞳のこと。
銃を突き付けられて脅迫されたこと。
ジャムにウソを付いたこと。
そんな事は始めからなかったのだと思うことにした。
しかし、実際に起きたことは違っていた。
そして時は再び戻り、横須賀のまだ春が来ない冷たいあの季節に戻る。
つづく
ジャムはニヤリと笑ったのだ。
第26章
初めはほんの軽いバイト感覚で計画に関わった。
茜の気持ちも痛い程分かったし、騙すのはよく知らない男。それに報酬も悪くない…。
なので特に深くは考えなかったし簡単な仕事だと思った。
しかし、1つ誤算があった…。
それは雅美という人間が生来人を騙すような人間ではないということだ。
あまりに早く答えを教えると怪しまれるので信頼関係を築いてからという茜の忠告を忠実に守り雅美はジャムとある程度親しくなろうと思っていた。
まあ、つまりここでいうある程度とはあくまでも顔見知り程度の関係だ。
道で会えば会釈くらいはするし、世間話程度の話はする。
しかし、絶対にお互いのプライベートな話はしないような関係が理想。
コミュニケーション能力の高い雅美には朝飯前のはずだった。
だからこそ茜は雅美に目を付けたのだ。
だが結果的に二人は友人になってしまった。それもかなり親しい間柄の。
気付くと雅美の中でジャムという人間が身内になってしまったのだ。
そして本来悪い人間ではなく、情に厚い雅美は一瞬ジャムに真実を打ち明けようか迷ったのだが、結局は黙っていることにした。
そんなことをしたらせっかくの報酬がパーになるし、何より茜にバレたらどうなるか…。
茜の冷たい瞳を思いだし、雅美は身震いしながら自分のアパートに帰る。
どうか神様…何も起きませんように…。
どうか悪いことが起きませんように…。
無駄な祈りだが罪悪感を和らげる為に祈りを捧げる。
いつもの寂しい一人暮らしのアパート。
彼氏とは2年前に別れた(それもかなり酷い別れ方)。
少し借金もあるので今回の報酬で完済し新しい人生を始めよう…。
そうなれば多分私の人生も上向くはず。良い男を掴まえて幸せな家庭を築くんだ。
そんな妄想に浸りながら台所に先ほど買った野菜を並べていると不意に声を掛けられ思わず雅美は飛び上がった。
さらにそのせいで、せっかくの雅美お気に入りの惣菜チキン南蛮を床に落としてしまった。
『まさかあんた喋ってないわよね。』
茜だった…。
どうやって部屋に入ったのか、何故この部屋にいるのか雅美の中で様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
そして色々なことを考えすぎて、茜が何を言っているのか全く分からなかった…。
私はちゃんと役目を果たしたはず…。
混乱した頭で床に落ちたチキン南蛮を眺める。
今から録画していたアメトークを観ながら野菜スープとこのチキン南蛮を食べるはずだったのに…。
などと場違いな事を考えているとふと昔の記憶が蘇る。
『もし私のこと裏切ったら死んでもらうからね。』
最初に話をもちかけられた時茜はそう言っていた。
もちろん雅美もその時は冗談だと思ったが、何度か会う内に茜のあの時の言葉は本気だったのだという事が分かったのだ。
実際に何かを見た訳ではないし、何かをされた訳でもないが茜の瞳がそう語っていた。
裏切ったら殺す…と。
茜は完全に狂っていた。
背中にびっしょりと冷や汗をかいていたがあくまでも冷静にいつも通りに話しかけようと努める。
怯えてはだめ…。ここで弱みを見せたら何をされるか分からないよ…。心の中の妙に大人びた冷静な声に励まされ雅美は大きく深呼吸をする。
しかし恐ろしくて後ろは振り向くことが出来ない。
『え?何いってんのさ。私は計画通りにやったよ!あいつはもう殺る気満々になってるって!』
『ふうーん?』
そう言ったきり茜は押し黙ったままだ。
何の沈黙なのか?私の言ったことを信じていないのか?それともそもそも私の事など最初から信用などしていなかったのか?
まだ外は寒いのに雅美は冷や汗をどっとかいていて今ランニングから帰ってきたみたいだ。
『それで?』
『え?』
『あなた…それでいいの?』
一瞬何を聞かれたのか分からなかったので思わず今度は雅美が押し黙る。
どういう事だろう?茜は私に何を聞きたいの?
『今からあいつは地獄に落ちるけど、あなたはそれで…いいの?
まさか情が沸いて今更あいつに本当のこと言ったりしないわよねえ?』
急に肩に手を回され、雅美はひっと少女のような悲鳴を上げる。もし今本当に雅美が少女だったら間違いなくパンツをおしっこで盛大に濡らしていただろう。
しかし今はもう立派な成人なので何とかこらえる。
だがこの緊張状態も長くは保たない…。
すると不意に腰に何かの感触を感じた。
冷たい無機質な何か…。初めは何か分からなかったがすぐにそれが銃口だと分かった。
『あなたは何も知らない…そうでしょ?』
吐息が耳にかかり、全身に悪寒が駆け巡る。
だめだ…殺される。
こいつは狂ってる…。
私は間違っていた…。
あの時こんな計画に関わらなければ…。
こんな奴に関わらなければ…。
私はここで……。
脚はガクガク震えているが、何とか首を縦に振ることが出来た。
声など出したら悲鳴を上げてしまうだろう。
そしたら私の身体に風穴が空いてしまう。
それはまだ困る…。いつかはこの身体も年老い朽ち果ててしまうだろうが、こんな所では嫌だ。
『だったら今日中にここから消えなさい…。
うんと遠くにね。
次私がこの街であんたを見かけたら殺してやるから…。
いい?
絶対に殺してやるからね…。
それもじっくりと…。
ふふ。
この世に生まれてきたことを後悔するくらい酷い目に遭うからね…。
分かった?』
それだけ言い残し、茜は去っていった。
しかし扉が閉まってからも雅美は動けなかった。
もしかしたらまだ近くにいるのではないか…?
まだ扉の外にいるのではないか…?
そう思うと恐ろしくて動くことが出来ない。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
さすがに先程の金縛りが解けてゆっくりと雅美は辺りを見回す。
大丈夫…。誰もいない。
それからしばらく立ったまま静かに泣いた後雅美は急いで荷物をまとめた。
茜の言われた通り、横須賀を出て北海道に行った。
何故かはよく分からないがそこならば安全だという気がしたのだ。
あれから茜やジャムがどうなったのかは知らないし、知りたくもない。
そのことは記憶から消し去った。それには大変な労力が必要だったし、少しセラピーの力も借りたが何とか雅美は持ち直した。
最初は慣れない環境や茜に対する恐怖でいっぱいいっぱいだったので何も考えることが出来なかった。
頼れる人もいないし、住む所も見つからない。
そんな状態だったのでジャムがその後ニュースに出ていたことなど知る由もなかったし、結局それからも知ることはなかった。
それから雅美は素敵な男性と廻り合い、2人の子宝に恵まれた。
幸せを絵に描いた様な家庭を築き、横須賀での出来事は心の深い所の一番奥に鍵を掛けてしまっておいた。
もちろん夫には言ってないし、一生話すつもりもなかった。
ところがある晩、夫とベッドで最高の愛を交わしていた時のこと(ちなみにこの時のセックスで一人目の子供を授かる。名前は光一。)。
夫が雅美の髪を撫でながら雅美の中に入ってきた時、一瞬雅美は全てを打ち明けてしまおうかという気になった。
恐らくこの人ならば全てを受け入れてくれるだろう…と。
しかし、結局雅美は言うことが出来なかった。
せっかくの幸せを手放したくないし、何よりあれはもう終わったことだ…。
生きていれば誰にだって他人に言えないことの1つくらいあるはずだ。
それに…もしかしたら何もなかったかもしれないじゃないか。
確かに私はジャムにウソを付いた。
だがよく考えればそれだけだ。
それだけであんな……死人が出るような事が起きる訳ないじゃない。
そう思うと急に気分が楽になってきて、雅美は何度も絶頂を迎え夫に抱き付き歓喜の叫び声を上げた。
そして結局雅美は82歳になって子供や孫達に囲まれながら息を引き取るまで誰にもあの話はしなかった。
茜の…あの冷たい瞳のこと。
銃を突き付けられて脅迫されたこと。
ジャムにウソを付いたこと。
そんな事は始めからなかったのだと思うことにした。
しかし、実際に起きたことは違っていた。
そして時は再び戻り、横須賀のまだ春が来ない冷たいあの季節に戻る。
つづく