2022年04月04日

湯田温泉にKON来ん?

湯田温泉♨

作詞作曲者のちひろ様が
大勢のdancerたちと一緒に
舞台に登場なさって
歌われました!

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山口出身、シンガーソングライターのちひろ様による作詞、作曲の『湯田温泉にKON来ん?』







gg3s1985 at 12:23|PermalinkComments(0) music | 知識

2022年01月31日

浜田省吾氏のproduceでmajor debut

幼い頃に松田聖子に憧れて歌手を志し、宇多田ヒカルの登場に衝撃を受けて自らもソングライティングの道へ進み、長く苦しい下積み時代の果てに浜田省吾プロデュースのもとメジャーデビュー。

そして、念願のNHK「みんなのうた」に新作『ギターケースの中の僕』が起用され、シンガー・ソングライターとして今大きな注目を集めている中嶋ユキノ──と、彼女の音楽人生を簡略文でまとめてしまうことが躊躇われるほど、今回のインタビューは濃厚な一代絵巻となった。すべての夢を追う人と夢を諦めそうになっている人々へ贈る、中嶋ユキノの「みんなのうた」が完成するまでの物語。

関連記事:J-POPの歴史「1986年と1987年、新しい扉が開いたロック元年」

−今回のシングル『ギターケースの中の僕』に至るまでシンガー・ソングライターとしてはもちろん、作家やコーラスなど様々な形で活動されてきたユキノさんですが、音楽の道を目指したきっかけは何だったんでしょう?

もう長いこと音楽の世界にいるのですが、この世界を目指した最初のきっかけは松田聖子さんだったんです。テレビに映る聖子さんを観て「この人みたいになりたい、私もドレスを着てテレビで歌いたい!」と思ったんですよね。なので、小学校1年生の文集には「私は歌手になって、テレビに出て歌いたい」みたいなことを書いていました。

−いわゆるスターに憧れていたんですね。

それから私は、安室奈美恵さんを筆頭とした小室ファミリーの方たちやSPEEDさんやDREMAS COME TRUEさんなど90年代のJ-POPをひたすら聴いて育って。そうした方々の新譜を毎週のように全部レンタルして憶えて歌いながら「私は二十歳になるまでにメジャーデビューする」みたいなことをずっと思っていたんです。あと、自分の気持ちを誰かに面と向かって言えない性格だったこともあって、中高生の頃にそうした気持ちをひたすらノートに書いていて。そんな中で宇多田ヒカルさんが1stアルバム『First Love』をリリースしたときに「この人は一体?!」と衝撃を受けて、それまではずっとレンタルだったんですけど、初めてCDというモノを自分のお金で買ったんです。そこで「この人は作詞作曲もしている!」と気付いて、私もノートに書き溜めていた自分の気持ちに曲を付け始めたんです。

−それがソングライティングの始まりだったと。

ただ、私は楽器一切やったことがない人間だったので、アカペラでメロディを付けていたんですよ。姉が寝ている隣でふとん被りながら(笑)。それがシンガー・ソングライターとしてのルーツですね。あと、小学生の頃から姉や友達の歌に対してハモるという得意技があって。なので、その得意技を使って自分の作品を残そうと思って、録音機能のあるMDプレイヤーにまずリードボーカルを入れて、そのMDを流しながらさらにハモりも録音して、それを繰り返していく多重録音を自分なりにやってみたんです。

−山下達郎さんみたいなことを手作りでやっていたんですね(笑)。

手作り多重録音(笑)。それでデモが出来上がったからソニーのオーディションに持ち込んだんですけど、自分の音源を持ち込んでいいタイプのオーディションじゃなかったから聴いてもらえなかったんですよ。それで泣きながら市ヶ谷の坂を下って帰った思い出があります(笑)。あ、オーディションと言えば『ASAYAN』のモーニング娘。さんの次ぐらいの企画にも応募しました。

−Say a Little Prayerのオーディションですかね?

恐らくそうです! 1000人ぐらいの応募者が集まっている会場に行って、15秒歌って「はい、結構です」みたいなオーディションだったんですけど、結局受からず。ただ、私は高校の演劇科に通いながら、曲を作ったりしていて。そのあと、音大のポピュラー科に入ったときに、今回の『ギターケースの中の僕』のサウンドプロデュースもしてくれている宗本康兵くんと同級生として出逢うんですよね。で、その彼がI WiSHで大ブレイク中だった川嶋あいさんの事務所でアルバイトをしていたこともあって、「川嶋あいさんが渋谷公会堂でライブするんだけど、コーラスやらない?」と私に声を掛けてくれて。そこから私のキャリアがスタートしたんです。

−川嶋あいさんのコーラスが始まりだったと。ここまでの話を聞いていて思ったんですが、ユキノさんは作詞作曲もコーラスもすべてナチュラルボーンというか、誰かに教わって習得してきたわけじゃないんですね。

すべてが独学だったんです。大学へ入っても何か専門的なことを学ぶ前に川嶋あいさんの現場で歌っていたので。で、川嶋さんに関わっていたアレンジャーさんから「仮歌をやりませんか?」とお誘い頂いて、それからそのアレンジャーさんのところに通うようになって。ある日、とあるアーティストさんの楽曲コンペの仮歌を入れるときに「ラララじゃなくて、仮でいいので歌詞書けますか?」ということで、歌詞を書いて歌ったのですが、その後、曲と共にその歌詞も採用していただいたんです。それが初めての作詞採用でした。

−あ、その仮歌用の歌詞がそのまま採用されたんですね?

そうなんです! それが19歳ぐらいのとき。そこからコーラスと作詞の仕事を並行するようになっていくんです。

−それからどのような流れでシンガー・ソングライターになっていくんでしょうか?

私は曲を作り始めた時点で「絶対にシンガー・ソングライターでデビューするんだ」と決めてはいたんです。なので、その為の何かのきっかけになればと思ってコーラスや仮歌、作詞の仕事を並行していたんですけど、「私はなんでずっと仮歌のままなのだろう?」と苦悩する時期がずーっと続いていました。2003年から2010年ぐらいまで。この間に書いた曲がメジャー1stアルバムや2ndアルバムに入ったりしているので、ゆくゆくは「あの時期があってよかったな」と思えるようになるんですけど、当時は誰かの仮歌やコーラスが多くて、自分が歌いたい内容の歌詞も誰かに提供するしかなかった状況だったので、本当に苦しかったですね。自分が歌詞を書いた人はデビューしていき、自分が仮歌をしていた人の曲はヒットしていき、だから「なんで私はデビューできないんだろう?」とずっと思っていましたし、歌を始めたばかりの子たちの仮歌を担当した場合、しょうがないんですが、自分の歌のニュアンスをすべてコピーしてレコーディングするので、自分の個性も流れていってしまう感覚になりました。それもまた本当にツラくて……。

−自分を薄めて他のアーティストを華やかに彩っていく。こういう経験談は初めて聞いたかもしれないです。

なかなか異例なタイプだと思います。本当に試練の7年間でしたね。でも、その7年間がなかったら「今がない」と断言できるので、今振り返ると大事な7年間。要するにへし折られたんですね。音楽を仕事にするまでは「私は絶対にいける!」と確固たる自信があったんです。何を歌ってもみんなに褒められるし、多重録音もできるし、音楽の成績もトップだったし…、音楽だけは「敵はいない!」って感じだったから。

−でも、そこからよく試練の7年間を耐え抜きましたよね。そこまで理想と現実のギャップに苦しめられたら「もう無理だ」とリタイアしてもおかしくないわけで。

そうですよね。でも、私は「絶対に諦めない、諦めたら負けだ」みたいな根性があって、同時に「絶対に歌で成功するんだ!」という気持ちもずっとあって、それが今まで生きてきた中で消えたことはないんです。どんな形であろうと歌い続けていく。死ぬまで歌い続けていく。その確固たる決意がすべての支えになっているんです。

−それだけの苦労と想いがあって、ようやくシンガー・ソングライターとしてデビューできた当時はどんな心境だったんでしょう?

やっとシンガー・ソングライターとして、中嶋ユキノという名前で自分の作品が出せるようになって、2011年3月2日に『桜ひとひら』というシングルを配信リリースするんですけど、2011年3月11日に東日本大震災が起きるんですよね。ようやくデビューできて、その年を代表する桜ソングにしていくプロモーションも用意されていて、だけど、3.11によってすべてが失われてしまって、「やっと」という想いがすべてしおれていってしまったんですよね。2012年にその曲が入ったアルバムをリリースしたんですけど、その年にお世話になっていた事務所を辞めて独立することになるんです。

−本当に波乱万丈ですね。

ただ、そこで自分が「これだ!」と思える作品をイチから作りたいと思ったんですよね。それが2013年に作った『Starting Over』という6曲入りのミニアルバムだったんですけど、初めて弾き語りの一発録音に挑戦するべく毎日グランドピアノと必死に向き合って、レコーディングは1日で6曲分、一斉に行う形を取って。で、そのCDを1000枚売り切る直前に、浜田省吾さんと出逢ったんです。

−おぉー! ここまで「この主人公はいつ報われるんだろう? 早く報われてくれ!」と思いながらお話を聞いていましたが……。

アハハハ! 先程、試練の7年間と言いましたけど、そう考えると30歳になるまでが下積み時代ですね。

−下積み時代の長さが演歌歌手レベルじゃないですか(笑)。

たしかに(笑)。

−でも、そこでようやく運命の出逢いを果たすわけですね。

たまたま仮歌で関わっていたソニーミュージックの方が、浜田省吾さんがアルバムでフィーチャリング女性ボーカリストを探していたときに「中嶋ユキノさんというシンガーの方がいますよ」と推薦してくれたんです。なので、試練の7年間は無駄になっていないんですよ。そして「Journey of a Songwriter〜旅するソングライター」の中の「夜はこれから」にボーカル参加させていただき、そのまま浜田さんのツアーにもコーラスとして参加させて頂くことになりました。そこからが私のセカンドストーリー。ツアー中に、浜田さんが「中嶋さんはシンガー・ソングライターですよね。よかったら音源を聴かせていただけますか?」と言って下さって、『Starting Over』の音源たちを聴いていただいたんです。そしたら「とても良いですね」と褒めて下さって。さらに「シンガー・ソングライターの道を諦めるのはまだ早いと思います。よかったら、一緒にCDを作りませんか?」と仰って下さったんです。あのとき、スタジオで必死に弾けないグランドピアノと向き合って一発録音したミニアルバムがきっかけで、想像もしなかった未来に踏み出すことになったんですよね。

−映画化したほうがいいですよ、このストーリー。

アハハハ!


−これまでの人生がひとつ報われた瞬間じゃないですか。

私の中でミニアルバム『Starting Over』は、シンガー・ソングライターとして最後の作品かもしれないと思っていたんです。30歳を皮切りに私は仮歌だろうが、コーラスだろうが、もう悔しがらずに歌だけで生きていこうと決めかけていたんですね。でも、浜田さんに「諦めなくていいんじゃないですか」と言って頂いて、そして「一緒にCDを作りませんか?」と言って頂けたことで、私のシンガー・ソングライター人生はそこで終わらなかったどころか、ソニーミュージックからシンガー・ソングライターとしてメジャーデビューすることになったんです。

−しかも、浜田省吾プロデュース。

そこに関しては、最初は「浜田さんが初プロデュースするアーティストが私でいいのだろうか」と自信のなさが先走っていて。でも、このモヤモヤを抱えたままにしておくのは良くないと思って、今まで作った楽曲を自分で聴きなおして、浜田さんにも聴いて頂いたんです。そしたら「こんなにも良い楽曲がいっぱいあるんだから、絶対に大丈夫ですよ」と言って頂いて、それで7年間に作っていた楽曲をメインにメジャー1stアルバムを制作したんですよね。だから、あのアルバムは暗闇の中で眠っていた楽曲たちが日の目を見た作品でもあるんですよ。ちなみに、タイトルの『N.Y.』は私のイニシャルであり、「いつかニューヨークでライブが出来るように」という想いも込められているんです。

−ユキノさんの人生も楽曲たちも花開いたアルバムなんですね。

「ソニーミュージックからメジャーデビューしたい」と10代の頃に思い描いていたんですけど、その夢を20代を越えて30代で叶えることが出来たので、それも含めて本当に嬉しかったですね。

−そして、2021年。ユキノさんはまたひとつの夢を叶えます。今回のニューシングル『ギターケースの中の僕』がNHK「みんなのうた」に起用されました。決まったときはどんな気持ちになりました?

子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで老若男女が歌える曲を作る。これはずっと私の目標になっていて、だから「みんなのうた」を絶対に歌いたいと思っていたんです。「みんなのうた」はテレビで流れて、それがのちに合唱曲になったりすることもあるじゃないですか。私自身、小学校の合唱団に入っていて【NHK全国学校音楽コンクール】で歌ったこともあったので、そういう場で歌われる楽曲は人の心にずっと残っていくことを実感しているんですよね。なので、今回、私の『ギターケースの中の僕』がNHK「みんなのうた」に起用してもらえたことは、本当に念願だったから嬉しくて仕方ないんです!

−どんな想いやイメージを描きながら完成させた楽曲なんですか?

今回のインタビューでお話させて頂いた通り、いろんなことがあった人生なので、自分自身のことも書いてみようと思って「道」というテーマを念頭に置いたんです。それで「この道の先に 何が待っているだろう」と、夢を描いていく道の曲として制作したのが『ギターケースの中の僕』で。「みんなのうた」って子供向けに書き下ろすことが多いと思うんですけど、私の場合は自分もここからずっと歌い続けていけるような楽曲にしたかったんですよね。このインタビューを読んだ上で聴いて頂くと、すべて中嶋のロードストーリーのように感じられるかもしれませんが(笑)、2Aの「向かい風吹いて 倒れそうになったり 突然の強い雨に 打たれもするだろう 誰かの言葉で 心がすり減ったら そう 初めの一歩を 思い返してみるよ」というフレーズに私のいちばんの想いを込めていて。

−なるほど。

私は「諦めたい、諦めたい」となってしまったこともあるんですけど、結局は「歌で生きていくんだ」という想いを必ず思い出して、その度に前に進んでいくことが出来たんですよね。誰もが夢を追いかけている中できっと苦しくなることってあると思うんですけど、その夢を追いたいと思ったときの自分って超純粋だったはずなんです。その純粋な部分が何よりも大切だと思って、こういう歌詞を書かせて頂きました。

−実際、誰もが共感できる楽曲になっていると思います。

歌ってすごく不思議で、そのときの自分の感情や過去の経験とリンクした瞬間に共感が生まれるじゃないですか。なので、この『ギターケースの中の僕』を、学校やいろんな施設や、いろんな会で歌っていただきたいんです。文字通り「みんなのうた」になってほしいんですよね。

−実際に「みんなのうた」で流れた『ギターケースの中の僕』を聴いたときはどんな気持ちになりました?

本当にもう嗚咽でしたよ! むせび泣きました! 号泣ですよ、号泣! ささきえりさんが手掛けて下さったアニメーションも物凄く素敵だなと思って。嬉しくて、嬉しくて、もうずっと泣いていました。あと、この楽曲が「みんなのうた」で流れたことによって、私のことを知らない人が「息子と一緒にたまたま「みんなのうた」を観ていたら流れてきて号泣した」みたいなコメントをSNSで発信してくれたんですよね。その人は、純粋にこの楽曲を聴いて涙してくれたわけじゃないですか。ものすごく嬉しかったですね。音楽家としてこの上ない喜びです。

−それもまたユキノさんの音楽人生が報われた瞬間ですよね。

メジャーデビューしてからのこの5年も本当にいろんなことがあったんですよ。「もう自分は曲を書けないのではないか」と思ったこともあれば「もう歌えないのではないか」と思ったこともあったし、やっぱり生きていると苦しいことがたくさんあるじゃないですか。その中でも諦めなかった。夢に向かって「大丈夫だ」と自分に言い聞かせて歩き続けてきた。その日々のすべてが『ギターケースの中の僕』というかたちになっていったんだと思うと感慨深いですね。

−そんな『ギターケースの中の僕』でまたひとつ夢を叶えたわけですが、この先はどんな音楽人生を歩んで生きたいと思っていますか?

私には3つの大きい夢があって、ひとつはメジャーデビューをすること、ひとつは「みんなにうた」を歌うこと、ひとつは日本武道館に立つこと。

−そうなると、残るは日本武道館だけですね。

武道館で自分の楽曲を歌いたいんですよね。それはもう何年かかってもいいから実現したいと思っています。あと、これは夢というより私が歌っている理由でもあると思うんですけど、シンガー・ソングライターとして生きている以上は、これからも自分が作った楽曲をひとりでも多くの人と共有していきたいですね。それが武道館にも繋がっていくと思っています。

<リリース情報>



中嶋ユキノ

『ギターケースの中の僕』

発売中

購入リンク:https://nakajimayukino.lnk.to/JoH1si

=収録曲=

1. ギターケースの中の僕 (NHK「みんなのうた」2021年12月・2022年1月新曲)

2. リスタートライン

3. 時がたっても

4. ピアニシモ


Official HP:http://nakajimayukino.com/

本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。



gg3s1985 at 11:13|Permalink music | 知識

2022年01月01日

2022年にむけて井岡くんに


◆謹賀新年◆
今年もよろしくお願いします!

大晦日のボクシング試合では、(祖父どうしが)
同じ島のご近所さんだった
井岡くんが勝利しました。

私の祖父と井岡くんの祖父とは
近所で親しくさせていただいて
おりました。

浜田省吾くんのお父様や
原田真二くんのお父様と
私の父とも同じ島にはちがいないのですが
井岡さまとは本当に近所で
仲良くさせていただいて
いたようです。

皆様の今年の無事を祈念しています!

https://ameblo.jp/noth753/entry-12718822708.html


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gg3s1985 at 12:56|Permalink news 

2021年10月03日

島崎藤村の美しい詩に

子どものころに島崎藤村の詩に
曲を付けた「初恋」を舟木一夫氏が
歌っておりました。

生まれて初めて見たLIVEは
近所の体育館であった舟木一夫氏の
concertでありました。

島崎藤村と言っても当時は全く
何のことかはわかりませんでしたが
中学の国語の教科書で同じ詩を見た
ときに、如何に偉大な人かが
よくわかりました!!

島崎は明治学院大学OBとのことで
同じ大学出身のALFEEも
島崎の詩に曲をつけて歌っていました。

2009年発売の「桜の実の熟する時」です!
https://youtu.be/_CF5VNQw1m0


gg3s1985 at 14:08|PermalinkComments(0) music | 知識

2021年01月15日

「2020年の100人の女性」のうち、唯一の日本人

日本酒業界に、ビッグニュースが飛び込んできた。英国BBC放送の「今年の100人の女性(BBC's 100 Women 2020)」に、「富久長」を醸す広島の老舗酒蔵、今田酒造本店(東広島市)の4代目蔵元で杜氏の今田美穂さんが選ばれたのだ。BBCが世界の人々に感動や影響を与えた女性たちを毎年選出しているもので、香港の民主活動家や、新型コロナウイルスワクチンを開発した英オックスフォード大の教授らと共に日本人では唯一、名を連ねた。
「約2カ月ほど前、突然BBCから連絡があり、ノミネートされました、と言われたのですが、まさか最終の100人に選ばれるとは」と今田さんは喜びを隠さない。コロナ禍で大変な世の中だが、「このニュースが日本酒業界に少しでもプラスに働けばうれしい」と期待する。

今田さんは100年以上の歴史を持つ老舗酒蔵で酒蔵経営と酒造りの両方を担う。20代の頃は東京で会社勤めをしていたが27年前、広島に戻り、家業を継いだ。杜氏になったのは、さらにそれから約10年後。今でこそ女性杜氏は全国各地で活躍中だが、当時はまだ珍しかった。

強靭(きょうじん)な体力と精神力が求められる酒造りは、昔から男性蔵人の仕事とされてきた。中でもその最高責任者、杜氏は熟練職人が担うのが通例で、蔵は“女人禁制”といわれた時代すらあったほどだ。



「地域や蔵によっても違うかもしれませんが、うちは厳格な男社会という感じではありませんでした。東広島市の一番南側、安芸津町は広島杜氏の里として知られ、伝統と技を受け継ぎ、男女関係なく皆ができることをやってきました。 “女人禁制”という言葉は地元では聞いたことがありません」と今田さん。

とはいえ、今田さんが出演したドキュメンタリー映画「カンパイ!日本酒に恋した女たち」(2019年公開)では、重そうな蒸米を抱えたり、冬場に白い息を吐きながら作業したりする光景が登場。並大抵の女性ができることではないのがすぐに分かる。この映画はイタリアでの映画祭でも上映され、“極寒の季節にストイックに酒造りが行われる酒蔵で陣頭指揮をとるのが、なんと女性の杜氏!”と非常にインパクトある映像として受け止められたらしい。「今回の選出は映画の影響もあるかもしれない」と今田さんは言う。



20代の頃にいったんは家業を継がないと決め、上京したのは、母親の大変な姿を目の当たりにしてきたからだ。今田さんは5人姉弟の長女として生まれ、9人家族の中で育った。ただでさえ大家族なのに、冬場にはさらに8人くらいの蔵人が泊まり込みで、早朝から酒造り作業にいそしむ。その世話全てを任されていたのが母親だった。
「大勢の食事を1日3回毎日作るなど家事をこなし、夜は経理の仕事をして…。寝ている母の姿を見たことがなく、私にはとてもできないと思った」と今田さんは振り返る。

今でこそ泊まり込みで酒造りをするという蔵は減ってきつつあるが、今も昔も多くの女性たちが酒蔵を支えてきたのは間違いない。だからこそ今田さんは「これまで表舞台には出て来なかったそんな女性たちにもっとスポットライトが当たるといい」と切に願う。



今田酒造本店は現在、8人で切り盛りしている。そのうちの半分は女性だ。子育てが一段落した40 代女性や、英国人の蔵人、京都大出身の日本人男性や地元出身のベテラン蔵人もいる。「うちは小さな蔵だから、酒造りだけでなく、その合間をぬっていろんな仕事をやらないと回らない。だから助け合いが基本」と話す。老舗酒蔵の4代目は柔軟な思考で、“蔵人ダイバーシティ”を実現しているようだ。

「富久長」を醸す同蔵は、約20年前から米国や香港など海外約20カ国・地域へ販路を広げてきた。現在は売上の2割を海外輸出が占めている。今田さんは「肉に合う赤ワインのようなポジションの日本酒」について考えを巡らせる機会が近年、めっきり増えたという。



欧州プロモーションの際、「 “透明感のある繊細な味わい”などと吟醸酒の特徴を英語で説明すると、『日本人はいつもクリーンとかクリアとか表現するね。ちなみにコンプレックス(複雑な味わい)については、日本酒ではどういう感じで考えているの?』と聞かれることがあるんです」と今田さん。その一言が今田さんの中に深い一言としてとどまっている。

今田さんが日本酒業界に入った約30年前は、まだ酒のバリエーションが少なかった。海外で日本酒といえば温めた「hot sake」(ホット サキ)しかなかった。その後、香り豊かな吟醸酒が脚光を浴びるようになる。今田さんはその間、栽培が難しいとされていた広島ルーツの酒米「八反草(はったんそう)」を復活させ、広島伝統の軟水醸造法による吟醸造りをベースとした繊細でやわらかい酒を追求してきた。

さらに広島特産の牡蠣(カキ)に着目し、魚介類との相性を考えた「海風土」(シーフード)という銘柄名のミネラル感と酸味が強めのユニークな日本酒も開発した。独自に“ハイブリッド酒母”も開発した。広島杜氏に伝わる伝統を踏襲する一方で、造りを進化させ、革新を重ねる。

「昔より酒造りの自由度が増し、より面白くなってきた」(今田さん)。魚介に合う酒を生み出した今、今度は肉に合う酒や複雑な味わいの酒づくりにも考えを巡らせる。


それぞれの蔵には酒造りのレシピなどに関する文献がたくさん眠っている。それらをヒントに今後、酒造りを復活させたり、ヒントにしていけば、日本酒が新しいステージに進めるのでは、と今田さんは可能性を模索する。「日本酒は白ワインのようにすしとか魚介に合わせるといい」という現在の海外の単調な日本酒イメージもまた進化させていけるのではと考えている。日本酒全体の価値向上に向けて、今回の受賞をバネにより一層、酒造りに精を出す今田さんだ。


gg3s1985 at 23:07|Permalink 知識 | health

2020年12月12日

子どもたちに歌い継がれる村下孝蔵氏の楽曲

gg3s1985 at 10:06|Permalink music | 知識

2020年12月06日

■46年前の小泉氏の楽曲の歌詞にひさしぶりに感動する■

「お砂糖は一つだったね
僕が入れてあげる」

「どこから電話をかけているの
この声はずいぶん近くにいるんだね」

https://youtu.be/8ufFziUr1kM

https://youtu.be/JHR0SusMKO0

平成生まれの諸君に言わせると
お母さんがかつて子どものころにラジオで聞いていた
という程度でしょうが
昭和の時代にはラジオから流れる楽曲が
自分たちの気持ちの代弁者でした。

作詞者の小泉まさみ氏にお会いしたのは1977年4月3日でした。
当時にYAMAHAが主催していたPOPCON 中国本選会の
会場でした。

中島みゆき氏や長渕剛氏などが
このコンテストからmajor debutしていきました。

私の卒業した小学校の先輩たちが出場して
一位となって全国大会に出場したときでした。

高齢になると若い時に見たり聞いたりした
ほんの一瞬の出来事だけが鮮明に
思い出されることがあります。

今の時代であれば、コーヒーに角砂糖を入れることも
市内通話と市外通話で音量が異なることも
ありえないことかもしれません。


gg3s1985 at 04:12|Permalink music | 知識

2020年11月11日

■希望退職募集に思う■



地元である中国地方発祥の企業を応援していますが、青山商事もついに40歳以上の希望退職者を募ることになりました。

残念に思うファンからの投稿がありましたが、三密が許されないという新しい時代の来航に際して、昔はよかったと嘆く中高年が多いのも事実です。

////////////
スーツ買うときは必ず青山に決めてる。かつての大塚家具の洋服版というのか、パッとお客の体型を見て、担当の店員さんがサッと一番合いそうなスーツを数組、持ってきてくれる。

家族にはやせ体型もぽっちゃり体型もいるけど、ピシッとスタイルが決まるようにしてくれた。

スーツだけじゃなくてかばんも靴も充実していて、靴は靴音に至るまで凝っている(やる気があるように見えるビジネスマンの靴音があるのだ!)

今年は就活が遅くまでずれ込んだから、真夏用スーツのおかげで、カンカン照りの真夏になんとか元気に就活を終えることができた。

下着もワイシャツも、涼しい仕立てのものが充実してる。

急な葬儀のときも、青山に駆け込んで、小物一式全部揃って、ほんと助かった。

ついつい青山愛を語ってしまいました。これからも青山で買います。コロナに負けずに頑張って欲しいです。

///////////



gg3s1985 at 04:21|Permalink 知識 | music

2020年10月23日

最近になって気付いたCM広告

■ 最近になって気付いた広告 ■

全国の営業所を仕事で回っていると、

自分が使うPCでは、なぜか

お墓のCM
YAMAHAの青春ポップスのCM

が、どの県へ行っても出てきます。

終活アドバイザーの資格者ですから

別に気にしていませんが

若者の間で流行している物のCMは

私のbig dataでは縁遠いようです。

https://ameblo.jp/noth753/entry-12633376409.html


gg3s1985 at 16:00|PermalinkComments(0)

2020年09月12日

240万円の割引券をお譲りします!

https://ameblo.jp/noth753/entry-12624351635.html

分譲マンションをお考えの人にお譲りします。

・・・
先着順ですので、悪しからず。

物件はJR駅にも私鉄駅にも近いので、交通の便は最高です。

空港にもバスで1時間以内で

東海道山陽新幹線の駅には23分で到着します。


gg3s1985 at 11:27|PermalinkComments(0) news 

2020年08月29日

家族の一つの形

家族のことを表現した歌はいろいろありますが、みんなちがってみんないいものであります。



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2020年06月25日

村下孝蔵さんの命日に寄せて

村下さんを初めて聞いたのは1978年7月31日のRCCラジオの特別番組でした。

当時に広島市中区のPurple chateauというお店で歌われていましたが、やはりそのお店で歌われていた舟入高出身のSさんや、自費出版レコードでmandolinを担当なさっていたKさんのご紹介でお話をさせていただき、まだdebut前でしたが、stageを食い入るように私が見たものでございます。

卓越したguitarと歌唱に驚きまして、2年ほどかけて村下さんのguitarだけは完璧に真似ができるようになりましたが、guitarと一緒に歌うことは全くできないほどの秀悦な歌唱力でした。

いつも見に行っていたものですから、かなり年下の私にも村下さんにはやさしく声をかけてくださいました。

1982年以降は、彼のラジオ番組に出演させていただいたときに、私のC.F.Martin D-28を彼が弾いて、私はRCCスタジオ内のPianoを弾くという形で演奏に参加させていただいたり、村下さんの全国ツアー帯同musicianのお話をいただいたり・・・といろいろな思い出がよみがえってまいります。

本日で没後21年です。







gg3s1985 at 19:38|Permalink music | 知識

2020年03月17日

「地下鉄に乗って」を聞きながら、地下鉄のことを考える

https://ameblo.jp/noth753/entry-12582699514.html

東京のことを想像するのは

この歌から始まりました。




gg3s1985 at 04:12|Permalink music | 知識
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