4月27日(日)上越市市民プラザで、4月例会を開催しました。
今回は、歴史家の乃至政彦氏をお迎えし講演会を開催いたしました。
乃至政彦氏はNHK歴史秘話ヒストリアやBS武将温泉などにご出演されるなど多方面でご活躍の新進気鋭の歴史家です。
特に上杉謙信公関連の研究では随一で、著書も多数ご出版されています。昨年も当会の例会でご講演いただき、当会のオブザーバーを務めていただいております。
当日は受付と同時にご来場者が詰めかけ、あっという間に満席となりました!
約50名近いご来場者にお越しいただきました、誠にありがとうございました。途中、イスを搬入して追加させていただきました。会場が手狭でご迷惑をおかけいたしました。
第1部は会長(石田)の私より、今年の謙信公祭100回記念にまつわることと、国宝・山鳥毛一文字が400年ぶりに一時帰還することについてプレゼンしました。
相澤副会長からは「畏友・石田明義の研究」と題して、研究の成果を述べました。とても奥が深く、かつユニークな視点のご発表に会場が湧きました。

第2部は歴史家・乃至政彦氏によるご講演会です。
演題は「敵に塩を送るは史実か?」です。
誰もがご存知のこの逸話は現代でも様々な論議を巻き起こしています。
ウソだったのではないか?いや塩を高値に吊り上げて儲けたのではないか?など様々な憶測が飛び交っています。
乃至氏は、第一次資料からこの逸話を読み解きました。
かなり古い時代の時から、この話は存在することがわかってきました。
享保5年、1720年の片島武矩の「武田三代軍記」にこの話が書かれている。
そして上杉家の正史「謙信公御年譜」(元禄9年、1696年)に書かれているが、これは上杉家内部だけの閲覧に供するものなので一般には流布されてはいない。
しかしさらに古い1665年(寛文5年)「山鹿語類」に、敵に塩を送る文面があることを見つけた。
先述した片島武矩と山鹿素行は、武田流軍学の開祖・小幡景憲の弟子であった!
つまり「敵に塩を送る」話しは、ライバルであった武田軍側から伝えられたものであったことがわかってきました。しかしなぜ、ライバルの偉業を伝えたのか?…。
(当然ながら無償で塩を送ったわけではなく、高値で売ったわけでもないのです)
当時の戦国武将たちの複雑な政治背景やミリタリーバランス関係など、様々なことが浮かび上がってはきます。和睦を探っていたとか、東国外交の転換期であったとか、関白・近衛先久が帰京してしまったなど…。
しかし敵側や多くの人々の言い伝えに残るということは、やはり上杉謙信公の人望に起因するところが大きかったのではないか?と乃至氏は説きます。
当時の塩封鎖は激しかったようです。甲斐の多くの民が犠牲になったこと、塩を高値で釣り上げて転売する(転売ヤー)塩商人は討ち取られたなど、想像を絶する状況だったようです。
そんな時、人の弱みにつけこまず、値段を吊り上げないで正規価格で販売ルートを確保させた上杉謙信公の哲学は、現在でも賞賛に値する義挙でしょう。
武田側の「甲陽軍鑑」では、しばしば上杉謙信公を褒めたたえる賛辞を寄せています。
信玄公が臨終の際に息子・勝頼を呼び、「わしが死んだら越後の謙信を頼れ」と厳命したことなども書かれています。
なお上杉家御年譜では、塩の話しはあっさりと書かれているだけで決して自慢めいたことは一切書かれていません。敵に塩を送った手柄を、ひけらかさない。自慢をしていないのです。
山鹿語類では、この敵に塩を送る逸話を『風流』の域に入れました。
『風流』とは、手柄を自慢しない。
つまり野暮ではなく、粋(いき)であるということです。実にカッコイイですね!しびれます!!
これぞ「義の心」の真骨頂なのでしょう。多くの坂東武者たちがあこがれ、尊敬したのも頷けます。

最後に乃至氏は「この謙信公の義の心を、世界に発信する必要がある。是非、みなさまアピールしてください」と説きました。
そして「人の、善行は必ず後世で評価されます。この敵に塩を送る話のように、人の生き方は不滅です」と締めくくりました。
会場からの多くの質問に、乃至氏から真摯にお答えいただきました。
あらためて上杉謙信公のヒューマンな生き方と、哲学のすばらさしさを垣間見た思いです。
いままた世界では紛争が激しくなりつつありますが、対立ではなく対話の方向へ向かってほしいと切に思います。きっと謙信公もそう思っているに違いありません。
当日はJBpress社の記者様、にいがた経済新聞社の記者様、上越タイムス社の記者様が取材に来られていました。後日、新聞やネットで記事掲載されました。
会場には乃至氏のご著書の販売をいたしました。
直筆サイン本のこともあり、すぐに完売いたしました!!
乃至先生本当にすばらしいご講演ありがとうございました。また、会場に足を運ばれた皆様に御礼申し上げます。
ありがとうございました。

今回は、歴史家の乃至政彦氏をお迎えし講演会を開催いたしました。
乃至政彦氏はNHK歴史秘話ヒストリアやBS武将温泉などにご出演されるなど多方面でご活躍の新進気鋭の歴史家です。
特に上杉謙信公関連の研究では随一で、著書も多数ご出版されています。昨年も当会の例会でご講演いただき、当会のオブザーバーを務めていただいております。
当日は受付と同時にご来場者が詰めかけ、あっという間に満席となりました!
約50名近いご来場者にお越しいただきました、誠にありがとうございました。途中、イスを搬入して追加させていただきました。会場が手狭でご迷惑をおかけいたしました。

相澤副会長からは「畏友・石田明義の研究」と題して、研究の成果を述べました。とても奥が深く、かつユニークな視点のご発表に会場が湧きました。

第2部は歴史家・乃至政彦氏によるご講演会です。
演題は「敵に塩を送るは史実か?」です。
誰もがご存知のこの逸話は現代でも様々な論議を巻き起こしています。
ウソだったのではないか?いや塩を高値に吊り上げて儲けたのではないか?など様々な憶測が飛び交っています。

かなり古い時代の時から、この話は存在することがわかってきました。
享保5年、1720年の片島武矩の「武田三代軍記」にこの話が書かれている。
そして上杉家の正史「謙信公御年譜」(元禄9年、1696年)に書かれているが、これは上杉家内部だけの閲覧に供するものなので一般には流布されてはいない。
しかしさらに古い1665年(寛文5年)「山鹿語類」に、敵に塩を送る文面があることを見つけた。
先述した片島武矩と山鹿素行は、武田流軍学の開祖・小幡景憲の弟子であった!
つまり「敵に塩を送る」話しは、ライバルであった武田軍側から伝えられたものであったことがわかってきました。しかしなぜ、ライバルの偉業を伝えたのか?…。
(当然ながら無償で塩を送ったわけではなく、高値で売ったわけでもないのです)

当時の戦国武将たちの複雑な政治背景やミリタリーバランス関係など、様々なことが浮かび上がってはきます。和睦を探っていたとか、東国外交の転換期であったとか、関白・近衛先久が帰京してしまったなど…。
しかし敵側や多くの人々の言い伝えに残るということは、やはり上杉謙信公の人望に起因するところが大きかったのではないか?と乃至氏は説きます。

そんな時、人の弱みにつけこまず、値段を吊り上げないで正規価格で販売ルートを確保させた上杉謙信公の哲学は、現在でも賞賛に値する義挙でしょう。
武田側の「甲陽軍鑑」では、しばしば上杉謙信公を褒めたたえる賛辞を寄せています。
信玄公が臨終の際に息子・勝頼を呼び、「わしが死んだら越後の謙信を頼れ」と厳命したことなども書かれています。
なお上杉家御年譜では、塩の話しはあっさりと書かれているだけで決して自慢めいたことは一切書かれていません。敵に塩を送った手柄を、ひけらかさない。自慢をしていないのです。
山鹿語類では、この敵に塩を送る逸話を『風流』の域に入れました。
『風流』とは、手柄を自慢しない。
つまり野暮ではなく、粋(いき)であるということです。実にカッコイイですね!しびれます!!
これぞ「義の心」の真骨頂なのでしょう。多くの坂東武者たちがあこがれ、尊敬したのも頷けます。

最後に乃至氏は「この謙信公の義の心を、世界に発信する必要がある。是非、みなさまアピールしてください」と説きました。
そして「人の、善行は必ず後世で評価されます。この敵に塩を送る話のように、人の生き方は不滅です」と締めくくりました。
会場からの多くの質問に、乃至氏から真摯にお答えいただきました。
あらためて上杉謙信公のヒューマンな生き方と、哲学のすばらさしさを垣間見た思いです。
いままた世界では紛争が激しくなりつつありますが、対立ではなく対話の方向へ向かってほしいと切に思います。きっと謙信公もそう思っているに違いありません。
当日はJBpress社の記者様、にいがた経済新聞社の記者様、上越タイムス社の記者様が取材に来られていました。後日、新聞やネットで記事掲載されました。

直筆サイン本のこともあり、すぐに完売いたしました!!
乃至先生本当にすばらしいご講演ありがとうございました。また、会場に足を運ばれた皆様に御礼申し上げます。
ありがとうございました。
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