2021年01月15日
「2020年の100人の女性」のうち、唯一の日本人
日本酒業界に、ビッグニュースが飛び込んできた。英国BBC放送の「今年の100人の女性(BBC's 100 Women 2020)」に、「富久長」を醸す広島の老舗酒蔵、今田酒造本店(東広島市)の4代目蔵元で杜氏の今田美穂さんが選ばれたのだ。BBCが世界の人々に感動や影響を与えた女性たちを毎年選出しているもので、香港の民主活動家や、新型コロナウイルスワクチンを開発した英オックスフォード大の教授らと共に日本人では唯一、名を連ねた。
「約2カ月ほど前、突然BBCから連絡があり、ノミネートされました、と言われたのですが、まさか最終の100人に選ばれるとは」と今田さんは喜びを隠さない。コロナ禍で大変な世の中だが、「このニュースが日本酒業界に少しでもプラスに働けばうれしい」と期待する。
今田さんは100年以上の歴史を持つ老舗酒蔵で酒蔵経営と酒造りの両方を担う。20代の頃は東京で会社勤めをしていたが27年前、広島に戻り、家業を継いだ。杜氏になったのは、さらにそれから約10年後。今でこそ女性杜氏は全国各地で活躍中だが、当時はまだ珍しかった。
強靭(きょうじん)な体力と精神力が求められる酒造りは、昔から男性蔵人の仕事とされてきた。中でもその最高責任者、杜氏は熟練職人が担うのが通例で、蔵は“女人禁制”といわれた時代すらあったほどだ。
「地域や蔵によっても違うかもしれませんが、うちは厳格な男社会という感じではありませんでした。東広島市の一番南側、安芸津町は広島杜氏の里として知られ、伝統と技を受け継ぎ、男女関係なく皆ができることをやってきました。 “女人禁制”という言葉は地元では聞いたことがありません」と今田さん。
とはいえ、今田さんが出演したドキュメンタリー映画「カンパイ!日本酒に恋した女たち」(2019年公開)では、重そうな蒸米を抱えたり、冬場に白い息を吐きながら作業したりする光景が登場。並大抵の女性ができることではないのがすぐに分かる。この映画はイタリアでの映画祭でも上映され、“極寒の季節にストイックに酒造りが行われる酒蔵で陣頭指揮をとるのが、なんと女性の杜氏!”と非常にインパクトある映像として受け止められたらしい。「今回の選出は映画の影響もあるかもしれない」と今田さんは言う。
20代の頃にいったんは家業を継がないと決め、上京したのは、母親の大変な姿を目の当たりにしてきたからだ。今田さんは5人姉弟の長女として生まれ、9人家族の中で育った。ただでさえ大家族なのに、冬場にはさらに8人くらいの蔵人が泊まり込みで、早朝から酒造り作業にいそしむ。その世話全てを任されていたのが母親だった。
「大勢の食事を1日3回毎日作るなど家事をこなし、夜は経理の仕事をして…。寝ている母の姿を見たことがなく、私にはとてもできないと思った」と今田さんは振り返る。
今でこそ泊まり込みで酒造りをするという蔵は減ってきつつあるが、今も昔も多くの女性たちが酒蔵を支えてきたのは間違いない。だからこそ今田さんは「これまで表舞台には出て来なかったそんな女性たちにもっとスポットライトが当たるといい」と切に願う。
今田酒造本店は現在、8人で切り盛りしている。そのうちの半分は女性だ。子育てが一段落した40 代女性や、英国人の蔵人、京都大出身の日本人男性や地元出身のベテラン蔵人もいる。「うちは小さな蔵だから、酒造りだけでなく、その合間をぬっていろんな仕事をやらないと回らない。だから助け合いが基本」と話す。老舗酒蔵の4代目は柔軟な思考で、“蔵人ダイバーシティ”を実現しているようだ。
「富久長」を醸す同蔵は、約20年前から米国や香港など海外約20カ国・地域へ販路を広げてきた。現在は売上の2割を海外輸出が占めている。今田さんは「肉に合う赤ワインのようなポジションの日本酒」について考えを巡らせる機会が近年、めっきり増えたという。
欧州プロモーションの際、「 “透明感のある繊細な味わい”などと吟醸酒の特徴を英語で説明すると、『日本人はいつもクリーンとかクリアとか表現するね。ちなみにコンプレックス(複雑な味わい)については、日本酒ではどういう感じで考えているの?』と聞かれることがあるんです」と今田さん。その一言が今田さんの中に深い一言としてとどまっている。
今田さんが日本酒業界に入った約30年前は、まだ酒のバリエーションが少なかった。海外で日本酒といえば温めた「hot sake」(ホット サキ)しかなかった。その後、香り豊かな吟醸酒が脚光を浴びるようになる。今田さんはその間、栽培が難しいとされていた広島ルーツの酒米「八反草(はったんそう)」を復活させ、広島伝統の軟水醸造法による吟醸造りをベースとした繊細でやわらかい酒を追求してきた。
さらに広島特産の牡蠣(カキ)に着目し、魚介類との相性を考えた「海風土」(シーフード)という銘柄名のミネラル感と酸味が強めのユニークな日本酒も開発した。独自に“ハイブリッド酒母”も開発した。広島杜氏に伝わる伝統を踏襲する一方で、造りを進化させ、革新を重ねる。
「昔より酒造りの自由度が増し、より面白くなってきた」(今田さん)。魚介に合う酒を生み出した今、今度は肉に合う酒や複雑な味わいの酒づくりにも考えを巡らせる。
それぞれの蔵には酒造りのレシピなどに関する文献がたくさん眠っている。それらをヒントに今後、酒造りを復活させたり、ヒントにしていけば、日本酒が新しいステージに進めるのでは、と今田さんは可能性を模索する。「日本酒は白ワインのようにすしとか魚介に合わせるといい」という現在の海外の単調な日本酒イメージもまた進化させていけるのではと考えている。日本酒全体の価値向上に向けて、今回の受賞をバネにより一層、酒造りに精を出す今田さんだ。
「約2カ月ほど前、突然BBCから連絡があり、ノミネートされました、と言われたのですが、まさか最終の100人に選ばれるとは」と今田さんは喜びを隠さない。コロナ禍で大変な世の中だが、「このニュースが日本酒業界に少しでもプラスに働けばうれしい」と期待する。
今田さんは100年以上の歴史を持つ老舗酒蔵で酒蔵経営と酒造りの両方を担う。20代の頃は東京で会社勤めをしていたが27年前、広島に戻り、家業を継いだ。杜氏になったのは、さらにそれから約10年後。今でこそ女性杜氏は全国各地で活躍中だが、当時はまだ珍しかった。
強靭(きょうじん)な体力と精神力が求められる酒造りは、昔から男性蔵人の仕事とされてきた。中でもその最高責任者、杜氏は熟練職人が担うのが通例で、蔵は“女人禁制”といわれた時代すらあったほどだ。
「地域や蔵によっても違うかもしれませんが、うちは厳格な男社会という感じではありませんでした。東広島市の一番南側、安芸津町は広島杜氏の里として知られ、伝統と技を受け継ぎ、男女関係なく皆ができることをやってきました。 “女人禁制”という言葉は地元では聞いたことがありません」と今田さん。
とはいえ、今田さんが出演したドキュメンタリー映画「カンパイ!日本酒に恋した女たち」(2019年公開)では、重そうな蒸米を抱えたり、冬場に白い息を吐きながら作業したりする光景が登場。並大抵の女性ができることではないのがすぐに分かる。この映画はイタリアでの映画祭でも上映され、“極寒の季節にストイックに酒造りが行われる酒蔵で陣頭指揮をとるのが、なんと女性の杜氏!”と非常にインパクトある映像として受け止められたらしい。「今回の選出は映画の影響もあるかもしれない」と今田さんは言う。
20代の頃にいったんは家業を継がないと決め、上京したのは、母親の大変な姿を目の当たりにしてきたからだ。今田さんは5人姉弟の長女として生まれ、9人家族の中で育った。ただでさえ大家族なのに、冬場にはさらに8人くらいの蔵人が泊まり込みで、早朝から酒造り作業にいそしむ。その世話全てを任されていたのが母親だった。
「大勢の食事を1日3回毎日作るなど家事をこなし、夜は経理の仕事をして…。寝ている母の姿を見たことがなく、私にはとてもできないと思った」と今田さんは振り返る。
今でこそ泊まり込みで酒造りをするという蔵は減ってきつつあるが、今も昔も多くの女性たちが酒蔵を支えてきたのは間違いない。だからこそ今田さんは「これまで表舞台には出て来なかったそんな女性たちにもっとスポットライトが当たるといい」と切に願う。
今田酒造本店は現在、8人で切り盛りしている。そのうちの半分は女性だ。子育てが一段落した40 代女性や、英国人の蔵人、京都大出身の日本人男性や地元出身のベテラン蔵人もいる。「うちは小さな蔵だから、酒造りだけでなく、その合間をぬっていろんな仕事をやらないと回らない。だから助け合いが基本」と話す。老舗酒蔵の4代目は柔軟な思考で、“蔵人ダイバーシティ”を実現しているようだ。
「富久長」を醸す同蔵は、約20年前から米国や香港など海外約20カ国・地域へ販路を広げてきた。現在は売上の2割を海外輸出が占めている。今田さんは「肉に合う赤ワインのようなポジションの日本酒」について考えを巡らせる機会が近年、めっきり増えたという。
欧州プロモーションの際、「 “透明感のある繊細な味わい”などと吟醸酒の特徴を英語で説明すると、『日本人はいつもクリーンとかクリアとか表現するね。ちなみにコンプレックス(複雑な味わい)については、日本酒ではどういう感じで考えているの?』と聞かれることがあるんです」と今田さん。その一言が今田さんの中に深い一言としてとどまっている。
今田さんが日本酒業界に入った約30年前は、まだ酒のバリエーションが少なかった。海外で日本酒といえば温めた「hot sake」(ホット サキ)しかなかった。その後、香り豊かな吟醸酒が脚光を浴びるようになる。今田さんはその間、栽培が難しいとされていた広島ルーツの酒米「八反草(はったんそう)」を復活させ、広島伝統の軟水醸造法による吟醸造りをベースとした繊細でやわらかい酒を追求してきた。
さらに広島特産の牡蠣(カキ)に着目し、魚介類との相性を考えた「海風土」(シーフード)という銘柄名のミネラル感と酸味が強めのユニークな日本酒も開発した。独自に“ハイブリッド酒母”も開発した。広島杜氏に伝わる伝統を踏襲する一方で、造りを進化させ、革新を重ねる。
「昔より酒造りの自由度が増し、より面白くなってきた」(今田さん)。魚介に合う酒を生み出した今、今度は肉に合う酒や複雑な味わいの酒づくりにも考えを巡らせる。
それぞれの蔵には酒造りのレシピなどに関する文献がたくさん眠っている。それらをヒントに今後、酒造りを復活させたり、ヒントにしていけば、日本酒が新しいステージに進めるのでは、と今田さんは可能性を模索する。「日本酒は白ワインのようにすしとか魚介に合わせるといい」という現在の海外の単調な日本酒イメージもまた進化させていけるのではと考えている。日本酒全体の価値向上に向けて、今回の受賞をバネにより一層、酒造りに精を出す今田さんだ。
2020年12月12日
子どもたちに歌い継がれる村下孝蔵氏の楽曲
今井ゆうぞう/はいだしょうこさん『こどもがいっぱいわらってる』の歌詞
コドモガイッパイワラッテル
words by ムラシタコウゾウ
music by ムラシタコウゾウ
Performed by イマイユウゾウハイダショウコ
歌い継がれる名曲です!
2020年12月06日
■46年前の小泉氏の楽曲の歌詞にひさしぶりに感動する■
「お砂糖は一つだったね
僕が入れてあげる」
「どこから電話をかけているの
この声はずいぶん近くにいるんだね」
https://youtu.be/8ufFziUr1kM
https://youtu.be/JHR0SusMKO0
平成生まれの諸君に言わせると
お母さんがかつて子どものころにラジオで聞いていた
という程度でしょうが
昭和の時代にはラジオから流れる楽曲が
自分たちの気持ちの代弁者でした。
作詞者の小泉まさみ氏にお会いしたのは1977年4月3日でした。
当時にYAMAHAが主催していたPOPCON 中国本選会の
会場でした。
中島みゆき氏や長渕剛氏などが
このコンテストからmajor debutしていきました。
私の卒業した小学校の先輩たちが出場して
一位となって全国大会に出場したときでした。
高齢になると若い時に見たり聞いたりした
ほんの一瞬の出来事だけが鮮明に
思い出されることがあります。
今の時代であれば、コーヒーに角砂糖を入れることも
市内通話と市外通話で音量が異なることも
ありえないことかもしれません。
僕が入れてあげる」
「どこから電話をかけているの
この声はずいぶん近くにいるんだね」
https://youtu.be/8ufFziUr1kM
https://youtu.be/JHR0SusMKO0
平成生まれの諸君に言わせると
お母さんがかつて子どものころにラジオで聞いていた
という程度でしょうが
昭和の時代にはラジオから流れる楽曲が
自分たちの気持ちの代弁者でした。
作詞者の小泉まさみ氏にお会いしたのは1977年4月3日でした。
当時にYAMAHAが主催していたPOPCON 中国本選会の
会場でした。
中島みゆき氏や長渕剛氏などが
このコンテストからmajor debutしていきました。
私の卒業した小学校の先輩たちが出場して
一位となって全国大会に出場したときでした。
高齢になると若い時に見たり聞いたりした
ほんの一瞬の出来事だけが鮮明に
思い出されることがあります。
今の時代であれば、コーヒーに角砂糖を入れることも
市内通話と市外通話で音量が異なることも
ありえないことかもしれません。
2020年11月11日
■希望退職募集に思う■
地元である中国地方発祥の企業を応援していますが、青山商事もついに40歳以上の希望退職者を募ることになりました。
残念に思うファンからの投稿がありましたが、三密が許されないという新しい時代の来航に際して、昔はよかったと嘆く中高年が多いのも事実です。
////////////
スーツ買うときは必ず青山に決めてる。かつての大塚家具の洋服版というのか、パッとお客の体型を見て、担当の店員さんがサッと一番合いそうなスーツを数組、持ってきてくれる。
家族にはやせ体型もぽっちゃり体型もいるけど、ピシッとスタイルが決まるようにしてくれた。
スーツだけじゃなくてかばんも靴も充実していて、靴は靴音に至るまで凝っている(やる気があるように見えるビジネスマンの靴音があるのだ!)
今年は就活が遅くまでずれ込んだから、真夏用スーツのおかげで、カンカン照りの真夏になんとか元気に就活を終えることができた。
下着もワイシャツも、涼しい仕立てのものが充実してる。
急な葬儀のときも、青山に駆け込んで、小物一式全部揃って、ほんと助かった。
ついつい青山愛を語ってしまいました。これからも青山で買います。コロナに負けずに頑張って欲しいです。
///////////
2020年10月23日
最近になって気付いたCM広告
■ 最近になって気付いた広告 ■
全国の営業所を仕事で回っていると、
自分が使うPCでは、なぜか
お墓のCM
YAMAHAの青春ポップスのCM
が、どの県へ行っても出てきます。
終活アドバイザーの資格者ですから
別に気にしていませんが
若者の間で流行している物のCMは
私のbig dataでは縁遠いようです。
https://ameblo.jp/noth753/entry-12633376409.html
全国の営業所を仕事で回っていると、
自分が使うPCでは、なぜか
お墓のCM
YAMAHAの青春ポップスのCM
が、どの県へ行っても出てきます。
終活アドバイザーの資格者ですから
別に気にしていませんが
若者の間で流行している物のCMは
私のbig dataでは縁遠いようです。
https://ameblo.jp/noth753/entry-12633376409.html
gg3s1985 at 16:00|Permalink│Comments(0)│
2020年09月12日
240万円の割引券をお譲りします!
https://ameblo.jp/noth753/entry-12624351635.html
分譲マンションをお考えの人にお譲りします。
・・・
先着順ですので、悪しからず。
物件はJR駅にも私鉄駅にも近いので、交通の便は最高です。
空港にもバスで1時間以内で
東海道山陽新幹線の駅には23分で到着します。
分譲マンションをお考えの人にお譲りします。
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先着順ですので、悪しからず。
物件はJR駅にも私鉄駅にも近いので、交通の便は最高です。
空港にもバスで1時間以内で
東海道山陽新幹線の駅には23分で到着します。
2020年08月29日
2020年06月25日
村下孝蔵さんの命日に寄せて
村下さんを初めて聞いたのは1978年7月31日のRCCラジオの特別番組でした。
当時に広島市中区のPurple chateauというお店で歌われていましたが、やはりそのお店で歌われていた舟入高出身のSさんや、自費出版レコードでmandolinを担当なさっていたKさんのご紹介でお話をさせていただき、まだdebut前でしたが、stageを食い入るように私が見たものでございます。
卓越したguitarと歌唱に驚きまして、2年ほどかけて村下さんのguitarだけは完璧に真似ができるようになりましたが、guitarと一緒に歌うことは全くできないほどの秀悦な歌唱力でした。
いつも見に行っていたものですから、かなり年下の私にも村下さんにはやさしく声をかけてくださいました。
1982年以降は、彼のラジオ番組に出演させていただいたときに、私のC.F.Martin D-28を彼が弾いて、私はRCCスタジオ内のPianoを弾くという形で演奏に参加させていただいたり、村下さんの全国ツアー帯同musicianのお話をいただいたり・・・といろいろな思い出がよみがえってまいります。
本日で没後21年です。
当時に広島市中区のPurple chateauというお店で歌われていましたが、やはりそのお店で歌われていた舟入高出身のSさんや、自費出版レコードでmandolinを担当なさっていたKさんのご紹介でお話をさせていただき、まだdebut前でしたが、stageを食い入るように私が見たものでございます。
卓越したguitarと歌唱に驚きまして、2年ほどかけて村下さんのguitarだけは完璧に真似ができるようになりましたが、guitarと一緒に歌うことは全くできないほどの秀悦な歌唱力でした。
いつも見に行っていたものですから、かなり年下の私にも村下さんにはやさしく声をかけてくださいました。
1982年以降は、彼のラジオ番組に出演させていただいたときに、私のC.F.Martin D-28を彼が弾いて、私はRCCスタジオ内のPianoを弾くという形で演奏に参加させていただいたり、村下さんの全国ツアー帯同musicianのお話をいただいたり・・・といろいろな思い出がよみがえってまいります。
本日で没後21年です。
2020年03月17日
「地下鉄に乗って」を聞きながら、地下鉄のことを考える
2020年03月09日
誰も知らなかった村下孝蔵 その15
■1981年当時の貴重な演奏■
81年以前の私は単なる
fanの一人であったのですが、
その後に1983年か84年ころに、
RCC中国放送で持たれて
いたradio番組に出演させて
いただくことがありました。
その日は別のsingerさんの
support musicianとして番組に出演
させていただいていたのですが、
studio内で盛り上がってしまって、
私が持って行ったC.F.Martin D-28
という楽器を村下さんが弾き、
私がstudio内のpianoを弾いて
debut曲の「月明かり」を
村下さんと二人で演奏したのが、
今ではたいへん貴重な経験だったと、
感謝しています。
81年以前の私は単なる
fanの一人であったのですが、
その後に1983年か84年ころに、
RCC中国放送で持たれて
いたradio番組に出演させて
いただくことがありました。
その日は別のsingerさんの
support musicianとして番組に出演
させていただいていたのですが、
studio内で盛り上がってしまって、
私が持って行ったC.F.Martin D-28
という楽器を村下さんが弾き、
私がstudio内のpianoを弾いて
debut曲の「月明かり」を
村下さんと二人で演奏したのが、
今ではたいへん貴重な経験だったと、
感謝しています。
2020年03月07日
Acoustic version で聞くと音楽性の高さがよくわかる Pretender
「中国地方の大学を出て
20代で金融機関に勤務しながら
4人で活動する」
ここまでは私たちと全く
同じですが
音楽性は
雲泥の差です!
https://ameblo.jp/noth753/entry-12580359260.html
20代で金融機関に勤務しながら
4人で活動する」
ここまでは私たちと全く
同じですが
音楽性は
雲泥の差です!
https://ameblo.jp/noth753/entry-12580359260.html
2020年03月05日
「恋と革命の味」について先輩から聞きました
2020年03月02日
★私のフォークソング史 その3★
★私のフォークソング史 その3★
吉田拓郎さんらとコロムビアの
フォークソングフェスティバルに
1966年に出演された当時の的場先輩は、
https://ameblo.jp/noth753/entry-12577823587.html
広島大学フォークソング同好会初代会長
だったそうですが、世間に推されて
広島フォーク連盟の会長にも就任され
広島楽器センターのところで
ギター教室も運営されていたそうです。
私も食事に注意して
健康的に活躍したいですね!
http://urx.space/UuKz
吉田拓郎さんらとコロムビアの
フォークソングフェスティバルに
1966年に出演された当時の的場先輩は、
https://ameblo.jp/noth753/entry-12577823587.html
広島大学フォークソング同好会初代会長
だったそうですが、世間に推されて
広島フォーク連盟の会長にも就任され
広島楽器センターのところで
ギター教室も運営されていたそうです。
私も食事に注意して
健康的に活躍したいですね!
http://urx.space/UuKz