土木の風景

from civil engineers 築土構木、土木技術は社会生活の基盤をささえています。

土木の風景-3

3.11東日本大震災 被災報告(3)液状化・・浦安地区no.299

 東京隣接、交通の便は最高のベイタウン・・・高層マンションからの眺望は最高です。浦安市は不動産価値も千葉県内では最高クラスでした。
 
 その近代都市が思わぬ伏兵に苦しめられています。
 ハザードマップにも、また一般にも言われていたのですが、いざ発生してみると恐ろしい災害であることが分かったのです。
 
 その被災状況写真を紹介します。
 まずは3/17(木)、直後ではありませんが、風にあおられ砂漠状態・・・。

浦安市明海地先2


浦安市富岡地先5



 次は、3/23(水)の写真です。復旧工事も急ピッチで進んでおりました。とにかく、上下水道を使えるようにする工事です。本格的な復旧工事は後にして仮復旧が先となります。

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 3/23(水)の被災現場写真は次のとおりです。

浦安


浦安9



浦安2




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浦安3



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浦安4



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 近代に入ってから埋め立てた海岸の土地は全国同じような条件を抱えています。元々の地盤は海浜の細砂やシルトを主体とした地層のため、液状化しやすいものです。また、埋め立てた土砂も浚渫土と山砂が多く、地下水位以下にあればどうしても液状化してしまいます。
 
 たまたま、地震発生前の2月、浦安海岸の護岸検討の一環として対象となる砂層の粒度試験を実施していました。3試料のデータしかありませんが、参考にはなりそうです。
 
  ┸偲截苅蹇 嶌什じり粘性土(シルト)」
 ◆┸偲截苅蹇 嶌充素汗土(シルト)」
 ;深度4m 「細粒分質砂(微細砂)」

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 むかしシルトは液状化しにくいとされていましたが、今回の浦安は、最近の研究通り激しく液状化したものです。

 噴出してきた砂は粒径のそろった形で見られますが、シルト分は噴出水とともに流失したものと考えられます。また、風によっても運び去られています。

浦安5



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 なお、都市のライフラインの重要性は寸断されて初めて体で理解できるものです。普段全く考えない災害について徹底して論じるよい機会ではないかと感じます。今後、現況復旧ではなく、よりよい形の復興を成し遂げたいものです。
 
 
 浦安には東京ディズニーランドがあります。この施設は、駐車場などの広い場所を除き、地盤改良を行っていました。被害も最小限に出来て早期の再開を果たしています。液状化現象も、投資をすればある程度は押さえられます。
 
 しかし、一般の個人住宅ではなかなか難しいことです。道路についてもすべてを地盤改良するだけの予算措置は不可能です。と言うことは、災害を完全になくすという発想から、被災を少なくする工夫と、被災への事後対応をしっかり作っておく方が現実的です。
 ハード面で災害を押さえ込むのではなく、ソフト面での整備をしておくことが重要ではないかと考えます。その意味では、現在の法的な整備は中途半端であると聞きます。
 
 知識人やリーダーたちの見識に期待したいと思います。
 
 
 なおまた、原子力発電のあり方も、推進ありきの強引なものだったのかもしれません。責任が一企業に行くようなお粗末な幕引きはして欲しくないのです。誰が主導したのか、知る人は知っている・・・と考えます。
 
 社会の基礎基盤を担う各種組織は襟を正し、真剣にその役割を担う必要があります。われわれ土木の業界もまったく同じです。

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3.11東日本大震災 被災報告(2)液状化・・船橋地区no.298

 液状化という言葉がこれほどメジャーになるものか・・・地震災害の時、必ず発生する自然現象です。
 
 この液状化という現象が土木・建築関係者に衝撃を与えたのは昭和39年(1964)6月、新潟地震の時でした。がっしりとした箱状のアパートが転倒し、また大きな橋が落橋するなどの大被害をもたらしたものです。
 
 その後、研究は進歩し、基準や指針も対応策も発展しています。
 しかし、構造物に対する対策を行うことは普通となりましたが、埋め立て地全体を改良することは不可能なことです。お金がいくらあっても足りません。
 
 今回の巨大地震は東京湾岸の千葉県側に甚大な被害を及ぼしました。液状化現象のもっとも厳しい被害を受けたのが浦安市です。テレビや新聞で大きく報道されており、一度は見られたことと思います。千葉市側も幕張メッセを中心とした埋め立て地がやられています。

湾岸



 今回は、少し専門的な用語も出しながら液状化現象について船橋海岸を紹介します。
 
 船橋市は海岸寄りの地区で噴砂がたくさん見られました。道路や駐車場の沈下は液状化によるものです。風が吹くと砂漠のような状態がしばらく続きました。

船橋


 現在は砂の片づけが終わり、道路や構造物の修復待ちの状態です。

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 さて、ふなばし三番瀬海浜公園の道路を挟んだ反対側の空き地に液状化現象噴砂跡を発見しました。全くそのままの状態です。地面の割れ目に沿って噴砂したもので、模式的な形状をしています。

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 さて、液状化現象とはなんでしょうか・・・
 簡単な説明は<ウィキペディア>の記事を。
 【 液状化現象(えきじょうかげんしょう)とは、地震の際に地下水位の高い砂地盤が、振動により液体状になる現象。これにより比重の大きい構造物が埋もれ、倒れたり、地中の比重の軽い構造物(下水管等)が浮き上がったりする。単に液状化(えきじょうか、liquefaction)[1]ともいう。 】で、いかがでしょうか。
 
 ただし、噴砂(ボイリング)については上記の説明では不足です。
 
 そこでまた、<ウィキペディア>の記事を。
 【 下層の地盤が砂質土で表層を粘土質で覆った水田等で液状化が起きた場合は、液状化を起こした砂が表層の粘土を突き破り、水と砂を同時に吹き上げるボイリング(噴砂)と呼ぶ現象を起こすことがある。1964年の新潟地震では県内の各地でボイリングが観測された。】
 と言うことで、液状化した層が過剰間隙水圧(一時的な高い圧力)を発生し、逃げ場を求めて噴出してくると理解して頂く方がわかりやすいかもしれません。
 逃げ場で一番近いのが地表面というわけです。都市部の場合は舗装やコンクリートが地面にふたをしていますからその隙間や舗装を破壊して噴出してくるわけです。
 
 噴砂直後の周辺一帯は一面の海となります。砂は水と同じように動き、粒子が大きくて重いものが噴出口近くに堆積し、軽いものは遠くへと流されます。今度は護岸近くの噴砂跡をもう一度見てください。

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 公園から海岸の護岸近くに行くと同じような液状化現象が異なる被害をもたらします。がっしりとした構造物も、支えている地盤そのものが流動化すると変状を来してしまいます。構造物は、支えのない方向に動く・・・ごく当たり前の変位をするのです。
 
 まずは、この付近の液状化現象はこのようになっています。

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 護岸から遠いと公園近くの噴砂と同じですが、護岸に近い場所では地割れを起こし、構造物を押し出す動きとなっているようです。この場所では地割れの深さが最大60cm、延長は30m位でした。
 
 この水平方向への砂の流動(側方流動)が護岸構造物を押しだし、また液状化による噴砂で地盤に空隙が生じて地盤や構造物の沈下を起こしています。
 
 以下、船橋港護岸(大型ブロック積み擁壁・トライアン型)の被災状況を紹介します。
 明らかに護岸が張り出し、また傾いているのが分かります。

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 さらに、護岸裏のコンクリート舗装は液状化現象によってがたがたの状態です。もちろん、大きな空洞も発生しています。

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 最後は、破壊の激しい場所です。

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<ウィキペディア>記事
 液状化のプロセス [編集]
緩詰めの砂粒子が振動によって液状化する様子(模式図)砂を多く含む砂質土や砂地盤は砂の粒子同士の剪断応力による摩擦によって地盤は安定を保っている。このような地盤で地下水位の高い場所若しくは地下水位が何かの要因で上昇した場所で地震や建設工事などの連続した振動が加わると、その繰り返し剪断によって体積が減少して間隙水圧が増加し、その結果、有効応力が減少する。これに伴い剪断応力が減少して、これが0になったとき液状化現象が起きる。この時、地盤は急激に耐力を失う。また、この時間隙水圧は土被り圧(全応力)に等しい。この状態は波打ち際などで水が押し寄せるまでは足元がしっかりとしていても水が押し寄せた途端に足元が急に柔らかくなる状態に似ている。また、雨上がりの地面 を踏み続けると、地面に水が吹き出てくる状態にも似ていると言える。

地震や建設工事などで連続した振動が砂地盤等に加わると前記の液状化現象が生じる場合があり、地盤は急激に支持力を失う。建物を地盤に固定する基礎や杭の種類は地質や土地の形質に合わせて多種にわたるが礫層や岩盤等の適当な支持層に打ち込む支持杭と異なる摩擦杭等では建物を支えていた摩擦力を失い、建物が傾く不同沈下を生じる場合がある。重心の高い建物や重心が極度に偏心した建物ではより顕著に不等沈下が生じ、阪神・淡路大震災による中高層建物のように転倒・倒壊に至る場合がある。

地震に伴って液状化が発生しうる地点の震央距離R(km)とマグニチュードMの関係はlogR=0.77M-3.6 で表す事が出来る[2]とされている。


 また、より詳しい解説を知りたい方は、吉見吉昭氏 東工大名誉教授の記事をどうぞ。

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3.11東日本大震災 被災報告(1)津波・・釜石地区no.297

 一ヶ月近くの休稿でした。
 3.11東日本大震災から一ヶ月を過ぎています。
 
 被災された方々、死亡された方々、行方不明の方々に深く哀悼の意を表させて頂きます。一日も早い震災復興を願わずには居られません。
 
 まさに、未曾有の大災害というこの現実に、落ち着きを取り戻す余裕すらありませんでした。北は北海道から南は神奈川県まで被災し、何という広いエリアでしょうか、自然の脅威にただただ驚き、畏敬の念を覚えてしまいます。
 
 今回はまた、福島原発が天災と言うより人災に近い形でくすぶっています。周辺住民の方々や世界に与える影響はそれこそ甚大です。こちらは出来るだけ早い収束を願いたいものです。

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 さて、
 千葉県も大きな被害を受けており、その結果も整理して報告をいたしたいと考えてきました。
 
 東北三県や茨城県の被災地から比べると比較的浅いとはいえ、東京湾岸の埋め立て地は都市の弱点をさらすことになってしまいました。また、東部九十九里海岸では想定外の大津波が押し寄せており、13人の死者(行方不明者2人)を出しています。さらに、利根川周辺の軟弱地盤では激しい液状化が発生し、死者こそ少なかったのですが、壊滅的な被災を受けています。
 
 こうした千葉県の被災状況を土木の風景として少しずつ紹介してゆく予定です。次の地図におおよそのエントリー予定場所を記入してあります。回数は未定です。

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 ただし今回は、第一回目ですから千葉県ではなく、釜石市の被災状況写真をエントリーしました。仲間が釜石出身のため、3/19(土)から一時帰郷していたものです。自宅も大破、町全体がやられています。親類の方もなくなっています。
 
 
 リアス式海岸の弱点は津波が二倍三倍になるという地形構造です。近代的な防潮堤も効果が少なかった自然の威力でした・・・。
 
 震災当日から約10日経過している写真です。
 解説は無しにしてエントリーすることにしました。
 
 水位や死亡者発見箇所、場所については写真の中に注記をしています。
 釜石市の中心街です。
 
かまいし



釜石市



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 なお、最後に
 昨日(4/13)には、新日鐵釜石が操業再開といううれしいニュースが流れていました。
 震災復興に向けて元気を出して頂きたい釜石の町・・・。

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都市河川・真間川 no.296

 千葉県市川市から都市河川の紹介です。
 真間川は江戸川から分流し、市街地を縫って流れます。

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 むかしは汚染ワースト・・・とか言われていましたが、大分きれいになっています。

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 市民憩いのジョギングロードでもあります。

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 なお、詳細参考記事はこちらにあります。

 → 江戸川
 → 都市河川 真間川

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清澄の千年杉 no.295

 日蓮宗の大本山、清澄寺です。
 お寺のホームページを見て、恥ずかしながら初めて気が付きました。
 
 しっかりと、「清澄寺(せいちょうじ)です。」と書いてあります。
 「きよすみでら」と呼び習わしていたので「せいちょうじ」には違和感があります。
 
 さて、清澄寺の境内に千年杉があります。
 国の天然記念物に指定されているようです。

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 確かに巨木です。
 見上げるとかくのごとし・・・。

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 こういう巨木に接すると、人間は謙虚になります。
 土木屋も・・・技術におごることなく、謙虚に1000年、2000年後に思いを馳せて仕事を致したいものです・・・。
 
 
 なお、
 せっかく登ってきた「きよすみさん」ですから、境内の紹介をいたしましょう。
 お寺の詳しいことはホームページをどうぞ。

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 最後は本殿です。

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 いま、日本国の政治・経済・・・そして、世界もいろいろと大変です。
 あきれたことの多いこの「世相」を、仁王様に吹き飛ばしてもらいましょう!!

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 清澄寺 せいちょうじ     <大百科全書>
→日蓮
千葉県天津小湊(あまつこみなと)町(現在鴨川市)清澄にある日蓮(にちれん)宗大本山。「きよすみでら」ともいう。千光山と号する。771年(宝亀2)不思議(ふしぎ)法師が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を刻み安置したのに始まり、円仁(えんにん)が密教を伝えたという。円仁開創ともいう。国司源親元(ちかもと)が再興し、北条政子(ほうじようまさこ)が輪蔵、宝塔を建てた。1233年(天福1)日蓮が12歳で入寺し、「日本第一の智者(ちしや)となさしめたまえ」と虚空蔵菩薩に祈り、住持道善(どうぜん)に台密を受けた。のち日蓮は鎌倉、比叡山(ひえいざん)などで学び、『法華経(ほけきよう)』が最高の経典であるとの信念をもって32歳で帰山、寺内の旭(あさひ)ノ森で朝日に向かい、初めて「南無妙法蓮華経(なむみようほうれんげきよう)」の唱題を行い、日蓮宗を立教開宗した。徳川氏の帰依(きえ)厚く、天台宗から真言宗に転じ、さらに1949年(昭和24)日蓮宗となり、管長が住職となる制度ができた。本堂前の千年杉は国の天然記念物。→日蓮〈田村晃祐〉

 清澄山 きよすみやま        <大百科全書>
「きよすみさん」ともいう。千葉県南部、安房(あわ)郡天津小湊(あまつこみなと)町にある山。房総丘陵北半部の上総(かずさ)丘陵にあって清澄山塊の地塁をなし、南斜面は砂岩・泥岩の断層崖(がい)となる。標高は383メートル(妙見(みようけん)山)。一帯は県下の最多雨地帯で、シイ、タブなど常緑広葉樹の原生林が茂り、また近世以来のスギの美林があって、東京大学農学部の演習林ともなっている。山頂近くに日蓮上人(にちれんしようにん)が出家した清澄(せいちよう)寺があり、境内は国指定天然記念物の大スギをはじめスギの木立で覆われる。南房総国定公園に属し、近くに内浦山(うちうらやま)県民の森や、アジサイで知られる麻綿原(まめんばら)高原がある。JR外房(そとぼう)線安房天津駅から清澄寺までバス25分、下車後徒歩10分。〈山村順次〉
【地】2万5千分の1地形図「上総中野」「安房小湊」

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折津ロックシェッド no.294

 千葉県市原市の奥の方(南方)に主要地方道(県道)32号大多喜君津線が東西に走っています。路線を南北に横断しているのが養老川で、この辺りまでは渓谷地形をなしています。

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 養老川は激しく屈曲し、山を削ります。
 そうした場所の道路はがけ面が直立し、斜面安定を得ることが難しくなります。
 
 隧道にするには場所もなく、ロックシェッドが採用されます。
 斜面崩壊を抑止しようとするのではなく、ある程度の崩壊は許容してやり過ごすという工法です。

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 崩壊土砂は、ロックシェッドの上面に堆積し、また、乗り越えて反対側の崖下に受け流すような構造になっています。
 
 崖と反対側は解放された状態で、明るい空間を形成し運転に支障がありません。

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 さて、土砂や岩石が落下してくるわけですから、ロックシェッドの構造は頑強に造られます。乗り越えて反対側に落下した岩石は結構大きいものです。

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 そして、下から見た構造は次の通りです。

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 最後の3枚は、土木の風景としての折津ロックシェッドです。
 なお、ちなみに千葉県では南房総鋸南町(鋸山)あたりに見られます。

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 <ウィキペディア>
 覆道(ふくどう)とは雪崩や落石、土砂崩れから道路を守るために作られた、トンネルに類似の形状の防護用の建造物。北海道や東北地方、北陸地方に多い[要出典]。覆い工、洞門工、シェッド、シェードともいう。雪対策のものはスノーシェッド、岩石対策のものはロックシェッドという。両者を兼ね備えるものもある。
 
 主に、海岸沿いや川沿いで山や崖が道路や鉄道の近くまで差し迫ったところに作られる。トンネルの一種と捉える説もあるが、覆道の谷側は完全に吹き抜けになっていることが多い。トンネルに接続するものも多く見られるが、覆道とトンネルで断面が変わるためにすぐに見分けがつくことも多い。覆道は断面が長方形のものが多いのに対し、トンネルは円形のものが多い。天井部分が完全に土砂に覆われているものもあるが、万が一のときのために作られた、山から数m離れたところに有る覆道もある。通常鉄骨または鉄筋コンクリート製で相当な強度が求められる。上部は落石や雪崩の衝撃を吸収または速やかに側方へ受け流す構造となっており、通行中の自動車や列車の安全確保を図っている。建設費用も莫大である。

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両総用水・・栗山川(2) no.293

 栗山川の第二弾です。
 本稿は、河川としての栗山川ではなく、両総用水の幹線水路の一部として紹介します。
 ゆったりとした流れを見せる現在の栗山川ですが、むかしはひどかった・・・と古老が語っておりました。(→栗山川その1

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 さて、両総用水というのは千葉県東部(当時;3市12町2村)の広大な耕地(19,885 ha)を灌漑する国営の大事業でした。
 正式には両総用水かんがい排水改良事業として、昭和18年から昭和40年まで、佐原(現在の香取市)から一宮まで延々と幹線水路や隧道を使って80km・・・気の遠くなるような事業です。(下の模式図は関東農政局

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 現在は施設の老朽化が進み、「見直し」事業が進められている現状です。
 
 両総用水の水源はもちろん利根川です。千葉県は関東北部のダム群に水利権を持ち、それを上水道、農業用水として活用しています。八ッ場ダムにも多額の出資をしているのです。
 
 
 まずは利根川から取水する第一揚水機場、これは香取市に昔からあります。
 形式は「両口吸込式渦巻ポンプ」口径1,200mm×5台 
 所用水量は14,470立米/秒 
 これは一日フル運転で12.5億トンを揚水できる能力です(ピンときませんね・・)。
 >
 
 香取市で揚水された利根川の水は北部幹線に乗り、栗山川上流へ落とされます。
 自然河川を幹線水路として活用しているわけです。これは、利根川にしても同じ原理になりますが・・・。
 
 おかげで、栗山川は立派に整備されたわけです。
 そして、そのまま流下したのでは太平洋に行ってしまいますので、第二の揚水機場が登場します。
 それが新装なった新しい機場です。

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 さらに、吸い込み口はよく見えませんが、コンクリート構造をエントリーしてみました(渦巻ポンプ;口径1,200mm×4台 所用水量は11,703立米/秒)。

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 さて、新機場ができたわけですから、旧機場はどのように・・・、当然の疑問です。
 答えは次の写真で・・・。新旧の位置関係もわかります。

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 しかし、二万五千分の1の地形図では導流路からそのまま隧道でつながっていくような表現になっています。これには異論あり! 新機場からポンプアップしておりますから念のため・・・。
 
 なお、長い導流路は閉鎖して水田に・・・との考え方もあったようですが、旧機場部は排水施設にもなっており、致し方なくそのままの状態にしてあるそうです。おかげで、太公望にはうってつけの釣り場になっております。
 
 また、新機場の敷地に旧機場のポンプと管が展示されています。これは、一般の方にもわかりやすく好評です(口径1,200mmです)。

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 最後に栗山川のおまけ施設の紹介です。
 県道45号八日市場八街線が栗山川を横断する場所に「新井橋」があります。
 
 その築年は昭和36年、そろそろ50歳になる老橋はがんばっています。重量車両もよく通過していますが足に包帯を巻くも、現役ばりばり・・・見習いたいものです。

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 なお、本当のおまけ。
 こちらは成田空港への航空機通過地点になります。短い間隔ですと2~3分に一機が通過、車輪を出してすでに着陸態勢に入っています。よくぞこれだけ多くの飛行機が飛ぶものと感心している冬の空・・・。

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首都高速中央環状線 no.292

 バスの窓からパチリ・・・。
 堀切ジャンクションであろうと想像します(半分居眠り・・)。
 
 このあたりを下車して歩けば、おもしろい写真がたくさん撮れそうです。

堀切



 調べる時間もなく、土木の風景としてエントリー。

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栗山川(1) no.291

 明けまして、おめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。
 
  さて、栗山川です。
 千葉県東部北総台地(成田市大栄町付近)を発し、九十九里海岸に流下する中小河川です。まずは、航空写真で栗山川の全景です。
 北総台地は平坦な地形ですが、そこを最上流地にしているくらいですから大河川というわけではありません。

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 九十九里海岸平野は隆起平野です。縄文期には完全に海の底、縄文時代の海進は相当に内陸深くにまで達していました。現代の繁華街はほとんどが海の底です。

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 ゆえにこそ、栗山川の流域は低地が連続し、土地改良などの整備が進んでも低地は低地です。千葉県がまとめた災害関連の浸水区域は栗山川周辺に集中しています。
 干拓をし、水田として開発しても低いところは低いものです。
 
 千葉県の防災情報ではしっかりその状況を捉えています。栗山川流域が高くなるわけではありません。

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 さて、現在の姿です。
 河川堤防は整備され、水田も立派に区画整理をされています。
 洪水時にはしっかりと排水機場が機能し、洪水にならないように出来ています。

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 しかしです。
 江戸時代、明治時代には河川堤防のない中小河川の哀しさ、洪水時には大氾濫し、また干ばつ時の水不足は大変なものだったそうです。百姓にとっての水は、命より大事・・・水争いは生きるための闘争でした。

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 このように、明治27年には死者が出たようです。
 そこでまずは、栗山川の河川堤防の築造から始まりました。低湿地だったこの周辺の栗山川に堤防を築いていったそうです。もっこ、トロッコ・・・もちろん、人力です。
 
 地元の古老の記憶では、昭和10年から始まったとか・・・。
 まずは低湿地を堤防で遮断し、農地化して行きます。
 
 そして、重要な対策は河川の流水制御です。
 それが篠本堰、これは洪水対策と農業用水確保が目的です。古い施設を改修し、現在の堰が出来たのは昭和41年です。

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 今でも立派に活躍しており、その勇姿をご紹介・・・。


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 なお、栗山川の役割は両総用水事業の導水路を兼ねています。
 それは次回へ・・・。   →その2

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高圧送電線修理・・プロの技 no.290


 湾岸道路葛西ジャンクションから北へ・・・高速中央環状線から見た風景です。
 首都高速道路は荒川沿いに北上します。
 
 スカイツリーも見えてきますが、今回の主役は高圧電線と男達です。

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 高圧送電線は、首都東京の電力を守る重要な大動脈です(→参考:新袖ヶ浦線)。その電線を切断したという事故もありましたが、普段のメンテナンス、補修は人力に頼っているようです。
 
 みなさんはスカイツリーを見ていましたが、へそ曲がりは違うところを見てしまいます(笑い)。
 
 バスの中からですから首が痛くなりますが、ぱちりと証拠写真を撮りました。
 その報告です。

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 いやはや、何とも、言葉が出てきません。
 命綱があるとはいえ、こんな場所で立ち上がるのですから、プロというのは恐ろしいものです。スカイツリーの工事でもとび職のプロが大活躍しています。
 
 インフラの重要な部分をこういうプロが支えてくれているわけです。
 深く感謝を致したいものです・・・。
 
 
 なお、土木の世界でも「縁の下の力持ち」には自負を持っており、インフラ整備と維持補修には人知れず活躍しているのです。大地に根を張った土木技術も捨てたものではありませんし、土木屋も頑張っております・・・(笑い)。
 
 しかし、
 土木屋も電力のプロも宣伝が上手ではありません。
 どうしても、地味になってしまうのです。世間様から色眼鏡で見られる古〜い体質を全ての業者が持っていると思われています。マイナス面ばかりがメディアに取り上げられるのはメディアのスポンサーになっていない事も大きいのかも知れません。
 
 電力は広告宣伝をどんどんやっていますが、建設と違うのは独占企業であるという事です。原子力もそうですが、風当たりは厳しいものがありそうです。故にこそ、上の写真のような普段の苦労を宣伝して良いのではないかと個人的には思います。
 
 
 
 さて、
 スカイツリーが評判を呼び、人々の関心を集めています。
 これは、土木の構造物です!!
 土木を宣伝するチャンスです。
 
 土木遺産として、残って欲しいと思うものですが、いかがでしょうか。

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成田ニュータウンセンタービル解体 no.289

 成田ニュータウンは1968年(昭和43年)に着工し、つい最近までアクセス道路などの工事を継続していたものです。当時、成田空港開港を控え、関係者の住宅地供給を目的として千葉県企業庁が造成開発したものです。
 
 計画面積487ha、予定人口6万人でした。
 現在2010年8月で約34,000人だそうです。成田空港が開業したのが1978年(昭和53年)ですが、その頃も造成工事は継続中でした。
 
 今日の主役センタービルは1973年(昭和48年)の完成ですから空港開港時には威容を誇っていたものです。周辺はまだまだ開発中でしたから目立ったわけです。
 
 そのセンタービルが役割を終えて解体されています。

 思い入れの深い人たちがたくさんいるのです。

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CenterBuilding


センタービル



 なぜなら、成田空港建設反対の嵐が吹きすさぶ厳しい時代の象徴的な存在でもありました。開港に向けた時期には厳重な警備体制が敷かれ、建物内部にはいるのも大変な事でした。
 
 官庁、民間を問わず、ビリビリとした空気が張りつめておりました。
 このセンタービルにはニュータウンや空港の建設工事を指揮する千葉県関係の事務所が多くあり、ねらわれやすいという事もあったでしょう。それと、建物が目立っていたというのもあるかも知れません。
 
 さて、
 時は遷り、センタービル周辺は人影も少なく閑散としていました。銀行や商店も撤退し、解体撤去は時間の問題であったわけです。
 
 解体は低層部から始まって、いよいよ高層部に手を付けはじめています。
 あの部分は、あの部屋だった・・・そのように感ずる方も多いはずです。主に、団塊の世代とその前の世代が頑張った建物でしたか・・・。
 
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 センタービル、御年37才となります。
 少々若い最後のような気がしますが時代の波にのまれるような一抹の寂しさがあります。
 「ご苦労さん!!」 と声を掛けてきました・・・。

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大田代・熊野神社 no.288

 房総半島南部、太平洋側の鴨川市小湊から北上すると内浦山県民の森があります。
 そこを通過すると大多喜町・麻綿原高原にいたり、その中心に妙法生寺があり、太平洋を一望する事が出来ます。
 
 アジサイの季節にはたいそう賑わうところです。6,7月は一方通行の規制もありますからご注意を・・・。それでなくとも、すれ違いには冷や汗が出るくらいです。
 
 さて、まずは、妙法生寺の高みからの眺望です。南方の太平洋を見ながら、東から西へと視線を移したものです。

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 麻綿原よりさらに北上するには林道横瀬線を走ります。せいぜい、自転車並みの速度ですが・・・(笑い)。→「野猿との遭遇
 
 山を下り、大田代バス停が近くなると里の匂いがしてきます。
 養老川を右手にしながら山を降りると、小さな小さな神社があります。

養老川熊野神社









 
 初めてお参りをしてきました。
 お願いではなく、お礼参りです・・・。

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 地元集落は大多喜町大田代の部落のようです。手入れが良く行き届いて、気持ちのよい空気です。
 決して豪華ではありませんが、小さいながらも風格を感じさせてくれました。
 苔むしたような石の階段が魅力的です。

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 なお、熊野神社というのは全国に3000以上あると言う事です。
 「熊野」という言葉が古い由緒のあるもののようで、ネット(goo教えて)から拝借。
 
 ?「奥まった聖地」
 ?「ゆや」とも発音する
 ? 熊野は「こもる」の意、木々が生い茂っている様。 熊の古語は「神」を意味し、神聖な土地を「くまくまし」と古代の人は呼んでいたという。奥深く、神秘な処。神の里という意味になるのでしょうか。
 
 後、色々ありましたが、何となくイメージとしては分かりそうです。
 出雲が本家か、紀伊が本家か・・・よく分かりませんです。

 たいがいの地方に熊野神社は存在します。
 気がつかれたら寄ってみて下さい、意外に楽しめるかも知れません。

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浦安海岸アサリ漁 no.287

 浦安は東京に隣接し、ディズニーランドがあったり都市化が急激に進んだ町で全国的に名前が売れています。
 むかしは干潟が広がるひなびた漁村でした。
 
 今は、
 高層マンションが林立し、浦安の町並みは近代的な様相を見せています。
 東京に一番近い立地が発展させたものです。
 
 さて、旧市街地を除けば浦安の町は大半が埋め立て地です。千葉県企業庁が浚渫土を主体として埋め立て造成したもので30年以上が経過しています。

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 地理的に見ていただくと、荒川と江戸川の三角州地帯になっており、軟弱層が厚く堆積し、支持地盤は深い状況です。軟弱層の圧密沈下も大きく、いろいろな問題を起こすのです。

浦安


三番瀬


 Yahooの航空写真で見るように浦安沖合に海水の色が薄い場所が広がっています。
 市川沖を含め、「三番瀬」という浅い海が広がっており、環境問題の象徴のように有名な海です。→[三番瀬]
 
 
 さて、今日の主題はアサリ漁です。
 浦安の高洲海岸に立っていると、小さな漁船が横切りました。

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 よく見ていると100mくらい沖合に停泊し、準備を始めています。さて、何を釣るのかねらっているのか・・・。
 
 そして、はじめました・・・長いさおを持って海底をかき回しています。
 アサリ漁です。
 三番瀬に代表されるように浅い海が広がっているのです。

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 竿の先にはかごのような網(捲き籠・ジョレン)が付いており、アサリをすくいだすやり方です。ヘドロや砂、小さいアサリは網からすり抜けます。この作業は、ものすごい重労働であるといいます。
 
 一般には腰まで浸かって漁をしますが、船からのアサリ漁は経験がものをいうそうで、当たりはずれも大きいとか。プロの技のようです。
 
 
 なお、土木の風景としては土木的な推論を・・・。
 
 ここの水深はどれくらいでしょうか?
 ヒントは走る船に横たわっている竿の長さ、そして漁師さんの持っている竿の残尺(水上部分)です。
 
 竿の長さ=約5m 残尺=約3m 
 水深=5.0 - 3.0=2.0m(+籠の長さ0.5m)
 こんな所でしょうか。
 潮は満潮に近いところでしたから、ずいぶん浅い海だということが分かります。
 
 こういう浅い海は「瀬」といい自然生態系には重要な場所だそうです。
 大切にしたいものです。
 
 なお、浦安から千葉方面を見るとついこの前日本シリーズで盛り上がった幕張メッセ・千葉マリーンスタジアムがよく見えます。
 ただいま、激闘を繰り広げているようです・・・。

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羊羹みたいな地層 (3) no.286

 さて、羊羹みたいな地層は何でしょうか。
 佐倉市八木地区だけでは解明しにくいので、別の地区を引き合いに出してみます。
 いろいろな物事の証明に比較を入れるのは有効のようです。
 
 まずは、関係する位置関係と地質図を見てみます。
 
 a)羊羹みたいな地層・佐倉市八木地区(下総層群中上部層)
 b)圏央道茂原ジャンクション・茂原市上太田地区(下総層群下部層・地蔵堂層)
 c)南総広域農道・長南町下豊原地区(上総層群上部層・国本層)

地質図(エリア有り)


 a)は二回にわたり見てきたので、b)から。
 圏央道が県道21号線(五井本納線)と交差する地点に茂原ジャンクションを建設工事中です。切土法面も着々と緑化し、当初の姿が変貌しています。

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 本工区の切土直後の姿は次の通りでした。

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圏央道



 何という色調でしょうか・・・青灰色の代表選手のようです。
 この色調を見ると、土壌(農業)に詳しい方はピンと来ます。
 
 さて、切り土後一年経過した姿は次の写真です。

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 時間経過とともに色調が変化したのがお分かりでしょうか。青灰色から褐色(茶系統)へと変化しています。
 これは、酸化現象を示しており、青灰色は還元層の代表色調を示しています。つまり、酸素を持たない還元層が酸素と結合する事によって、鉄などの金属類が酸化現象を起こし、色調が鉄さびのような褐色に変化すると考えられます(→関連記事)(→*6 *7)。
 
 
 圏央道だけでは証拠立てが弱いので、c)南総広域農道・長南町下豊原地区についてみてみます。こちらは、第三系の最上部、上総層群です。下総層群(成田層群)より締まって固い状況です。

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 上の写真に見るように、還元層の色調は薄いモスグリーンですが、はっきり還元状態が出ています。弱風化層に縦の筋が何本も走っています、これが滲み込む水の影響による酸化を示しているのです。
 
 また、酸化・風化の時間的経過が模式的に見られます。
 気の遠くなるような時間を掛けていますが、カットした断面では一瞬で見られるというありがたい場所でした(今は、植生で被われています)。

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 さて、酸化・還元とはなんでしょうか。
 辞書記事を見ると複雑で頭が回りませんので、広辞苑の記事を載せてみました。
 
  さん‐か【酸化】‥クワ    <広辞苑>
(oxidation) 物質が酸素と化合すること。広い意味では、物質から電子が奪われる変化を総称する。□還元。

  かん‐げん【還元】クワン‥   <広辞苑>
(1)根源に復帰させること。もとに戻すこと。「利益を消費者に―する」
(2)〔化〕(reduction) 酸化された物質を元へ戻すこと(すなわち酸素を奪うこと)。広い意味では、物質に電子が与えられる変化を総称する。□酸化。


 分かりやすくいうと、酸素の存在を言っているようです。
 酸素が欠乏すると色調は青灰色となり、酸素が多くなって元素と結合すれば褐色になるという単純な図式です。
 
 農業の土壌では、酸化・還元が非常に重要な概念であり、還元層の事をグライ層と呼びます。地下水位が高く、常に水位以下にある土壌はグライ化をしてきます(→*4 *5)。
 営農上、グライ層は好まれない土壌というわけです。
 
 この酸化現象を見ようと羊羹みたいな地層の土質サンプルを取り出して、半分に割ってみました。それが下の写真です。

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 明らかに、表面から深部へ酸化が進んでいるのが分かります。約一年間の酸化作用で深部の色調も青みが少なくなっています。
 
 切土当初の色調(b)と比較したのが下の写真です。圏央道の切り土が鮮やかすぎますが、羊羹みたいな地層もかなり鮮やかでした・・・(採取直後に写真を撮ってないのが残念です)。

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 以上により、羊羹みたいな地層の本質は還元した状態があたかも羊羹のように残ったという事になります。土質や地形環境、地下水の状況など、複雑な原因が複合的に重なったものでしょうが、普通にあり得る状況であります。

羊羹みたいな地層




*4
 グライ層 ぐらいそう   <大百科全書>
地下水の影響で土壌層内の酸化鉄が還元して青灰色になった層。土壌層内にはたくさんのすきまがあり、雨水や融雪水あるいは河川の氾濫(はんらん)水はこのすきまを透過して地下水面まで達する間に、可溶性成分の分解と微細土粒の運搬作用を行っている。同時にすきまに侵入した空気は酸化作用を働き、それらの状況に応じて微生物の活動環境がつくられる。しかし、空気を欠く地下水面以下の部分では、酸化が抑制されて還元状態となり、とくに停滞水の中には水酸化第一鉄や硫化鉄などの亜酸化鉄化合物の沈殿がおこる。この沈殿物は停滞水中に沈積した粘土分と混合して、青灰色のグライ層とよばれる層をなす。普通は沖積地でも数メートル以上掘らないとこの層は現れないが、低湿地では地表下1メートル以内にグライ層が判別され、その場合は土壌断面にグライ層位となって現れる。
 水位の季節的変動に伴って還元状態と酸化状態が繰り返しおこる層位もでき、その部分には斑(はん)紋(もん)状や膜状の酸化鉄の赤褐色集積物が発現するので、これを斑鉄とよぶ。グライ層と斑鉄層は人為的に冠水と落水を行う水田耕作地の土壌にも生ずる。〈浅海重夫〉
 
*5
 グライ土壌 ぐらいどじょう     <大百科全書>
湛水(たんすい)または排水不良により酸素が欠乏して土壌が還元される結果、二価鉄やマンガンなどが生成して土層が灰色ないし青色に変化する現象をグライ化作用といい、この作用を受けたグライ層が土壌断面の主要部を占める土壌をグライgley土壌とよぶ。地下水位が高く、その変動が少ない谷底や窪地(くぼち)などの水田に広く分布する。わが国のようにグライ土壌が低地に広く分布する例は世界的にも珍しく、強グライ土壌を含めた広義のグライ土壌は全水田面積のおよそ30%を占めている。〈小山雄生〉
 
*6
 還元 かんげん  <大百科全書>
→酸化 →酸化数
reduction 原子、分子、イオンなどが電子を受け取って酸化数が減少すること。歴史的には、酸化物から酸素を奪って単体を得ることを意味しており、酸化と逆の反応を行うことであった。ある物質から酸素を奪う、あるいはある物質を水素化物にすることが還元であるとされた時代もあったが、原子の電子構造と化学的性質との関係が明らかになるにしたがって、電子を受け取ることを還元、電子を与えることを酸化とする定義が定着した。
 還元は酸化と相補的であり、ある物質Aが別の物質Bによって還元されるときには、その物質Bはかならず酸化される。酸・塩基の関係とも似ているが、酸化・還元は酸・塩基とともに化学反応の理解のうえでもっとも重要な概念となっている。→酸化 →酸化数〈岩本振武〉
 
*7
 酸化 さんか   <大百科全書>
→還元 →還元剤 →酸化還元電位 →酸化剤 →酸化数
oxidation, oxidization 単体が酸素と化合する化学現象を酸化と定義したのはフランスのラボアジエであったが、原子の電子構造と化学的性質との関係が明らかになるにつれて意味が変わり、現在では、原子・分子・イオンなどが電子を放出することを酸化としている。放出された電子は、別の原子・分子・イオンに受け取られることになるが、電子を受け取る現象が還元であり、一般に酸化と還元はかならず随伴しておこり、その化学反応を酸化還元反応という。→還元
 酸化・還元は、酸・塩基とともに化学反応の理解にはきわめて重要な概念となっている。デンマークのブレンステッドの酸・塩基理論が、共役する酸と塩基との間の水素イオンの移動を基本としているのに似て、酸化・還元では共役する酸化体oxidantと還元体reductantとの間の電子の移動が基本になる。
 ナトリウムと塩素から塩化ナトリウムを生ずる反応を→図Aに示す。反応式(3)は、ナトリウム原子が電子を放出する反応(1)と、塩素分子が電子を受け取る反応(2)の和の結果とみることができる。
 ここで(1)と(2)は、酸化体と還元体との電子の移動を介した共役関係を示しており、一般に
  酸化体+電子□還元体
の形の式で書かれる。この形の式を半反応式という。酸化還元反応式は、二つの半反応式を組み合わせた形になるが、水素イオン、水酸化物イオン、水などがこれに加わる場合もよくみられる。たとえば過マンガン酸イオンと鉄(II)イオンとの酸化還元反応は→図Bのように書かれる。

〔酸化剤と還元剤〕電子を受け取って還元体になりやすい酸化体を酸化剤、電子を放出して酸化体になりやすい還元体を還元剤というが、それらは絶対的に定まるのではなく、互いの組合せによって相対的に定まる。たとえば、過酸化水素は過マンガン酸イオンに対しては還元剤として、ヨウ化物イオンに対しては酸化剤として作用する。
  5H2O2+2MnO4−+6H+
   □5O2+2Mn2++8H2O
  H2O2+2I−+2H+□I2+2H2O
 酸化剤あるいは還元剤の相対的強さは、それぞれの半反応における酸化還元電位の相対的差によって定まる。また、原子・分子・イオンなどにおける電子の出入りはそれらの酸化数に変化を生じ、酸化数が増大することを酸化、減少することを還元と定義することもできる。→還元剤 →酸化還元電位 →酸化剤 →酸化数
〔酸化還元反応の例〕酸化還元反応の例は多く、呼吸、燃焼、爆発などは、酸素が関与するものの典型例である。電池反応の多くは、自動的に進行する酸化還元反応を利用して、その反応による自由エネルギーの変化を電流として外部に取り出すものであり、電気分解反応では逆に電流を加えて自動的に進行する酸化還元反応を逆行させている。大気汚染公害で俗にオキシダントとよばれている物質は、窒素や硫黄(いおう)の酸化物(酸化体)あるいはそれによって生じた別の酸化体である。〈岩本 振武〉
【本】守永健一著『酸化と還元』(1972・裳華房) ▽曽根興三著『酸化と還元』(1978・培風館)

   
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羊羹みたいな地層 (2) no.285

 どうしても、この目でじかに見たい!!
 2010.06.07(月)、やはり現場に近づけないので、裏の方から回ってみました。
 
 地層の境目、そして、両側の切れ目はどうなっているのか・・・。
 まずは全景です。

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 上から見た地層層序です。
 羊羹の部分がよく分かります・・・。

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 さて、地層境界をアップで見るとよく分かりますが、地層の色調がまったく違います。
 そして、地層が整合(*1)か、不整合(*2)か・・・よく分かりません。
 単純に整合とは見えませんが・・・100年単位だと不整合?、100万年単位ではザックリと整合に見てもおかしくないようです。

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 そして、一番見たかったのは、両側の切れ目がどのようになっているかです。
 人工的な切れ目であれば、千葉県の自然誌が正解です・・・。
 次の二枚がその回答です。

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 明確な人工的切り口のようには見えません。
 また、人為的な地層改変であれば、洪積時代(*3)に進歩した人類が住んでいたことになります。
 下総の国には縄文人、弥生人のはるか昔に高等な人類がいたのか・・・これも不思議です。
 
 
 羊羹地層の両サイド、この切り口が人為的でないとすれば、なぜ、このように見事な羊羹地層が出来たのでしょうか。
 これは、まったく不可思議、色調だけの仕業か、土質がまったく違うのか、これも???であります。
 
 この項最後に一枚、堆積の層境をアップで見ると、どうも不整合のようです。

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 しかし、この層界から湧水があるようにも見えません。浸みだした水は、もっと上から流れてきています。
 結局、長い洪積時代を考えれば(100万年の単位で・・)、当然、整合といっても良さそうです。
 
 これまでの写真では、まったく解決にはなっていないようです。
 ただ、「自然起因の羊羹地層である」ことだけは分かります。
 
 さらに次回へ・・・。
 
 
 (*1)
 整合 せいごう       <大百科全書>
→不整合
ある地層の上に別の地層が、大きな時間間隙(かんげき)に引き続いて堆積(たいせき)した状態をいう。この場合、下位の地層と上位の地層とは層理面が平行であることが多く、上位の地層が堆積する前に下位の地層が傾斜・褶曲(しゆうきよく)したり、侵食を受けたりすることはない。しかし、斜交成層のように、上下の地層が斜交していても整合と扱われる場合もある。また、普通に整合とよばれる場合でも、どの層準も一定の速度で堆積するわけではなく、急激に堆積したあと長い期間無堆積であることがある。たとえば乱泥流堆積物の場合は、乱泥流によってもたらされた砕屑(さいせつ)物が短期間に堆積し、次の乱泥流が生じるまで長期間無堆積の状態が続く。
 整合一連の地層でも、一部に短い無堆積の期間や、軽微な侵食がみられることがある。このような堆積間隙はダイアステムとよばれ、不整合には含まれない。→不整合〈村田明広〉

 
 (*2)
 不整合 ふせいごう       <大百科全書>
→整合 →地層
二つの地層が侵食面を挟んで上下に重なる関係を不整合といい、その侵食面を不整合面という。侵食面がない関係が整合である。ただし、河床堆積(たいせき)物内部や乱泥流砂岩層基底の小侵食面のように、上下層の堆積の仕方と比べて侵食期が非常に短いときには不整合とはいわない。不整合面の上と下との地層の走向傾斜が等しいものが平行不整合、異なるものが傾斜不整合である。塊状火成岩体を覆って地層が堆積しているときも、その基底は不整合あるいは傾斜不整合とよばれる。上位層の基底部は、しばしば下位層と岩質を異にし、不整合面において下位層の層理を切って堆積している。それによって不整合面をみいだすことができる。基底層は礫(れき)岩や砂岩からなることが多く、基底礫岩、基底砂岩とよばれる。しかし、泥岩堆積区で海底侵食がおこった場合には、上下層とも無層理の泥岩であって、浮遊性有孔虫などの化石帯欠如によってその存在が初めて明らかになる不整合もある。不整合の侵食面は海底でできることもあるが、普通は陸上侵食でできる。
 上下に重なる海成層の中ほどに、陸上での侵食によってできた不整合は、海域が陸域に変わったとき、すなわち海退期にできたものである。海退現象は汎(はん)世界的海面低下、大陸的また地域的地殻変動によっておこる。平行不整合は、地殻変動による海退に起因する場合でも、その区域に地盤の傾きはできなかったことを示す。一方、傾斜不整合は、地塊の傾動または褶曲(しゆうきよく)による地盤の傾きができたことを示す。かつて傾斜不整合は、上下層の傾斜の差がいかに小さくても、短期間の造山運動によって生じたと考えられ、地史のうえでの重要事件とされた。造山運動は地殻が圧縮されておこり、その圧縮によって地層が褶曲すると同時に海域が上昇して陸域となる、すなわち海退がおこると考えられたからである。また、不整合形成期は短期間であるはずであると想像されたからである。しかし、上下層の堆積期全体を通じての継続的な地殻変動期中におこった、大陸的広域の海退に伴ってできた傾斜不整合もあり、侵食期が予想されたよりもはるかに長期であった例もある。また、局所的傾斜不整合が多い。傾斜不整合が地殻変動に対してもつ意味は、それの分布や上下層の層序と時代についての詳細な研究をまって初めて明らかになる。二つの地層の地質構造の形成のされ方に差があるかないかによって、構造的不整合、構造的整合という。平行不整合は普通、構造的整合である。→整合 →地層〈木村敏雄〉
 
 (*3)
 洪積世 こうせきせい         <大百科全書>
→更新世

 更新世 こうしんせい        <大百科全書>
→完新世
地質時代の区分の一つ。新生代第四紀は更新世(洪積時代)と完新世(沖積時代)に二分される。最新世ともいう。更新世は約170万年前から1万年前までの時代で、第四紀の大部分を占める。完新世を認めない立場もある。イギリスの地質学者ライエルは1839年に、軟体動物化石群に現生種が90%以上含まれる地層を更新統と命名した。更新統の堆積(たいせき)した期間が更新世である。日本では洪積世も更新世と同じ意味で使われることがあるが、洪積層は洪水による堆積物を意味し、元来、北欧一帯の氷河堆積物をこうよんだことに発しており、現在洪積世の呼称は国際的には使用されていない。
 更新世の下限について従来多くの意見があり、混乱がみられた。1948年、万国地質学会議で、更新統の基底をイタリアのカラブリアン(海成層)とビラフランキアン(陸成層)の下限とするという勧告がなされ、これを基準に更新世が定義されるようになった。最近では、東アフリカのオルドバイ地域で、ビラフランキアン動物群を含む、地層の下部に確認された地磁気層序のオルドバイ正磁極亜期を手掛りに、更新世の下限を決めるようになった。古くは更新世全体が氷河時代であったとされてきたが、この定義によって、その前半に気候変動の少ない温暖な時期が含まれることとなった。
 更新世後半の約100万年は、気候の寒冷化、とくに氷期、間氷期の繰り返しによって特徴づけられる。海陸分布は現在とほぼ変わらないが、氷期には大量の水が氷河として陸上に固定されたため、海面の低下がおこった。生物群は現生種との共通性が高いが、更新世末期に栄えたマンモスなどの陸生動物には更新世の終わりまでに絶滅しているものも少なくない。氷期、間氷期、あるいは海進海退に伴って生物は分布を変え、広域の移動が行われた。人類の起源は更新世初頭と思われてきたが、最近ではもっと古くまでさかのぼりそうである。いずれにしても更新世は人類の進化の時代である。現生人類は更新世末に出現し、次の完新世に入るとともに大発展した。更新世の堆積物は一般に氷河成砂礫(されき)層や段丘堆積物が多いが、日本では、房総半島や日本海海岸に厚い海成堆積物がある。→完新世〈矢島道子〉

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羊羹みたいな地層(1) no.284

 昨年(2009)6月、協会の技術者仲間から一枚の写真を受け取ったのが始まりです。
 
 JR総武本線の車窓から見えたそうで、別の機会をつかまえて現地へ・・・これぞ技術者であります。
 
 その写真がこれです。

羊羹の地層



 造成工事のまっ最中のため、近くまでは行かせてもらえなかったそうです(土質サンプルは持参)。
 そこから議論が始まりました。
 
 場所は、佐倉市八木地区・・・酒々井町との境界付近になります。

八木地区


空から




 
 「さて、これは何か、どうして出来たか・・・」
 文献の記載は少なく、写真付きの記事は千葉県の地誌くらいのものでした。
 
 その記事は、古代の人為的な成因によるもの・・・としています。
 
 しかし、どうにも納得がいきませんので、再度(2010.03.30)現地へ・・・やはり「立ち入るべからず!」監督員が飛んできました。工事は大分進んでいるようです。
 仕方がないのでやはり遠景写真を・・・。

地層



 この青灰色の地層はなぜ出来たのか、その疑問を解きほぐす試みです。
 次回へ・・・。

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電波式水位計 作田川 no.283

 九十九里海岸平野を横断する作田川です。さんむ市成東を通過し、九十九里町で太平洋に注ぎます。

作田川



 中小河川ですが、洪水多発・・・現在、河川拡幅中です。
 ここは龍宮大橋、県道122号線(九十九里中通り)が作田川を横断する場所です。

地図



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 さて、龍宮大橋の中央部上流側に何かが付いています。
 何かと思い近づいてみますと、何でしょうか・・・。

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 堤防の外に目をやると、古い用水機場?の隣に「小関水位観測局 千葉県土木部河川課」という表示の小さな建物がありました。

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 どうやら、水位観測を行っているようです。
 観測計器は電波式の水位計(発信器)のようです、ただいまの数値は4.281m、水深か標高かどうかは分かりません。

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 はて、どのような仕組みになっているのでしょうか、調べてみました。
 製造メーカーは横河電子機器(株)です。
 
 『 WW4471 形電波式水位計発信器は,小形・軽量のボデ
ィと,最先端技術のマイクロ波インパルスを使用した2
線伝送式の水位計です。一般的なパルス方式水位計では
困難だった近距離測定精度を向上し,安定した水位計測
を実現しています。使いやすさを最優先したシンプルな
機器構成によって装備の簡便性はもちろん,メンテナン
スも容易です。』<メーカーの説明
 
 水位計測の有効深は20m、言葉で説明するよりも次の模式図(メーカー)を見ていただければ納得いきます。「百聞は一見にしかず」でしょうか(笑い)。

模式


 なお、作田川の河川整備計画は千葉県によって着々と進められております。
 河道の計画は次の通りです。詳細の記事は 「作田川河川整備計画(千葉県)」をどうぞ。

計画

  
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圏央道 市原区間 no.282

 圏央道の工事は、着々と進んでいます。
 ここは、市原市高滝地区・・・高低差のあるところは橋梁で通過することになりましょうか。
 
 橋脚が林立する風景をエントリーします。
 地形図と航空写真です。

区間


航空写真



地形図



 市原から茂原方面へ・・・地形の凹凸を活用しながら西から東へ抜けて行きます。
 お気に入りの旧河床の風景に、異物?が構築されて行くのです。

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 橋脚の工事風景は都市の工事風景と何ら変わりません。
 一本ずつ、着実に・・・。

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 さて、この段差は地形図から言うと30mを越えそうです。
 仮設道路は・・・どこから。
 下の水田からは距離が遠すぎるのでしょう・・・高台から降りるルートを構築しています。

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 本体工事についてはスポットライトも当たるのでしょうが、仮設の道路は人知れず構築され、工事が終わるとそっと撤去されます。
 
 縁の下の力持ち・・・まるで土木の代表選手のようなものです。
 
 華やかな?構造計算も地味地味・・・とはいいながら仮設の構造美こそが土木の底辺を支えているのです。
 
 出来たての構造物がスポットライトを浴びる時・・・そっと裏舞台を去るのが仮設の世界です。こちらに目がいく人は、土木のプロの方・・・??(笑い)。

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のり面工 no.281

 前回、no.280の続きです。
 トンネル内から見るとよく目立つ「のり面工」です。
 
 しかし、よくよく見ると、数種類の工法が使われています。時代を追って、補修されながら、そして追加されながら現在の姿になったものと思われます。

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 工法を整理してみますと、次のようになります。
 時間軸は正しくないかも知れませんが、大まかのご理解を・・・。
 
 A;ふとんかご工
 B;コンクリートもたれ式擁壁
 C;コンクリート法枠工
 D;Cのアースアンカー補強
 E;Bのアースアンカー補強
 
 まずは、「ふとんかご工」最も簡易な擁壁工で、変位を許容するというのが素晴らしいフレキシブルな形式です。排水性も良好で、地すべり地帯に多用されます。
 さすがに市街地では使いづらいものです・・・。

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 次は「法枠工+コンクリート吹き付け工」崖地の保護工として多用され、地形なりに構築する事が出来るのがメリットです。ただし、土圧の強い地区や地すべり地帯のように変位の多い斜面には抵抗性が低い工法です。

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  そのため、次の写真のように補強が必要になる事があります。
 この場合は、アースアンカーにより安定化を図っているようです。

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 最後は、「コンクリートもたれ式擁壁」です。
 コンクリートの重さで土圧を抑える方式ですが、本地区のように土圧が変化するような場所では変位を受けてしまいます。法枠工より安定した擁壁工ですが、地すべり地帯においては万全とは言えないようです。
 
 時期的には、次が最後の対策であります。
 アースアンカーの工法も形式が違いますが、見る人が見れば、メーカーまで判断できます。

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 それにしても、この本数はものすごいものがあります・・・。
 
 地すべり地帯や脆弱な地質の切り土工には大変な工事費がかかります。ルート選定を含め、計画・設計者の腕がポイントになりそうな夏の空・・・。

 
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立岩トンネル・・プレキャスト no.280

 ここは鴨川市です。
 市道か、農道か・・・新しくないようで新しい道です。

立岩トンネル


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 普通に車で通過すると気になりませんが、ノリ面工が気になり下車して歩いてみると気が付きます。
 
 掘削型の普通の隧道ではなく、オープンカットしてコンクリート製品を設置し、再び盛り土をする形式のようです。
 
 本地区は地すべり地区に指定されているかどうか分かりませんが、切り土部の安定は非常に難しそうです。
 
 トンネルの出口周辺は、切り土ノリ面をがっちりと押さえる構造になっています。そのため、プレキャストのトンネル構造は経済性を有した選択だったのかも知れません。

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 なお、yahooの航空写真を見てみると、偶然でしょうかノリ面の工事中のようです。
 その当時、しっかり切り土掘削をしていたことがよく分かります。

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 さて、ノリ面の風景については次回にエントリー予定です。

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勝浦ダム no.279

 勝浦市と鴨川市の境にあり、夷隅川の最上流部です。
 完成が昭和48年、37年以上が経過しています。
 
 アースダムの堤高29m、堤長231.2mは当時としては意欲的な計画と施工でした。
 アースダムの良いところは自然にとけ込むような緑の堤体にあります。

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 貯水量約200万トン弱、湖水面も美しい姿になっています。
 ブラックバス釣りの若い人たちがいたりします・・・誰が放流したのか・・・複雑な思いです。

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 堤体の内水面側は波浪などによる浸食を防止するために大きなグリ石が施工されています。本来は、石の露出姿なのでしょうが、緑がしっかり生えだしています。

 植物たちの生命力には脱帽する外なさそうです。

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東金ダムの敷石(参考)


 さて、勝浦ダムの航空写真と地形図を見てください。

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 夷隅川の最上流ですから、集水面積が非常に狭いのが特徴です。東側と南側は分水嶺が迫って流域面積は1平方キロmといいます。
 
 これでは、十分に貯まりません。
 勝浦市全域の耕地約20haを潤すには不足気味・・・そこで取られている対策は下流河川の流水をポンプアップするというものです。水が必要な時期には、河川も水量不足ですから、非灌漑期にダムを満杯にしておくとか。

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 上の写真のように、洪水吐きと導流路はカラカラのようです。
 時には満杯の時もあるようですから、台風の後などにはよろしいのかも知れません・・・。

 
 最後に、勝浦ダムの基本構造図と仕様ですが、案内板を見て下さい。

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 アースダムのいのちは、本体構造の安定性と止水性の確保、そして堤体内部の間隙水圧(水位)の観測です。異常があれば、決壊の危険性があるわけで、コンクリートダムとは比較にならないものです。(→参考;東金ダム、浸潤線)

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 堤体の草刈りも定期的に行う必要があり、細心の管理をしてきて37年だそうです。
 そろそろメンテナンスの時期が来るわけで、全国にもこういう施設が無数にあります。
 建設から維持管理・補修へ・・・時代の流れは変えられません。
 少ない予算を如何に効率よく使うか・・・日本国の政策も同じように問われている今日この頃です。

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外環千葉区間見学 no.278

地盤工学会 現場見学会報告

平成22年7月29日(木)、地盤工学会千葉県グループ主催による定例の見学会です。
参加者は35名、激しい雨の中でした。傘を差し、雨に濡れながらの熱心な参加者の姿が印象的でした。

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東京外かく環状線(外環)の千葉県区間は12.1Km、重要構造物の建設現場見学が目的です。
まずは、京葉工事事務所において全体の概要についての説明を受けました。

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全体の概要については、首都工事事務所のホームページ「千葉外環」検索で詳細が載っています。
まずは、全体の概要図です。

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 一般区間の標準断面



この全線の中での難工事が京葉ジャンクションと小塚山トンネルです。今回の見学会は
 ゝ葉工事  国分掘削試験工事  小塚山トンネル の3カ所です。



京葉ジャンクション
京葉ジャンクションは複雑な交差と施工性に問題があり、かつ、既存の鉄道や高速道路、そして市街地の中にあるということです。地下構造の施工は難工事が予想されています。

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地下構造物の複雑さが模式図においても理解されます。これから、本格的に煮詰めて行くはずですが、この施工については、改めて見学をさせていただきたいものです。

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京葉工事用道路橋




◆々駟掘削試験工事
次は、国分掘削試験工事構造物の見学です。京葉工事区間や市街地における施工に先立ち、先行的に試験施工した箇所です。京葉工事区間では大規模開削工事困難であることから、試験工事で開削工法とケーソン工法の二つを施工しています。 以下、標準断面の構造です。

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   二種の工法接合部付近の説明

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     右側車線

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     中央分離帯開放部

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 小塚山トンネル工事
さらに、小塚山トンネル工事の見学です。
本工事は、住宅地と市民が大切にしている小塚山の自然を守ることが主題の工事です。自然植生も完全に復元することを目指し、大木の移植なども行っています。

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    完成イメージ図

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      移植の宣伝パネル

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                                完全密閉の建物外観


まずは、施工方法の案内パネルから・・・。

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上記のようにボックスカルバートを現地製作し、推進させる工法を採用しています。小塚山の土被りが小さいことから、パイプルーフ工法を併用して安定化させ、両坑口からの推進です。
建物は、天候対策と附近住民の要望に対応したものだそうです。

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  市川側抗口


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        手前側で、ボックスカルバートの製作、そして推進します。


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             内回り側道(壁の見えない右側が本坑部)


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                   外回り側道部ボックスカルバート

最後は外環松戸相談所において、おさらいと解説。案内パネルや模型を見学して解散となりました。 以下、おまけの写真です。

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                              外環松戸相談所屋上より

着々と進んでいるスカイツリーを遠望できました。
いつの間にか雨も上がり、充実した見学会でありました。関係各位様に厚く御礼を申し上げます。

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2010/07/29(木) 千葉県地質調査業協会
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猿田神社参道橋 no.277

 「さるだじんじゃ」と読みます。
 銚子市猿田町にあり、由緒ある神社です。
 
 小高い丘の上に鬱そうとした天然樹林があり、その中に建立されています。
 巨木が林立する境内の森は千葉県指定の天然記念物です。

猿田神社


神社


猿田



 さて、今回の主役は参道の階段途中にある橋です。

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 その橋の下を、なんと電車が通過して行きます。JR総武本線のようです、なぜ、こういう形になっているのか・・・調べてみました。
 
 神社は高いところにありますから、階段は分かりますが、明らかに線路を跨ぐことを目的として築造されています。水路を渡るのにこれほど高くする必要はありませんから・・・。

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 そこで、横に回ってみました。
 JR総武本線から、参道を見ると、橋がはっきり分かります。それも、年代物です。
 赤い煉瓦造りが懐かしい・・・明治の建造物でしょうか。

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 そして、はっきりしていることは、鉄道があとから来た、という事実でしょう。

地図


地形図



 上の地形図を見ると、谷沿いに通過する鉄道路線が集落を避け、猿田神社の参道を切る形を選択したことが分かります。
 
 ウィキペディアの記事から抜粋すると、
 【 参道に先神橋というJR総武本線をまたぐ橋がある。これは、1897年(明治30年)総武鉄道が銚子まで開通したときに参道を分断してしまうことになったため鉄道会社により造られたものである。】
 と、あります。
 
 それにしても、113年前の構造物です。上部工(新しい)はともかくとして、しっかりした橋台を見てください。丁寧な良い仕事をしていることが分かります。
 
 この時代の土木は骨太ですね〜、いかがでしょうか・・・。

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 ウィキパディア記事
 由緒 [編集]
社伝によれば、垂仁天皇25年(BC5年)11月25日の創建とされ、神功皇后の御世に生田神社の摂社になったという。康平年間(1058年〜1065年)には源頼義が神田を寄進し、鎌倉時代以降も武家の信仰が篤く源頼朝も寄進したと伝えられ、足利晴氏は金印を奉納をし当時のものという印が現存する。

永禄9年(1566年)海上氏と安房正木氏との合戦で社殿を焼失、元亀年間に再建するも天正元年(1573年)にふたたび焼失、翌天正2年(1574年)に再建し、現本殿は延宝8年(1680年)に改築されたものである。なお、天正19年(1591年)には徳川家康も朱印地30石を寄進した。

庚申の年(60年ごと)に式年大祭神幸祭がある。

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耐候性鋼材裸使用の橋梁桁 no.276

 梅雨が空け、気持ちの良い真夏が始まりました。
 気持ちだけでも、ぎんぎら太陽のように元気に行きたい建設業界です。
 
 さて、
 鋼製橋梁の防錆は、昔からランニングコスト上昇の重要課題でした。
 定期的なメンテナンスが欠かせなかったわけです。
 
 新設・工事中のランガー桁橋を見て、鋼材の進歩著しいことを知り、調べてみました・・・もちろん、素人の記事ですから「お話し」であります。
 
 まずは、川田工業(株)の技術資料から鋼材防錆の種類を拝借してきました。

種類

 上のように、種類は多いようですが、鋼材としてみると
 ”當鵡欹燹↓普通耐候性鋼材、1茣濛儻性鋼材
 という3種類になるようです。
 
 次の写真は、千葉県北総台地(内陸部)の谷津を横断する橋梁です。上部工完了直後といえましょうか。

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 これで工事は終わっています。
 「塗装はどうしたの?」と、聞きたくなってしまいます(笑い)。
 説明を聞いて、なるほど納得、『 耐候性鋼材裸使用によるライフサイクルコストの低減 』なのだそうです(-裸使用)。
 
 潮風が吹いてくる地方でもなく、良質の錆が定着して防錆効果を発揮するとか・・・、メンテナンス無しです。
 まだ新しいので、錆むらが出ているとか。

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 さて、これで終われば何のことはない、ただの紹介記事です。
 
 そこで、やはり
 土木の風景は土木屋サイトですから、建設後数年経過した橋梁を追跡してみました。
 同一路線の供用開始している区間に、同じような橋梁があります。

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 なるほど、桁鋼材は裸使用です。そして、錆の色調もずいぶん渋い色に変化しています。少し安定期に入っているのでしょうか。
 近づいてよく見てみました、かくの通りです。

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 こういう鋼材自身による防錆が海岸地方でも使えるとは、まったく驚きです。
 細かいルールや仕様ばかりが整備されて、土木屋本来の仕事が出来なくなっている現代社会ですが、
 こういう進歩は、実にありがたいことであります。
 
 なお、
 橋梁の寿命は、今後、何で決まりますでしょうか・・・、橋梁の専門家にお聞きしてみたいものです。

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海食地形・・太海 no.275

 鴨川市太海地区は仁右衛門島などを残す景勝地の海岸線です。
 
 太海漁港には新鮮な魚介類も揚がり、旅館、民宿言うことなし・・・仁右衛門島の由緒・由来も、源頼朝、日蓮上人の伝説など豊富です。
 
 平野仁右衛門さん個人所有の島ですが、一度どうぞ・・・(渡し船は有料)。

太海



 さて、太海の海食海岸は荒波に耐えるくらいですから、硬い岩が露出するものです。岩質によって景観は違ってくるわけで、ごつごつとした岩盤が続きます。
 
 その風景は次の通りです。

061クリック拡大できます。

062


 ここで問題です。
 この岩盤の種類は何でしょうか・・・。海岸に降り立たないと何とも言えない・・・ははは・・、当然のご回答でした。
 
 「土木の風景」ですから地質に関する文献をコピーして回答を載せました。
 この地区は、曽呂川を挟んで嶺岡丘陵があり、複雑な地形地質で有名です。嶺岡の方は地すべり地帯にもなっています。
 
 断層が多く、地層の傾斜も複雑です。

地質



 もっと詳細に見ると海岸の地質は第三紀の古い方、江見層群になります。
 岩質は主として凝灰質砂岩および凝灰岩というわけで、固いわけでした。

地層


 さて、太海海岸のように固い岩層ではないところは海食がどんどん進行し、陸地がなくなって行きます。その代表格が屏風ヶ浦でしょう・・・ひどいときは年間数mも後退したといいますから、おちおち生活できません。
 
 現在はテトラポッドの敷設で浸食は止まっています。
 同じ第三紀でも、新しい時代の、軟らかい地層群なのです。

屏風ヶ浦


 関連記事は
 no.61 no.166 no.194 no.203 no.215 no.261 にあります。
 時間に余裕のある方は、Categories「土木の風景目次」から、番号選択して頂ければリンクが張ってありますので、どうぞ・・・。
 
 
 凝灰岩 ぎょうかいがん   <大百科全書>

tuff 火山学では、構成粒子の大部分が直径4ミリ以下の火山灰よりなる火山砕屑(さいせつ)岩を凝灰岩とよび、直径2ミリ以上32ミリ以下の火山礫(れき)よりなるものを火山礫凝灰岩、構成粒子が2ミリ以上の軽石であれば軽石凝灰岩、2ミリ以上の岩滓(がんさい)であれば岩滓凝灰岩として用いているが、これらを総称して凝灰岩として用いることもある。非火山性地域の堆積(たいせき)岩中の凝灰岩は、遠方から運ばれるため細粒であることが多い。凝灰岩が主として火山ガラスの細片よりなるときはガラス質凝灰岩、主として結晶よりなるときは結晶凝灰岩、すでに存在していた火山体の岩片よりなるときは石質凝灰岩とよぶ。色は淡緑色、緑色、白色、淡紅色、赤色、褐色、黒色とさまざまで、形状も緻密(ちみつ)なものから、すきまが多いものまでいろいろある。凝灰岩は火山灰に由来するので、水平方向の連続性のよいものが多く、とくに白色の酸性凝灰岩は地質構造調査の鍵層(かぎそう)として、地層の対比に利用されることが多い。
〔溶結凝灰岩〕火山噴火の際、火砕流のような形で高温の火山灰、軽石、岩滓などが大量に厚く堆積すると、高熱と自重による圧力のため溶結作用がおこって緻密、偏平な岩塊をつくる。岩質としては石英安山岩質ないし流紋岩質であることが多い。このようにしてできた溶結凝灰岩はかなり大規模に分布し、垂直に近い崖(がけ)や柱状節理の発達のためみごとな景観を示す。日本では十和田湖(青森・秋田県)周辺、大雪山の層雲峡(北海道)、阿蘇(あそ)(熊本県)などに分布する。
〔グリーン・タフ〕日本の新第三系の地層の中には淡緑色の凝灰岩が特徴的に発達していて、グリーン・タフとよばれている。これは、海底火山活動で堆積してできた凝灰岩類が熱水変質によって緑色を帯びたものである。北海道南西部から本州の日本海側、フォッサ・マグナ地域にかけて分布しており、この地域をグリーン・タフ地域とよぶことがある。黒鉱鉱床を伴うことがあるのが特徴の一つである。〈矢島敏彦〉

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自噴井(井戸) no.274

 ここは、銚子市猿田地区です。
 千葉県北総台地の東縁というのでしょうか、犬吠埼に至るまで台地面が続きます。
 
 その台地面を、細長い谷津地形が切り込んでいきます。

地形図



 千葉県の北総台地ではごく普通の地形です。
 この谷津の谷底は狭い平坦地が連続し、おいしいお米が出来る水田が広がっていたものです。粘土質の水田土壌はおいしいお米が出来ます。
 
 しかし、最近の農業は苦しい状況にあり、耕作放棄水田が拡大しています。
 高齢化は進み・・・、
 機械化できない狭い水田を、若い人は見放してしまうのです。
 
 途中で出逢った初老のお百姓さんは、嘆きながらも自分が出来るまでは・・・と語っておられました。
 日本農業の縮図であります。
 
 さて、次の写真は、話を聞かせてくれたお百姓さんの田んぼです。ずぶずぶと深い水田(普通の長靴ではOUT)らしいですが、それだけおいしいお米だそうです。
 
 水田の先が狭い谷津になり、そこから先は耕作放棄水田が延々と続きます。

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 このポールから先がすべて耕作放棄地・・・、このままでは、いずれ山林になっていくはずです。

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 地形図に見るように、長い谷津には周辺の平坦地から雨水が集まってきます。雨が降らなくとも、いつも湧水があり、豊かな水が流れてきます。
 
 恵みの水・・・、大昔から大切にしてきた「水」なのです。

地図


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 さて、
 水路の中央部に古い土管を見つけました。地面から突き出しており、塩ビのパイプが倒れかけています。土管からは蕩々と水がわき出して絶えることがありません。
 
 自噴井(井戸)です。
 地下水位が地盤面より高くなると自然に湧き出てくることから自噴という言葉をあてます。
 
 こういう自噴井を見つけると、うれしくなってしまうのはなぜか・・・、農耕民族のDNAなのでしょうか。
 
 こういう谷津地形では自噴井が必ずあり、地形図に湧水マークが付いていたりしたものです。地元の人たちにとっては重要な場所であり、大切にされてきました。

自噴井



 ただし、打ち棄てられたような自噴井を見るとため息も出てくるのです。耕作放棄地が増え続け、水があまっているという現実は全国の至る所に見られます。
 
 機械化できないような狭い谷津地形の現実は、下の写真のような風景になって行きます。
 見方によっては、開墾された水田が自然の姿に還って行くと言うことでしょう・・・が、複雑な気持ちです。

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 辞書記事は、参考です。
 
 自噴井 じふんせい   <大百科全書>
揚水を行わなくとも地下水が自然に地上へ湧(わ)き出す井戸。扇状地の扇端部、火山の山麓(さんろく)、堆積(たいせき)盆地の中心部などで深さの異なる井戸を掘ると、井戸の水位は深い井戸ほど高くなり、一定の深さを越える井戸では地下水が自噴する。小規模な自噴井は砂丘の縁辺部や沖積谷の谷底でもみられることがある。英語では自噴井をフローイング・ウェルflowing wellのほかにアーテジアン・ウェルartesian wellともよぶが、この名は北フランスの有名な自噴地帯であるアルトアArtois地方に由来する。一般にわが国は地下水が豊富で、前述した地形の地域には多数の自噴井が存在した。上総(かずさ)掘りで知られる千葉県の五井(ごい)や市原地区にはかつて1万本以上の自噴井があった。これらの井戸は海岸部の工場地帯における地下水の大量揚水によって一時自噴を停止したが、最近では地下水の揚水規制の効果が現れ、自噴を再開する井戸が多くなった。地下水が自噴するには、帯水層の上に不透水性の加圧層の存在が必要と考えられていたが、地下水流動のシミュレーションによって、加圧層がなくても自噴しうることが明らかになった。〈榧根 勇〉

 被圧地下水 ひあつちかすい   <大百科全書>
→地下水
帯水層の上部および下部を水を通しにくい加圧層で挟まれた、地下水面を有しない地下水。被圧地下水が地下深部にある場合、深層地下水とよばれる。ただし深層は浅層に対する相対的な用語として用いられており、浅層地下水と深層地下水を学問的に区分することは困難である。二つの加圧層の間に閉じ込められた地下水は、涵養(かんよう)地域からの水圧によって加圧され、大気圧以上の圧力を有している。被圧帯水層中に井戸を掘ると、その井戸の水位はその帯水層の上面よりはるか上まで上昇するのが普通であり、場合によっては地表面より上まで上昇する。この場合、その井戸を自噴井、自噴井の存在する地域を自噴帯という。自噴帯は扇状地の扇端部、鑽井(さんせい)盆地の中央部、砂丘の周辺部、火山体の山麓(さんろく)、侵食谷の谷底などのような、地下水が地表へ流出する地域にみられる。しかし自噴井がすべて被圧地下水であるとは限らない。均質な地層からなる砂丘や波丘状の地形では、地表面の標高が高い所ほど地下水面も高く、地下水面の起伏が大きいので、加圧層が存在しなくても地形的な制約だけで不圧地下水が自噴することがある。したがって自噴するかしないかは被圧地下水の本質にかかわりはない。オーストラリアの大鑽井盆地、パリ盆地などは被圧地下水盆地の代表例で、関東平野にも地下水開発の初期には多数の自噴井がみられた。
 被圧地下水の地域的流動状態は被圧水頭面の形から推定できる。被圧水頭面とは、ただ一か所にだけスクリーンを切り、水の漏れないように鉄パイプなどでケーシングした井戸の水位を連ねた面である。鉛直方向の水頭勾配(こうばい)がない場合には、地下水は被圧水頭面の傾斜の方向に流動している。自噴井や揚水井があると被圧水頭面の形は乱される。深さによって井戸の水位の異なる帯水層や帯水層群では、特定の面を明確にしない限り被圧水頭面を描いても意味をもたない。
 三次元の流動場をもつ地下水の流動方向を知るには複数の被圧水頭面が必要である。不圧地下水を揚水すると揚水量に応じて地下水面が低下する。地下水面の低下は地下水貯留量の減少を示している。しかし被圧井の水位変化は地下水の圧力変化を示しており、地下水貯留量の変化とは直接的な関係はない。被圧井の水位は揚水のほか気圧や潮汐(ちようせき)の変化にも敏感に反応する。被圧地下水を自然の涵養量を超えて揚水すると、粘土などからなる加圧層が圧密収縮して地盤沈下が生じる。被圧地下水の流速は非常に遅く、その滞留時間は数十年ないし数万年であり、大陸にはさらに古い地下水もある。一般に古い被圧地下水ほど溶存物質の量が多く水質が悪い。→地下水〈榧根 勇〉

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安房中央ダム(その2) no.273

 安房中央ダムについては、no.218(2009.5.23)にエントリーしております。
 そのときの暗いトンネルを抜けた先の方へ歩いてみました。

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 ダムが出来る前の丸山川渓谷は小さな集落と狭い畑地・水田があり、それなりの生活があったものです。移転した家屋があったのかどうか分かりませんが、生活道路は寸断されたはずです。

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142拡大できます。

 
 現在、群馬県八ッ場ダムは政治的関心を集めています。
 建設の是非を問う・・・難しい問題です。
 「やんば館」の入場者がものすごく多いと聞きます・・・。
 
 長く、苦しい闘争の末、地元民も了承した計画が宙に浮いています・・・が、作りかけた生活道路橋、付け替え道路などは建設継続し完成させるそうです。
 
 その先は・・・、どのような落としどころを見いだすのか、主義主張を別にして、まず地元、そして関東圏のためになる結論を出していただきたいものです。
 
 
 さて、
 安房中央ダムの現状は、次のYahoo写真の通りです。
 土砂堆砂が進行し、維持管理には苦労をしているようですが、下流の広大な耕地を潤している、地元にとっては大切なダムです。

damu


 八ッ場ほどに規模は大きくありませんが、付け替え道路が一本造られています。
 その当時(昭和40年代)の地元の状況から、一本の道路を用意したものと思われます。
 大きな道路は国道410号線です。
 
 現在も残っている集落は「鍛冶畑」で、山入の集会場がポツリと残っており、現在も使われているようです。

地形図



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 付け替え道路の幅員は3mもないくらいの狭い農道といえます。
 小型車(軽四輪)を想定した道路です。
 
 ダムが出来ると、どうしても谷を横断する橋梁が必要になります。
 八ッ場のようにかっこ良くありませんが、小さな橋が二本、その間をトンネルが掘られています。地元の人に話を聞いてみたかったのですが、まったく人影ナシ・・・でした。

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 最後に、隠れるようにふっくらとしたタイサンボクの白い花が見えました。

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 おおらかに包み込むような、味わい深い治世というものはないのでしょうか・・・欲が先行する日本列島、我々国民も他人(政治家)のせいにばかりにしたくないものです。

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二重橋 no.272

 あまりにも有名な二重橋です。
 
 二連の石造アーチ橋(正門石橋)は代表的な写真なのです

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 近づいて行くと手摺りのデザインも凝っています。

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 そして、皇居正門が見えます。

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 正門には二人の守衛(門番)さんが直立不動の姿勢で立っています。
 疲れないのでしょうか・・・、若いお巡りさん(皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊)なのです。

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 さて、石橋の続きです。
 プロのカメラマンでしたら、時間を掛けて良い角度を選択されるのでしょうが、素人はこの程度・・・(笑い)。

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 なお、二重橋という呼称は、橋が二重にあるからとか、アーチ石造橋のアーチが二重だから・・・とかいろいろと分からないこともありました。
東京見物をしてみないとピンとこないのが二重橋です。


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 この奥にある正門鉄橋が正式の二重橋です。
 むかし、正門鉄橋は桁が二重になっており、そのために二重橋といわれたそうです。明治21年の建造とか・・・。現在の橋桁はシングルですが、昭和39年の建設。
 
 新年参賀の時は誰でも二つの橋を渡れます、どなたも一度はいかがでしょうか・・・思想などの難しいことは忘れて・・・。
 
 
 最後におまけ。
 昭和30年代の頃に流行した歌がありました。
 島倉千代子さんの「東京だよ おっ母さん」(昭和32年)です。
 
 母と娘が、戦死した息子(兄)をお参りする情景を唄ったもののようです。九段坂(靖国の意)・・・等という言葉も二番に出てきます。まだ、戦後でした。
 
 ここは二重橋です、一番だけを載せてみます。
 
 ♪♪
 久しぶりに てをひいて
 親子で歩ける うれしさに
 小さい頃が 浮かんできますよ
 おっ母さん
 ここが ここが二重橋
 記念の写真を 撮りましょうね
 ♪♪
 
 歌はこちらへ・・
 http://www.youtube.com/watch?v=X7g_6w2VSkc

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東京都心のマンホール no.271

 マンホールというのは地下にある構造物ですから、ふたしか見えません。空けてみたいと思う人は少し変わった人か・・・。
 
 ですから、正確なタイトルは「東京都心のマンホール蓋」とすべきですが、通称マンホールとして蓋を省略してあります。
 
 さて、東京駅に降り立ってすることは、まず「見上げる」ことです。
 丸の内の風景は日に日に変貌し、現在は郵便局の取り壊し中・・・そのうち高層ビルが建つ予定です。
 
 すごいビル群ですが、どうにも落ち着きません・・・田舎人には(笑い)。

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 上は疲れるので、下を見ます・・・これが土木屋の本能です
 八重洲から丸の内までのんびり歩いてみますと、マンホール蓋の多いこと。
 
 東京の地下を掘るときは細心の注意で調べる必要があります。地下構造物やケーブルが縦横無尽に走っているのです。歩くサラリーマンやOLには見えておりません。
 
 さて、何種類あるのか整理をしてみました。
 代表選手は何と言っても下水道マンホールです。他とは数が違います(維持管理が大変のためスパン短し・・)。
 新しい方から並べてみました。

マンホール


マンホール2


記号



 東京都下水道局は新しいマンホール蓋を上記のように統一を図るそうです。管理上はよろしいですが、いろいろなタイプ、デザインのマンホール蓋を楽しみにしている人が多い昨今ですから、記号はそのままに、期間を区切ってデザインを変えて頂きたいものです。
 都心で見た下水道マンホール蓋は比較的新しい時代に属するようです。

マンホール3


マンホール4



マンホール5



マンホール6


 なお、東京都は合流式の下水道システムです。汚水と雨水を同一管で処理をするもので施設費用が少なくて済みますが、降雨時には汚水を東京湾に直接放流するという問題もあります(最近は、いろいろと工夫がされています)。
 
 次は上水道とNTT・・・これは一カ所しか気がつきませんでした。上水道は懐かしいコンクリート蓋、歩道にありますので生き延びているようです。 ***土木屋さんのご指摘で、上水道は下水道だそうです。写真の訂正は出来ませんので、ご容赦を。土木屋さんありがとうございます。

マンホール7


マンホール8



 警視庁さんのマンホール蓋は意外に簡素、キクのご紋がありませんね〜。

マンホール9


 そして、東京電力と東京ガス、不明のマンホール蓋(ご存じの方ご教授を・・)です。
 東京都心の地下埋設図を描いてみると頭が混乱しますので、想像もしないことにいたしましょう・・・。

マンホール10


マンホール11


*** Kはカシワヤさんのご指導で、警視庁でした。ありがとうございます。

マンホール12



 最後に、時代の最先端を行く東京駅周辺ですが、古いものがしっかり残っています。
 大正時代か、昭和の初期か、鉄道はハイカラなものだったでしょう・・・JR線の永代通り跨線橋部分に痕跡を見つけることが出来ます。
 
 直線中心の都心にあっては、ホッとする風景なのです。
 味のあるこうした土木構造物がいつまでも生き延びて欲しいと強く思うものです。

鉄道橋脚


鉄道橋台


鉄道橋台2


 なお、おまけです。
 この界隈にスズメがしっかり巣を作って生活しています。
 興味のある方はこちらをどうぞ。→「都心のスズメ
   
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桜田門 no.270

 2010.06.01(火)、東京駅から霞ヶ関まで歩いてみました。
 皇居前広場の広いこと・・・二重橋も観光客がたくさんおりました・・・。
 
 さて、桜田門と聞いて何を思われるでしょうか。
 歴史か、現代か・・・、とても有名な場所です。
 
 歴史については<広辞苑>と<大百科全書>の記事を最後に付けましたので、ご参照いただくこととして、今回の主題は桜田門より入る「権力の村」です。
 
 まずは、内濠の景観が魅力的です。

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 内濠方面から見えるのが桜田門です。といいつつ、後ほど調べると<Wikipedia>によると江戸城内にもう一つ内桜田門というのがあるそうです。
 厳密には、この門は外桜田門というとか・・・でも、桜田門でよろしいのです。

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 【Wikipedia記事】
 桜田門(さくらだもん)は、江戸城[1](現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された[2]。特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。なお江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多い。
 
 この桜田門の真正面にあるのが警視庁です。
 警視庁のことを桜田門というのは位置的な関係によるものでしょう。
 
 悪いことをしていなくても、近づきたくない雰囲気ですが、クスノキの大木が印象的です。むかしは、これほど大きくはなかったように記憶しておりますが、それだけ年を取ったと言うことか!(笑い)。
 
 いくつになっても、抵抗感のある言葉の響きです・・・。

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 桜田門の警視庁から、桜田通りを南方向に歩くと国家権力の集中する「霞ヶ関」になります。日本国を動かしている中枢部というわけです。
 
 霞ヶ関という言葉自体に政治権力と官僚がうごめいている姿が見えるようです(辞書によると、「官庁の一つ外務省のあることから霞が関は外務省の代名詞に用いられるようになった」と、これは意外でした)。

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 国のリーダーも変わったばかりですから、落ち着かないことでしょうが、歩いたこの日は、首相辞任の前日と言うことになります。(→「官邸の落日・・」)

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 桜田通りに面している官庁を並べてみました。
 
 国家の権力を独占しているような霞ヶ関、
 警備のお巡りさんの多さが印象的な夏の午後・・・でした。

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 さくらだ‐もん【桜田門】 <広辞苑>
江戸城内郭門の一。城の南西内濠(うちぼり)内に位し、霞ヶ関の北東に当る。旧称小田原門。外桜田門。

―‐がい‐の‐へん【桜田門外の変】‥グワイ‥  <広辞苑>
さくらだもん‐がい‐の‐へん【桜田門外の変】‥グワイ‥
安政七年(一八六○)三月三日の雪の朝、大老井伊直弼(いいなおすけ)の安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら一八人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件。


 桜田門外の変 さくらだもんがいのへん  <大百科全書>
幕末期の1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)が桜田門外で暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門(うちぐるわもん)の一。将軍継嗣(けいし)問題や安政(あんせい)五か国条約(安政通商条約)の違勅調印などをめぐって大老井伊への反感は、尊攘(そんじよう)派などに強くあったが、安政の大獄の進行で一段と強まった。58年後半ころから薩摩(さつま)藩有志の間には、水戸・長州・越前(えちぜん)・因州の諸藩と提携して幕府の「除奸(じよかん)」計画が企てられていたが、翌59年になると、水戸藩と薩摩藩有志の交流が盛んとなり、水・薩提携が具体化していった。すなわち、水戸藩への「戊午(ぼご)の密勅」をめぐる勅諚(ちよくじよう)返還問題への幕府の圧力が強まるや、激派の反感は高まり、他方、薩摩藩でも激派の不満が鬱屈(うつくつ)していた。60年1月以降、水・薩両藩有志の「義挙」の盟約が結ばれ、3月3日朝、18名が雪の桜田門外に井伊の行列を襲った。この18名は、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(関のほか、岡部三十郎、斎藤監物(けんもつ)、佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎(ねのじろう)、稲田重蔵、森山繁之介、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)、黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、蓮田(はすだ)市五郎、鯉淵(こいぶち)要人(かなめ)、広木松之介、森五六郎)と薩藩士1名(有村次左衛門(じざえもん))よりなる。彼らの「斬奸(ざんかん)趣意書」では、井伊一派の斬戮(ざんりく)による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものでないことがわかる。しかし、白昼大老が暗殺されたことで、幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。〈田中 彰〉
→□桜田門外の変/参加者一覧

 桜田門事件 さくらだもんじけん  <大百科全書>
1932年(昭和7)1月8日に起こった天皇暗殺未遂事件。陸軍観兵式の帰途、天皇の馬車が桜田門の警視庁前を通りかかったとき、群衆中から手榴弾(しゆりゆうだん)が投げられ宮内(くない)大臣の馬車に当たった。犯人の朝鮮人李奉昌は、1925年(大正14)渡日後、日本人から差別を受け、30年上海(シヤンハイ)に渡り朝鮮独立党に参加したもので、逮捕後、特別裁判で死刑に処せられた。犬養毅(いぬかいつよし)首相以下全閣僚は事件後、辞表を提出したが、天皇と元老西園寺公望(さいおんじきんもち)の意志で全員留任が決まった。〈赤澤史朗〉
【本】原田熊雄述『西園寺公と政局 第二巻』(1950・岩波書店) ▽大谷敬二郎著『昭和憲兵史』(1966・みすず書房)

 霞が関 かすみがせき  <大百科全書>
東京都千代田区南部、皇居南の桜田門から虎(とら)ノ門一帯にかけての地区。古代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えみし)に備えて、大和(やまと)からはるか雲霞(うんか)を隔てたこの地に関所を設けたためにこの称があるという。山手(やまのて)台地にあり、江戸城に接し、城を守ることから、黒田氏、浅野氏ら20以上の諸大名の屋敷地となった。明治以後は、この広大な屋敷地が軍用地として利用された。関東大震災(1923)以後は中央官庁街として計画され、官庁の一つ外務省のあることから霞が関は外務省の代名詞に用いられるようになった。第二次世界大戦後は高層建築に建て直され、桜田通り(国道1号)のマロニエの並木樹とともに美観を呈している。文部省隣の霞が関ビルはわが国最初の超高層ビルである。なお、検察庁など司法関係の官庁の地は、かつての大岡越前守(えちぜんのかみ)の邸跡である。霞が関の東に日比谷(ひびや)公園、西に国会議事堂がある。営団地下鉄丸ノ内、千代田、日比谷線が通る。〈沢田 清〉

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