2018年06月02日

ドラマシアターども 2018.5.26

北海道ポーランド文化協会の主催による同会は2部構成である。
第1部は「もう一人の宮沢賢治~風と光にのって」と題し、舞台の後方には列車のボックス席を模した椅子を配して、宮沢賢治作品もしくは賢治のための自作詩の朗読である。まず暗い舞台を進み出るのは霜田千代麿氏、春と修羅の「序」。連ねる明滅、保ち続ける影と光、その通りの心象風景のスケッチから始まりを告げるのだ。
次いで小林暁子、松山敏の二氏による「風の又三郎」。みんながガヤガヤとするなかを交互に読みあげる。又三郎が何かをするたびに風が吹くのだと、絵本の画面がスクリーンに映し出る、風の神だ。それからそれから、あとはどうだい、それから、よその町に行ってしまうまで。
再登壇した霜田氏が跪く。トランクのなかからひろいあげるのは「無声慟哭」、昔の映像と今の自分との重ね合わせ、映像の中と外に響きあう。ああ、そんなにかなしく眼をそらしてはいけない、と。
「オホーツク挽歌」から菅原みえ子氏が選び出した「噴火湾(ノクターン)」、天の音楽、噴火湾の黎明のあかりを、トシが隠されているかもしれないその寂しさを、ピアノの音に紛れさせながら妹を思う。
柴田望氏は「集合写真」という自作詩を舞台上に写し出してくる。カメラのあった時代の眼差しを。してはいけないことを繰り返し、自分というものの言いたいことを言う、その釣り合いのなか。
「よだかの星」を村咲紫音氏が淡々と声という音にする、自分の居場所などありはしないとの思いに、ふと松山敏氏のサックスの野太い、ときとして激しい音が、星を望む願いをゆっくりと燃え上がらせながら舞台を横切っていく。
村田譲氏は「春と修羅」、春のなかでただ一人の修羅は、その場にただデクのように立ち上がり渦巻く命の捩れ、ZYPRESSEN・春のいちれつと声で描く。 
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「永訣の朝」、苦しい表情で今朝のことを、まるで語り継ぐように斉藤征義氏が吐き出していく。遠くに行ってしまう私の妹よ。―あめゆじゆとてちてけんじや―この雪の、うつくしい雪の、おまえが食べるふたわんの雪に、願う。 
長屋のり子氏は自作の「イーハトーブの軽便鉄道」を軽いタッチで、様々な賢治の足跡をピアノの譜面に載せているかのように、見かけた車窓の風景のように謳いあげていく。
霜田氏は「どっどどどっどど、どどうどどどうど」との掛け声のなか、一気に「風」という文字を吹き現わせ、墨の色を流すのだ。
第2部は「ポーランドの詩と音楽」である。まず最初は、2011年の東日本大震災のときのことをベースとして世界中の「こんにちは」「ありがとう」を紙芝居仕立てに表現する。
没後20年のポーランドの詩人、ズビグニェフ・ヘルベルト氏の「若いクジラの葬式」。鯨のぬいぐるみをまずは寝かしつけてから、ミハウ・マズル氏がポーランド語で、R・ジェプカの日本語訳を菅原みえ子氏が担当した。くろい砂糖壺のような谷間の小径、無限の砂、太陽の蝶結び、花束のリボン。グラスホッパーが泣く、逃げる白い酸素、喪の行進、もぎとられるメロン、さらば。
シルヴィア・オレーヤージュ氏は「ためらうニケ」をポーランド語と自身の日本語訳で披露する。灰色の道、若者たちの命の尽きるところの大地、ニケがキスしようとしても戦場から逃げようとはしない若者、明け方に目にしなければならぬものを知りながら。
「コギトさんの怪物」にラファウ・ジェプカ氏と村咲紫音氏が挑む。戦略の第一原則は敵を知ること。しかし怪物と言えど一緒に住めばいいという人々も出てきて。自分という存在の卑屈さ、それでも戦いたい、出てこいとの叫び。早くしなければ窒息がやってくる。
たどたどしく思えるリリアナ・コヴァルスカ氏の朗読「小石」である。が、ミコワイ・ジェプカ氏の日本語訳を聞くと、自分の境界を守る、熱気と冷たさと。飼いならすことのできない小石のじっと人間を見つめている姿と、拙さの語りとが、重なって見えた。
その後ポーランドの朗読者と観客が舞台に集まり「誰かに愛された」の大合唱、伴奏を安藤むつみ氏が担務。終了後にはワインと軽食による交流会となったのである。


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