休憩後、第2部へ。
IMG_7280 第2部は、歴史家・乃至政彦氏による講演「上杉謙信と織田信長の手取川合戦」を開催しました。
 歴史家・乃至政彦氏は、現在の上杉謙信ならびに上杉家研究では随一で、新進気鋭の歴史家です。ご著書に「上杉謙信の夢と野望」「謙信越山」など多数。BSテレビ番組にも多数ご出演されています。また2019年の当会の1月例会でご講演をしていただきました。
 今回のご講演は、5月15日に新刊本『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)発売を記念しての記念講演会です。(以下、講演要旨抜粋)

・戦国時代とは、いわゆる紛争地で戦わなければならない運命であった記録でもある。
 なかでも上杉謙信は、領主に正統な形でなった武将ではなく”民意”によりなった稀有な武将である。この点では織田信長と似ている。信長は身分の低いところから成りあがっていった武将。
 当初、謙信と信長は友好的であった。IMG_7273
 武田信玄が生きているうちはその関係を保っていたが、信玄の死後、大きく変貌することとなる。
 畿内地方において、信玄・家康・信長などのシーソーゲームが続いていたとき、家康と謙信は昵懇の仲であった。謙信は家康を気に入っていたようでもある。

 後、足利義昭との関係から謙信の戦略は転換し、武田勝頼への積極的攻撃を停止。一方で、信長が謙信と親交のあった六角乗偵や朝倉義景を滅ぼし、一向宗への残虐な殺戮行為を不快に思い信長との関係を見直すようになった。
 長篠の合戦は衝撃的であった。
 どうも史実で語られる合戦方法とは異なるようである(乃至先生ご自身の研究)。実際に長篠の現場に行ったが狭いエリアで、信長の鉄砲部隊はすぐに見破られてしまうため違う戦法であったろうと感じた。つまり高松山の背後から挟撃(挟み撃ち)したとみるのが正しいであろう。
 この挟撃作戦は世界でもよく使用されるポピュラーな戦法でもある。カエサルが用いたことでも有名である。
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 謙信はこのころから信長を危険視し始めていた。
 そして武田との和睦をひそかに行っていたようである。上杉景勝が信玄の娘・菊姫と婚姻しているが、実は謙信の生前中に婚姻が約束されていたとする『管窺武鏡(かんきぶかん)』(近世初期)に記されている。
 
《手取川への道》
 謙信は北陸に進路を取り、越中・能登を制圧。なぜか謙信はすでにこのころ、織田信長軍がくることを前提視して確報同然にみていた。川中島でも謙信の”情報眼”は抜群で、何をもって確信を得ていたのか?
 謙信の忍者(軒猿)は優秀であったことは有名であるが、なにより謙信のすぐれた見抜く力や戦略の妙こそが、謙信を軍神たらしめていたのであろう。ここでいう見抜く力とは、信長の性格からいって必ずここで織田軍は出陣してくると踏んだのであろう。
 ここで謙信の仕掛けた罠に、信長は嵌ることになる。
 伊達輝宗、本庄雨順斎らを使い攻めさせると見せかけるトラップを仕掛けている。これは単なる直情的な戦大将とは違う、謙信の緻密な面でもある。

 そしてついに手取川へ進むことになるー。IMG_7267
 9月23日に松任城に上杉軍が入る。一向宗も味方になっていた。先頭隊は勇猛果敢で有名な柿崎景家である。
 史実のように大雨ですでに手取川は増水状態であり、上杉軍の切り込みで一気に決着がついた。総大将に柴田勝家、前田利家など錚々たる布陣であったがあっけなく攻撃され、上杉軍は敵八百人を打ち取ったと伝えられている。
 この戦では羽柴秀吉が奮闘し、恩賞として播磨に知行を与えられている。しかし援軍むなしく、早々に撤退していったようである。

 織田信長は都で松永久秀が挙兵したため到着していなかった。謙信も到着したころは、織田軍がほぼ撤退した後であったようである。


《謙信と信長、もし戦えば?》
 やはり皆さんは、謙信と信長が直接に戦ったらどうなっていたか?を想定するでしょう。これは本当に興味のあるところです。
 織田信長は高速移動を得意とするので神出鬼没で、奇策を講じてきます。一方、上杉謙信は戦の天才で軍神とも評されるほどの強者です。当時の最先端の『戦闘流(江戸時代)』は1位が上杉謙信、2位が武田信玄、3位が北条氏康ともいわれています。
 この両者が激突したら、想像もつかないほどの戦が展開したことは間違いないかと思います。
 そして二人の性格をかんがみると、おそらくどちらかが戦場で『戦死』したであろうと思います。

 謙信は手取川合戦後、「信長は案外弱い」と述懐しています。信長も「決着をつけたかった、残念だった…。」と述懐しています。
 またこの手取川の真実については、5月15日発売予定の新刊本に詳しく書いていますのでどうぞご覧ください。ご清聴ありがとうございました。」

 その後、会場の皆さんから質問がいくつか出ました。
「織田信長包囲網は天正4年の時が最大でしたがなぜ完遂できなかったのか?」
「なぜ、揚北衆らは謙信の義についていったのか?」

Q:「乃至先生は新潟県人ではないのに、謙信公を研究されるきっかけになったのはなぜ?」
 謙信研究のきっかけについての質問に
(乃至先生)
「はい、上杉謙信が関東で略奪や人身売買を行ったという専門家がいたので調べ始めたら、全然そんな古文書や歴史的史実はなかったのです。逆に、小田城で捕虜を解放(買い戻せる価格にした)したことや、身分の低い者たちを保護したなどの記述が見つけることが出来ました。おかしいと思い、使命感でもあり、本を書き始めたのがきっかけでした。」とお答えいただきました。

Q:「市の公文書で、『謙信には奥さんがいたと記録あった』と言っていたが本当ですか?」
(乃至先生)
「高野山の過去帳に、『越後府中に奥さんがいた』と書かれていますが、長尾為景の後妻のこと、または兄・晴景の奥さんのことであり、謙信公は妻帯してはいません。」

 他の質問にも真摯にお答えいただきました。
 乃至先生、本当にありがとうございました。あっという間の90分間でした。割れんばかりの拍手のもと、ご講演会は無事に終了いたしました。ご参加いただいた皆様方もありがとうございました。
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 また当会では今後も上杉謙信公を中心とした活動を展開して参りますので、どうぞご期待ください。
 次回は、7月8日(土)に刀剣鑑賞会を予定しております。どうぞご参加下さいますようご案内申し上げます。(参加費1,500円予定)詳細は近日このホームページにてご案内いたします。