2chから引用です。

米軍がベトナムで設けていた慰安所のレポート。
米国議会はマイクホンダの議案を通して日本を責める立場には無い!

 

原文は
http://www.amazon.com/Against-Our-Will-Women-Rape/dp/0449908208
の92-97ページ、

訳文は
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%BB%E8%B8%8F%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%84%8F%E6%80%9D-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4326652306/ref=sr_1_1/249-1271331-1163555?ie=UTF8&s=books&qid=1175672479&sr=8-1

の119-126ページです


(南ベトナム兵やベトコンによるレイプの話から続く)

 さて、次にアメリカ軍であるが、まずは制度としての売春に目を向けてみよう。ヴェトナムでのアメリカ軍のプレゼンスが大きくなるに従い、暗黙の軍隊の論理――女の身体は戦争の報償であるばかりか、兵士たちの健康と幸福を守るためのソーダ水やアイスクリームのような必需品であるという――が、日常的に実施されるにいたった。女性の身体を金で買うことのできたヴェトナムの状況は、イデオロギーとしてのレイプを増幅させなかったと同時に、それを抑えることもなかったのである。

 

 レイプの発生に関してきわめて現実的な予測を立てていたジョージ・S・パットン将軍は、第二次世界大戦の司令官時代、軍慰安所を実験的に建設したいとの意向をもっていたとされる。だがその後、アメリカ本国での妻や母親たちの反対運動が戦争遂行に支障を与えるとの懸念から、この計画は実行にいたらなかった。第二次世界大戦で実現できなかった彼の着想は、ヴェトナムで実を結んだといえる。

 軍慰安所の伝統は、アメリカ軍の駐留よりはるか以前からヴェトナムに根づいていた。ヴェトナム戦争初期のルポを生き生きとした筆致で描いた故バーナード・フォールは、インドシナ戦争中のフランス陸軍が戦争における女性の利用に対して行った際だった貢献――移動野戦慰安所を設置し、アルジェリア女性を働かせた――について、熱っぽく語っている。フォールによれば、「移動慰安所は部隊とともに戦闘地域を移動した。インドシナに駐留していたフランス軍は、その存在をアメリカの記者や役人の目にはふれないようにしていた。ある大佐は『どかかのおしゃべりが、アメリカの資金がフランス軍の慰安所維持に使われているなどということを言いふらしたら、とんでもない騒ぎになる』ともらした」。有名なディエンビエンフー要塞の中にも移動野戦慰安所があったと、フォールは書いている。

 アメリカ軍がフランス軍にとって代わるころには南ヴェトナム社会は混乱の度を増し、もはや軍慰安所のために外国女性を連れてくる必要もなくなっていた。もっとも、この長期にわたる戦争以前のヴェトナム社会に売春が存在しなかったというわけではない。ピーター・アーネットの言葉を借りれば、「売春は古くから存在していた。金が必要になると家長が娘を売るという例も少なくなかった」のである。だが戦争が長引くにつれて、多くの南ヴェトナム女性にとって売春が生計を立てるための唯一の手段となったのは事実だ。一九六一年には、この問題を憂慮した教育者や作家、ソーシャルワーカーら数百人の女性によってヴェトナム女性の尊厳および人権擁護委員会なる組織がサイゴンで結成されたとAP電は伝えている。同電によれば、その第一回会合では「激しい言葉」が飛び交い、ある女性教育者は、「戦争で悲惨な状況に陥った国民は、アメリカドルを得るために妻や子ども、親戚、友人まで売ることを余儀なるされている」と発言した。しかし戦争という圧倒的な現実の前に、この委員会の消息はその後二度と聞かれることはなかった。

 アメリカ軍は徐々に売春ビジネスに手を染めていった。戦争の拡大に並行して売春もまた拡大していったが、その背後にあったのは、戦場に出た男には性的対象としての女性の身体が必要だという前提である。アーネットによれば、アメリカ軍が管理・統制する慰安所が徐々に受け入れられていったのは、彼が「マクナマラ理論」と呼ぶ考え方の当然の帰結だという。いわく、「一九六五年の時点での最重要課題は、軍隊を満ち足りた状態にしておくことだった。アイスクリーム、映画、プール、ピッツァ、ホットドッグ、クリーニングサービス、”フーチメイド”などを完備することである。”フーチメイド”はメイドとして雇われるのであり、売春婦ではない。メイドとのセックスはあくまで個人的な取り決めによるもので、その関係は便宜的なものとされた。実際には多くのメイドが売春婦となったが、初期のころには、そうであることが見つかればメイドは解雇された」。

 ”フーチメイド”は売春施設への第一歩だった。やがてバーの女性、そしてマッサージ・パーラーがこれに続く。アーネットによれば、一番「問題」を起こしたのは後方部隊の兵士たちだった。「そこには不満と退屈が充満していた。戦闘要員ではなく、したがって勲章にはありつけないことを知っている彼らは、退屈しのぎに車を駆って町に行っては違法の売春宿にしけこんだ。だが性病の防止と安全上の理由から、売春宿への出入りは禁止されていた」(マッサージ・パーラー――サイゴンからニューヨークにいたるあらゆる場所に存在するあやしげな性の”グレーゾーン”――は常に合法的と見なされた)

 一九六五年、ダナンの海兵隊基地では月に一回、実験的に兵士たちを大隊ごと町まで行かせてみることにした。ところがアーネットによると、これはさんざんな結果に終わった。「兵士たちはまるで獣の群と化し、手がつけられなかった。まさに混乱の一語に尽きる状態だった」。この苦い経験を経て、海兵隊司令部は兵士たちを基地から外には出さないことに決めた。その結果、動かしがたい需要と供給の法則がはたらき、基地の周りにはたちまち売春宿、マッサージ・パーラー、麻薬売人などが占めるバラック――”ドッグパッチ”――が建ち並んだのだった。「海兵隊員は夜になると鉄線を押し分けて基地の外に出ていき、司令部もこれを見逃した」とアーネットは話した。

 アーネットのみるところ(私は同意していないが)、性的便宜施設という点ではアメリカ陸軍のほうが海兵隊より「進歩」していた。一九六六年には、中央高原地帯のアン・ケに駐留する第一騎兵師団、サイゴン北方四○キロのライ・ケに駐留する第一歩兵師団、さらにはプレイク省に駐留する第四歩兵師団のそれぞれの基地周辺には、すでに正規の軍慰安所が設置されていたという。

 第一歩兵師団第三旅団の基地に付属するライ・ケの「レクリエーションエリア」は面積約四○○○平方メートル、周囲には有刺鉄線をはりめぐらされ、ゲートには憲兵が立っていた。保安上、出入りが許されるのは日中の明るい間だけで、構内にはホットドッグ、ハンバーガー、みやげ物などの売店もあったが、兵士たちの目当ては長さ三○メートルほどの細長い二棟のコンクリート・バラック――旅団を構成する四○○○人の兵士にサービスを提供する軍慰安所――にあった。どちらの棟にもバーが二ヵ所と楽団の演奏用ステージが一ヵ所、そしてカーテンで仕切られた小部屋が六○室あり、ここにヴェトナム女性が住み込みで働いていた。

 小部屋には薄いマットレスを敷いただけの粗末なベッドが置かれ、壁の一方には着替えの服をかけておくための釘が一本。反対側の壁には『プレイボーイ』の見開きのページのヌード写真が、兵士の気をそそるように飾られていた。このライ・ケのレクリエーションセンターの女性たちは、派手なメーキャップに大きく膨らませた髪をスプレーで固め、アメリカ兵の好みに合わせてシリコンでバストを豊かにしている者も大勢いた。アーネットによれば、彼女たちのサービスは「手早くストレートで、いつも同じだった」。米兵は一回ごとに五○○ピアストル(米ドルで二ドルに相当)支払う。代金は必ずピアストルで支払われ、女性の手元に残るのは一回につき二○○ピアストルで、残りはさまざまな段階での支払いにあてられた。一日に八-一○回仕事をすれば、女性たちは客である兵士よりも多くの収入を手にすることができたとアーネットは言う(自由企業とは言いがたいのに、おもしろい説明をしてくれるものだ)。

 ここで働いているのは、戦争で家や家族を失った難民や、もともとサイゴンで水商売をしていた女性たちだった。彼女たちは省知事の指示で集められ、ライ・ケ市長の指示によって町へ送り込まれた(二人は相応の分け前を受け取っていた)。こうした人員の調達や料金の取り決めなどの仕事をヴェトナム民間人に委ねた上で、アメリカ軍部は衛生面と安全保障面の管理統制を受けもった。「女性たちは毎週、衛生兵によって性病検査と消毒を受けていた」とアーネットは肯定的な口ぶりで話した。

 陸軍基地内の慰安所(「罪の都」「ディズニーランド」「ブーム・ブーム・パーラー」などと呼ばれた)は師団長である陸軍少将の裁量で設置され、大佐クラスの旅団長の直接監督下におかれた。ヴェトナムにおける米軍慰安所が、陸軍参謀総長ウィリアム・C・ウェストモーランド、サイゴンの米大使館および米国防総省の三者の了承のもとに成り立っていたことは明白である。

 性病(とくに淋病)はヴェトナムにおけるアメリカ軍の重大な関心事だった。サイゴン市郊外に設けられたある公設の慰安所では、バーの壁に「札をつけた女性は清潔です」との掲示が出ていた。向かい側の壁にはご丁寧にも「札をつけていない女性は病気をもっています」という掲示が出ている。どの部隊も性病が発生した際には上層部に報告することを義務づけられていた。性病は兵士の健康ばかりか、軍紀も損なうものだったからだ。患者数の大小は大隊の評定に影響し、アーネットによれば「ほとんどの部隊が患者数を偽っていた」という。また性病の発生率は他の戦争や一般社会の数字と比較して「はじめから高かった」ともいう。(ある統計によれば、一九六九年にヴェトナムで性病にかかっていた米兵の割合は一○○○人当たり二○○人だったのに対し、同時期のアメリカでの割合は一○○○人当たり三二人だった)。中隊長たちは性病の罹患数を減らすため、時に巧妙な策を講じた。アーネットによれば、自分の隊には性病はまったくないと自慢していたある中隊長は、部下を性病から守るためにきわめて独創的な方法をとっていた。「彼は公設の慰安所を信用しておらず、自分の部下の兵士たちには利用させなかった。その代わりに自分の部隊専用の女性六人を用意し、毎日ペニシリンをたっぷり注射させていた」というのである。

 こうして外国軍が駐留したおかげで「職業売春婦」という身の上になったヴェトナム女性たちの生活については、残念ながら本書のテーマから外れるのでここでは言及しない。それはそれで別個に詳細にわたって語られるべき物語――売春が、包囲された彼女たちの国にもたらした莫大な収入から、わずか一○歳の少女たちで一杯だったサイゴンの慰安所の様子、そして結核や性病といった職業病で死んでいった女性たちや苦境を生き延びた女性たちの物語――である。これまで長々と米軍の売春制度やそれに付随する性病の管理について述べてきたのは、米兵による強姦の実態についての考察を進めるに先立ち、軍人のメンタリティについて理解しておく必要があったからだ。

 さて、比較的厳格な倫理規定を貫こうとした海兵隊を除けば、米軍の基地において女性の身体を利用することは「兵士たちを機嫌よくさせておく」ための手段と見なされた。基地の慰安所は「グラント」と呼ばれる歩兵、すなわちヴェトナムに駐留しても何も得るところのない者のための施設であり、将校は利用しないこととされた。そもそも自分にとって理解できない戦争を戦い、しかも日々死と直面していた歩兵こそ、慰めをもっとも必要としている存在だった。アーネットが強調したように、「連中の頭には常に『今晩女とやるんだ――これが最後になるかもしれない』という考えがあった」のだ。

 アメリカ陸軍が売春ビジネスに手を出すことになったのは、こうした兵士たちを慰撫するという目的のためであり、彼らが男性の本能的衝動から女性の身体を必要としているとの考えからではなかった。ヴェトナムでの従軍期間は通常一年で、女性なしで過ごすのに法外に長いわけではなく、また性的緊張を解消するにはマスタベーションという手段が日常的に使われたと思われる。一九七三年二月、あるアメリカ兵捕虜は本国への送還に際してこう話している。「セックス抜きではやっていけないなんて、まったくの嘘っぱちだ。自分が夢にまで見たのは食い物と薬だった」。だが軍が性病の予防のために教育映画を使ったり、部隊の評定に細心の注意を払ったりした一方、レイプを犯させないための教育となると、ほとんど何も行われなかったに等しい。

(アメリカ兵によるレイプの話に続く)


(南ベトナム兵やベトコンによるレイプの話から続く)

 And so we come to the Americans - where first we must look at
institutionalized prostitution, for as the American presence in Vietnam
multiplied, the unspoken military theory of women's bodies as not only
a reward of war but as a necessary provision like soda pop and ice cream,
to keep our boys healthy and happy, turned into routine practice. And if
monetary access to women's bodies did not promote an ideology of rape in
Vietnam, neither did it thwart it.

 General George S. Patton, who had been so pragmatic about expectations
of rape, is credited with the desire to experiment with military brothels
during his World War II command, an idea he abandoned when he became convinced
that the uproar they would create among wives and mothers back in the States
might hurt the war effort. Patton did not have his way in World War II but his
ghost must have approved of Vietnam.

 The tradition of military brothels had been established in Vietnam
long before the American presence. The late Bernard Fall, who wrote so vividly
of the war in its early years, detailed with enthusiasm the French Army's
particular contribution to the use of women in war - the mobile field brothel,
or Bordel Mobile de Campagne, stocked with girls imported from Algeria.
"The B.M.C.'s would travel with units in the combat zones," Fall wrote,
"and in general, the French Army in Indochina kept them pretty much out of
sight of American newsmen and officials. 'You can just imagine the howl if
some blabbermouth comes out with a statement to the effect that American funds
are used to maintain bordellos for the French Army,' said one colonel." A
mobile field brothel, Fall reported, was inside the famous fortress of
Dienbienphu when the French surrendered.

 By the time the Americans had fully replaced the French in Indochina
the war had sufficiently disrupted South Vietnamese society to a point where
it was no longer necessary to import foreign women for the purpose of military
prostitution. I do not mean to imply that prostitution was unknown in Vietnam
before the long war. As Peter Arnett told me, "Prostitution was a time-honored
tradition. Certain heads of families would not think twice before routinely
selling their daughters if they needed the money." But as the long war
progressed, prostitution increasingly became the only viable economic solution
for thousands of South Vietnamese women. By 1966 the problem had reached such
proportions that a Committee for the Defense of the Vietnamese Woman's Human
Dignity and Rights was organized in Saigon by several hundred women educators,
writers and social workers, according to an AP dispatch. The wire service
reported that bitter words" were expressed at the first meeting. "The
miserable conditions of war have forced our people to sell everything - their
wives, children, relatives and friends - for the American dollar," a woman
educator was quoted. The Committee for the Defense of the Vietnamese Woman,
overwhelmed by the reality of the Vietnam war, was never heard from again.

 The American military got into the prostitution business by degrees,
an escalation process linked to the escalation of the war. Underlying the
escalation was the assumption that men at war required the sexual use of women's bodies. Reporter Arnett saw the gradual acceptance of U.S. military-controlled
and -regulated brothels as a natural outgrowth of what he called "the McNamara
theory": "In 1965 the main idea was to keep the troops contented and satisfied.
Ice cream, movies, swimming pools, pizza, hot dogs, laundry service and hootch
maids. The hootch maid were brought in as maids, not as prostitutes. Sex with
a hootch maid was a private arrangement, a relationship of convenience. A lot
of hootch maids did become prostitutes, however, but in the early days if they
were discovered at it, they were fired."

 The hootch maids were the first step toward accommodation; bar girls
and massage parlors soon followed. According to Arnett, the rear-area troops
caused the most "problems": "There was a lot of discontent and boredom. The
men were aware that they were soldiers who weren't fighting, who weren't
getting any medals. They might drive into town to the illegal brothels, but
for reasons of VD and security the brothels were off limits." (Massage
parlors, that vague gray area of sexual action from Saigon to New York City,
were always considered legal.)

 In 1965 the Marine Corps base at Danang began experimenting with
organized battalion trips to town on a once-a-month basis, but according to
Arnett it was a disaster: "The men would hit town like animals, they couldn't
cope, it was pure chaos." After this early experience the Marine command
decided to confine their men to the base camp, but the inviolate law of supply
and demand went into operation. A shantytown of brothels, massage parlors and
dope dealers, known as Dogpatch, soon ringed the base. "The marines would bust
through the wire at night - the Marine command could live with that," the
reporter told me.

 It was Arnett's opinion (not shared by me) that the U.S. Army was
"more enlightened" than the Marine Corps when it came to sexual accommodation.
By 1966 the 1st Cavalry Division at An Khe, in the Central Highlands, the 1st
Infantry Division at Lai Khe, twenty-five miles north of Saigon, and the 4th
Infantry Division at Pleiku had established official military brothels within
the perimeter of their base camps.

 The Lai Khe "recreation area" belonging to the base camp of the 3rd
Brigade, 1st Infantry Division was a one-acre compound surrounded by barbed
wire with American MP's standing guard at the gate. It was opened only during
daylight hours for security reasons. Inside the compound there were shops that
sold hot dogs, hamburgers and souvenirs, but the main attraction was two
concrete barracks, each about one hundred feet long - the military whorehouses
that serviced the four-thousand-man brigade. Each building was outfitted with
two bars, a bandstand, and sixty curtained cubicles in which the Vietnamese
women lived and worked.

 An individual cubicle contained little more than a table with a thin
mattress on it and a peg on one wall for the girl's change of clothing. On the
opposite wall a Playboy nude centerfold provided decoration and stimulation
for the visiting soldier. The women who lived in the Lai Khe recreation-center
cubicles were garishly made up with elaborate, sprayed bouffant hairdos and
many had enlarged their breasts with silicone injections as a concession to
Western fetish. The sexual service, as Arnett described it, was "quick,
straight and routine," and the women were paid five hundred piasters (the
equivalent of two dollars in American money) for each turn by their GI clients.
Americans always paid in piasters. For each trick she turned, a girl would get
to keep two hundred piasters (seventy-five cents), the rest going to various
levels of payoffs. By turning eight to ten tricks a day a typical prostitute
in the Lai Khe compound earned more per month than her GI clients, Arnett
advised me - a curious sidelight to a not-so-free enterprise system.

 Refugees who had lost their homes and families during the war and
veterans of the earlier Saigon bar trade formed the stock of the brothel. They
were recruited by the province chief, who took his payoff, and were channeled
into town by the mayor of Lai Khe, who also got his cut. The American military,
which kept its hands partially clean by leaving the procurement and price
arrangement to Vietnamese civilians, controlled and regulated the health and
security features of the trade. "The girls were checked and swabbed every week
for VD by Army medics," my informed source told me approvingly.

 Military brothels on Army base camps ("Sin Cities", "Disney-lands" or
"boom-boom parlors") were built by decision of a division commander, a
two-star general, and were under the direct operational control of a brigade
commander with the rank of colonel. Clearly, Army brothels in Vietnam existed
by the grace of Army Chief of Staff William C. Westmoreland, the United States
Embassy in Saigon, and the Pentagon.

 Venereal disease, mostly gonorrhea, was a major preoccupation of the
military in Vietnam. One official brothel outside Saigon had a sign on the
wall of the bar that read "GIRLS WITH TAGS ARE CLEAN." Lest the declaration
failed to make its points, a sign on the opposite wall spelled out "GIRLS
WITHOUT TAGS ARE DISEASED." It was mandatory for all units to report their
incidence of VD to the higher-ups, since it reflected on military discipline
as well as on the health of the soldiery, and a high VD count was charged
against the merit rating of a battalion. "Most units lied about their VD
count," Arnett believed. It was also his understanding that the reported VD
rate "was high from the beginning" in relation to other wars and to a normal
civilian population. (in 1969 GI's contracted venereal disease in Vietnam at a
reported rate of 200 cases per 1,000 persons; the United States rate at the
time was 32 per 1,000.) Company commanders often went to ingenious lengths to
lower their counts. One commander, Arnett told me, boasted that there was no
VD at all in his company. His method of protecting his men was highly
enterprising: "He didn't allow them to use the official brothel, he didn't
trust it. It turned out he kept six girls sequestered on his part of the base
and had them shot full of penicillin every day."

 I am sorry that it is not within the scope of this book to explore the
lives of Vietnamese women who became "Occupation: prostitute" as a direct
result of the foreign military presence in their country. It is a story that
should be told in detail, from the tremendous source of revenue that
prostitution provided their beleaguered country, to account of Saigon brothels
filled with ten-year-old girls, to the incidence of work-related deaths from
tuberculosis and venereal disease, and with a special nod of recognition to
those who survived. I have dwelt on official U.S. military prostitution, and
the concomitant concern for control of venereal disease, because it is
necessary to understand the military mind before proceeding to an examination
of GI rape.

 Except for the Marine Corps, which attempted to enforce a relatively
strict moral code, the use of women's bodies on the base camps was seen as a
way to "keep the boys happy." Officers were not expected to engage in whoring;
the institution was made available for the foot soldier, or "grunt," the fellow
with the least to gain from being in Vietnam, the one who needed to be
mollified and pacified - perhaps because he was fighting a war he did not
understand and because he daily faced the possibility that he might be killed.
As Arnett cautioned me to remember, "These guys were always thinking,
'I'm gonna get screwed tonight - this may be my last.'"

 It was this mollification aspect, and not a belief that soldiers
required the use of a woman's body out of some intrinsic male urge, that
motivated the U.S. Army to get into the prostitution business. A regular tour
of duty in Vietnam consisted of a one-year stretch, not an unconscionably long
period of time to be without a woman, and relief from sexual tension could be,
and I presume routinely was, accomplished by masturbation. As one GI prisoner
of war remarked upon his repatriation in February, 1973, "This stuff about not
being able to live without sex is nonsense. What I dreamed about was food and
medicine." And while the military's emphasis on avoidance of venereal disease
is certainly commendable, for all the anti-VD training films and for all the
concern about merit ratings, there was no comparable cautionary training
against committing rape.