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2019年03月

「新しい世界史とグローバルヒストリー」について

「新しい世界史とグローバルヒストリー」について
水谷潤太郎

私は、東大の同窓会である「東京銀杏会」の幹事を務めており、この会の事業である「銀杏講演会」や「トップフォーラム」などのモデレートを担当しています。本年2019年2月20日(水)に学士会館で開催された第33回銀杏講演会では、羽田正〜東京大学理事・副学長・東洋文化研究所教授に講師をお願いし、約1時間にわたり、新しい世界史とグローバルヒストリーについてお話頂きました。
私が羽田氏に講演をお願いするきっかけとなったのは、氏の「グローバル化と世界史」(東京大学出版会発行、2018年3月26日初版)という本を読んで、これは会員にとっても興味深いものだと感じたからです。予想通り、多くの方に参加頂き、盛会となりました。
今回、皆さまにも以下にその概要を紹介し、この分野の知識の普及をはかりたいと思いました。

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日本の歴史を世界史の文脈で考える
羽田 正
1.新しい世界史とグローバルヒストリー
 私は、2011年に岩波新書で「新しい世界史へ」という本を書きました。その頃から、世界史を新しく考え直さないといけないということを、主張し続けてきております。「グローバル化と世界史」という本は、その続きのようなスタイルのもので、2018年、昨年に出版させていただきました。世界史というものを新しく考え直していくべきだというのが私の主張で、そのためには、グローバルヒストリーという考え方・方法を使わないといけないのではないかというのが、前半でお話ししたいことです。

図1

 図-1が、現在の日本における一般的な世界史理解ではないかと、私が考えているものであります。これはあくまでも模式図ですから、すべてを網羅しているわけではないのですが、基本的に世界を幾つかの地域・空間に分けまして、過去から現在に至る時間軸に沿って、それぞれの各地域がそれぞれの歴史を持っているというふうに考えるというのが、一般的な世界史の考え方ではないかなと思っています。
 もちろん図-1には、例えば、内陸アジアや中央アジアの辺りのことは書けていませんし、それからオセアニアというのもあり得ると思います。地域の分け方も、必ずこのように分けないといけないというわけではないと思いますが、いずれにしても、世界を幾つかの地域に区分し、そしてそれが、近現代になっていきますと、地域というよりは国になっていき、国の歴史として、時間軸に沿って現在に至るとされていく。その中で、日本だけは、昔からずっと日本というのがあるわけです。そういうふうにして、記されているということです。
 それから図-1には、縦の、地域を貫くような、地域をつなぐような矢印を記しています。16〜17世紀ぐらいに、ヨーロッパの色(紫)が世界のその他の地域に進出していきまして、その影響をあちらこちらに及ぼすようになっていきました。さらに19世紀になりますと、西ヨーロッパの部分及び北アメリカの部分が、西洋という一つのコンセプトをつくりまして、それが世界全体に大きな影響を及ぼしているというふうに、捉えられるのではないかと考えています。
日本における現行世界史の「暗黙知」
 これをもう少し文章にしてみますと、暗黙知という言い方をしているのです。始めから、これはもう当たり前であり、そんなことは証明する必要もないし、わざわざと取り上げるわけでもなく、常識として始めから決まっていることで、その上で皆はものを考えているというふうに思われるものを、「暗黙知」というわけです。その暗黙知として、以下の三つのことが挙げられるのではないかと考えています。
(1)世界は異なった複数の部分からなっている。それぞれ違う特徴を持った地域がいっぱいある。しかも、それぞれが異なった歴史を持っている。過去から現在に向けて、例えば、ヨーロッパはヨーロッパの歴史を持っているし、インドはインドの歴史を持っている。こう考えるのです。
(2)それから、その異なった複数の部分、図-1の横のバーがたくさんあるわけですが、そのうち、ヨーロッパと言われるところが他の地域よりも優位にあって、実質的に世界史というものを動かしてきたと考える、ということです。
(3)世界史というのは、それぞれの地域、あるいはそれぞれの国の、横の、時間軸に沿った歴史を一つに束ねて、ひもで括ったようなものである、そういうふうに考えられていると思われます。世界史とは、異なった幾つかの文明世界ないし国家の、時系列に沿った歴史の束であると、言われるということです。
 ですから、私が「歴史をやっています」と言うと、「歴史ですか。それはどこの歴史ですか」と、間違いなく聞かれるのです。「世界史です」。「世界史、どこですか」と。「いやいや、世界史なのですが」。「世界史というのはないでしょう。どこの国ですか」と必ず聞かれます。必ず、この中のどこか、この部分をやっていると、言わないといけないわけです。あるいはこの部分を私は専門にしていると・・・。南アジアの中世とか、15世紀ぐらいの南アジアとか、この地域の政治のことをやっていますとか、あるいは文化のことをやっていますとか言わないと、なかなか皆さんに納得してもらえない。世界史をやっているなどというのは、ほとんど詐欺師ではないかと、呼ばれるような状況であります。
しかし、私は今、世界史を専門にしているというふうに言って、ショックを与えつつ、世界史というのはいろいろと問題があるのですよということを、お話ししようとしているわけです。
現行世界史への違和感
 どういうところに問題があるかといいますと、先ほど申し上げた世界史の暗黙知、当たり前だと思われていることは、ヨーロッパの人が自分たちを中心にして世界を見た、そういう見方なのではないかという点です。それから、20世紀半ばごろの世界の実情に対応している見方なのではないかと思われる点です。20世紀半ばごろの世界は、ちょうど第二次世界大戦が終わりまして、国連ができ、アジア・アフリカ諸国が独立をして、1960年代ぐらいになりますと、地球上の陸地のほとんどの部分が、いわゆる国民国家・主権国家というものによって覆われていきました。しかも、きちんと国境で仕切られた小さい空間がずっと連なるという、そういう形になりました。これは、図-1の世界史の模式図に、わりと対応しているのではないかと思うわけです。
 そういう歴史を学ぶとどういうことが起こるかというと、国、あるいは地域を単位として、自分と他を区別して歴史を解釈しようとする傾向が生まれるのではないでしょうか。ヨーロッパの人がヨーロッパ中心になっていると、自とはあくまでもヨーロッパであって、ほかの地域、ほかの空間に住んでいる人たちは他になるわけです。ヨーロッパと非ヨーロッパに分けて、世界の歴史を捉えようとする。同じようなことは日本についても言えまして、日本の人は日本だけを考える。私たちは日本、それ以外は別というふうに考えて、自と他をはっきり区分して、歴史を解釈しようとするのではないかと思われるわけです。
 こういうふうにすると、何が起こるかというと、ある国とか地域に帰属意識を持つことになります。つまり、「これが私たちの歴史だよね。でも、こっちは彼らの歴史だよね」というふうに捉えることになります。自と他を分けるような過去の理解をしますと、これが私たちの歴史だと考える人たちは、皆私たちという意識を強く持つようになって、ある国とか地域に帰属意識を強く持つようになります。これは歴史の持っている、非常に重要な人間に対する効用というか、良いところだと思っています。「これが私たちの歴史です」と言った途端に、皆がパッと一つにまとまるということです。
 世界全体の中でここだけが私たちで、それ以外は違うという、こう捉えながら自と他を区別すると、例えば日本だったら日本の世界史の見方があるし、中国だったら中国の世界史の見方があるということになります。皆それぞれ違った世界史を見ているのではないかというふうに、思われるわけです。そういう理解の仕方があってはいけないということは全くないと思いますが、今現在、一番意味がある過去の見方と言えるだろうかというふうに思うわけです。20世紀の半ば過ぎぐらい、それぞれが皆自分たちの国をつくった時には、それでいいと思ったかもしれないのですが、今になってみると、実はちょっと問題があるのではないかと思うわけです。
新しい世界史の必要性
 自分と他人というか、自国と他国を峻別する、しっかりと分ける、そういう世界観だけに基づく判断と行動というのは、将来の地球と人類社会を見通した際に、必ずしも有効ではないのではないでしょうか。これは、トランプ政権とか、そういうのをすぐに思い付かれると思いますが、実はこの議論自体は、トランプ政権が生まれるよりずっと前に、私自身がすでに2011年に、「新しい世界史へ」という本で述べております。その頃はまさかトランプという人が出てくるとは思っていなかったのですが。でもその頃には、グローバリゼーションというのは、ずっとそのまま直線的に進んでいくのではないか、どんどん世界が一体化していくのではないか、というふうな見通しがあったので、そこでは当然、自と他をいつまでも分けていては駄目ではないか、皆私たちと考えるべきではないかというふうに、思っていたわけです。しかし、その後はまた情勢が変わっていますので、必ずしも一直線にいっているわけではないと思います。私たちが大事で、他は違うということだけを、自分の行動の一番重要な部分としているのは、将来の地球と人類社会のためには、あまり有効ではないのではないかと思うわけです。
 今や地球というものは、一つの自分が住んでいる場所であって、これは日本人であっても、アメリカの人であっても、あるいはアフリカの人であっても、皆同じだということです。この地球というものが今やさまざまな意味で危機にあるわけですから、地球の住民として、この危機にどういうふうに向かい合っていくかという意識を持つ必要があるわけです。そうすると、自分と他人を分けるのではなくて、皆「地球の住民」だという意識で過去を見る必要があるのではないでしょうか。私たちは皆地球の住民だという、そういう意識が生まれたときに、皆がわりと協力して、物事が先へ進むのではないかというふうに考えるわけです。歴史の効用という点からいくと、そういうこともあり得るのではないかなというふうに考えます。そうすると、今までの世界史はそうではなく、区切られた世界史だから、それをもう少し、私たち皆の世界史というふうにできないものかと思ったわけです。この辺は、2011年から2014〜2015年ごろまでに、よく考えていたことです。
世界史とグローバルヒストリー
 そのために、もう一度ここで復習なのですが、そもそも世界史とは何かということです。世界史というのは、日本人を含む、世界全体の人類の過去について、それを過去から現在まで体系的に説明する、そういうものだと定義します。新しい世界史というのは、その世界史を新しくするわけです。先程申し上げたような、国別とか地域別の時間に沿った歴史を束ねると世界史になる、という考え方の刷新を目指すものです。どうやったら刷新できるのかということですが、グローバルヒストリーという方法を使うとできると考えます。新しい世界史を実現するための歴史研究の方法をグローバルヒストリーと呼ぶ、というふうに私は決めております。本当はいろいろな細かい、難しい議論があるのですが、それは全部省略しています。そんなふうに定義しているわけです。
新しい世界史の三つのポイント
 新しい世界史というのはどういうものかというと、1.まずそれは「地球の住民」という、アイデンティティーの形成に資するものです。皆、同じ地球に共に住む住民だという意識を生み出せるような歴史の叙述、あるいは歴史の理解ということです。2.それから、自分たちが中心で他は別であるという、ヨーロッパ中心とか、日本中心とか、中国中心とか、いろいろ中心史観はありますが、そういうものを脱することです。3.自と他を分けないわけですから、分かれていることは事実だが、完全にはっきりと断絶するわけではないので、複数の人間集団とか地域間において、関係性とかつながりというものがあるのだということを、発見することです。これが新しい世界史の3つのポイントではないかというふうに思っております。
新しい世界史へ向けての三つの方法
 (1)そういう世界史を実現しようと思ったら、どんな方法があるかというと、まず世界全体をパッと見ることです。つまり、一部だけだと、これが私たちの地域で、ほかは違うというふうになるわけです。世界全体の、ある時期の過去を見直して、見取り図を描いてみるということです。
(2)それから、AだからBになった、BだからCになったという、時系列的に順番に、時間に沿ってすべてを説明しようとする、時系列史の説明の仕方にこだわらないことです。これは難しいことで、歴史学者にとっては自殺行為なのです。過去を説明するときに、時間に沿って説明するのが歴史学者なので、これをやめると、「これはおかしい」と言われます。歴史の先生方はすごく反論されるのですが、ある種の歴史社会学のようなものをやればいいのではないかと、私は思っています。過去のある時期の世界、あるいは社会を、いわば見取り図的に描くということです。特徴を浮き彫りにするというのが、社会学の手法ではないかなと思います。歴史社会学というものをやろうとしているのだと思っています。
(3)さっき申し上げたような、人間集団の横のつながりは、ない場合もあるわけです。つながりがないということも重要なのですが、つながりがある場合には、それを意識するということをやっていこうと思っているわけです。
 ここまでが前半部分でありまして、このような形で、いわば新しい世界史をつくり出すことをやっていかないといけないと思っていますが、当然ですが、これはそんなに簡単なことではないわけです。今までの過去の見方を見直さないといけませんし、何よりも、横にいろいろな地域を横断しようとすると、それぞれの時代それぞれの地域で、古い時代に書かれた文献とかが残っていますが、それは全て違う言葉で書かれているわけですから、その違う言葉で書かれているものを全て読まないと、横につながることはできないのです。これがやはり一番難関なのです。しかし、やるしかないし、一人でできない場合には、共同で一緒にやるしか仕方がないのではないかというふうに思っています。このような新しい世界史をつくり出すための方法として、グローバルヒストリーというものを用いて、16世紀後半から17世紀前半の日本と世界をどのように考えたらいいのかというのが、今日の後半の本題であります。

2.16世紀後半〜17世紀前半の日本と世界
図2

 図-2は、1600年ごろの世界にどういう政治勢力があったか示したものです。世界といってもユーラシア大陸の大部分だけで、アフリカとか、あるいは南北アメリカ、オーストラリアは全然入っておりませんが。日本は右端にあります。隣に明という、当時の中国の王朝があり、その間に朝鮮があるわけです。東南アジアには、安南という、今のベトナムに当たるところがあり、アユタヤには王朝がありますが、それ以外のところはそれほどはっきりとした王朝はないわけです。それからムガル帝国があり、これはインドの非常に重要な、大きな政治勢力です。サファヴィー朝というイランを中心にした王朝もあり、これも重要な政治勢力です。オスマン帝国はよく知られていますが、地中海の東部のほうを拠点として、非常に広い範囲を統治下に置いていた大帝国です。1600年ごろには、現在のロシアの前身であるモスクワ大公国はモスクワ周辺とその辺りだけで、現在のロシアのように東のほうまでは来ていないという状況です。明の北のほうにはモンゴル人がいます。ちょっとウズベクと書いてありますが、この辺にも人間集団としてウズベクがいて、それなりに彼らの社会を形づくっていました。西洋のほうにいきますと、この辺りにフランス、イギリス、スペインといったような国々がありますが、イタリアという国はありませんし、ドイツという国もなく、神聖ローマ帝国というものがあります。
注意していただきたいのは、色が塗ってない部分です。例えばアフリカとか東南アジア、さらにもっと南のほうのオセアニアとか、それから南北アメリカも、そういう辺りは人がいなかったのかというと、そんなことはないわけです。人はちゃんと住んでいるわけですが、例えば明朝のように、はっきりした皇帝がいて、その下に政治をやる人がたくさんおり、税金を取って国を運営するといったような、国のシステムというものは必ずしもないわけです。ただ、人々が住んでいるだけであって、はっきりと何とか朝とか、何とか帝国といったような政治権力がはっきりしたものがない。ぱらぱらっと人が住んでいて、家族単位とか、あるいはせいぜい集団単位で生活をしているところがたくさんあるわけです。ここでは名前があげられていないので、あたかも人がいない、あるいは政治権力がないように見えますが、それは違った形で人間が生活していたからだということです。それをぜひご理解いただきたいと思うのです。
 やはり今までの歴史は、教科書もそうですが、どうしても、しっかりした政治権力があるところの記述です。政治権力があると、そこで記録が生まれて、それが残りますから、過去についていろいろ調べることができます。そういう記録があるところだけを取り上げて、世界の歴史と言っていたと思うのですが、人間の多くはそういう記録の無いところに住んでいました。しかも、必ずしも政治権力がすべての地域にあったというわけではないということを、もう一度しっかりと認識していただけるとありがたいと思います。
前提
 それに加えて、さらにその前提なのですが、これも重要なことだと思っています。図-2の世界では、日本には人口が2,000万ぐらいいました。つまり、江戸幕府が始まる頃の日本列島の徳川政権の一体感があった地域は、大体2,000万人ぐらいの人口でした。明朝はものすごく大きくて、当時でも3億人ほどいましたし、ムガル帝国も1億5,000万人ぐらいおり、もう全然問題にならないぐらい大きいのだが、それ以外に、そんなに大きな帝国は世界中になく、恐らく日本の人口というのは、当時の世界では3番ぐらいです。非常に大きな国であるということです。
 われわれは、往々にして、日本というのは小さい極東の島国で、小さな国だというふうな意識を持つわけです。横に大きいのがあり過ぎて、それが大きいために日本が小さく見えますが、実は、世界的に見たら、そんなに小さい国ではないのです。今でも日本の人口1億2,000万とか3,000万というのは、世界で10位ぐらいです。世界に国が200ぐらいある中で、トップ10ぐらいに入っているわけだから、面積は大きくないかもしれませんが、人口的には相当大きな国だということを、やはり意識しないといけない。
 オスマン帝国の領土が一番広くなった時期に、人口2,000万から2,200万ぐらいだと言われています。オスマン帝国はものすごく大きな国のように思っていますが、そことあまり変わらない人口が日本列島にはいたということです。これはやはり、この日本列島というところはすごく住みやすいところなのだと思います。ですから、そういうこともあって、人口が多いのだと思います。この点はまず一つ、注目しないといけないことです。
 それと並んで倭寇というのがありました。倭寇というのは、大体14世紀とか、それから16世紀ぐらいに、非常に活発に活動する人々です。一般的には、これは東シナ海や中国の沿岸、あるいは朝鮮半島の沿岸に、船で押し寄せて略奪を働く、ならず者の集団というふうに考えられています。名前が倭というところからも分かるように、これは日本の連中だという意見が、特に韓国では強いのです。
 確かに1400年代ぐらいの倭寇は、日本から来た人たちが多かったようなのですが、16世紀の時期、今からお話しする時代の倭寇というのは、東シナ海の周辺に住んでいる人たちが皆一つの集団になっていて、日本人だとか、中国人だとか、そういう意識ではないわけです。まとまって、海の民ぐらいのつもりになっていて、一緒に協力しながら、あちこちを略奪して歩いている。そういうものであって、そこには実は、後でお話ししますが、ポルトガル人なども入っていて、とにかく完全にインターナショナルな集団になっている。そういうことからも分かるように、1600年代当時の東アジアにおいては、明朝とか、朝鮮とか、日本とかがあって、その政治権力者はいますし、政府もあるのだが、一般の人々はその政府と一体化していない。
 今、日本だと日本の政府が必ずあって、私たちは日本人だと思っています。日本の政府は私たちが選んでいるのだから、私たちと政府は一体化しているというふうに思うわけです。これは国民国家です。でもこの頃は、政治をやっている人とか、戦争をやっている人たちは、勝手にやっているわけで、普通に生活している商人とか、農民とか、そういった人たちとの間に一体感がはっきりとあるわけではない。従って、九州の海に近いところに生活している人などは、朝鮮半島の人とか、あるいは中国の山東半島の人たちなどと一緒に生活をしていて、一緒にさまざまな活動をしており、しかし、それはどこの権力者に従っているというものでもないような、かなりあいまいな状況があったということです。
 実は、これは東アジアの話だけではなく、また東部ユーラシアの話だけでもなくて、世界中のどこでもそうなのです。これは釈迦に説法だと思いますが、現在の私たちのような国民国家の制度ができてくるのは、この200年ぐらいのことでありますから、それより前は、政治は勝手にやっているし、兵隊も勝手に雇われてどこかで戦争をしているわけで、普通の農民だとか商人だとかは、それとは関係なく生活しているわけです。税金だけは誰かに納めるわけだが、それが誰であっても、その君主と自分たちが一体だとは思わない。君主が変わったら、それはまた別の人に納めるだけだという状況であったということです。これが前提になります。
日本史の文脈
 では日本史では、この時代、つまり、1550年から1650年ごろはどんなふうに説明されているのでしょうか。これは、言うまでもなく、戦国時代がありまして、その後、信長・秀吉が出てきて、天下統一というのが行われたとされています。天下を自分は治めるのだと、そういう意識でもって、有力大名が都へ上ろうとするようなことが起こってくる時期です。さらに秀吉が、一応、天下を統一しますと、その後、朝鮮に侵攻するということになります。同時に、1540年代ぐらいからポルトガル人がやってきました。商人のポルトガル人だけではなく、ザビエルから始まるイエズス会の宣教師たちも日本にやってくるという状況が起こります。また秀吉が亡くなった後、関ヶ原の合戦があって、その後、徳川の政権が確立しました。1550から1650年の後半に江戸幕府が成立すると、その江戸幕府は鎖国と呼ばれる政策を採ったと言われています。ちょうど江戸です。幕府ができる頃から、近世と呼ばれる時代に日本はなっていきます。それより前、特に戦国時代までを中世と呼び、この時期は、ちょうど中世から近世へ、いわば時代が移り変わる時期だというのが、一般に日本史で言われていること
 しかし、私が読む限り、そういうふうに移り変わっていくことは書かれているのですが、どうしてそういう変化が起こったのかということは、あまりはっきりと記されていないように思います。つまり、これより前の室町時代は、戦国大名が皆で戦争をして、お互いに領地を取り合ったりしていた時期なのだが、それがどうしてこのように、急に天下統一という話になっていったのか。しかも、それが実現して、徳川政権ができ上がっていくというようなことが、なぜ起きたのか、その変化の理由というのがあまり書かれていないように思われるのです。しかし、いずれにしても、それが日本史です。
世界史の同時代
 同じ時期の世界史ですが、ヨーロッパでは当時、宗教改革というのをやっていました。1517年から1521年ごろにルターの宗教改革が始まり、1500年代の後半になってくると、新教徒とカトリックの間で、宗派争いが非常に激しくなってきました。その結果として、イエズス会というのが生まれました。イエズス会が生まれて、外に出ていくということが起こりました。そういう宗教改革、非常に厳しい宗教的な対立、があった時代です。
 同時に、1500年代に、スペイン、ポルトガルが海外へ出ていきました。1500年代の半ばから少し後ぐらいの時期には、スペインは新大陸のほうに拠点を持ちました。ポルトガルは逆に、アジアのほうに出掛けていきました。アルマダ海戦というのは、そのスペインの海上覇権をイングランドの艦隊が打ち破ったという、1588年の戦いです。しかし、そうはいっても、イングランドの力というのはまだそんなに強くない。当時のイングランドというのは、人口500万人ぐらいですから、日本の4分の1程度しかないわけです。フランスが千数百万ですから、フランスと比べても相当小さい国だったと思われます。1600年ごろになると東インド会社というものがつくられて、スペイン、ポルトガルに続いて、オランダとイギリスが特にアジアのほうに出ていきました。フランスでは、アンリ4世という人が宗教対立を治める形で、ブルボン朝ができました。その後、ルイ14世の時代が1640年代から始まります。ルイ13世の時代が大体1600年代の前半ということになります。
 南北アメリカは、植民地化が進みました。これは、イエズス会のキリスト教の布教と同時です。現地の人たちにキリスト教を布教しながら、しかし、同時に植民地化が進んでいく。またポトシとか、さまざまな銀山が発見され、その結果、多くの人たちが銀山に、スペインから出掛けていきました。現地の人々をこき使って銀を採掘し、それでも足らないから、今度はアフリカから人を連れてくるというふうになっていきました。
 西・南アジアは、ムスリムの強大な政権が力を持つようになっていきました。それから実はこれはあまり強調されませんが、この時期に世界で一番経済的に繁栄していたのは東南アジアだと考えられています。東南アジアでは、1600年ごろというのは商業の時代と呼ばれています。さまざまな人たちがここに来ました。中国からも来るし、日本からも来るし、それからインドだとか、西アジアからも来るし、さらにヨーロッパからも人がやってきて、東南アジアの産品をどんどん買っていきました。具体的には、東南アジアの産品の中で重要だったのはもちろん香辛料ですが、それ以外にも、例えば染めるための染料とか、それから砂糖などももちろんありますし、さらに動物の皮ですね、シカとかサメとか、そういったものの皮を売りました。東南アジアの産品というのは非常にたくさん重要なものがあって、皆そこに来て、いろいろなものと交換して、持ち帰りました。そういう意味で、東南アジアの経済がすごく活性化した時代です。
 それから東アジアでは、倭寇は豊臣秀吉の時代に終わります。それから明朝は、1644年に、ここでお話ししている時期の最後のころに滅びて、清朝の時代が始まりました。さっきも申しあげたように、日本史の文脈では、いわゆる安土桃山時代から江戸時代になる時期です。それ以外に、サハラ以南のアフリカ、オセアニア、シベリアなどの地域にも人々は住んでいて、何々朝といったようなはっきりした大きな政権はつくっていませんが、それぞれの暮らしを行っていました。これが当時の世界史の状況だと思われます。
信長・秀吉の「天下」統一
 ここから、日本史の常識を疑うというか、常識を考え直してみるための材料を幾つか出してみますので、一緒に考えていただければと思います。
 まず天下統一と言っているのですが、この「天下」とは何なのかということです。当然、私たちは日本だと思うわけですが、その時の「日本」とはどこなのでしょうか。北海道はたぶん入っていません。東北地方というのは、どこまで日本というふうに考えられていたのでしょうか。それからもちろん沖縄も全然違う世界だと思われます。そもそも今と違って、当時はそんなにはっきりと、くっきりと、ここからここまでが日本ですよ、というふうに決まっていたわけではないのです。当時の人たちの意識でもそうだったでしょう。それともう一つ、天下というのはもともと中国語で、天というのはまさに中国の皇帝などを指名する、いわば世界の原理を決めるものです。天下というのは、本来、中国の考え方なわけです。そうすると、天下統一といったときに、日本だけで統一して、それで果たして天下統一といえるのか・・・。中国の、元のオリジナルな考え方からすると、天というのは、天が誰か皇帝を指名して、その皇帝が世界全体を統治するということで言うわけですから、中国大陸も含んだというか、中国大陸が基になった天下だったはずです。天下統一と私たちは言っていますが、本当に当時、そういうふうに日本列島を統一するというのが天下統一だったのかということを、疑ってみる必要があるのではないかと思っています。
 そう考えると、秀吉が朝鮮に侵攻するというのは、現在の考え方からすると、異民族の国に攻めていったということで、対外侵略戦争だったと、韓国の人はすごく怒るわけです。日韓関係の一番大きな問題は、まず秀吉から始まるわけです。必ず、秀吉は何をやっているのだという話になります。韓国では秀吉というのは大悪人ですから、そういうふうに言われているわけだが、本当にこれは対外侵略戦争だったのか?つまり、もし天下というものが、中国も含むような大きな世界全体だと考えた場合に、ここまでが日本だから、そこから外の世界に攻めていくのだという意識で行ったのだろうかというふうに、思わないわけではない。朝鮮は果たして天下の外だったのかどうかということですね。
 また、これは一つ、非常に重要な疑問点だと私は思っているのですが、安土桃山時代の文化、特に襖絵とか、それから屏風とかもありますが、あれは金ピカですね。あれは、われわれが知っている、侘びさびの日本の伝統文化とまるで違う世界で、あの時代だけバーンと、あのようなきらびやかな、派手で、場合によってはちょっとどぎついような文化が、どうしてあの時に生まれているのでしょうか。何故なのかと思うわけですが、当然、石見銀山の問題とか、海外交易を考慮しないと、話が分からないのではないかと思っています。
 このように、まず外の世界を考えに入れないと分からないことが結構あるわけです。それから外の世界のことも一緒に考えて、始めて日本の中のことが理解できるかもしれないということがあるわけです。念のために、もう少し言っておきますと、石見銀山というのは、オランダの東インド会社とか、あるいは中国の人たちが、そこから出た銀を交換で入手していました。交換で持っていくということは、当然、何かを持って入ってきているわけです。その量というのは、はっきりと数字で簡単には表せませんが、ものすごく大きな額だっただろうということは容易に想像ができます。この銀を求めて、さまざまな人が世界中からやってくるわけですから、入ってきたものもいっぱいあり、前の時代に比べると、圧倒的に経済規模が膨らんだはずなのです。経済の規模がまるで違ってきていたのではないでしょうか。そういうことが、あの時代に特有の文化、派手な金色をいっぱい使ったような文化の原因になっているのではないかと思うわけです。
 そういったことについて、平川さんという方の本はなかなか面白い。「戦国日本と大航海時代」という本ですが、去年に出た本で、私もこれを「日経新聞」で書評をさせていただきました。平川さんがおっしゃっていることの一つは、日本は大国であったということです。平川さんの言い方では、秀吉は朝鮮だけではなくて中国を取ろうとしていたということです。イエズス会とかスペインが中国を征服するのに対抗して、自分こそが中国を取るのだとしていたというような話をされているのです。お書きになっているのは、もっと面白いですから、ぜひお読みになっていただければと思います。
 それから、私自身も「東インド会社とアジアの海」というのを書いています。これはもともと2007年に出たのですが、10年後に文庫本になりました。これを読んでいただくと、さっきの倭寇の話とか、石見銀山の話とか、全て書いておりますので、参考になると思います。
ポルトガル人とは誰のことか?
次にポルトガル人がやってきたという話ですが、往々にして私たちは、ポルトガルからポルトガル人がやってきたと思うわけです。しかし実は、われわれがポルトガル人といっている人たちの素性というか、オリジンは様々でありまして、少なくとも言えることは、当時のポルトガルにおいて、こんなアジアの果てまで来ようと思う人たちは、まともな人ではなかったということです。例えば、犯罪者とか、その世界で生きていけなくなった人とか、一獲千金を試みる人とか・・・。とにかく、普通にそこで生活する人たちは別に外へ行こうとは思わないわけだから、しかもアジアの端まで行こうというふうな人たちは、相当変わった人たちだということです。
 その中で注目すべきは、ユダヤ教徒の件なのです。1492年に最後のイスラム教徒の王国がグラナダというところから追放されて、カトリックがイベリア半島の全部を再統一するわけです。その時に、あんまり注目されていませんが、カトリックは、ムスリムは駄目だがユダヤ教徒はいいとは言わなかった。ユダヤ教徒も駄目なのです。要するにカトリック以外は全部認めないわけです。当時のイベリア半島に多数いたユダヤ教徒は、イスラム教徒と同じようにどんどん追放され、あるいは自分たちで逃げました。多くはオスマン帝国の領土に行ったり、モロッコに行ったりしたのですが、ポルトガルから追放されたユダヤ教徒のかなりの数の人たちが東アジアまでやってきて、マカオに住むわけです。
 マカオにいたポルトガル人の、かなりの数がユダヤ教徒です。カトリックではないわけです。それから当然、彼らはポルトガル本国との関係が希薄、あるいは無いわけですから、どんどん地元化していくわけです。現地の中国の女性と結婚する人が出てきて、混血していきます。もともとポルトガルの人であったはずですが、2代、3代とたつうちに、ポルトガル語はしゃべっていても、外見は、われわれが今知っているような、白人的ポルトガル人とは違うような人たちがたくさん出てきます。
 そういう人たちは、決してポルトガルのために何かをやっているわけではないのです。自分自身の生活のため、自分が利益を得るために、マカオに住んで、マカオと長崎の間を行ったり来たりしているわけです。ほとんどポルトガル本国とは何も関係がなくなっているわけです。これはポルトガルのアジア支配と言われているものの実態で、決してポルトガル本国が全部を束ねて、ポルトガル国王の言いなりで、皆が動いていたというものではないわけです。ポルトガルという国に貢献するポルトガル国民ではないということです。これもぜひ理解していただきたい。このことについては、岡さんという東大の史料編纂所の先生が、とてもいい本を書いています。「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」という本です。それから私自身も、「海から見た歴史」という本の中で、こういう問題について、仲間と一緒に論じています。
 しかも、ポルトガル人は単にポルトガル生まれの人とかいうのではなくて、ユダヤ教徒でない場合はキリスト教徒ですから、彼らはイエズス会が連れてくるということです。ユダヤ教徒であっても、見掛け上、表立ってはキリスト教徒化しているので、多くの船にはイエズス会の人が乗ってくるという状況なのだということです。だから、そのようなポルトガル人がやってきているというふうに考えないといけない。日本に、ポルトガルという国からポルトガル人がやってきたという、私たちが考えるようなものではないのだということであります。
イエズス会とキリスト教は進んだ「ヨーロッパ」を運んできたのか?
 これも、日本で一般的に皆が考えていることとは違う話なので、是非、お話したいと思っているわけです。十数年前に私は天草に行きました。天草に行きますと、天草四郎の記念館というか、ミュージアムみたいなのがありまして、そこに入ったら、まず座って動画を見ることになるのです。動画を見ると、最初に真っ暗な宇宙が映って、そこに星がキラリンと輝いて、バッと出てきて、その星が天草四郎に変わっていって、当時の暗黒の日本を輝かせようとした一人の若者がいたというところから話が始まります。いかに当時の日本が駄目で、それを改革しようとした天草四郎がヒーローかという話なのです。このヒーローは、ヨーロッパの自由とか平等といった考え方を持っていて、それを実現しようとしたのだが、結局、当時の日本では受け入れられなかった、あるいは江戸幕府につぶされたという、そういうストーリーになっています。
 もちろん天草の方々のヒーローに対する憧れとか、あるいはヒーローを持ち上げようという気持ちはよく分かるから、ある程度はそんなことがあってもいいと思うのですが、さすがにこれを見たときは、ちょっとこれは行き過ぎかなと思ったのです。
つまり、徳川政権がキリシタンを弾圧したのはけしからん。これは自由と平等を求める早すぎた革命だったのだ。しかし、それを徳川政権はつぶした、これが日本の近代化を遅くした原因だというふうなストーリーになっているわけで、ちょっとどんなもんかな、と思います。その当時、16〜17世紀のヨーロッパというのは、そんなに自由で平等だったのかということですね。そういう考え方があったかというと、フランス革命の前ですし、そんなものは全く無いわけです。さっき申し上げたように、宗教戦争をやっている時代です。宗教戦争でお互いを殺し合っていて、一方のほうが外へ出ていっているわけです。19世紀後半になると、確かに自由と平等というふうに言われるわけだが、それは後のヨーロッパであって、16〜17世紀のヨーロッパではないわけです。
 だから、宗教戦争のさなかからやってくる宣教師や、さらにイエズス会というのは、日本を植民地化しようとしていたと思われます。イエズス会が布教するためにはポルトガル王の援助を得なければならず、イエズス会はポルトガル王のために働いているわけで、イエズス会が信徒を広げていくと、それはポルトガル王の臣民になっていく。そういうふうな話です。いずれそこはポルトガル王の領地になるというふうなことをやろうとしていたわけで、実際に、それはアメリカ大陸で実現しているわけです。この場合はポルトガルではなくて、スペインですが。カトリックの宣教師とその後ろにある政治権力とは密接につながっているので、南北アメリカではそれがはっきりとした形で植民地化が進んでいくのだが、アジアでは人がたくさんいるし、現地の政治権力が強いので、そう簡単にはうまくいかないのですが、やろうとしていたことは同じなのです。
 実際に長崎という場所はイエズス会に寄進されてしまって、1580年ごろには、そこはイエズス会のテリトリーになっていたわけです。それを秀吉が取り返して、長崎は自分の、秀吉の領地にしたわけです。あんまり注目されていませんが、もしそこにイエズス会の拠点がずっとあって、そこからどんどん進んでいくと、何が起こったかは分からないと思います。イエズス会と貿易は一体になっていました。貿易をやりたい大名はいっぱいいて、九州でそういう人たちは皆キリスト教徒に、一応変わるわけです。そういう人たちがキリスト教化していくと、イエズス会の力がどんどん強くなっていくということは当然あったでしょう。
 そして、その結果として、最終的には徳川政権が鎖国をやるわけです。鎖国はけしからんという話はすごくたくさんありますが、当時、キリスト教の宣教師たちがやってきて、その後ろに軍隊がついてくるという、そういう考え方やシステムをもし知っていれば、これはもうキリスト教を排除するしかない。私がもしこの時代の政治家であれば、やり方はいろいろあるだろうが、そんなふうに考えたのではないかと思うのです。そういう意味では、鎖国というのは、それがずっと後刻まで続いてしまったというのがどうかは分かりませんが、この当時としては、取り得るべき賢明な政策ではなかったかというふうに思うわけです。
徳川の平和がもたらしたもの
 この前後には徳川が江戸幕府をつくるわけですが、その当時に何が起こっていたかというと、ポルトガル商人が日本人を奴隷にして、どんどん外へ持っていっているわけです。最近も岡美穂子さんが本で書いていますが、例えばメキシコに売られたというか、連れていかれた日本人の奴隷がいて、その人が裁判をやったために、その裁判の記録が残っており、日本の奴隷がどうしたかという話が書かれています。それ以外にも、さまざまな所に、男性の奴隷や女性の奴隷を、奴隷というと言い過ぎかもしれませんが、購入して、持っていっているわけです。要するにその人たちは他の世界では奴隷と言われているものです。そういう存在があちらこちらにいた。北アフリカとか、あるいはもちろんポルトガル、スペインなどの本国にも、たくさんの日本の奴隷が行っています。
 それと並んで、この時代がとても面白いのは、鎖国の直前までは、ものすごい朱印船が出ていくわけです。さまざまなところに出掛けていって、貿易をして、そこに日本町を作っています。とても日本の中だけでは話が終わらない感じになっています。それからもう一つ注目するのは、関ヶ原と大坂の陣の後、浪人が大量に出て、この人たちの多くは海外に渡るわけです。ポルトガルとかオランダの船に乗って、外へ出ていって、外で働く。例えば一番有名なものは、日本人傭兵9名殺害という事件です。1623年にアンボイナという、フィリピンのちょっと南のほうに島がありまして、そこにイギリスの商館ができていたのですが、20人ぐらいいたうちの半分は日本人の傭兵で、商館を守っているのは日本人の傭兵だったのです。それをオランダの東インド会社が攻めて、イギリスの東インド会社を叩きつぶしました。その時に日本人の傭兵が殺されている。そのように、当時、日本の人は外にどんどん出ていっており、日本の国内だけで話は終わっていないということです。
 東インド会社というのがさっき出来たと言いましたが、これは整然とした会社だというイメージがありますが、実は当時の日本では海賊だと思われていたということであります。平戸にオランダの東インド会社が商館を置いていた頃に、この東インド会社がやっていたことは、その周りの海で、そこを通っている商船を襲って品物を取るということです。なぜ海上で盗みを働くのかとか、オランダ人は海賊であってただ盗むためだけに敵を襲っているとか、なぜシナ人から強奪するのかというふうなことで、貴下は海賊行為をやめるようにと、1620年代、30年代ぐらいに、日本の役人がオランダの商館長に何度も言っているわけです。オランダの東インド会社が日本にやってきましたと言っていますが、それは、整然とした交易をやっているというよりは、当時の荒れた状況をうまく利用して、東シナ海で海賊のようなことをやっていたということであります。
「鎖国」の海外への影響
 もう一つ、これは本当に重要だと思うので、ぜひご理解いただきたいのですが、鎖国というのは、単に外国の船が来るのを拒むだけではなくて、日本列島にいる人は外へ出ていってはいけないということを言っているわけです。この点がすごく重要で、どんどん外へ行っていたわけですが、それが全部禁止されてしまいました。すべて外国関係のことは長崎でやらないといけなくなりました。そうすると、外へ出ていく船に乗るというのは不可能になりますから、渡航できません。結果として、日本列島にいる人と、その外の人と、区別がはっきりします。
 実際に長崎でも、それまでは、中国の人は平気で中国大陸から来て帰ったり、あるいは住み着いたりしている人がいて、一緒に生活していたわけですが、1600年代の前半、江戸幕府が始まってしばらくたった頃に、中国から来た人間は、ここに住んでずっといるか、そうでなければ帰れという命令を江戸幕府が出しました。その結果として、かなりの人たちが長崎に残りました。こうした人たちが通訳をやったりしながら生活するのですが、彼らはそのうち日本人になっていきました。というか、日本語をしゃべるのが普通になっていって、名字は中国系かもしれないが、日本の中で生活するようになっていきました。逆にそうなっていない人たちは、皆大陸に帰されてしまったわけです。
 そういうふうにして、はっきりと日本人と非日本人を区別するということを、この時期、1600年代以降にやりだします。これは、その時は、世界的に見たら特異な政策だったのです。つまり、さっき申し上げたように、倭寇の時代など、皆平気でいろいろな人が交ざっていたわけです。そこからすると、相当特異な政策だったのです。しかしそれは、最終的に19世紀に国民国家ができた時には、簡単に日本人というのが生まれる一つの契機になっています。テリトリーがあって、その中の人は日本人で、外から来た人たちは違うというふうに、はっきり区別して考えていたわけですから。
 もう一つ、鎖国というのは日本のことばかり言っているのですが、実は、鎖国したためにいろいろな影響が外に及んでいるということも、注意しないといけないことだと思います。つまり、さっき言ったように、日本町がいっぱいあったのに全部なくなりますし、出ていけないのだから、現地に吸収、同化していきます。それから、オランダ東インド会社だけが日本に来ることを許されたために大儲けをして、オランダ東インド会社の全体の利益の3分の1ぐらいは日本の貿易から上がっているというような状況が、17世紀の半ばから後半にはあるわけです。もし日本が鎖国しなかったら、いろいろな奴がいっぱい来て、オランダ東インド会社は成功していなかった。そうすると、オランダ東インド会社のその後の歴史は変わってきて、ヨーロッパの歴史も変わったかもしれないと思うわけです。
 それから、これはもっと切実な問題ですが、日本が鎖国をしたためにベトナムの生糸産業が栄え、そして、清朝が最終的に中国商人は日本に行っていいという展海令を出したために、ベトナムの生糸が売れなくなって、ベトナムの生糸産業が衰退するといったような、日本の鎖国に関連して、海外の各地で経済的な動向が変わっていったということがあります。鎖国というのは日本の中のことだけを考えているのですが、当然そういうことをやったら、ほかの地域にも影響を与えているということであります。
まとめ
 日本列島の過去というのは、今の日本の国境線の中だけで考えて、こうだから、ああだからと考えるのは、なかなか難しい。やはり世界史の文脈というのを取り入れながら、日本の過去を見直すと、今まであまり注目されなかったようなことに気づき、あるいは違った解釈も可能になるのではないかと思われるわけです。それから当然、日本列島に起こったことは、他の国や地域とつながっていまして、それが全体として、世界の過去の動きをつくり出しています。そういう意味では、日本史をもう一度、世界史の文脈でとらえることが重要だし、また世界史のほうも、日本の過去をちゃんと取り入れて解釈をする、世界の過去について解釈するということが、重要ではないかというふうに考えているところであります。

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 羽田氏のお話は以上でしたが、1章の末尾で、「横にいろいろな地域を横断しようとすると、それぞれの時代それぞれの地域で、古い時代に書かれた文献とかが残っていますが、それは全て違う言葉で書かれているわけですから、その違う言葉で書かれているものを全て読まないと、横につながることはできないのです。これがやはり一番難関なのです。しかし、やるしかないし、一人でできない場合には、共同で一緒にやるしか仕方がないのではないかというふうに思っています。」という記載がありました。しかし、具体的には対応策が無いように見受けられました。羽田氏との打合せでは、私は人工知能を用いた多言語翻訳技術の活用を提案しましたが、羽田氏はあまり乗り気ではなかったようです。しかし、昨年の東京銀杏会のトップフォーラムでは、情報通信研究機構の隅田英一郎氏が、自動翻訳が相当程度できるようになってきたと述べております。この辺をもう少し検討する必要があるのではないかと私は思いました。

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いすみ市岩船海岸

 房総半島中央部の南端、いすみ市大原地区の南方に自然状態の海岸があります。
 岩船地区です。


1111



2222

 本地区の地質は第三系の黄和田層(Kd)で泥及び砂、泥互層を示し、比較的よく締まっています。とは言いながら、波浪に浸食されるのは必然のこと、長い年月の間に海岸線は後退しています。
 
 このため、道路が最も近接する場所にのみ、テトラポッドが置かれています。
 その他の区間は自然のまま、後背地が丘陵で人家がないことによります。

2019.2.21010



 やはり、海岸線は自然のままが良い景観ですね〜。

2019.2.21005


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